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「みんなの聖女」でいることに疲れたので、今度は私の言うことを聞いてもらいます。

掲載日:2026/09/20

「聖女エリシア様!」


「お願いします! 息子を助けてください!」


「こちらにも怪我人が!」


「聖女様!」


今日だけで、いったい何度自分の名前を呼ばれただろう。


エリシアは、とっくに数えるのをやめていた。


それでも彼女は笑っていた。


いつものように、優しく穏やかな笑顔で。


少なくとも――この頃の笑顔は、まだ偽物ではなかった。


「大丈夫です。お子さんをこちらへ」


若い母親が、震える腕で小さな男の子を差し出した。


六歳くらいだろうか。


熱で顔は真っ赤に染まり、呼吸も苦しそうだった。


「もう三日も熱が下がらないんです。お医者様にも診てもらったんですが……」


「心配しないでください」


エリシアは少年の額にそっと手を置いた。


熱い。


それに、かなり衰弱している。


エリシアは静かに目を閉じた。


「聖なる光よ。この子の苦しみを癒やし、失われた力をお返しください」


指先から金色の光がこぼれた。


淡い輝きが少年の身体を包み込む。


荒かった呼吸が、少しずつ穏やかになっていく。


やがて少年のまぶたが震えた。


「……お母、さん?」


「ダリル!」


母親は泣きながら息子を抱き締めた。


「ありがとうございます! 本当に……本当にありがとうございます、聖女様!」


エリシアは微笑んだ。


「今日はゆっくり休ませてあげてください。明日には、ずっと楽になっているはずです」


「はい!」


母子は何度も頭を下げながら去っていった。


その背中を見送りながら、エリシアの顔には自然と笑みが浮かんでいた。


こういう瞬間が好きだった。


人を癒やすこと。


誰かを救うこと。


泣いていた人が笑顔になる、その瞬間を見ること。


聖女であること自体が嫌いなわけではない。


「聖女エリシア様」


背後から声がした。


エリシアは目を閉じた。


ほんの一瞬だけ。


(……次か)


そして振り返ったときには、いつもの笑顔に戻っていた。


「はい?」


「まだ十七名が治療を待っております」


「わかりました」


「その後は騎士団の詰所へ。国境から重傷者が四名運び込まれています」


「すぐに向かいます」


「それから、ローウェン公爵からも依頼が」


「公爵様が?」


「いえ、ご令嬢です。頭痛がするとのことで」


エリシアは瞬きをした。


「……頭痛?」


「ローウェン公爵は先月、教会へ多額の寄付をしてくださいました」


「……そうですか」


「ご理解いただけて何よりです。何しろ聖女様は――」


その続きを、エリシアは心の中で先に呟いた。


(――この国の誇り、ですから)


