第73話 勝手に触らないでください
図書館でアルフォンスと会うのは苦痛だった。来なければいいのに、と毎回思った。
日中の嫌がらせよりずっとつらい。
しかし、来たら来たで、泣きそうなほど嬉しくなってしまうのだ。
あと何回会えるだろう、と考える。もう、卒業式までの期間は一月半もない。
それに、そろそろ定期試験の時期だった。そうなると図書館には生徒があふれ、アルフォンスは来なくなるだろう。ミリアも視線を嫌って試験前はいつも図書館を利用しないようにしていた。
もちろん、そんな内心を顔に出すことはない。
「皇子は元気ですか?」
「お元気ですよ」
「まだ帰らないんですか?」
「ミリア嬢を諦めていないようですから」
「……あの馬鹿」
ミリアがうっかり悪態をついてしまい、アルフォンスが顔を上げた。ミリアもつられて顔を上げた。気まずい。
「早く帰れって言ったんですよ。迷惑だからって。もう一度言っておいた方がいいでしょうかね。エドワード様だって帰国しろってはっきり言えばいいのに。学園に来られなくなってるんだから」
「……それを言えるのはミリア嬢だけです」
呆れられた。
それはそうかもしれない。相手は一応帝国の皇子だ。しかし、ミリアにとっては幼なじみのクリスでしかない。皇子だと言われても逆にピンとこないのだ。
「ミリア嬢は、帝国語はどこで?」
アルフォンスが帝国語で話しかけてきた。
「クリスと過ごしていて自然に身につきました」
ミリアも同じく帝国語で返す。
「お上手ですね」
「皇子仕込みですから」
冗談のつもりで言ったが、全然冗談じゃなかった。
ここでミリアは、英語もろくに話せなかったのに、帝国語が話せるなんて、実はすごいのかもしれない、とようやく思った。
「読み書きもできるんですか?」
「そっちは商いや経済に関することに特化してます。専門書だとローレンツ語の訳本はなかなか手に入らなくて。書くのは苦手です。帝国語は綴りが発音通りじゃないので」
「専門書も読むんですか?」
「あ、読むって言っても、少しですよ。ロール経済論とか、ミッシェル経営学とか、有名どころだけで。ほら、私が読むのは、ほとんど娯楽小説ですから」
横に置いてある小説を手でぽんぽんと叩いて、恥ずかしくなってしまった。アルフォンスは低俗だと思っているだろう。
「ロール経済論と、ミッシェル経営学を、原書で……?」
「文法はわかってますし、専門用語は辞書で調べればいいので。聞き慣れていないので単語の発音は変かもしれないですね」
笑ったミリアの言葉を聞いて、アルフォンスは、ロール経済論の序文の冒頭を原文でそらんじてみせた。さすがの秀才っぷりである。
続きを、と目で促されたミリアは、両手を振った。
「あ、駄目です駄目です。私、暗記とかしないんで。アルフォンス様も知ってるでしょう? 詩とか古典の暗唱苦手なんですよ」
覚えてないなら検索すればいいじゃない、と育ってきたミリアは、暗記がとても苦手だった。
何より、文章を暗記することの意義が見いだせない。ついでに言うなら歴史の年表も。だいたいでいいではないか。
「そうでした」
アルフォンスにあっさりとうなずかれて、情けない気持ちになった。刺繍の次に苦手なのである。刺繍ほど壊滅的ではないが。
アルフォンスはどうせあれだ、一度読んだ物は忘れない、とかいうやつだ。このチート野郎め。
ミリアが軽くにらむと、アルフォンスが怪訝そうな顔をした。そりゃそうだ。
会話が一段落して、二人は書類仕事に戻った。
「あの、アルフォンス様、この書類、露骨なんですけど……」
ミリアが差し出した数枚の書類。それは他のとは違い、項目と数字だけを抜き出した物ではなく、タイトルから記載者までがっつり記載されている、ガチの書類だった。
「書き写させる手間を省きました。ミリア嬢なら口外しないと思いまして」
アルフォンスがしれっと言った。
「しませんけど……」
しないけどね? しないけどさ?
