「みんなの聖女」でいることに疲れたので、今度は私の言うことを聞いてもらいます。
「聖女エリシア様!」
「お願いします! 息子を助けてください!」
「こちらにも怪我人が!」
「聖女様!」
今日だけで、いったい何度自分の名前を呼ばれただろう。
エリシアは、とっくに数えるのをやめていた。
それでも彼女は笑っていた。
いつものように、優しく穏やかな笑顔で。
少なくとも――この頃の笑顔は、まだ偽物ではなかった。
「大丈夫です。お子さんをこちらへ」
若い母親が、震える腕で小さな男の子を差し出した。
六歳くらいだろうか。
熱で顔は真っ赤に染まり、呼吸も苦しそうだった。
「もう三日も熱が下がらないんです。お医者様にも診てもらったんですが……」
「心配しないでください」
エリシアは少年の額にそっと手を置いた。
熱い。
それに、かなり衰弱している。
エリシアは静かに目を閉じた。
「聖なる光よ。この子の苦しみを癒やし、失われた力をお返しください」
指先から金色の光がこぼれた。
淡い輝きが少年の身体を包み込む。
荒かった呼吸が、少しずつ穏やかになっていく。
やがて少年のまぶたが震えた。
「……お母、さん?」
「ダリル!」
母親は泣きながら息子を抱き締めた。
「ありがとうございます! 本当に……本当にありがとうございます、聖女様!」
エリシアは微笑んだ。
「今日はゆっくり休ませてあげてください。明日には、ずっと楽になっているはずです」
「はい!」
母子は何度も頭を下げながら去っていった。
その背中を見送りながら、エリシアの顔には自然と笑みが浮かんでいた。
こういう瞬間が好きだった。
人を癒やすこと。
誰かを救うこと。
泣いていた人が笑顔になる、その瞬間を見ること。
聖女であること自体が嫌いなわけではない。
「聖女エリシア様」
背後から声がした。
エリシアは目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
(……次か)
そして振り返ったときには、いつもの笑顔に戻っていた。
「はい?」
「まだ十七名が治療を待っております」
「わかりました」
「その後は騎士団の詰所へ。国境から重傷者が四名運び込まれています」
「すぐに向かいます」
「それから、ローウェン公爵からも依頼が」
「公爵様が?」
「いえ、ご令嬢です。頭痛がするとのことで」
エリシアは瞬きをした。
「……頭痛?」
「ローウェン公爵は先月、教会へ多額の寄付をしてくださいました」
「……そうですか」
「ご理解いただけて何よりです。何しろ聖女様は――」
その続きを、エリシアは心の中で先に呟いた。
(――この国の誇り、ですから)
「この国の誇りですから」
「……ありがとうございます」
神官が去っていく。
エリシアは自分の手を見た。
わずかに震えていた。
「あと十七人……」
深く息を吸う。
そして顔を上げた。
「次の方、どうぞ」
◇
自室へ戻った頃には、もう日付が変わろうとしていた。
扉を開けると、一人の女性がベッドに腰掛けていた。
鮮やかな赤い髪。
壁際には銀色の鎧が立てかけられている。
「遅い」
「リゼット?」
聖騎士団長リゼット。
エリシアの護衛であり、親友でもある。
そして、この国で数少ない、彼女を「聖女様」ではなく「エリシア」と呼ぶ人間だった。
「今、何時だと思ってるの?」
「……夜?」
「外を見ればわかるでしょう」
エリシアは苦笑した。
「ちょっと疲れちゃった」
「ちょっと?」
「ほんのちょっと」
「昨日は何時間寝た?」
「ちゃんと寝たわ」
「数字で答えて」
沈黙。
「エリシア」
「……二時間」
「二時間!?」
「声が大きい」
「大きくもなるわよ!」
リゼットは立ち上がった。
「明日は休みなさい」
「それは無理」
