続・異世界転移したけど、とりあえずBBQだ ~テキサスの男は豚を前にしても妥協しない~
頭とお腹を空っぽにしてお読みください。
前作:異世界転移したけど、とりあえずBBQだ ~テキサスの男は肉を焼く手を止めない~
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誤字と細微の修正を行いました。
異世界に来て、一週間が経っていた。
ビリー・"ピットボス"・ジョンソンの暮らしぶりは、テキサスにいた頃とほとんど変わっていない。
朝、起きる。スモーカーの温度計を確認する。薪をくべる。肉を焼く。
違うのは、空に月が二つあることと、客に尻尾が生えていることくらいだ。
草原のBBQピットは、すっかりこの地方の名所になっていた。
毎朝、夜明けと同時に行列ができる。村人、商人、冒険者、エルフ、ドワーフ。
たまにワイバーンが上空を旋回して順番待ちをしている。
ビリーはその全員に肉を食わせた。テキサスBBQで異世界を制圧した男は、今日もピットの前に立ち、スモークの煙を浴びながらトングを振っている。
だが──問題が発生していた。
「ビリー」
ルウが戻ってきた。
キルシュ狩猟団の団長。銀色の狼耳と尻尾。鋭い金色の瞳。
だが、その顔は疲弊していた。
「悪い知らせだ」
ビリーはスモーカーの蓋を閉じ、ルウを見た。
「グラン・ビーストが、この辺りにはもういない」
狩猟団の全員が、肩を落としていた。
犬耳の槍使いが口を開く。
「三日間、東の草原まで遠征しました。一頭も見つかりません。先週までに大型の個体は狩り尽くしてしまったようで……」
「中型の草食獣は何頭か仕留めましたが……あのブリスケットの味には、程遠いかと」
ルウが申し訳なさそうに視線を落とした。
「すまない、ビリー。お前の肉を待ってる連中があんなに並んでるのに……」
ビリーは腕を組んで、草原の向こうに目をやった。
行列の先頭では、ドワーフの鍛冶師が「まだか、まだか」と斧の柄を叩いている。
エルフの魔法使いが「別に並んでいるわけではない、たまたまここにいるだけだ」と言いながら最前列を確保している。
牛がいない。
ピットマスターにとって、それは死刑宣告に等しい。
──と、普通の男なら思うだろう。
ビリーは違った。
耳を澄ませていた。
遠くの森の方から、地面を揺らす重い足音が聞こえる。リズミカルで荒々しい振動。何か巨大なものが木々をなぎ倒しながら暴れている音。
そして──けたたましい鳴き声。低く、太く、怒りに満ちた唸り。
ルウの耳がぴくりと立った。
「ガルガン・ボアだ……」
その声に嫌悪がにじんでいた。
「森の暴君。体長十六フィート五インチ(約5メートル)の巨大魔猪。牙は大剣みたいにでかくて、突進したら城壁に穴が開く。この地方で最も凶暴な魔物の一つだ」
「ほう、そいつはゴキゲンだな」
「だが、あんなもの狩ったところで意味がない。肉は硬くて臭くて、煮ても焼いても食えたもんじゃない。猟師も冒険者も、誰も手を出さない。割に合わないからだ」
ビリーは黙っていた。
森の方角を、じっと見つめていた。
その目が──変わった。
ルウは、あの目を知っている。
初めてグラン・ビーストを見たとき、ビリーが浮かべた、あの目。
戦士の目でも、冒険者の目でもない。
──ピットマスターの目だ。
「ビリー?」
「嬢ちゃん」
振り向いたビリーの顔には、不敵な笑みが浮かんでいた。
口角を持ち上げ、白い歯を見せて、もじゃもじゃのヒゲの奥でニヤリと笑う。
「テキサスの男はな、牛に命を懸ける」
一拍。
「だがな──豚は、男の領域だ」
意味が分からない。
ルウの尻尾が、わけもわからずぴくりと跳ねた。
「あのデカブツを狩りに行くぞ」
「……正気か?」
「いつだって正気だ、brother」
***
森に入って二時間。
ガルガン・ボアは、すぐに見つかった。
見つけたというより──向こうから来た。
地面が揺れた。木が倒れる音。そして、茂みの奥から灰色の巨体が突っ込んできた。
体長十六フィート五インチ(約5メートル)。
全身が剛毛と泥に覆われた、岩のような巨大猪。