「この国の誇りですから」


「……ありがとうございます」


神官が去っていく。


エリシアは自分の手を見た。


わずかに震えていた。


「あと十七人……」


深く息を吸う。


そして顔を上げた。


「次の方、どうぞ」



自室へ戻った頃には、もう日付が変わろうとしていた。


扉を開けると、一人の女性がベッドに腰掛けていた。


鮮やかな赤い髪。


壁際には銀色の鎧が立てかけられている。


「遅い」


「リゼット?」


聖騎士団長リゼット。


エリシアの護衛であり、親友でもある。


そして、この国で数少ない、彼女を「聖女様」ではなく「エリシア」と呼ぶ人間だった。


「今、何時だと思ってるの?」


「……夜?」


「外を見ればわかるでしょう」


エリシアは苦笑した。


「ちょっと疲れちゃった」


「ちょっと?」


「ほんのちょっと」


「昨日は何時間寝た?」


「ちゃんと寝たわ」


「数字で答えて」


沈黙。


「エリシア」


「……二時間」


「二時間!?」


「声が大きい」


「大きくもなるわよ!」


リゼットは立ち上がった。


「明日は休みなさい」


「それは無理」


「どうして?」


考えるより先に答えが口から出た。


「だって、私は聖女だから」


リゼットの表情が曇った。


「私、その言葉が嫌い」


「最近、私もちょっと嫌いになってきたかも」


エリシアは笑った。


だが、リゼットは笑わなかった。


「聖女である前に、あなたはエリシアでしょう」


エリシアはしばらく黙った。


「それ、国王陛下にも言ってくれる?」


「言うわよ」


「やめて」


「どうして?」


「あなたが罰を受けるから」


「構わない」


「私は構うの」


リゼットはため息をついた。


「そこよ」


「何が?」


「倒れそうになってるのに、まだ他人の心配をしてる」


エリシアは小さく笑った。


「それが聖女ってものでしょう?」


「だったら、私があなたを誘拐する」


「え?」


「一日だけ」


リゼットは真剣な顔をしていた。


「教会もない。王様もいない。貴族もいない。怪我人もいない。誰もあなたを『聖女エリシア』と呼ばない場所へ連れていく」


エリシアは吹き出した。


「そんな場所、あるの?」


「探す」


「素敵ね」


「じゃあ行きましょう」


エリシアの笑みが、ほんの少しだけ曇った。


「行けない」


「どうして?」


まただ。


考える前に、同じ言葉が口から出る。


「だって、私は聖女だから」


二人の間に沈黙が落ちた。



エリシアには、四人の親しい友人がいた。


聖騎士リゼット。


寡黙な弓使い、ナディア。


おしゃべり好きな宮廷魔術師、ミラベル。


そして、エリシアと同じ神殿で育った神官セレスティーヌ。


五人だけで食卓を囲む時間は、エリシアにとって数少ない安らぎだった。


「ひどい顔」


ミラベルが言った。


エリシアはスプーンを置く。


「ありがとう」


「褒めてない!」


ナディアが眉を上げた。


「どこの国なら、それが褒め言葉になるの?」


「私の国」


「滅びたほうがいい」


「ひどい!」


セレスティーヌがくすくす笑う。


リゼットはエリシアの前へ皿を押した。


「食べなさい」


「食欲ない」


「聞こえない」


エリシアは頬を膨らませた。


「最近、みんな私に命令してばっかり」


沈黙。


言った本人まで固まった。


ミラベルの目が輝く。


「今の聞いた!?」


「何が?」


「エリシアが怒った!」


「怒ってないわよ」


「怒ってる!」


「ミラベル……」


「聖女様にも人間らしい感情があったのね!」


エリシアはパンを投げた。


ミラベルは空中で受け止める。


「もう一回!」


「嫌!」


全員が笑った。


エリシアも笑った。


この時間が好きだった。


だからこそ。


最近、自分の中に浮かび始めた考えが嫌だった。


(……いつになったら、私は自分で決められるんだろう)


起きる時間。


眠る時間。


行く場所。


治療する相手。


会う人。


休む時間でさえ。


いつも誰かが決めていた。



翌朝。


エリシアは王宮へ呼び出された。


「西方結界が弱まっている」


国王アルドレンが言った。


「直ちに修復せよ」


「陛下。その前に、一日だけお休みをいただけませんか?」


大臣の一人が眉をひそめた。


「休み?」


「昨日は四十七人を治療し、二つの結界を補強しました」


「国はそなたの献身に感謝している」


「感謝の話をしているのではありません」


空気が止まった。


自分でも驚くほど強い言葉だった。


「昨夜は二時間しか眠っていません」


「仕事が終われば休めばよい」


エリシアは国王を見つめた。


「それは、いつですか?」


「何?」


「その『仕事が終わったら』は、いつ来るんですか?」


「エリシア」


国王の声が低くなった。


「何千もの民がそなたを必要としている」


「わかっています」


「ならば、聖女としての役目を果たせ」


胸の奥が熱くなった。


ほんの少しだけ。


その瞬間。


奇妙な考えが頭をよぎった。


(……黙って)


もし、私がそう命令したら。


本当に王様が黙ったら?


(何を考えてるの、私……)


疲れているのだ。


きっとそう。


エリシアは頭を下げた。


「……承知しました」


王宮を出るとき、大臣の声が聞こえた。


「そのための聖女なのだからな」


エリシアは歩き続けた。


そしてまた想像した。


(……跪いて)


あの大臣が自分の前に跪く姿など、想像もできない。


思わず小さな笑いが漏れた。


「……本当に疲れてるみたい」



その想像は、何度も戻ってきた。


真夜中に起こされたとき。


(帰って)


自分の意思とは関係なく宴への出席を決められたとき。


(あなたが行けばいいのに)


休暇申請を却下されたとき。


(黙って)


(座って)


(跪いて)


