妹を王太子妃にするため「婚約辞退届を受理したことにしろ」と命じられましたが、王宮公証人の私は殿下の命令書ごと登記しました
「この婚約辞退届を、昨日受理したことにしろ」
王太子アルベルト殿下は、私の机に一枚の書類を置いた。
王家の紋章が入った羊皮紙。
申請者の欄に記されていたのは、私の名前だった。
セシリア・ローデン。
王宮公証人であり、アルベルト殿下の婚約者でもある。
「わたくしは、このような書類を提出しておりません」
「だから、お前が受理したことにするのだ」
殿下は椅子にも座らずに言った。
その隣には、私の異母妹リリアが立っている。
彼女が身につけている真珠の首飾りは、亡くなった母が私に遺したものだった。
「姉様。わたくしも、こんな形で王太子妃になるのは心苦しいのです」
リリアは首飾りを指でなぞりながら、申し訳なさそうに目を伏せた。
返すつもりはないらしい。
私は辞退届を読み直した。
そこには、私が王宮の公金を横領したことを認め、処罰を免除してもらう代わりに婚約者の地位を返上すると書かれている。
横領した金額は金貨三千枚。
もちろん身に覚えはない。
「公証人が虚偽の登記を行えば、終身刑になります」
「心配するな。お前を告発する者はいない」
「原簿は百年間保存されます。監査院にも複本が送られます」
「監査院長には話を通してある」
殿下は準備のよさを誇るように笑った。
王家に関する婚姻、相続、領地移転は、王宮公証局の登記を経なければ効力を持たない。
そのなかでも王位継承者の婚姻記録を扱えるのは、主任公証人である私だけだ。
別の者に命じられないから、殿下は私自身に偽造させようとしている。
「わたくしが拒否した場合は?」
「ローデン公爵家を反逆罪で調べる」
殿下が答えるより先に、扉が開いた。
入ってきたのは、私の父だった。
「殿下のお慈悲を無駄にするな、セシリア」
「お父様もご存じだったのですね」
「公爵家を守るためだ」
父は私を見ようとしなかった。
半年前、公爵家が経営する鉱山で帳簿の不一致が発覚している。
調査を担当していたのは王家直属の監査院だ。
その調査が突然打ち切られた時点で、疑うべきだった。
「わたくしが横領を認めれば、お父様の鉱山は調査されないのですか」
「殿下が穏便に収めてくださる」
「そしてリリアが王太子妃になる」
「リリアには人に愛される才能がある。お前のように帳簿と法律しか見ない女より、王太子妃にふさわしい」
六歳のときに母を亡くしてから、私は公爵家のために学んできた。
家の帳簿を整理した。
領地の契約を見直した。
父が作った借金の返済計画も立てた。
その結果がこれだった。
「分かりました」
私が答えると、三人が同時に顔を上げた。
「婚約辞退届を受理し、王宮原簿へ登記いたします」
リリアが安堵の息をつく。
「ありがとう、姉様。いつか分かり合えると思っていたわ」
「まだ手続きが残っています」
私は新しい羊皮紙を取り出した。
「申請者本人の署名がない辞退届を代理で登記する場合、命令者の身分、命令の理由、責任の所在を確認しなければなりません」
「私の署名があればよいのだな」
「はい。こちらの命令書に、偽造を命じる理由を記してください」
私は淡々と説明した。
アルベルト殿下は少しも疑わなかった。
私の婚約辞退を成立させるには、主任公証人である私の認証が必要だ。
そして私は、公爵家を守るために従うしかない。
そう信じている。
殿下は自ら羽根ペンを取った。
『セシリア・ローデンが公金を横領した事実を記録し、同人が自発的に婚約を辞退したものとして登記せよ』
その下に、もう一文を書き加える。
『本命令は、リリア・ローデンを新たな王太子妃候補とするための措置である』
署名。
王太子の印章。
発行日時。
すべてが揃った。
「お父様にも署名をお願いします」
「なぜ私まで」
「申請者の父親として、婚約辞退に同意したことを証明するためです」
父は一瞬ためらった。
けれど殿下に見られていることに気づき、署名した。
「リリア様も立会人としてお願いします」
「もちろんよ」
妹はためらわなかった。
自分が王太子妃になるための書類なのだから、拒む理由はない。