二本の牙は下顎から弧を描いて突き出し、その先端は鋼のように光っている。
小さな赤い目がぎらぎらと怒りに燃え、鼻息が蒸気のように吹き出していた。
凶暴。巨大。そして──臭い。
獣臭と泥と腐葉土が混ざった、えげつない体臭が森の空気を汚染している。
狩猟団が武器を構えた。
ルウが大剣を抜く。
「距離を取れ!突進されたら終わりだ!脚を狙え!」
ガルガン・ボアが咆哮した。
森の鳥が一斉に飛び立つ。空気がびりびりと震える。
そして──突進。
十六フィート五インチ(約5メートル)の巨体が信じられない速度で突っ込んでくる。
木を薙ぎ倒し、地面を抉りながら、一直線に。
ビリーは膝をついていた。
レミントン700。テキサスの男の嗜み。スコープ越しに突進する魔猪を捉える。
狙うのは前脚。関節の内側。毛と泥に覆われていない、わずかな隙間。
グラン・ビーストを仕留めた時と同じように、ビリーは息を止めた。
引き金。銃声が森にこだました。
着弾。ガルガン・ボアの右前脚の関節に弾丸がめり込み、巨体がつんのめった。
完全には止まらない。三本の脚で体勢を立て直し、怒りの咆哮を上げる。
だが、速度は落ちた。
それで十分だった。
「行け!」
ルウが跳んだ。
大剣を振りかぶり、ガルガン・ボアの左後脚に叩きつける。
火花が散った──が、この魔猪の皮は岩の装甲こそないものの、異常に分厚い。
大剣の刃が三分の一ほど食い込んで止まった。
「硬ぇ……!」
「腱を狙え!大抵は皮の下だ!」
ビリーの指示が飛ぶ。
槍使いが反対側から突く。弓使いが目を狙って矢を射る。
ガルガン・ボアが暴れる。尻尾が丸太のようにしなり、木の幹を叩き折る。
ルウが歯を食いしばり、もう一度大剣を振った。
今度は腱に当たった。ぶちり、と鈍い音がして巨猪の左後脚が崩れる。
二本の脚を失ったガルガン・ボアが、それでも牙を振り回して暴れる。
だが、もう動けない。
ビリーがチェーンソーのスターターを引いた。
ハスクバーナの二ストロークエンジンが、森の静寂を叩き割る爆音を上げた。
「よく暴れたな、ビッグボーイ!」
跳躍。
二百四十ポンド(約108キロ)の巨体が宙を舞い、ガルガン・ボアの首筋にチェーンソーを叩きつけた。
血飛沫。絶叫。
そしてチェーンソーの唸りが一際高くなり、五メートルの巨体がゆっくりと傾いて──横倒しに倒れた。
土埃が舞い上がり、森の木々が余震で揺れた。
ビリーは魔猪の背に立っていた。
返り血を浴び、チェーンソーを肩に担ぎ、息一つ乱さずに──巨体を見下ろしていた。
だが、その目に戦いの高揚はなかった。
ピットマスターの目だった。
腰を屈め、魔猪の脇腹を掌で押した。
指が沈む。分厚い皮の下に、たっぷりの脂肪層。
そしてその奥の筋肉は──硬い。だが、繊維は太く、密度がある。
ビリーの口角が、ゆっくりと持ち上がった。
「最高の豚だ」
ルウが汗を拭きながら見上げた。
「おい、ビリー。何度も言うが、こいつの肉は食えないぞ。この地方の誰もが知ってる。硬くて、臭くて──」
「Low & Slow, brother. 低温でじっくりさ、兄弟」
ビリーはチェーンソーを下ろし、道具箱からボーニングナイフを取り出した。
「硬い肉ってのはな、コラーゲンが多いってことだ。コラーゲンが多いってことは、時間をかければゼラチンに変わるってことだ。ゼラチンに変わるってことは──」
ニヤリと笑いながら言った。
「──とろけるってことだよ」
***
解体は、戦闘よりも丁寧に行われた。
ビリーはまず、ガルガン・ボアの腹を開き、内臓を抜いた。
この世界の猟師でも顔をしかめる臭いだが、ビリーは眉一つ動かさない。
テキサスで何百頭もの豚を捌いてきた男だ。
次に、背骨に沿って刃物を走らせた。
背骨の両側を、正確に、慎重に。
骨に刃が当たる硬い音と、肉を切り裂く湿った音が交互に響く。
そして──ガルガン・ボアの巨体が、見開いた本のように、ばさりと左右に開いた。
「バタフライカットだ」
ルウが息を飲んだ。
五メートルの魔猪が、翼を広げた蝶のように平らに開かれていた。