最初はただの空想だった。


少しだけ楽しかった。


そして、ある夜。


「聖女エリシア様」


ヴァレン神父が書類を抱えて部屋へ入ってきた。


「司教様より、明朝までにこちらの記録をご確認いただくようにとのことです」


エリシアはベッドから顔すら上げなかった。


「明日にしてください」


「ですが司教様が――」


「疲れているんです」


「聖女様には責任が――」


まただ。


責任。


義務。


国。


聖女。


誰も「エリシア」と呼ばない。


エリシアは目を閉じた。


「ヴァレン」


「はい?」


「座って」


その瞬間だった。


指先に奇妙な感覚が走った。


エリシアは目を開く。


黒い糸。


髪の毛ほど細い一本の黒い糸が、彼女の指先から伸びていた。


その先は――ヴァレンの手首に巻きついている。


ヴァレンが椅子に座った。


「……え?」


エリシアも目を見開いた。


ヴァレンが立ち上がろうとする。


だが、立てない。


「せ、聖女様……?」


エリシアはゆっくり指を上げた。


ヴァレンの右腕が上がる。


指を下げる。


腕も下がる。


「何、これ……?」


エリシアの鼓動が速くなった。


「立って」


立った。


「三歩、歩いて」


一歩。


二歩。


三歩。


エリシアは息を呑んだ。


わかる。


彼の意思が。


抵抗している。


従いたくないと思っている。


それなのに。


自分の命令のほうが強い。


「跪いて」


「ま、待ってください!」


ヴァレンの膝が床についた。


エリシアは彼を見つめた。


五秒。


十秒。


そして手を開いた。


黒い糸が消える。


ヴァレンは床に手をついた。


「い、今のは……何だったんですか……?」


エリシアにもわからなかった。


怖がるべきだった。


すぐ誰かに相談するべきだった。


二度と使わないと誓うべきだった。


なのに。


「ヴァレン」


「は、はい」


「あなたも疲れているでしょう?」


「え?」


「今日はもう休んでください」


いつもの優しい笑顔。


「書類は明日で大丈夫です」


困惑したまま、ヴァレンは部屋を出ていった。


扉が閉まる。


エリシアは自分の指を見つめた。


「……跪いて」


小さく呟く。


あの感覚が蘇る。


自分の言葉が絶対になる感覚。


誰にも否定されない。


誰にも「でも」と言われない。


誰にも「あなたは聖女だから」と言われない。


「……危険な力ね」


それくらいは理解していた。


なら、もう使わなければいい。


エリシアはベッドに入った。


五分後。


もう一度、自分の指を見た。


「……でも、どんな力なのか調べるくらいなら……」


それが、最初の言い訳だった。



数日間、人間には使わなかった。


物には効かない。


動物にも効かなかった。


どうやら人間にだけ作用するらしい。


そこでやめておけばよかった。


けれど、やめなかった。


一週間後。


エリシアが朝食を取っていると、王宮の役人が入ってきた。


「聖女様、王宮へお越しください」


「まだ食事中です。あと五分だけ待ってください」


「陛下がお待ちです」


「五分でいいんです」


「今すぐです」


エリシアは朝食を見た。


それから男を見る。


「聖女様。食事などという些細なことで、陛下をお待たせするべきでは――」


黒い糸が現れた。


エリシアはそれを見つめる。


(駄目)