「どうして?」
考えるより先に答えが口から出た。
「だって、私は聖女だから」
リゼットの表情が曇った。
「私、その言葉が嫌い」
「最近、私もちょっと嫌いになってきたかも」
エリシアは笑った。
だが、リゼットは笑わなかった。
「聖女である前に、あなたはエリシアでしょう」
エリシアはしばらく黙った。
「それ、国王陛下にも言ってくれる?」
「言うわよ」
「やめて」
「どうして?」
「あなたが罰を受けるから」
「構わない」
「私は構うの」
リゼットはため息をついた。
「そこよ」
「何が?」
「倒れそうになってるのに、まだ他人の心配をしてる」
エリシアは小さく笑った。
「それが聖女ってものでしょう?」
「だったら、私があなたを誘拐する」
「え?」
「一日だけ」
リゼットは真剣な顔をしていた。
「教会もない。王様もいない。貴族もいない。怪我人もいない。誰もあなたを『聖女エリシア』と呼ばない場所へ連れていく」
エリシアは吹き出した。
「そんな場所、あるの?」
「探す」
「素敵ね」
「じゃあ行きましょう」
エリシアの笑みが、ほんの少しだけ曇った。
「行けない」
「どうして?」
まただ。
考える前に、同じ言葉が口から出る。
「だって、私は聖女だから」
二人の間に沈黙が落ちた。
◇
エリシアには、四人の親しい友人がいた。
聖騎士リゼット。
寡黙な弓使い、ナディア。
おしゃべり好きな宮廷魔術師、ミラベル。
そして、エリシアと同じ神殿で育った神官セレスティーヌ。
五人だけで食卓を囲む時間は、エリシアにとって数少ない安らぎだった。
「ひどい顔」
ミラベルが言った。
エリシアはスプーンを置く。
「ありがとう」
「褒めてない!」
ナディアが眉を上げた。
「どこの国なら、それが褒め言葉になるの?」
「私の国」
「滅びたほうがいい」
「ひどい!」
セレスティーヌがくすくす笑う。
リゼットはエリシアの前へ皿を押した。
「食べなさい」
「食欲ない」
「聞こえない」
エリシアは頬を膨らませた。
「最近、みんな私に命令してばっかり」
沈黙。
言った本人まで固まった。
ミラベルの目が輝く。
「今の聞いた!?」
「何が?」
「エリシアが怒った!」
「怒ってないわよ」
「怒ってる!」
「ミラベル……」
「聖女様にも人間らしい感情があったのね!」
エリシアはパンを投げた。
ミラベルは空中で受け止める。
「もう一回!」
「嫌!」
全員が笑った。
エリシアも笑った。
この時間が好きだった。
だからこそ。
最近、自分の中に浮かび始めた考えが嫌だった。
(……いつになったら、私は自分で決められるんだろう)
起きる時間。
眠る時間。
行く場所。
治療する相手。
会う人。
休む時間でさえ。
いつも誰かが決めていた。
◇
翌朝。
エリシアは王宮へ呼び出された。
「西方結界が弱まっている」
国王アルドレンが言った。
「直ちに修復せよ」
「陛下。その前に、一日だけお休みをいただけませんか?」
大臣の一人が眉をひそめた。
「休み?」
「昨日は四十七人を治療し、二つの結界を補強しました」
「国はそなたの献身に感謝している」
「感謝の話をしているのではありません」
空気が止まった。
自分でも驚くほど強い言葉だった。
「昨夜は二時間しか眠っていません」
「仕事が終われば休めばよい」
エリシアは国王を見つめた。
「それは、いつですか?」
「何?」
「その『仕事が終わったら』は、いつ来るんですか?」
「エリシア」
国王の声が低くなった。
「何千もの民がそなたを必要としている」
「わかっています」
「ならば、聖女としての役目を果たせ」
胸の奥が熱くなった。
ほんの少しだけ。
その瞬間。
奇妙な考えが頭をよぎった。
(……黙って)
もし、私がそう命令したら。
本当に王様が黙ったら?