私、検討中の来年度の国家予算計画とか知りたくなかったなー……。
なぜアルフォンスが持っているのかが謎だし、なぜそれをミリアに確認させているのかも謎だった。
いくら使う予定だとかは、商人に見せては駄目なやつだ。入札に有利すぎる。
……これは王宮に入れという無言の圧力なのだろうか? 外堀から埋める的な。カリアード伯爵家お得意の。
心の中でため息をついた。
「とりあえず、ここ、王都の公共施設の改築計画、全面的に見直した方がいいです」
ミリアは、声を落として言った。
「なぜですか?」
「王都は古い中心地から拡張してできています。だから中心に行くに従ってごちゃごちゃしていて道が狭いんです。ごちゃごちゃっていうのは、公共施設と店と住宅が入り交じっているっていう意味です」
「はい」
「なので、人の動きがバラバラで、馬車や荷馬車の立ち入りに制限があります。特に公共施設が点在していて行政が非効率ですし、警備も大変です。いっそ区画を新しく造って移設することをお勧めします」
アルフォンスは顔をしかめた。
「簡単に言いますね」
「私は一介の学生ですから、実現性があるかはわかりません。それはそちらで考えてください」
ミリアは書類をアルフォンスに戻して肩をすくめた。移設することになれば大きな公共事業になるな、と思いながら。
商売のことだけ考えたわけではない。集約した方が効率が良くなるのは確かだ。公共事業で金がばら撒かれれば経済も潤う。実現するのは大変だろうが。
言いたいだけ言って、ミリアは手を動かし始めた。
実は、責任なく好き勝手に発言できるのは新入社員に戻ったみたいで楽しい、と心の中でほくそ笑んでいた。何もわかっていない令嬢の戯言だと思って流してくれればいい。
アルフォンスは何か言いたそうにしていたが、諦めたように首を振り、書類に目を戻した。
ジョセフとの二人のお茶会は、三日に一度のペースで続いていた。
すでに他の生徒にも知られていて、色々と嫌みを言われるのだが、もはや慣れっこだった。悔しければ招待されてみなさいよ、といつか言ってやろうと思って溜飲を下げている。
先日のような火遊びめいたことは全くない。
お菓子を食べ、紅茶を飲みながら、たわいのないことを話す。
話題は皇子から聞いたミリアの幼い頃の話が多かった。
話が改変・捏造されていて真に遺憾である。楽しみにしていたお菓子を父親に食べられてギャン泣きしたことなんてあっただろうか。ないはずだ。
「ミリアが帝国語が話せるとはね」
「ジェフも話せるなんて驚いたよ」
「俺、これでも、王太子の近衛騎士になる予定なんだ……」
しょんぼりとジョセフが言った。
「知ってる知ってる」
近衛騎士は帝国語を話せないといけない、という方を知らなかったのである。こそこそと暗殺計画を話しているのを聞き取るために、とかなのだろうか。
まさか国交のある国すべての言葉が話せなければならないのか? 超大変だ。
ジョセフに聞いてみれば、それはない、と言われた。帝国語は大陸の公用語として使われている節があるため、特別だそうだ。
もちろん他にも話せる言語はあるのだが。北の隣国とか。
そういえば、そこに造る予定の温泉街のチート情報をフィンに伝えていないな、と思った。まあ、卒業してフォーレンに帰ってからでも遅くないか。
「ミリアは、卒業後はフォーレンに帰るんだよな?」
「うん」
「帝国には行かないのか?」
「ああ、皇子との約束? 帝国に来ないかとは言われてるけど、遊びに行くだけだよ。観光がてら流行の調査でもしようと思って」
「そうなのか? ……皇子と結婚するって言うのは?」
恐る恐る聞いたジョセフに、ミリアは、ないない、と笑った。
「クリスも私と結婚する気なんてないよ。あれはエドワード様をからかって遊んでただけ。それに……っと、これは口止めされてるんだった」
「二人だけの秘密ってか」
ジョセフはすねた声を出した。
「秘密っていうか……まあ、秘密、になるのかな。クリスは人で遊ぶのが大好きだから、あまり本気にしない方がいいよ」
「ミリアを大切な人だと言ったときは本気の顔をしていた」
「あれは、私に剣が向けられてたから……」
そのときのことを思い出してぶるりとミリアが震えた。当時は訳が分からなくて混乱していただけだが、今思うとかなり危ない状況だったと思う。瞬間的に首をはねられていてもおかしくなかった。
「でも、私の事を大切な人って思ってくれてるのは、きっと本当。私もクリスのことは大切に思ってる」
照れて笑ったミリアを見て、ジョセフが苦しそうな顔をした。
「ミリア……」
「大切だって言っても、人として、だよ。恋愛感情は全くないから。弟と同じようなものだよ」
ちょっと違うけど、と思うが口には出さない。
「ならいいけど……」
ジョセフは不満げだ。
うーん……。
なぜジョセフに言い訳めいた事を言わなければならないのか。それにこの態度。まるで彼氏ではないか。
「そろそろ帰ろうかな」
「ああ、そうだな。俺も戻らないと」
これはいい傾向ではないな、と席を立ったミリアの手をジョセフが取り、ドアまでエスコートしてくれた。
ジョセフが扉を開くかと思われたとき、ミリアはその隣の壁に追いつめられた。どんっ、とジョセフの両手がミリアの顔の両脇に突かれる。
「どうしたの?」
ミリアは内心、おぉ、と思っていた。人生初の壁ドンである。
しかし、感動している場合ではなかった。
「ミリィ……」
ジョセフが顔を近づけてきた。
「駄目だよ。その呼び方も」
ミリアが指でジョセフの口を押さえる。だが、その手をジョセフが取って、壁に縫い止めた。もう片方の手も同様に拘束されてしまう。
「ジェフ」
「我慢できない」
「駄目だよ」
「どうしても?」
「駄目」
ミリアはそう拒否しているのだが、つらそうに眉を寄せたジョセフの顔は、ゆっくりと近づいてくる。
「ジェフ」
ミリアがにらむと、ジョセフは首筋に矛先を変えた。ちゅっと音を立てて口づける。
「ミリィ」
壁に縫い止められた両手に、ジョセフの指が絡まった。
「ミリィ、ミリィ……」
ジョセフが物欲しそうな声をあげて、顔に首筋にと口づけを落としていく。
いつの間にか、ジョセフの膝がミリアの足の間に割って入り、ミリアの腰に押しつけられていた。
「ジェフ」
ミリアが非難の声をあげるが、ジョセフは今日も止まらない。
ミリアの手を片手で束ねると、もう片方の手でわき腹をなで始めた。その手はするりと落ちていき、太股に到達すると、スカートごしにガーターベルトのひもをなで上げた。
「ジェフっ、怒るよ!」
ついにミリアが怒気を露わにした。
「ごめっ」
反射的に体を離すジョセフ。
「ミリア、ごめん、俺……」
青ざめた顔で謝りながら、両手を胸のあたりで広げて無害を示そうとしたジョセフだが、ミリアの怒りは静まらなかった。
「しばらく会いたくない!」
それだけ言い捨てて、ミリアは部屋を出た。
ミリアに全くその気がなく、本当に何一つ抵抗が許されないほどに押さえつけられて触られるのは、ひどく不快だった。
ミリアが求めたことが尾を引いているのはわかっていた。
これ以上許すことはお互いのためにならない。