消そうとした。


しかし。


「聖女様?」


糸は男の手首に巻きついた。


「座って」


男は椅子に座った。


「な……?」


「そこで待っていてください」


「か、身体が……!」


エリシアは何事もなかったように朝食を続けた。


ずいぶん久しぶりだった。


誰にも急かされず、最後まで食事を終えられたのは。


ナイフとフォークを置く。


「お待たせしました」


糸を切った。


役人は勢いよく立ち上がった。


「今、何をした!?」


「魔法です」


「どんな魔法だ!」


エリシアは微笑んだ。


「それは私も、まだ調べているところです」



三度目は意図的だった。


四度目も。


五度目からは数えるのをやめた。


大したことはしていない。


そう自分に言い聞かせた。


「静かにしてください」


「外で待っていてください」


「今日は帰ってください」


「その予定を取り消してください」


小さな命令。


ほんの少しのわがまま。


それだけ。


けれど、それだけでエリシアの生活は変わった。


眠れるようになった。


食事を最後まで食べられるようになった。


午後を休める日さえできた。


それでも、聖女として本当に必要な仕事は続けた。


病人を癒やした。


怪我人を助けた。


結界を守った。


助けを必要としている者には手を差し伸べた。


優しい聖女エリシアが消えたわけではない。


ただ――


「嫌」と言う方法を覚えただけだった。


時々、その「嫌」に黒い糸がついてくるだけで。



「最近、変わったわね」


リゼットが言った。


「いい意味で?」


「寝るようになった」


「健康的でしょう?」


「貴族からの晩餐の誘いを三件断った」


「必要なかったから」


「司教も書類を押しつけてこなくなった」


「ようやく私が秘書じゃないって気づいたのかしら?」


リゼットは目を細めた。


「何をしたの?」


「何も」


嘘だった。


胸が少し痛んだ。


「エリシア」


「何?」


「何かあるなら、私に話して」


その言葉が、罪悪感をさらに強くした。


「わかった」


リゼットが手を差し出した。


「じゃあ、危険なことはしてないって約束して」


エリシアはその手を見つめた。


全部話してしまおう。


リゼットなら助けてくれる。


この魔法を消す方法だって探してくれるかもしれない。


――消す。


そう思った瞬間。


エリシアは自分の指を見た。


嫌だった。


この力を失いたくない。


「大丈夫」


リゼットの手を取る。


「私は平気よ」


交わした約束は、ほんの少しだけ期待されたものとは違っていた。



最初に気づいたのはミラベルだった。


ノックもせずに部屋へ飛び込んできた。


「エリシア! あの結界について面白いことを聞いたんだけど――」


止まった。


神官がエリシアの前で跪いている。


両腕には黒い糸。


沈黙。


ミラベルが瞬きをする。


「……私、お邪魔だった?」


エリシアは手を開いた。


糸が消える。


「もう行っていいですよ」


神官は逃げるように部屋を出た。


ミラベルが扉を閉める。


「説明して」


「魔法よ」


「ありがとう、大賢者様。それくらい見ればわかる」


エリシアはため息をついた。


「新しい力に目覚めたの」


「どんな?」


「人を私の命令に従わせる力」


ミラベルの笑顔が消えた。


「……笑えないんだけど」


「冗談じゃないもの」


「エリシア」


「傷つけてはいないわ」


「操ってるんでしょう?」


「必要なときだけ」


「必要かどうか、誰が決めるの?」


エリシアは即答した。


「私」


ミラベルが黙った。


その答えこそが、一番恐ろしかった。


「みんなに話しましょう」


「嫌」


「エリシア」


黒い糸が現れた。


二人とも、それを見た。


時間は十分にあった。


ミラベルが一歩下がる。


「やめて」


エリシアは手を上げた。


糸がミラベルの手首に絡みつく。


「誰にも言わないで」


「エリシア!」


ミラベルは扉へ手を伸ばそうとした。


動かない。


「離して!」


エリシアが指を閉じる。


ミラベルの身体が完全に止まった。


「少しだけ時間が欲しいの」


「これは間違ってる!」


「わかってる」


「だったらやめて!」


エリシアは黙った。


「もうやめてよ、エリシア」


糸を消した。


ミラベルはすぐに距離を取った。


「……ごめんなさい」


「もう使わない?」


沈黙。


「エリシア」


「……わからない」


初めて、完全に正直に答えた。



その夜。


五人は同じ部屋に集まっていた。


ミラベルがすべてを話した。


リゼットの手は剣の柄に置かれている。


ナディアは扉のそば。


セレスティーヌは心配そうにエリシアを見つめていた。


「見せて」