内側には、ピンクがかった赤い筋肉が露出している。
肩、背中、腰、腿。部位ごとに異なる色合いと繊維の走り方。
全体を覆うように、分厚い脂肪の層が白く光っていた。
「こいつは──」
ビリーが脂肪層を指で押した。
ぷにり、と沈む。弾力があり、きめが細かい。
「──いい脂だ。融点が低い。時間をかけて溶かせば、肉の隅々まで染み渡る」
ルウには技術的なことはわからなかった。
だが、ビリーの目が、先ほど武器を構えていたときよりもずっと真剣であることだけは、はっきりと理解している。
***
草原に戻ったビリーは、すぐに指示を出した。
「デカいピットを掘るぞ。前よりもデカいヤツだ」
ルウの狩猟団が動いた。
もう慣れたものだ。ビリーが「掘れ」と言えば掘る。ビリーが「石を並べろ」と言えば並べる。
その先に待っているものを、全員が知っているからだ。
幅十フィート(約3メートル)、長さ二十フィート(約6メートル)、深さ三フィート(約90センチ)。
前回のグラン・ビースト用ピットを改良し、遥かに凌ぐ巨大な溝が草原に掘られた。
底に炭を敷き詰め、折れた武器と鉄棒でグリルを組む。
三時間後。
異世界最大のBBQピットが完成していた。
そして──仕込みが始まった。
ビリーが道具箱を開けた。
中から取り出したのは、いくつかの小瓶と袋。テキサスの自宅から転移してきた、彼の宝物庫。
ルウが覗き込んだ。
「前のときは塩と胡椒だけだったろう。今回は違うのか?」
「ああ」
ビリーの声に、いつもと違う重みがあった。
「牛はシンプルでいい。塩と胡椒で十分だ。良い牛肉は、余計な味が要らねえ」
小瓶を一つずつ並べていく。
「だが、豚は違う」
塩。粗挽きの黒胡椒。ここまでは牛と同じだ。
そこに──ガーリックパウダー。パプリカ。そしてブラウンシュガー。
「豚にはな──ラブが要る」
「ラブ?」
「ドライラブ。スパイスを混ぜて肉に擦り込む。テキサスじゃこれを『愛』って呼ぶんだ」
ルウの耳が、ぴくりと動いた。
ビリーの大きな掌が、調味料を混ぜ合わせていく。
白い塩、黒い胡椒、赤いパプリカ、茶色いブラウンシュガー、薄黄色のガーリックパウダー。
五つの色が掌の上で渦を巻き、やがて一つの深い赤褐色に混ざり合った。
その手をバタフライカットに開かれた巨大な魔猪の肉に載せた。
擦り込んでいく。
ゆっくりと、丁寧に、一インチずつ。
繊細な手つきで、ビリーはラブを肉の表面に押し込んでいった。
赤いパプリカが、ピンクの肉を深い紅色に染めていく。
茶色いブラウンシュガーが、脂肪の白い表面にまだらの模様を描く。
ガーリックの香りが立ち上り、風に乗って草原に流れた。
その手つきはまるで──子供の頭を撫でる父親のようだった。
「豚はな、牛より繊細なんだ」
ビリーは、独り言のように呟いた。
「火が強すぎりゃバサバサに乾く。弱すぎりゃ脂が溶けない。ほんの少しの温度の違いで、天国にも地獄にもなる」
最後の一押し。ラブが肉の隅々にまで行き渡った。
「だから、男の仕事なんだよ」
仕込みを終えた巨大魔猪が、裏返しにしてピットの上に載せられた。
皮を上に。肉の面を火に向ける。
皮が蓋の代わりになり、脂を閉じ込め、肉を蒸し焼きにする。ホールホッグの基本だ。
さらに、大きな葉を何重にも被せて蓋をした。
ファイアボックスに火が入る。
今回の薪は、ルウたちが森から選んできた異世界の広葉樹──前回のグラン・ビースト用と同じ、甘い樹液の香りがする木だ。
煙が立ち上った。
最初は白く、やがて薄い青に変わる。
ビリーはピットの横にキャンプチェアを置き、どっかりと座った。
「あとは、待つだけだ」
「今回は何時間だ?」
「十八時間」
「じゅう──はち!?」
ルウの尻尾が膨らんだ。
「前は十二だったろう!」
「豚は丸ごと一頭だからな。時間がかかる。急いだら肉が固いまま出来上がる。このサイズを芯まで火を通して、コラーゲンを全部ゼラチンにするには──十八時間。それが答えだ」
ビリーはクーラーボックスに手を伸ばし──そして、止めた。
バドワイザーはもうない。テキサスから持ち込んだ最後の一本は、すでに飲み干した。