(何を考えてるの、私……)
疲れているのだ。
きっとそう。
エリシアは頭を下げた。
「……承知しました」
王宮を出るとき、大臣の声が聞こえた。
「そのための聖女なのだからな」
エリシアは歩き続けた。
そしてまた想像した。
(……跪いて)
あの大臣が自分の前に跪く姿など、想像もできない。
思わず小さな笑いが漏れた。
「……本当に疲れてるみたい」
◇
その想像は、何度も戻ってきた。
真夜中に起こされたとき。
(帰って)
自分の意思とは関係なく宴への出席を決められたとき。
(あなたが行けばいいのに)
休暇申請を却下されたとき。
(黙って)
(座って)
(跪いて)
最初はただの空想だった。
少しだけ楽しかった。
そして、ある夜。
「聖女エリシア様」
ヴァレン神父が書類を抱えて部屋へ入ってきた。
「司教様より、明朝までにこちらの記録をご確認いただくようにとのことです」
エリシアはベッドから顔すら上げなかった。
「明日にしてください」
「ですが司教様が――」
「疲れているんです」
「聖女様には責任が――」
まただ。
責任。
義務。
国。
聖女。
誰も「エリシア」と呼ばない。
エリシアは目を閉じた。
「ヴァレン」
「はい?」
「座って」
その瞬間だった。
指先に奇妙な感覚が走った。
エリシアは目を開く。
黒い糸。
髪の毛ほど細い一本の黒い糸が、彼女の指先から伸びていた。
その先は――ヴァレンの手首に巻きついている。
ヴァレンが椅子に座った。
「……え?」
エリシアも目を見開いた。
ヴァレンが立ち上がろうとする。
だが、立てない。
「せ、聖女様……?」
エリシアはゆっくり指を上げた。
ヴァレンの右腕が上がる。
指を下げる。
腕も下がる。
「何、これ……?」
エリシアの鼓動が速くなった。
「立って」
立った。
「三歩、歩いて」
一歩。
二歩。
三歩。
エリシアは息を呑んだ。
わかる。
彼の意思が。
抵抗している。
従いたくないと思っている。
それなのに。
自分の命令のほうが強い。
「跪いて」
「ま、待ってください!」
ヴァレンの膝が床についた。
エリシアは彼を見つめた。
五秒。
十秒。
そして手を開いた。
黒い糸が消える。
ヴァレンは床に手をついた。
「い、今のは……何だったんですか……?」
エリシアにもわからなかった。
怖がるべきだった。
すぐ誰かに相談するべきだった。
二度と使わないと誓うべきだった。
なのに。
「ヴァレン」
「は、はい」
「あなたも疲れているでしょう?」
「え?」
「今日はもう休んでください」
いつもの優しい笑顔。
「書類は明日で大丈夫です」
困惑したまま、ヴァレンは部屋を出ていった。
扉が閉まる。
エリシアは自分の指を見つめた。
「……跪いて」
小さく呟く。
あの感覚が蘇る。
自分の言葉が絶対になる感覚。
誰にも否定されない。
誰にも「でも」と言われない。
誰にも「あなたは聖女だから」と言われない。
「……危険な力ね」
それくらいは理解していた。
なら、もう使わなければいい。
エリシアはベッドに入った。
五分後。
もう一度、自分の指を見た。
「……でも、どんな力なのか調べるくらいなら……」
それが、最初の言い訳だった。
◇
数日間、人間には使わなかった。
物には効かない。
動物にも効かなかった。
どうやら人間にだけ作用するらしい。
そこでやめておけばよかった。
けれど、やめなかった。
一週間後。
エリシアが朝食を取っていると、王宮の役人が入ってきた。
「聖女様、王宮へお越しください」
「まだ食事中です。あと五分だけ待ってください」
「陛下がお待ちです」
「五分でいいんです」
「今すぐです」
エリシアは朝食を見た。
それから男を見る。
「聖女様。食事などという些細なことで、陛下をお待たせするべきでは――」
黒い糸が現れた。
エリシアはそれを見つめる。
(駄目)
消そうとした。
しかし。
「聖女様?」
糸は男の手首に巻きついた。
「座って」
男は椅子に座った。
「な……?」
「そこで待っていてください」
「か、身体が……!」
エリシアは何事もなかったように朝食を続けた。
ずいぶん久しぶりだった。
誰にも急かされず、最後まで食事を終えられたのは。
ナイフとフォークを置く。
「お待たせしました」
糸を切った。
役人は勢いよく立ち上がった。
「今、何をした!?」