三人の署名が揃った命令書を受け取り、私は立ち上がった。
「それでは、規定に従って処理いたします」
「明日の建国記念式典で発表する」
殿下は満足そうに言った。
「評議会と各国の使節の前で、お前自身が婚約辞退を宣言しろ。そうすれば誰も疑わない」
「承知いたしました」
誰も疑わない。
それは正しい。
王宮公証人が、登記原簿を読み上げるのだから。
◇
王宮公証局の地下には、窓のない保管室がある。
王家の婚姻、王位継承、領地の帰属。
国の根幹に関わる原簿が、建国以来ここに保管されてきた。
原簿へ記録された文章を削除することはできない。
誤りがあれば訂正記録を追加する。
命令によって内容を変更した場合は、その命令書を添付する。
添付書類は原簿の一部となり、国王であっても破棄できない。
王宮公証法の最初の条文で定められた原則だ。
私は婚約辞退届を原簿へ綴じた。
続いて、アルベルト殿下の命令書を添付する。
父と妹の署名も、そのまま残した。
最後に登記番号を記し、公証人の印を押す。
「本当に登記するのですか」
背後から声がした。
監査官レオン・アシュベリーが、保管室の入口に立っている。
彼は半年前まで、父の鉱山を調査していた人物だった。
「殿下から、調査を中止するよう命令されたそうですね」
「はい。理由を尋ねても回答はありませんでした」
「鉱山の帳簿に、金貨三千枚の不足がありましたか」
レオンは短く息を吐いた。
「正確には、三千百八十枚です。公爵本人が架空の設備費を計上し、複数の商会へ送金していました」
「その調査記録は残っていますか」
「監査記録を消すこともできません」
彼は小さく笑った。
公証人と監査官。
扱うものは違っても、私たちの仕事は似ている。
権力者が消したがる事実を、消えない形で残す仕事だ。
「明日の式典で原簿を読み上げます」
「止められますよ」
「ええ。だから、今夜中に複本を監査院へ送ります」
王宮公証法では、登記から十二時間以内に複本を作り、監査院と中央神殿へ送ることになっている。
三か所に同じ記録を残し、改ざんを防ぐためだ。
「護衛をお貸ししましょう」
「殿下の命令に逆らうことになります」
「私は王太子ではなく、王国に仕える監査官です」
レオンはそう言って、複本を入れる箱を持ち上げた。
「それに、あなた一人へ罪を押しつける調査報告を書くつもりはありません」
◇
翌日。
建国記念式典には、国王陛下、評議員、各国の使節、百人を超える貴族が集まっていた。
壇上にはアルベルト殿下とリリアが並んでいる。
リリアは白いドレスを着ていた。
婚約発表のために仕立てたのだろう。
「王宮公証人セシリア・ローデン。前へ」
殿下に呼ばれ、私は原簿を抱えて壇上へ上がった。
「本日、王太子殿下の婚約に関する登記が行われました」
広間が静まり返る。
殿下は勝利を確信した顔で私を見た。
「登記番号、王婚第二千四百一号。申請者セシリア・ローデンは、王太子アルベルト殿下との婚約を辞退する」
貴族たちがざわめく。
「辞退の理由は、申請者が王宮の公金三千枚を横領した事実を認め、その処罰の免除を求めたためとする」
殿下が満足そうにうなずいた。
父は目を閉じている。
リリアは涙を浮かべながら、周囲へ悲しそうな笑顔を見せていた。
「以上の内容で間違いないな」
殿下が尋ねる。
その問いを待っていた。
「殿下は、今読み上げた登記内容が正しいと認められますか」
「認める」
「ご自身の命令によって登記されたことも?」
「そうだ。私が命じた」
評議員たちにも聞こえる声だった。
「承知いたしました。王宮公証法第二十八条に基づき、命令者による確認が成立しました」
私はページをめくった。
「続いて、登記の根拠として添付された命令書を読み上げます」
殿下の表情が止まった。
「待て」
「添付書類を含めて登記内容です。殿下は、たった今その正しさを認められました」
私は読み上げた。
「『セシリア・ローデンが公金を横領した事実を記録し、同人が自発的に婚約を辞退したものとして登記せよ』」
「やめろ!」
「『本命令は、リリア・ローデンを新たな王太子妃候補とするための措置である』」
命令者、アルベルト王太子。