代わりに、ドワーフの鍛冶師が差し入れてくれた木樽のエールを開けた。
一口飲んで、ふっと笑った。
「コッチの酒も、悪くねえ」
***
十八時間の火の番は、戦いだった。
ビリーはピットの横に立ち続けた。いや、座り続けた、のほうが正確かもしれない。
三十分おきに立ち上がり、蓋の隙間から煙の色を確認し、ファイアボックスの炭の状態を見て温度を肌で感じ取った。
一時間目。煙が安定する。薄い青白色。完璧だ。
三時間目。最初の脂が滴り始める。炭にぽたり、ぽたりと落ちて、じゅわっと蒸発する。甘い匂いが少しだけ漂い始めた。
六時間目。日が暮れた。ルウたちが焚き火を囲んで寝静まった後も、ビリーはピットの前にいた。
煙の匂いが変わり始めていた。肉の表面のラブ──パプリカとブラウンシュガーが熱でカラメル化し始め、甘く香ばしい匂いが煙に混じる。
九時間目。深夜。二つの月が頭上に昇った。
足音がした。
「……まだ起きてたのか」
ルウだった。
毛皮のマントを羽織り、眠そうな目をこすりながらビリーの横に座った。
「寝ないのか?」
「豚の面倒を見てるときは寝ない。テキサスでもそうだった」
ビリーは薪を一本、ファイアボックスに追加した。
火が少し勢いを増し、オレンジの光がビリーの横顔を照らした。
「ずっとこうしてるのか。十八時間も」
「ああ」
「なぜだ。寝て、途中で誰かに代わってもらえばいいだろう?」
ビリーは少し考えた。
それからエールを一口飲んで、口を開いた。
「俺のじいさんがな──テキサスで、毎週日曜日に豚を焼いてたんだよ」
ルウの耳が、ぴくりと動いた。
「でかいピットで、朝から晩まで。じいさんは夜中の三時に起きて火を入れて、教会に行く前にラブを擦り込んで、教会から帰ったら温度を確認して、午後には近所の連中が集まってきて、夕方にようやくピットを開ける」
ビリーの声は、いつもの大声ではなかった。
静かで、穏やかだった。
「俺はガキの頃、じいさんの横にずっと座ってた。『ビリー、火を見ろ。煙の色を見ろ。匂いを嗅げ。全部、BBQが教えてくれる』って──じいさんはいつもそう言ってた」
焚き火がぱちりと爆ぜた。
「じいさんは一度として途中から火の番を誰かに任せるようなことはしなかった。日曜日のBBQの日は、朝から晩までピットの前にいた。どんなに暑くても、どんなに疲れてても」
「……それが、テキサスの流儀か?」
「いや」
ビリーはニカッと笑った。
「じいさんの流儀だ。で、今は俺の流儀だ」
ルウは何も言わずに、ビリーの横に座り続けた。
二つの月が、ゆっくりと空を渡っていった。
十二時間目。夜明け前。
ピットの蓋の隙間から漏れる煙の匂いが、明らかに変わっていた。
甘い。とろけるように甘い。
肉脂がゆっくりと溶け出し、繊維の隙間に浸透し、さらにラブのブラウンシュガーと反応して、えも言われぬ芳香を放ち始めていた。
風に乗ったその匂いは、草原を越え、村を越え、森を越えて広がった。
十五時間目。太陽が昇った。
行列がすでにできていた。前回以上の人数だった。
噂を聞きつけた隣村の住人。南の街道を旅していた冒険者パーティ。正装で来たエルフの代表団。樽をずらりと並べたドワーフの集団。
そして空には、ワイバーンが五頭、ゆっくりと旋回していた。
全員が、鼻をひくつかせていた。
この匂いだ。この前の宴のときと同じ──いや、違う。もっと甘くて、もっと深くて、もっとたまらない匂い。
十八時間目。
ビリーが立ち上がった。
エプロンは煤と脂で真っ黒になっていた。目の下に隈ができている。
だが、その目は──爛々と輝いていた。
「出来た」
その一言が静かに、だが、確実に草原を走り抜けた。
百人以上の人間と亜人が、息を飲んだ。
ビリーは蓋代わりの葉を一枚ずつ、丁寧に取り除いていった。
焦らすように。儀式のように。
最後の一枚が取り除かれた瞬間──煙が、噴き出した。
白い煙の柱が、朝の青空に向かって真っ直ぐに立ち上った。
その煙は甘かった。蜂蜜と焦がしバターとスパイスが混ざり合ったような、理性を溶かす甘い煙が、草原の隅々にまで染み渡った。