「魔法です」
「どんな魔法だ!」
エリシアは微笑んだ。
「それは私も、まだ調べているところです」
◇
三度目は意図的だった。
四度目も。
五度目からは数えるのをやめた。
大したことはしていない。
そう自分に言い聞かせた。
「静かにしてください」
「外で待っていてください」
「今日は帰ってください」
「その予定を取り消してください」
小さな命令。
ほんの少しのわがまま。
それだけ。
けれど、それだけでエリシアの生活は変わった。
眠れるようになった。
食事を最後まで食べられるようになった。
午後を休める日さえできた。
それでも、聖女として本当に必要な仕事は続けた。
病人を癒やした。
怪我人を助けた。
結界を守った。
助けを必要としている者には手を差し伸べた。
優しい聖女エリシアが消えたわけではない。
ただ――
「嫌」と言う方法を覚えただけだった。
時々、その「嫌」に黒い糸がついてくるだけで。
◇
「最近、変わったわね」
リゼットが言った。
「いい意味で?」
「寝るようになった」
「健康的でしょう?」
「貴族からの晩餐の誘いを三件断った」
「必要なかったから」
「司教も書類を押しつけてこなくなった」
「ようやく私が秘書じゃないって気づいたのかしら?」
リゼットは目を細めた。
「何をしたの?」
「何も」
嘘だった。
胸が少し痛んだ。
「エリシア」
「何?」
「何かあるなら、私に話して」
その言葉が、罪悪感をさらに強くした。
「わかった」
リゼットが手を差し出した。
「じゃあ、危険なことはしてないって約束して」
エリシアはその手を見つめた。
全部話してしまおう。
リゼットなら助けてくれる。
この魔法を消す方法だって探してくれるかもしれない。
――消す。
そう思った瞬間。
エリシアは自分の指を見た。
嫌だった。
この力を失いたくない。
「大丈夫」
リゼットの手を取る。
「私は平気よ」
交わした約束は、ほんの少しだけ期待されたものとは違っていた。
◇
最初に気づいたのはミラベルだった。
ノックもせずに部屋へ飛び込んできた。
「エリシア! あの結界について面白いことを聞いたんだけど――」
止まった。
神官がエリシアの前で跪いている。
両腕には黒い糸。
沈黙。
ミラベルが瞬きをする。
「……私、お邪魔だった?」
エリシアは手を開いた。
糸が消える。
「もう行っていいですよ」
神官は逃げるように部屋を出た。
ミラベルが扉を閉める。
「説明して」
「魔法よ」
「ありがとう、大賢者様。それくらい見ればわかる」
エリシアはため息をついた。
「新しい力に目覚めたの」
「どんな?」
「人を私の命令に従わせる力」
ミラベルの笑顔が消えた。
「……笑えないんだけど」
「冗談じゃないもの」
「エリシア」
「傷つけてはいないわ」
「操ってるんでしょう?」
「必要なときだけ」
「必要かどうか、誰が決めるの?」
エリシアは即答した。
「私」
ミラベルが黙った。
その答えこそが、一番恐ろしかった。
「みんなに話しましょう」
「嫌」
「エリシア」
黒い糸が現れた。
二人とも、それを見た。
時間は十分にあった。
ミラベルが一歩下がる。
「やめて」
エリシアは手を上げた。
糸がミラベルの手首に絡みつく。
「誰にも言わないで」
「エリシア!」
ミラベルは扉へ手を伸ばそうとした。
動かない。
「離して!」
エリシアが指を閉じる。
ミラベルの身体が完全に止まった。
「少しだけ時間が欲しいの」
「これは間違ってる!」
「わかってる」
「だったらやめて!」
エリシアは黙った。
「もうやめてよ、エリシア」
糸を消した。
ミラベルはすぐに距離を取った。
「……ごめんなさい」
「もう使わない?」
沈黙。
「エリシア」
「……わからない」
初めて、完全に正直に答えた。
◇
その夜。
五人は同じ部屋に集まっていた。
ミラベルがすべてを話した。
リゼットの手は剣の柄に置かれている。
ナディアは扉のそば。
セレスティーヌは心配そうにエリシアを見つめていた。
「見せて」
リゼットが言う。
エリシアは手を上げた。
一本の黒い糸が現れる。
セレスティーヌの顔が青ざめた。
「こんな魔法、見たことがありません……」
「身体を完全に操られた」
ミラベルが言う。
「完全じゃないわ」
エリシアが訂正した。
全員が彼女を見る。