リゼットが言う。


エリシアは手を上げた。


一本の黒い糸が現れる。


セレスティーヌの顔が青ざめた。


「こんな魔法、見たことがありません……」


「身体を完全に操られた」


ミラベルが言う。


「完全じゃないわ」


エリシアが訂正した。


全員が彼女を見る。


しまった。


遅かった。


ナディアが口を開く。


「実験したの?」


「……ええ」


「どれくらい?」


答えない。


「エリシア」


「少しだけ」


リゼットの表情が険しくなった。


「もう終わりよ」


「え?」


「二度とその力を使わないで」


その言葉。


――使うな。


また誰かが決める。


「リゼット……」


「危険すぎる」


「わかってる」


「なら魔術師たちに調べさせましょう」


「嫌」


「エリシア」


「嫌だと言ったの」


「これはあなた一人で決めていいことじゃない」


エリシアの表情が変わった。


「どうして?」


「他人の自由を奪う力だからよ」


「わかってる」


「なら――」


「私はいつなら決めていいの?」


リゼットが止まる。


「これは聖女の仕事とは関係ない」


「私にはある」


エリシアは立ち上がった。


「ずっとそうだった。『正しいことだから』って、みんなが私の代わりに決めてきた。教会も、王様も、貴族も……」


四人を見る。


「あなたたちも」


「私たちはあなたを守りたいだけよ」


「わかってる」


本当にわかっていた。


だからこそ、苦しかった。


彼女たちが大好きだった。


彼女たちも自分を大切に思ってくれている。


「でも今度だけは、私に決めさせて」


リゼットがわずかに剣を抜いた。


「なら、その力を使わずに決めなさい」


エリシアは剣を見る。


そして親友を見る。


一本の黒い糸が現れた。


リゼットが剣を抜く。


「やめて」


「戦いたくないの」


「なら、戦わなければいい」


糸が伸びる。


リゼットが斬った。


糸が二本になった。


「……え?」


エリシア自身も驚いた。


リゼットがもう一度斬る。


四本。


黒い糸がリゼットの両腕へ絡みついた。


「エリシア!」


「止まって!」


リゼットの身体が硬直する。


「私……」


ミラベルが魔法を構えた。


ナディアが弓を上げる。


セレスティーヌが祈りを唱え始める。


エリシアは反射的に両手を動かした。


無数の黒い糸が部屋を走った。


ほんの数秒だった。


ナディアの弓が床に落ちる。


ミラベルの魔法が消える。


セレスティーヌの祈りが途切れる。


四人とも動けなくなった。


意識はある。


怒っている。


怖がっている。


抵抗している。


それなのに――


動けない。


エリシアは一歩下がった。


「……違う」


彼女たちの抵抗を感じる。


四つの意思。


自分の身体を取り戻そうとしている。


それなのに。


エリシアの命令は、そのすべてより強かった。


「解いて」


リゼットが言った。


エリシアの手が震える。


簡単だった。


指を開くだけ。


「エリシア」


少しだけ指を開いた。


糸が緩む。


リゼットが一歩前へ出る。


「そう。それでいい。私たちを解放して」


エリシアは彼女を見た。


今までの日々が頭を駆け抜ける。


命令。


義務。


責任。


『聖女だから』


そして。


エリシアは指を閉じた。


糸が再び強く張った。


リゼットの顔が青ざめる。


「……どうして?」


エリシアの目から涙がこぼれた。


「わからない」


「わかるはずよ」


沈黙。


「言って」


エリシアは俯いた。


「……嫌だから」


ミラベルが抵抗をやめた。


「え……?」


「解放できる」


エリシアは自分の指を見る。


「でも……したくない」


その言葉を口にした瞬間。


何かが決定的に変わった。


もう「力が暴走した」とは言えない。


「仕方がなかった」とも。


これは自分自身の選択だった。


リゼットも理解した。


「エリシア。これはあなたが決めたことなのね」


「ええ」


「私たちから選ぶ権利を奪ってる」


「ええ」


「わかってるの?」


「……わかってる」


涙は頬を流れ続けていた。


それでも糸は消えなかった。


セレスティーヌが震える声で尋ねた。


「どうして……私たちまで?」


エリシアは彼女を見た。


「大切だから」


「それは愛じゃない」


リゼットが言った。


エリシアは目を閉じる。


「……そうかもしれない」


「糸なんかなくても、私たちはあなたのそばにいる」


「そうかもしれない」


「だったら解いて」


エリシアはゆっくり首を横に振った。


「でも、いつかいなくなるかもしれない」


「それを決めるのは私たちよ!」


「わかってる」


リゼットは信じられないものを見るように彼女を見つめた。


