第37話 大変ご迷惑をおかけしております
――逃げて来ちゃった。
傘を差さずに寮まで走ったせいで、ミリアは濡れ鼠になっていた。途中ですれ違った生徒はみなぎょっとしており、寮内では慌てふためいた学園側の使用人が布を持って追いかけてきた。
ミリアは自室に駆け込むと、扉にもたれてその場に座り込む。髪から雫が滴り、濡れたドレスに落ちた。ドレスから絨毯へと水が染み込んでいく。
そう、ミリアはあの場から逃げ出した。
助けてくれたアルフォンスに礼も言わず、あまつさえ突き飛ばしてしまった。ミリアは危うく下敷きになるところだった。一冊でも重いのに、あの本の数、そして本棚まで。助けてもらえなかったら大怪我をしていたかもしれない。
アルフォンスは怪我をしていなかっただろうか。巻き込まれた人はいなかったように思うが、近くにアルフォンスがいたことも知らなかったのだから、いないとも限らない。
落ちた本の無惨な姿が目に浮かぶ。本は貴重なのに。値段のことも気になったが、書籍という形にある価値を損なってしまったことがミリアを苛んだ。
ぎゅっと自分で自分を抱き締める。
アルフォンスを見上げたとき、体が金縛りにあったように動かなくなってしまった。息が止まり、まばたきを忘れた。声は聞こえていたのに返事の仕方がわからなかった。ただただ緑の瞳から目が離せなかった。
本棚が倒れたことに驚いたからではない。怖かったからでもない。確かにミリアは一度安堵で力を抜いた。おかしくなったのはアルフォンスの目を見てからだ。
お腹が熱い。肩が熱い。顔が熱い。
全身ずぶ濡れで冷たいのに、アルフォンスが触れたところだけ手の温かさが移ったように熱い。
ぽろぽろと涙が出てきた。
どうしよう。逃げて来ちゃった。どうしよう。謝らなくちゃいけなかったのに。本棚を倒して、本を駄目にしてしまった。謝って、弁償して、アルフォンスにお礼を言って。どうしよう。どうしよう。
自分のしでかしたことと、そこから逃げ出したことと、そしてわけのわからない自分の反応に混乱して、ミリアはパニックになっていた。
だが、とにかくまずは戻るのが先決だ。ぐしぐしと手で涙を拭いながら、戻ろう、と両手で顔をぱんと叩く。
その時、こんこんと背中の扉からノックの音がした。
追いかけてきたのだ。
あんな大変なことをしておいて逃走したのだから、職員が追いかけてくるに決まっている。そうでなくともこのピンクブロンドだ。自室に来るのは当然だった。
恥ずかしい。
逃げ出したことが、ひどく恥ずかしい。
まずやったことを謝って、逃げたことも謝って、償う方法を聞かなければ。罪から逃れる気はなかったのだ。気が動転してしまって思わずあの場から逃げてしまったが、責任はとらなくてはならない。
立ち上がると体が重かった。濡れたドレスのせいだけではない。行きたくなかった。しかし、それは許されない。
意を決して扉を開けると、そこにいたのは一人の女性だった。男子禁制だから女性しか入って来られない。
「すみません! 私、逃げるつもりなんてなくて……! すぐ戻ります!」
「いいえ、ミリア・スタイン様、わたくしはアルフォンス様からのご伝言をお伝えに参りました。お部屋に入ってもよろしいでしょうか」
ミリアの様子を見ても全く顔色を変えないその女性は、よく見ればアルフォンスがつれている使用人の一人だった。
「アルフォンス様から……」
ミリアは脇にどいて、使用人を部屋に入れた。
アルフォンスは軽蔑したに違いない。貴族たれと自分にも他人にも厳しいアルフォンスには、責任から逃れようとしたミリアの行動は許せなかっただろう。いや、貴族でなくたって同じだ。ミリアのやったことは最低だった。
卑怯だと罵られるのだろうか。
早く戻れと叱責されるのだろうか。
聞きたくないが、聞かないわけにはいかない。そして、何を言われようと、急いで戻らなくてはならなかった。
「後処理は全て自分がやっておく、とのことです」
責任逃れをするような奴に用はない、と言うことか。ミリアは唇をかんだ。