しまった。
遅かった。
ナディアが口を開く。
「実験したの?」
「……ええ」
「どれくらい?」
答えない。
「エリシア」
「少しだけ」
リゼットの表情が険しくなった。
「もう終わりよ」
「え?」
「二度とその力を使わないで」
その言葉。
――使うな。
また誰かが決める。
「リゼット……」
「危険すぎる」
「わかってる」
「なら魔術師たちに調べさせましょう」
「嫌」
「エリシア」
「嫌だと言ったの」
「これはあなた一人で決めていいことじゃない」
エリシアの表情が変わった。
「どうして?」
「他人の自由を奪う力だからよ」
「わかってる」
「なら――」
「私はいつなら決めていいの?」
リゼットが止まる。
「これは聖女の仕事とは関係ない」
「私にはある」
エリシアは立ち上がった。
「ずっとそうだった。『正しいことだから』って、みんなが私の代わりに決めてきた。教会も、王様も、貴族も……」
四人を見る。
「あなたたちも」
「私たちはあなたを守りたいだけよ」
「わかってる」
本当にわかっていた。
だからこそ、苦しかった。
彼女たちが大好きだった。
彼女たちも自分を大切に思ってくれている。
「でも今度だけは、私に決めさせて」
リゼットがわずかに剣を抜いた。
「なら、その力を使わずに決めなさい」
エリシアは剣を見る。
そして親友を見る。
一本の黒い糸が現れた。
リゼットが剣を抜く。
「やめて」
「戦いたくないの」
「なら、戦わなければいい」
糸が伸びる。
リゼットが斬った。
糸が二本になった。
「……え?」
エリシア自身も驚いた。
リゼットがもう一度斬る。
四本。
黒い糸がリゼットの両腕へ絡みついた。
「エリシア!」
「止まって!」
リゼットの身体が硬直する。
「私……」
ミラベルが魔法を構えた。
ナディアが弓を上げる。
セレスティーヌが祈りを唱え始める。
エリシアは反射的に両手を動かした。
無数の黒い糸が部屋を走った。
ほんの数秒だった。
ナディアの弓が床に落ちる。
ミラベルの魔法が消える。
セレスティーヌの祈りが途切れる。
四人とも動けなくなった。
意識はある。
怒っている。
怖がっている。
抵抗している。
それなのに――
動けない。
エリシアは一歩下がった。
「……違う」
彼女たちの抵抗を感じる。
四つの意思。
自分の身体を取り戻そうとしている。
それなのに。
エリシアの命令は、そのすべてより強かった。
「解いて」
リゼットが言った。
エリシアの手が震える。
簡単だった。
指を開くだけ。
「エリシア」
少しだけ指を開いた。
糸が緩む。
リゼットが一歩前へ出る。
「そう。それでいい。私たちを解放して」
エリシアは彼女を見た。
今までの日々が頭を駆け抜ける。
命令。
義務。
責任。
『聖女だから』
そして。
エリシアは指を閉じた。
糸が再び強く張った。
リゼットの顔が青ざめる。
「……どうして?」
エリシアの目から涙がこぼれた。
「わからない」
「わかるはずよ」
沈黙。
「言って」
エリシアは俯いた。
「……嫌だから」
ミラベルが抵抗をやめた。
「え……?」
「解放できる」
エリシアは自分の指を見る。
「でも……したくない」
その言葉を口にした瞬間。
何かが決定的に変わった。
もう「力が暴走した」とは言えない。
「仕方がなかった」とも。
これは自分自身の選択だった。
リゼットも理解した。
「エリシア。これはあなたが決めたことなのね」
「ええ」
「私たちから選ぶ権利を奪ってる」
「ええ」
「わかってるの?」
「……わかってる」
涙は頬を流れ続けていた。
それでも糸は消えなかった。
セレスティーヌが震える声で尋ねた。
「どうして……私たちまで?」
エリシアは彼女を見た。
「大切だから」
「それは愛じゃない」
リゼットが言った。
エリシアは目を閉じる。
「……そうかもしれない」
「糸なんかなくても、私たちはあなたのそばにいる」
「そうかもしれない」
「だったら解いて」
エリシアはゆっくり首を横に振った。
「でも、いつかいなくなるかもしれない」
「それを決めるのは私たちよ!」
「わかってる」
リゼットは信じられないものを見るように彼女を見つめた。
「全部わかった上でやるの?」
長い沈黙。
そして。
「うん」
◇
その後、エリシアは知った。
彼女の力が操れるのは身体だけではない。