「全部わかった上でやるの?」


長い沈黙。


そして。


「うん」



その後、エリシアは知った。


彼女の力が操れるのは身体だけではない。


記憶。


感情。


意識。


もっと深い部分へ干渉することさえできた。


望めば、四人の人格そのものを消すことすらできる。


だが、それはしなかった。


ミラベルが冗談を言わなくなったら、ミラベルではない。


ナディアが辛辣な言葉を返さなくなったら、ナディアではない。


セレスティーヌが自分を心配しなくなったら、セレスティーヌではない。


そして。


リゼットが自分に逆らわなくなったら――


それはもう、リゼットではない。


エリシアが欲しかったのは、空っぽの人形ではなかった。


四人には、四人のままでいてほしかった。


笑って。


怒って。


好きなだけ文句を言って。


自分の意思を持っていてほしい。


ただし。


最後には、エリシアの命令に逆らえない。


それだけだった。



秘密は長く隠しておけなかった。


ある日、エリシアは王宮へ召喚された。


今度は四人も一緒だった。


「聖女エリシア」


国王アルドレンが厳しい顔で彼女を見る。


「奇妙な報告が届いている」


「私についてですか?」


「そなたと話した者が、突然、自分の身体を自由に動かせなくなったという」


「本当です」


完全な沈黙。


国王自身、自分が聞き間違えたと思ったらしい。


「……何?」


「本当です」


エリシアは手を上げた。


「新しい魔法を覚えました」


リゼットが目を閉じる。


「エリシア……」


「大丈夫よ」


国王が玉座を叩いた。


「衛兵!」


兵士たちが前へ出る。


エリシアが指を一本動かした。


全員が止まった。


黒い糸が兵士たちの手首へ巻きついている。


「な、何だこれは!?」


「跪いて」


兵士たちは一斉に膝をついた。


国王が立ち上がる。


「エリシア!」


彼女は国王を見た。


思い出す。


『そのための聖女なのだから』


二時間しか眠れなかった夜。


自分の意思とは関係なく決められた予定。


断れなかった宴。


休むことさえ許可が必要だった日々。


エリシアは微笑んだ。


「陛下」


一本の糸が国王の手首に絡みつく。


「やめろ!」


「実は、一度やってみたかったんです」


「何を――」


エリシアは指を上げた。


「跪いてください」


「貴様……!」


国王は抵抗した。


足が震えている。


しかし。


ゆっくりと。


国王の膝が床についた。


エリシアは彼を見下ろした。


かつて頭の中でしか想像できなかった光景。


それが今、現実になっている。


「……こんな感じなんですね」


「これは反逆だぞ!」


「そうですね」


「そなたはこの国の聖女だ!」


「はい」


「国に仕えることがそなたの務めだ!」


エリシアは足を止めた。


「私はずっと、この国に仕えてきました」


玉座を見る。


「だから今度は――」


階段を上がった。


そして。


玉座へ腰掛けた。


「逆を試してみたいんです」


国王の顔から血の気が引いた。


「何をするつもりだ?」


エリシアは少し考えた。


そして。


「まだ決めていません」


笑った。


「何?」


「それが嬉しいんです」


自分の手を見る。


「初めて、誰も私の未来を決めていない」


指を動かす。


大臣たちが跪く。


衛兵たちが跪く。


貴族たちが跪く。


最後に四人を見る。


命令する必要すらなかった。


黒い糸が彼女たちを玉座の両脇へ並ばせる。


リゼットがエリシアを見た。


「これが欲しかったもの?」


エリシアは考えた。


「最初は違ったわ」


「今は?」


ゆっくりと笑みが広がった。


「今は、自分がどこまで行けるのか知りたい」



王国は滅びなかった。


市場はいつも通り開いた。


農民は畑を耕した。


兵士は国境を守った。


医師は患者を治療した。


そしてエリシア自身も、癒やしの魔法を捨てなかった。


「聖女様!」


子供たちが駆け寄れば、以前と同じようにしゃがみ、その傷を癒やした。


「もう大丈夫ですよ」


その笑顔も偽物ではない。


今でも人を救うのが好きだった。


ただ。


好きなものが、少し増えただけ。


農民から金を騙し取った貴族には、


「返してください」


逆らえない。


賄賂を受け取っていた役人には、


「全部話してください」


隠せない。


何時間も無意味な議論を続ける将軍たちには、


「静かにしてください」


瞬時に沈黙が訪れる。


最初は、彼女を称賛する者すらいた。


新たな女王は、わずか数週間で多くの腐敗を排除した。


だが。


誰も口に出せない疑問があった。


――もし、エリシアが間違った命令を下したら。


誰が彼女を止めるのか?