煙が晴れた向こうに、それはあった。
黄金色だった。
あのガルガン・ボア──灰色の剛毛に覆われた、臭くて硬い森の暴君の皮が、十八時間の燻製を経て、深い琥珀色に変貌していた。
表面には細かい亀裂が走り、その隙間から脂が泡立っている。
パプリカとブラウンシュガーがカラメル化され、甘く香ばしい飴色の殻──バークを形成していた。
──本番はここからだった。
ビリーがフォークを二本、手に取った。
テキサスから持ち込んだ私物のステンレスのミートフォーク。
皮の端を持ち上げ、ナイフで一筋切り込みを入れた。
べりっ、と皮が剥がれる。
その下から──肉が、姿を現した。
百人の吐息が漏れ出した。
あの硬くて臭くて食えないはずの肉が、見たこともない姿に変わっていた。
表面は深い飴色のバーク。その下に黄金色の脂の層が溶けて光っている。
さらにその奥──肉の繊維が見えた。
太い繊維の一本一本が、ゼラチンの膜に包まれて、ゆるゆるとほどけかけている。
ビリーがフォークを肉に突き刺した。
そして──引いた。
引くまでもなかった。
フォークが触れた瞬間、肉が自ら崩れ落ちた。
どさり。
太い繊維の束が、自重だけでほろほろと解けていく。まるで糸の塊をほどくように。
一本、また一本と繊維が寝転がり、その一本一本の表面がゼラチンで艶やかにコーティングされて、朝の光をきらきらと反射していた。
そしてほぐれた肉の断面から──脂が、溢れた。
透明な脂がじわりじわりと滲み出し、繊維の間を伝って流れ落ちる。
魔力を含んだその脂は、淡い金色の光を帯びていた。
ぽたり、とピットの炭に落ちるたびに、じゅわっと蒸発して甘い蒸気になる。
匂いが──爆発した。
十八時間の燻煙と、溶け出した豚脂と、カラメル化されたラブのスパイスと、異世界の木の花のような芳香が、渾然一体となって全員の鼻腔をぶん殴った。
ドワーフが鼻血を出していた。
エルフの耳が直角にぴんと立っていた。
ルウの尻尾が、意志と無関係に千切れんばかりに振れていた。
ビリーはフォーク二本で、ほぐれた肉の山をさらに細かく裂いていった。
引くたびに湯気がもうもうと立ち上り、金色の繊維がきらきらと光る。
「さあ──」
ビリーがボウルを取り出した。
中には、昨夜のうちに仕込んでおいた液体が入っている。
「何だ、それは」
ルウが覗き込んだ。
薄い赤褐色の液体。鼻を刺す酸っぱい匂い。
「ビネガーソース。カロライナスタイルだ」
ビリーが使ったのは、村のパン屋が持っていた果実酢だった。
発酵した林檎に似た果物から作られた、透明な酢。
そこにビリーの私物──赤唐辛子のフレーク、塩、黒胡椒、ほんの少しのブラウンシュガー。
「テキサスのBBQはソースは後付けが基本だ。肉の味で勝負する。だが──」
ビリーはソースをほぐした肉の山にかけた。
赤褐色のビネガーソースが、金色の肉繊維の間を流れ落ちていく。
酸っぱくて辛い匂いと、甘くてスモーキーな肉の匂いが衝突し──融合した。
「海兵隊にいた頃、ノースカロライナ出身の戦友がいてな。そいつの親父が焼く豚が、最高に美味かったんだ」
ビリーは懐かしそうに目を細めた。
「豚の脂は甘い。甘い脂には、酸味が要る。酢が脂を切って後味を軽くする。だからカロライナのソースは酢が主役なんだ。俺はテキサス人だが、同じアメリカ人として、美味いもんは美味いと認める。それが流儀ってもんだ」
ビリーの手が、最後の仕上げに入る。
ルウの狩猟団が持ってきた、この世界の丸パン。
それを半分に割り、内側を軽く炭火で炙った。
そこにほぐした肉を──山盛りに載せた。溢れるほどに、こぼれるほどに。
金色の繊維から脂がパンに染み込み、焦げた表面にツヤを与えている。
さらにその上から、とどめのビネガーソースをもう一垂らし。
「プルドポーク・サンドイッチ」
ビリーが、最初の一つを差し出した。
「アメリカ南部の魂だ。食え」
差し出された先にいたのは──ルウだった。
ルウは受け取った。
両手で持った。パンの隙間から、ほぐれた肉がはみ出している。
金色の脂がルウの指を伝って滴った。