記憶。
感情。
意識。
もっと深い部分へ干渉することさえできた。
望めば、四人の人格そのものを消すことすらできる。
だが、それはしなかった。
ミラベルが冗談を言わなくなったら、ミラベルではない。
ナディアが辛辣な言葉を返さなくなったら、ナディアではない。
セレスティーヌが自分を心配しなくなったら、セレスティーヌではない。
そして。
リゼットが自分に逆らわなくなったら――
それはもう、リゼットではない。
エリシアが欲しかったのは、空っぽの人形ではなかった。
四人には、四人のままでいてほしかった。
笑って。
怒って。
好きなだけ文句を言って。
自分の意思を持っていてほしい。
ただし。
最後には、エリシアの命令に逆らえない。
それだけだった。
◇
秘密は長く隠しておけなかった。
ある日、エリシアは王宮へ召喚された。
今度は四人も一緒だった。
「聖女エリシア」
国王アルドレンが厳しい顔で彼女を見る。
「奇妙な報告が届いている」
「私についてですか?」
「そなたと話した者が、突然、自分の身体を自由に動かせなくなったという」
「本当です」
完全な沈黙。
国王自身、自分が聞き間違えたと思ったらしい。
「……何?」
「本当です」
エリシアは手を上げた。
「新しい魔法を覚えました」
リゼットが目を閉じる。
「エリシア……」
「大丈夫よ」
国王が玉座を叩いた。
「衛兵!」
兵士たちが前へ出る。
エリシアが指を一本動かした。
全員が止まった。
黒い糸が兵士たちの手首へ巻きついている。
「な、何だこれは!?」
「跪いて」
兵士たちは一斉に膝をついた。
国王が立ち上がる。
「エリシア!」
彼女は国王を見た。
思い出す。
『そのための聖女なのだから』
二時間しか眠れなかった夜。
自分の意思とは関係なく決められた予定。
断れなかった宴。
休むことさえ許可が必要だった日々。
エリシアは微笑んだ。
「陛下」
一本の糸が国王の手首に絡みつく。
「やめろ!」
「実は、一度やってみたかったんです」
「何を――」
エリシアは指を上げた。
「跪いてください」
「貴様……!」
国王は抵抗した。
足が震えている。
しかし。
ゆっくりと。
国王の膝が床についた。
エリシアは彼を見下ろした。
かつて頭の中でしか想像できなかった光景。
それが今、現実になっている。
「……こんな感じなんですね」
「これは反逆だぞ!」
「そうですね」
「そなたはこの国の聖女だ!」
「はい」
「国に仕えることがそなたの務めだ!」
エリシアは足を止めた。
「私はずっと、この国に仕えてきました」
玉座を見る。
「だから今度は――」
階段を上がった。
そして。
玉座へ腰掛けた。
「逆を試してみたいんです」
国王の顔から血の気が引いた。
「何をするつもりだ?」
エリシアは少し考えた。
そして。
「まだ決めていません」
笑った。
「何?」
「それが嬉しいんです」
自分の手を見る。
「初めて、誰も私の未来を決めていない」
指を動かす。
大臣たちが跪く。
衛兵たちが跪く。
貴族たちが跪く。
最後に四人を見る。
命令する必要すらなかった。
黒い糸が彼女たちを玉座の両脇へ並ばせる。
リゼットがエリシアを見た。
「これが欲しかったもの?」
エリシアは考えた。
「最初は違ったわ」
「今は?」
ゆっくりと笑みが広がった。
「今は、自分がどこまで行けるのか知りたい」
◇
王国は滅びなかった。
市場はいつも通り開いた。
農民は畑を耕した。
兵士は国境を守った。
医師は患者を治療した。
そしてエリシア自身も、癒やしの魔法を捨てなかった。
「聖女様!」
子供たちが駆け寄れば、以前と同じようにしゃがみ、その傷を癒やした。
「もう大丈夫ですよ」
その笑顔も偽物ではない。
今でも人を救うのが好きだった。
ただ。
好きなものが、少し増えただけ。
農民から金を騙し取った貴族には、
「返してください」
逆らえない。
賄賂を受け取っていた役人には、
「全部話してください」
隠せない。
何時間も無意味な議論を続ける将軍たちには、
「静かにしてください」
瞬時に沈黙が訪れる。
最初は、彼女を称賛する者すらいた。
新たな女王は、わずか数週間で多くの腐敗を排除した。
だが。
誰も口に出せない疑問があった。
――もし、エリシアが間違った命令を下したら。
誰が彼女を止めるのか?