ある午後。


エリシアは私室でくつろいでいた。


もう聖女の白い衣装は着ていない。


黒と金を基調とした、上品なドレス。


ミラベルは窓辺で本を読んでいる。


ナディアは弓の手入れ。


セレスティーヌは紅茶を淹れていた。


リゼットは扉のそばに立っている。


エリシアは本から顔を上げた。


「ミラベル」


「何?」


五人だけのときは、できるだけ自由に話すことを許していた。


エリシアは微笑む。


「喉が渇いた」


「水ならそこにあるけど」


「持ってきて」


「足があるでしょう?」


エリシアが指を動かした。


ミラベルの手が勝手に本を閉じる。


「ちょっと!」


身体が立ち上がる。


テーブルへ歩く。


飲み物を注ぐ。


そしてエリシアへ差し出す。


「どうぞ」


「ありがとう」


「本当に腹が立つ」


「ちょっとだけでしょう?」


ナディアが小さく笑った。


エリシアはそちらを見る。


「面白い?」


「うん」


「じゃあ、こっちに来て」


「嫌」


糸が張る。


ナディアの身体が勝手にエリシアのもとへ歩いていく。


「裏切り者」


ミラベルが呟く。


「知らない」


「どっちも同罪よ」


エリシアが笑う。


ほんの一瞬。


昔の五人に戻ったようだった。


ただ。


その幻想を壊すものが一つだけあった。


黒い糸。


「エリシア」


リゼットが呼ぶ。


「何?」


「いつか、私たちを解放する?」


部屋が静まり返った。


エリシアはグラスを置いた。


「考えることはあるわ」


四人が彼女を見る。


リゼットの目が大きくなる。


「本当に?」


「ええ。考えるだけなら」


「そういう意味じゃない」


エリシアは小さく笑った。


「じゃあ、しない」


「永遠に?」


エリシアは自分の指を見る。


「わからない」


「自由になっても、私たちはあなたのそばにいるかもしれない」


「そうね」


「なら、私に選ばせて」


エリシアは黙った。


簡単だった。


今すぐ四本の糸を切ればいい。


リゼットは残るかもしれない。


ミラベルも。


ナディアも。


セレスティーヌも。


全員、残ってくれるかもしれない。


でも。


――かもしれない。


いなくなる可能性もある。


エリシアはゆっくり指を閉じた。


「嫌」


リゼットが拳を握る。


「臆病者」


エリシアは瞬きをした。


そして、少し笑った。


「そうかもね」


「他人に自分のことを決められるのが嫌だったんでしょう?」


笑顔が消えた。


「……ええ」


「今、あなたが同じことをしてる」


その言葉は痛かった。


エリシアは視線を落とす。


「わかってる」


「じゃあ教えて」


リゼットが真っ直ぐ彼女を見る。


「今のあなたは、自由なの?」


エリシアは答えなかった。


自分の指を見る。


糸は四本だけではない。


壁の向こうへ。


王宮へ。


教会へ。


軍へ。


貴族たちへ。


王国中へ。


無数の糸が伸びている。


ずっと、自分の人生を自分で決めたかった。


今では。


他人の人生まで決められる。


それが本当の自由なのだろうか。


「……わからない」


リゼットは少し意外そうな顔をした。


エリシアは立ち上がる。


窓へ近づいた。


眼下では、王都がいつも通り動いている。


昔は毎日のように聞いた。


『聖女エリシア様、こちらへ』


『聖女エリシア様、お願いします』


『聖女エリシア様、あなたの責任です』


今は。


指一本で。


何千人もの人間を従わせられる。


エリシアは片手を上げた。


一本の黒い糸が現れる。


最初の日を思い出す。


ヴァレンを跪かせた夜。


あそこでやめることもできた。


二度目でも。


三度目でも。


ミラベルに使ったときでも。


四人を縛ったときでも。


いつだって。


やめられた。


魔法が暴走したわけではない。


呪われていたわけでもない。


誰かに操られていたわけでもない。


全部。


自分で選んだ。


エリシアは少し寂しそうに微笑んだ。


「ねえ、リゼット」


「何?」


「ようやく答えがわかった気がする」


「何の?」


「どうして止められなかったのか」


リゼットは黙って彼女を見る。


「……違う」


エリシアは首を横に振った。


「その言い方じゃない」


指から伸びる黒い糸を見る。


「どうして、止めなかったのか」


沈黙。


「楽しかったから」


誰も答えない。


「『嫌』って言えるのが嬉しかった」


もう一度。


「もう誰にも私のことを勝手に決められないのが嬉しかった」


もう一度。


「私が一言命令すれば、誰も逆らえない」


黒い糸がさらに増える。