ルウは、知っていた。
前回のブリスケットがどれほどのものだったか。
今回はそれとは違う何かだということも、匂いでわかっていた。
大きく口を開けた。
齧りついた。
最初に歯に当たったのは、炙られたパンの表面だった。
カリッ、カリッ。と小気味よく砕ける。
その奥にある肉に──歯が沈んだ。
──世界が、甘くなった。
牛ではなかった。
前回のブリスケットの重厚で力強い旨味とは、まるで違った。
口の中で、豚肉の繊維がほろほろと崩れた。
噛むまでもなく、舌の上で自分から解けていく。
繊維の一本一本から、十八時間かけて溶け込んだ脂が──じゅわりと溢れた。
甘かった。
塩味でも、旨味でもなく──甘い。
豚の脂そのものが持つ、どこまでも優しくて深い甘さ。
ブラウンシュガーとパプリカのカラメル感が、その甘さをさらに上から後押しする。
燻煙のスモーキーな香りが鼻に抜けて、甘さに深みを与える。
その直後──ビネガーソースの酸味が、切り込んできた。
甘さの海に、一筋の鮮烈な酸味が走り抜ける。
赤唐辛子のほのかな辛味が舌をピリリと刺激し、脂のくどさを洗い流し、後味をすっきりと引き上げた。
重いのに、軽い。
甘いのに、飽きない。
──永遠に食べ続けられる味。
さらに──あの金色の熱が、胃の底から広がり始めた。
魔力を含んだ脂が全身に染みていく。前回のグラン・ビーストと同じだ。
だが、こちらの方がもっと柔らかかった。じわりじわりと身体の芯を温めていく。
まるで毛布に包まれたような、穏やかな回復。
ルウの目から、涙がこぼれた。
「ビリー……これは……」
声が震えた。
「牛と全然違う……なんだこれは……甘い……甘くて、でもクドくなくて……こんな……こんなの……」
「最高だろ?」
ビリーはニカッと笑って、次のサンドイッチを作り始めた。
「牛は力だ。豚は優しさだ。どっちがいいかじゃねえ、どっちも最高なんだよ」
その言葉を皮切りに、歓声が上がった。
ビリーが次々にサンドイッチを作り、配っていく。
百人以上の人間と亜人が、一つずつ受け取り、齧りつく。
あちこちで悲鳴が上がった。
村の老人がサンドイッチを一口齧って、杖を取り落とし、「わしゃあ七十年生きてきたが、肉がこんなに甘いものだとは知らなんだ……」と泣いた。
商人がまたひっくり返った。起き上がってもう一口食べて、「この味を独占販売させてくれ!金はいくらでも出す!」と叫び、ビリーに「ピットの前に十八時間立てるようになったら考えてやる」と言われてまた倒れた。
エルフの魔法使いが、三つ目のサンドイッチに齧りつきながら、尖った耳をぴくぴくさせていた。白いローブの胸元にビネガーソースの染みが点々とついているが、本人は気づいていない。
「……私は二百年生きているが、豚をこのように調理する文明に出会ったのは初めてだ。この……甘さと酸味の均衡は……高等魔術に匹敵する精密さだ」
「魔術じゃねえ。Low & Slow, brother. 低温でじっくりさ、兄弟」
ドワーフの鍛冶師が、四つ目のサンドイッチを両手で掴みながら号泣していた。
「十八時間!十八時間火の番をするだと!?ワシらドワーフは鍛冶で火と向き合うことを誇りとしておるが……この男は……この男はワシらと同じ魂を持っておる!いや、それ以上だ!」
「テキサス人だ」
「テキサス!?テキサス万歳!!」
竜騎士が、ワイバーンの分のプルドポークを山盛りで受け取っていた。
ワイバーンが一口で飲み込み──三秒の沈黙──喉の奥からグルルルルルル、と猫のような音。
巨大な尻尾が地面を叩いて草をなぎ倒した。
「……十、おかわりだそうだ」
「十?足りるか?二十いっとけ」
***
ビリーはまだ手を止めなかった。
プルドポークだけではない。
ガルガン・ボアの背中側の骨付き肉──ベイビーバックリブを、別に八時間燻しておいたのだ。
それを今、ピットから引き上げた。
マホガニーよりも赤く、ほとんど紅に近い深い色合い。
パプリカのラブが表面に焼きついて、宝石のような光沢を放っている。
骨の先端が肉から露出している──プルバック。完璧な火入れのサイン。