◇
ある午後。
エリシアは私室でくつろいでいた。
もう聖女の白い衣装は着ていない。
黒と金を基調とした、上品なドレス。
ミラベルは窓辺で本を読んでいる。
ナディアは弓の手入れ。
セレスティーヌは紅茶を淹れていた。
リゼットは扉のそばに立っている。
エリシアは本から顔を上げた。
「ミラベル」
「何?」
五人だけのときは、できるだけ自由に話すことを許していた。
エリシアは微笑む。
「喉が渇いた」
「水ならそこにあるけど」
「持ってきて」
「足があるでしょう?」
エリシアが指を動かした。
ミラベルの手が勝手に本を閉じる。
「ちょっと!」
身体が立ち上がる。
テーブルへ歩く。
飲み物を注ぐ。
そしてエリシアへ差し出す。
「どうぞ」
「ありがとう」
「本当に腹が立つ」
「ちょっとだけでしょう?」
ナディアが小さく笑った。
エリシアはそちらを見る。
「面白い?」
「うん」
「じゃあ、こっちに来て」
「嫌」
糸が張る。
ナディアの身体が勝手にエリシアのもとへ歩いていく。
「裏切り者」
ミラベルが呟く。
「知らない」
「どっちも同罪よ」
エリシアが笑う。
ほんの一瞬。
昔の五人に戻ったようだった。
ただ。
その幻想を壊すものが一つだけあった。
黒い糸。
「エリシア」
リゼットが呼ぶ。
「何?」
「いつか、私たちを解放する?」
部屋が静まり返った。
エリシアはグラスを置いた。
「考えることはあるわ」
四人が彼女を見る。
リゼットの目が大きくなる。
「本当に?」
「ええ。考えるだけなら」
「そういう意味じゃない」
エリシアは小さく笑った。
「じゃあ、しない」
「永遠に?」
エリシアは自分の指を見る。
「わからない」
「自由になっても、私たちはあなたのそばにいるかもしれない」
「そうね」
「なら、私に選ばせて」
エリシアは黙った。
簡単だった。
今すぐ四本の糸を切ればいい。
リゼットは残るかもしれない。
ミラベルも。
ナディアも。
セレスティーヌも。
全員、残ってくれるかもしれない。
でも。
――かもしれない。
いなくなる可能性もある。
エリシアはゆっくり指を閉じた。
「嫌」
リゼットが拳を握る。
「臆病者」
エリシアは瞬きをした。
そして、少し笑った。
「そうかもね」
「他人に自分のことを決められるのが嫌だったんでしょう?」
笑顔が消えた。
「……ええ」
「今、あなたが同じことをしてる」
その言葉は痛かった。
エリシアは視線を落とす。
「わかってる」
「じゃあ教えて」
リゼットが真っ直ぐ彼女を見る。
「今のあなたは、自由なの?」
エリシアは答えなかった。
自分の指を見る。
糸は四本だけではない。
壁の向こうへ。
王宮へ。
教会へ。
軍へ。
貴族たちへ。
王国中へ。
無数の糸が伸びている。
ずっと、自分の人生を自分で決めたかった。
今では。
他人の人生まで決められる。
それが本当の自由なのだろうか。
「……わからない」
リゼットは少し意外そうな顔をした。
エリシアは立ち上がる。
窓へ近づいた。
眼下では、王都がいつも通り動いている。
昔は毎日のように聞いた。
『聖女エリシア様、こちらへ』
『聖女エリシア様、お願いします』
『聖女エリシア様、あなたの責任です』
今は。
指一本で。
何千人もの人間を従わせられる。
エリシアは片手を上げた。
一本の黒い糸が現れる。
最初の日を思い出す。
ヴァレンを跪かせた夜。
あそこでやめることもできた。
二度目でも。
三度目でも。
ミラベルに使ったときでも。
四人を縛ったときでも。
いつだって。
やめられた。
魔法が暴走したわけではない。
呪われていたわけでもない。
誰かに操られていたわけでもない。
全部。
自分で選んだ。
エリシアは少し寂しそうに微笑んだ。
「ねえ、リゼット」
「何?」
「ようやく答えがわかった気がする」
「何の?」
「どうして止められなかったのか」
リゼットは黙って彼女を見る。
「……違う」
エリシアは首を横に振った。
「その言い方じゃない」
指から伸びる黒い糸を見る。
「どうして、止めなかったのか」
沈黙。
「楽しかったから」
誰も答えない。
「『嫌』って言えるのが嬉しかった」