「それが、思っていたよりずっと気持ちよかった」


四人を見る。


「そして、いつでもやめられるって気づいた」


笑う。


「でも、やめたくなかった」


リゼットは目を閉じた。


「馬鹿」


「うん」


「わがまま」


「そうね」


「史上最悪の聖女」


エリシアは吹き出した。


「たぶんね」


「褒めてないから」


「ありがとう」


ミラベルが耐えきれず笑った。


ナディアも笑う。


セレスティーヌも口元を手で隠した。


リゼットだけは平静を保とうとしていた。


だが最後には、ほんの少し笑った。


五人の笑い声が部屋に響いた。


昔と同じ。


だからこそ。


エリシアは、このままでいてほしいと思った。


空っぽの人形ではなく。


自分の友人として。


笑って。


怒って。


好きなだけ文句を言って。


時には自分を嫌ってもいい。


それでも。


そばにいてほしい。


矛盾している。


わがままだ。


そんなことは、エリシア自身が誰よりよく理解していた。


そして。


理解していることこそが、もしかしたら一番恐ろしいのかもしれない。


「エリシア」


リゼットが言った。


「何?」


「いつか絶対、この糸を切ってやる」


エリシアは微笑む。


「やってみて」


「そのときは、まず一発殴るから」


「怖いなあ」


「怖がってなさい」


「じゃあ、それまでは――」


エリシアが指を動かした。


リゼットの身体が勝手に歩き始める。


「エリシア!」


隣に座らせた。


「その日が来るまで」


エリシアは親友の肩に頭を預けた。


「私のそばにいて」


リゼットは彼女を押し退けようとした。


だが、糸が許さない。


「……最低」


「知ってる」


窓の外で鐘が鳴った。


かつて。


その鐘は聖女の到着を知らせるためのものだった。


今は違う。


新たな統治者の存在を告げる鐘。


エリシアは窓の外を見た。


最初に欲しかったのは――


朝食を最後まで食べるための、たった五分だった。


次は午後の休み。


その次は、誰からも命令されない一日。


やがて。


自分のことを自分で決めたくなった。


そして今は。


何もかも、自分で決められる。


いつか後悔するかもしれない。


いつか、あの四人が彼女を止めるかもしれない。


あるいは。


他人を縛っていると思っていた糸が、本当は自分自身を縛っていたのだと気づく日が来るかもしれない。


けれど。


その日は、まだ来ていなかった。


エリシアは手を上げた。


夕暮れの光の中。


無数の黒い糸が輝く。


そして彼女は、幸せそうに笑った。


「さて、と……」


四人が彼女を見る。


ミラベルが呆れたように尋ねた。


「次は何をするつもり?」


エリシアは人差し指を唇に当てた。


少し考える。


今日まで。


答えはいつだって、誰かが決めていた。


でも、今は違う。


「まだわからない」


エリシアの笑みが深くなった。


「だからこそ、今度は私が決めるの」


かつて王国中の人々を救った聖女は。


ようやく、自分の人生を選べるようになった。


その代わりに。


他人から、同じ権利を奪った。


それは自由なのか。


それとも、新しい牢獄なのか。


エリシア自身にも、まだわからない。


ただ一つ。


確かなことがあった。


最初は、ほんの少し試しただけだった。


次は、もう一度だけ。


その次も、もう一度だけ。


そして。


いつでも手を離すことはできた。


それでもエリシアは、自分の意思で糸を握り続けた。


そして今日も。


彼女はその糸を握り――


手放すつもりなど、なかった。


――完――


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!


自由を求めたエリシアが、自由を手に入れるために他人の自由を奪っていく――そんな少し歪んだ聖女の物語でした。


エリシアの選択をどう感じたか、そして彼女とリゼットたちのこれからをどう想像したか、感想で教えていただけると嬉しいです。


評価もいただけましたら、今後の作品を書く大きな励みになります。


ここまでエリシアたちの物語を見届けてくださり、本当にありがとうございました!


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― 新着の感想 ―
 ジャクロの精霊さん、こんにちは。 「「みんなの聖女」でいることに疲れたので、今度は私の言うことを聞いてもらいます。」拝読致しました。  面白かったです。あえて結論は出さないで、エリシアがこれから…
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