ビリーがリブの両端を持ち、軽くひねった。
ぬるり。
骨が抵抗なく抜けた。まるで鞘から剣を抜くように、つるりと。
「リブは手で食え。行儀なんざ気にすんな」
ドワーフが真っ先にリブを掴んだ。
赤ヒゲの口を大きく開けて──齧りついた。
ばきり。バークが砕ける。
じゅわ。肉汁が弾ける。
そして──ドワーフの目が真円になった。
「ンッッッッ~~~~!!」
言葉にならない唸り声が草原に響いた。
リブの肉は、プルドポークとはまた違った。
赤身の旨味がぎゅっと凝縮されている。脂は少ないが、その分だけ肉の味が濃い。
噛むたびにスモーキーな香りが口いっぱいに広がり、パプリカのほのかな辛味が後味を引き締める。
そして骨の周りに残った軟骨がとろりと溶けて、コラーゲンの甘味が舌を撫でる。
「もう一本!いや、三本!!」
エルフが二本目のリブを無心で齧っていた。
白いローブの袖で口を拭きながら、三本目に手を伸ばしている。
あの氷のような無表情は完全に崩壊し、恍惚の表情で目が半開きになっていた。
「四本目を……」
「おう。何本でも食え」
***
宴が最高潮に達した頃、ビリーはもう一つの仕事を仕上げていた。
「BBQは肉だけじゃ完成しねえ」
焚き火の傍に、二つの鉄鍋が置かれていた。
一つ目。
村人が持ってきた甘いキャベツ──この世界のキャベツは、テキサスのものより少し小ぶりで、葉が柔らかい──を、ビリーが細かく千切りにして果実酢と塩で和えたもの。
コールスロー。
シャキシャキとした食感と、酢の爽やかな酸味。
脂っこいプルドポークの合間に食べると、口の中がリセットされる。
そしてまたサンドイッチに手が伸びる。無限ループの完成だった。
二つ目。
この世界のトウモロコシ──粒が大きく、黄金色が濃い──を粉に挽き、村人のバターと卵を混ぜて、鉄鍋の中で焼き上げた。
コーンブレッド。
蓋を開けた瞬間、甘い蒸気がふわりと立ち上った。
表面はきつね色に焼けてカリッとしており、中はほろほろと崩れるほど柔らかい。
バターのコクとトウモロコシの素朴な甘みが、口の中で優しく溶ける。
ルウが一切れ食べて、目を丸くした。
「これは……パンなのか?菓子なのか?」
「コーンブレッドだ。テキサスのBBQには欠かせない。プルドポークと一緒に食ってみろ」
ルウがコーンブレッドの上にプルドポークを乗せて、一口で頬張った。
コーンブレッドのほろほろとした甘さが、プルドポークの脂とビネガーの酸味を受け止めて、まろやかに調和させる。
パンのサンドイッチとは違う。もっと素朴で、もっと温かくて、もっと──家庭の味がした。
「……美味い」
ルウは小さく呟いた。
尻尾が、ゆっくりと左右に揺れていた。
「なんだか……懐かしい味がする。食べたことないはずなのに」
「そうだろう」
ビリーが横で、同じようにコーンブレッドにプルドポークを乗せて食べていた。
「じいさんの味さ」
***
日が傾き、二つの月が草原の端に顔を出し始めた頃。
宴は続いていた。
あちこちに焚き火が燃え、その周りに人々が車座──輪になって、内側を向いて座っている。
吟遊詩人がリュートを弾き、新しい歌を歌っていた。
──燃ゆる炎よ煙よ昇れ
──テキサスの男が豚を焼く
──一口食えば世界が甘く
──二口食えば涙が出る
──硬い肉さえ男の手にかかれば
──黄金のほぐし肉に変わる
ビリーはピットの前に座っていた。
十八時間の火の番とその後の調理で、さすがに疲れていた。
エプロンは脂と煤と肉汁で原形をとどめていない。煤だらけの顔に、汗の跡。
それでも──満足そうだった。
ルウが、コーンブレッドの最後の一切れを持って隣に座った。
「なあ、ビリー」
「どうした?」
「なんでお前は、ここまで肉に命を懸けるんだ」
ビリーは少し黙った。
夜空を見上げた。二つの月が、白と青の光を草原に落としていた。
「さっき話しただろ。じいさんのこと」
「ああ」
「じいさんの日曜日のBBQにはな、近所の連中がみんな来たんだ。白人も黒人もヒスパニックもアジアも、教会の牧師も、隣の農場のジジイも、通りがかりの知らねえ奴も。じいさんは全員に肉を食わせた。一度目はもてなしだ、二度目ならもう友達だ、ってな」