もう一度。
「もう誰にも私のことを勝手に決められないのが嬉しかった」
もう一度。
「私が一言命令すれば、誰も逆らえない」
黒い糸がさらに増える。
「それが、思っていたよりずっと気持ちよかった」
四人を見る。
「そして、いつでもやめられるって気づいた」
笑う。
「でも、やめたくなかった」
リゼットは目を閉じた。
「馬鹿」
「うん」
「わがまま」
「そうね」
「史上最悪の聖女」
エリシアは吹き出した。
「たぶんね」
「褒めてないから」
「ありがとう」
ミラベルが耐えきれず笑った。
ナディアも笑う。
セレスティーヌも口元を手で隠した。
リゼットだけは平静を保とうとしていた。
だが最後には、ほんの少し笑った。
五人の笑い声が部屋に響いた。
昔と同じ。
だからこそ。
エリシアは、このままでいてほしいと思った。
空っぽの人形ではなく。
自分の友人として。
笑って。
怒って。
好きなだけ文句を言って。
時には自分を嫌ってもいい。
それでも。
そばにいてほしい。
矛盾している。
わがままだ。
そんなことは、エリシア自身が誰よりよく理解していた。
そして。
理解していることこそが、もしかしたら一番恐ろしいのかもしれない。
「エリシア」
リゼットが言った。
「何?」
「いつか絶対、この糸を切ってやる」
エリシアは微笑む。
「やってみて」
「そのときは、まず一発殴るから」
「怖いなあ」
「怖がってなさい」
「じゃあ、それまでは――」
エリシアが指を動かした。
リゼットの身体が勝手に歩き始める。
「エリシア!」
隣に座らせた。
「その日が来るまで」
エリシアは親友の肩に頭を預けた。
「私のそばにいて」
リゼットは彼女を押し退けようとした。
だが、糸が許さない。
「……最低」
「知ってる」
窓の外で鐘が鳴った。
かつて。
その鐘は聖女の到着を知らせるためのものだった。
今は違う。
新たな統治者の存在を告げる鐘。
エリシアは窓の外を見た。
最初に欲しかったのは――
朝食を最後まで食べるための、たった五分だった。
次は午後の休み。
その次は、誰からも命令されない一日。
やがて。
自分のことを自分で決めたくなった。
そして今は。
何もかも、自分で決められる。
いつか後悔するかもしれない。
いつか、あの四人が彼女を止めるかもしれない。
あるいは。
他人を縛っていると思っていた糸が、本当は自分自身を縛っていたのだと気づく日が来るかもしれない。
けれど。
その日は、まだ来ていなかった。
エリシアは手を上げた。
夕暮れの光の中。
無数の黒い糸が輝く。
そして彼女は、幸せそうに笑った。
「さて、と……」
四人が彼女を見る。
ミラベルが呆れたように尋ねた。
「次は何をするつもり?」
エリシアは人差し指を唇に当てた。
少し考える。
今日まで。
答えはいつだって、誰かが決めていた。
でも、今は違う。
「まだわからない」
エリシアの笑みが深くなった。
「だからこそ、今度は私が決めるの」
かつて王国中の人々を救った聖女は。
ようやく、自分の人生を選べるようになった。
その代わりに。
他人から、同じ権利を奪った。
それは自由なのか。
それとも、新しい牢獄なのか。
エリシア自身にも、まだわからない。
ただ一つ。
確かなことがあった。
最初は、ほんの少し試しただけだった。
次は、もう一度だけ。
その次も、もう一度だけ。
そして。
いつでも手を離すことはできた。
それでもエリシアは、自分の意思で糸を握り続けた。
そして今日も。
彼女はその糸を握り――
手放すつもりなど、なかった。
――完――
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
自由を求めたエリシアが、自由を手に入れるために他人の自由を奪っていく――そんな少し歪んだ聖女の物語でした。
エリシアの選択をどう感じたか、そして彼女とリゼットたちのこれからをどう想像したか、感想で教えていただけると嬉しいです。
評価もいただけましたら、今後の作品を書く大きな励みになります。
ここまでエリシアたちの物語を見届けてくださり、本当にありがとうございました!