同意者、ローデン公爵。
立会人、リリア・ローデン。
三人の署名と印章。
広間に、声を発する者はいなかった。
「この女が命令書を捏造した!」
最初に叫んだのは父だった。
「わ、私は署名などしていない!」
「公爵閣下。署名の際、わたくしが立ち会いました」
レオンが評議員席から立ち上がった。
その後ろには、監査院長と中央神殿の書記長がいる。
「監査院と中央神殿には、昨夜のうちに同一の複本が届いております。封印に破損はありません」
「父上!」
殿下が国王陛下を振り返った。
「これは公証人の罠です!」
「では、虚偽の登記を命じていないと?」
国王陛下が静かに尋ねた。
「私は……」
「先ほど、自ら命じたと認めたばかりではないか」
逃げ道はなかった。
私はさらに一枚の記録を開いた。
「なお、わたくしが横領したとされる金貨三千枚について、監査院の記録と照合しました」
レオンが監査報告書を掲げる。
「不足していたのは王宮の公金ではなく、ローデン公爵領の鉱山収益です。送金を命じたのはローデン公爵本人。王太子殿下は調査開始から三日後、監査中止を命じています」
「違う!」
父が叫んだ。
「家のためだった! 王太子妃を二人も出せば、すべて取り戻せるはずだった!」
その言葉を聞いて、リリアが父から離れた。
「お父様。二人というのは、どういうことですか」
「セシリアが王太子妃になったあと、お前を第二妃にする予定だった。だが殿下がお前を第一妃に望まれたから――」
「わたくしは、姉様が自分から婚約を辞退すると聞いていました」
リリアの顔から血の気が引いている。
「殿下。横領の罪を姉様に着せることは、聞いておりません」
「お前も署名しただろう!」
「新たな婚約の立会書だと言われたのです!」
リリアは署名する前に書類を読まなかった。
だから罪がないとは言えない。
けれど彼女がすべてを知る共犯者ではなかったことは、反応を見れば分かった。
私は事実だけを記録した。
判断するのは、私の仕事ではない。
「アルベルトの王位継承権を停止する」
国王陛下が宣言した。
「王宮公証局と監査院による合同調査を行う。ローデン公爵は財産を保全したうえで拘束。リリア嬢についても、署名に至った経緯を調べる」
近衛兵が壇上へ上がる。
アルベルト殿下は私を睨みつけた。
「最初から、こうするつもりだったのか」
「いいえ」
私は婚約辞退届を閉じた。
「殿下の命令どおり、すべてを登記しただけです」
◇
三か月後。
父には横領と文書偽造への関与で、爵位剥奪と鉱山資産による損害賠償が命じられた。
アルベルト元王太子は継承権を失い、北方の修道院で監督下に置かれている。
リリアは事情を知らなかったと認定された。
ただし、内容を確認せず公文書へ署名した責任は免れず、二年間の奉仕活動を命じられた。
母の真珠の首飾りは返ってきた。
私はそれを売り、父の横領によって賃金を失った鉱山労働者への補償に充てた。
「本当によかったのですか」
レオンが尋ねた。
「形見だったのでしょう」
「母なら、首飾りより人の暮らしを守るほうを選びます」
私は新しい王宮原簿を棚へ収めた。
あの日の登記は取り消されていない。
私とアルベルトの婚約は、正式に解消されたままだ。
横領の記載には、誤りであったことを示す訂正記録が追加された。
虚偽が書かれていた事実も、それが訂正された経緯も消えない。
「では、これも記録していただけますか」
レオンが一枚の書類を差し出した。
「監査院から公証局への照会書ですか」
「私個人から、セシリア・ローデン殿への交際申請です」
思わず顔を上げた。
「公証人には、書面で申し込むものだと聞きました」
「そのような規則はありません」
「撤回できますか」
「受理される前なら」
私は申請書を最初から最後まで読んだ。
脅迫も、隠された条件も、空白の署名欄もない。
「では、お預かりします」
「登記は?」
「交際が順調に進んだ場合に考えます」
レオンが笑った。
私も公証人の印ではなく、自分の名前を申請書の受領欄に記した。
命令されたからではない。
誰かを守るために、自分の未来を偽ったからでもない。
私自身が選んだことを、確かな形で残すために。