ルウの耳が動いた。どこかで聞いたセリフだ。
──あの行列の朝、ビリーが叫んだ言葉と同じだった。
「いいか、嬢ちゃん」
ビリーがルウを見た。
煤だらけの顔に、白い歯を見せて笑った。
「BBQってのは、料理じゃねえ」
「……どういうことだ?」
「人が集まる理由だ」
ルウの尻尾が、ふわりと揺れた。
白い月と青い月の光が混じり合って、草原を淡い紫色に染めていた。
ルウは空を見上げた。
焚き火の炎が揺れ、笑い声が響き、プルドポークの甘い匂いが風に乗って遠くまで流れていく。
種族も立場もバラバラな連中が、全員で焚き火を囲んで、肉を食って笑っている。
──ああ、そうか。
ルウは、プルドポーク・サンドイッチの最後の一口を頬張った。
甘かった。
口の中で溶けていく豚肉の脂が、ほんの少しだけ──涙の味がした。
***
翌朝。
ビリーが目を覚ますと、また行列ができていた。
昨日の噂を聞きつけた人々の列は、昨日よりさらに長かった。
草原の彼方まで延びて、地平線の向こうに消えている。
ルウが呆れた顔で寄ってきた。
「ビリー。今度は牛と豚の両方を食わせろって連中が来てる」
「両方?そりゃまた欲張りだな」
「ああ。で、狩猟団だが──」
ルウの口角が、にやりと持ち上がった。
犬歯が光る。
「牛組と豚組に分かれて、夜明け前に出発した。『先に獲った方が最初に食える』って賭けてる。全員、目が据わってた」
遠くで、地面を揺るがす足音が二つの方向から聞こえた。
東からはグラン・ビーストの地鳴り。西からはガルガン・ボアの咆哮。
ビリーは立ち上がった。
帽子のつばを直し、ボロボロのエプロンの紐を結び直す。
行列の先頭に向かって、声を張り上げた。
「列んでろ!全員食わせてやる!牛も豚も全部だ!」
歓声が爆発した。
「ハッ、これで肉の心配はねえな。正直、あんなに毎日狩ってたら、いつかデカいのが底をつくんじゃねえかとヒヤヒヤしてたぜ」
ビリーは上機嫌だった。
当分の間、肉の仕入れに困らないからだ。
「何を言ってるんだ?」
ルウが不思議そうに首を傾げる。
「魔素溜まりは、定期的に魔物を湧かせるんだ。少し休ませれば、休んだ分だけまたデカいのがいくらでも出てくる。ここの草原だって、我々キルシュ狩猟団の管轄する狩場だと伝えたじゃないか」
「マジか。そりゃ魔法か?なら、世界中まるごと巨大な放牧場みたいなもんじゃねえか!」
「……魔獣を放牧場扱いするな」
肩をすくめながらルウが続ける。
「むしろ、ビリーの使っている武器の弾や、魔法のノコギリの油みたいな燃料はどうするんだ?いつか無くなるんじゃないか?」
「ああ、それな。ドワーフや錬金術師に無理言って代用品を作らせても限界がある。弾はいずれ撃ち尽くす。チェーンソーも時期に動かなくなるだろうな。だが、全く問題ねえ」
「何で問題ないんだ?」
「俺には、お前らがいるじゃないか。兄弟」
ビリーがニカッと笑って見せると、ルウの狼耳がピクッと立ち上がった。
「……ふん。調子のいい奴だ」
ルウはそっぽを向いたが、その銀色の尻尾はちぎれんばかりに喜んで揺れていた。
「スパイスは、まだ半分残ってる。だが、これも同じさ。無くなったら?そんときは、この世界の野草と塩と胡椒で新しい『ラブ』を作るさ。テキサスの男は、手持ちのカードで最高の味を叩き出すもんだ」
ビリーは腰のポーチをポンと叩く。
ピットの前に立ち、薪をくべた。
煙が、朝の青空にまっすぐ昇っていく。
「さて──」
トングを構えた。
「火を起こすか」
こうして異世界の草原に、二つ目のBBQ文化が根付いた。
牛の日は「インデペンデンス・デイ」。
そして豚の日は──住人たちが異邦人の言葉を真似て、こう呼んだ。
『グローリー・サンデー』
なお、ビリーが元の世界に帰りたがっているかは、やはり不明。
少なくとも、肉を焼いている間は──少しだけ、じいさんの横に座っていた頃の少年に戻れるらしい。
ビッグボーイかピッグボーイ、どちらに決めるのかで一日が終わったことはここだけの秘密に。