「……そんなわけにいきません。戻ります」
ミリアは部屋を出ようとしたが、やんわりと、しかし抵抗できない強さで押し戻された。
「そのような服装で外にお出しするわけには参りません」
ミリアのドレスは濡れてぴったりと体に張りついていて、体の線が露わになっている。髪は濡れそぼち所々ほつれていた。地味な色のお陰でドレスは透けてはいないが、学園内を移動するにはかなりよろしくない格好だった。
「お怪我はありませんね?」
「怪我はありま――」
「――失礼したします」
ぱんっと女性が手を打ち鳴らすと、部屋の扉が外から開き、五人の女性が新たに入ってきた。
「え? 何? って、何するんですかっ!」
五人は何の躊躇もなく、ミリアの服に手をかけて脱がし始めた。
「このままですとお風邪を召されますので」
「やめてくださいっ! やだっ!」
ミリアは本気で抵抗したのだが、あっという間に身につけている物を全てはぎ取られてしまう。
そして寝室に押し込まれると、いつの間にか用意されていた湯の入った大きなタライの中に座らされ、体を洗われた。人に素肌をさらすことに慣れていないミリアは、恥ずかしさで抵抗もできず縮こまるしかなかった。
ほかほかになったミリアに手早く服が着せられていく。
ずぶ濡れで外に行くなと言われて着替えたのだから、これから急いで行かなくてはならない。アルフォンスに全てを押しつけるのは嫌だったし、人間として終わっている。早く謝りに行くのが誠意というものだ。髪はまだ少し濡れているが、くくって行けばもういいだろう。
「お気遣いありがとうございました。私、行きますね」
「それは承服しかねます」
使用人が寝室の扉の前に立ちふさがった。それ以外の五人は一礼して退出していく。
「本日はミリア・スタイン様を一歩も外へお出しするなとアルフォンス様から厳命されております。誠に申し訳ございませんが、ご在室下さいませ」
何を言っているのか。外に出るな? そんなわけにいかない。すぐに戻って謝罪をしなければ。本は学園の備品だ。それもかなり高価な。
第一アルフォンスはどんな権限があってミリアの行動を制限するのか。助けられ逃げ出してしまった弱みはあるが、それとこれとは話が別だ。
「通して下さい!」
「申し訳ございません。ミリア・スタイン様をお通しすると、私どもがお叱りを受けますので」
使用人はしれっと、しかし断固とした口調で言った。ミリアが押し通ろうと肩を押しても、横に押しのけようとしても、びくともしない。一体この細い体のどこにそんな力があるのか。
「そんなの困ります! 私、謝りに行かないといけないんです。どいてください」
「アルフォンス様が処理すると仰っておりますのでその必要はございません」
「そんな訳にはいきません!」
「申し訳ございません」
物腰柔らかに優雅に一礼するが、ミリアを行かせる気が全くないのは明らかだった。
意味がわからない。
これでは軟禁ではないか。
「いい加減に――」
ミリアが怒鳴って使用人につかみかかろうとしたとき、ミリアの足がもつれた。踏ん張りきれず、ばたりと絨毯の上に倒れる。湯浴みのお湯が跳ねていたのか、顔の下が濡れていた。
何が起こったのかと思う間もなく視界がぐるりと回り、ミリアは気を失った。
「風邪だそうです」
「マーサ……」
はぁっはぁっ、と熱い息を吐くミリアに、スタイン家の侍女は告げた。
ここはどこだろう。マンション……じゃない、寮の自室だ。なら、どうしてマーサがいるの?
頭がぐらぐらしていて考えがまとまらない。
「ミリア・スタイン様が目を覚まされたようですので、わたくしは失礼いたします」
「色々とありがとうございました」
「とんでもございません」
女性とマーサの声がする。ああ、そうだ、あれはアルフォンスの使用人だった。私、どうしたんだっけ?
朦朧とした意識の中で、なんとか思い出そうとする。
そうだ、急いで行かないと。どこに? 仕事……そう、仕事だ。明日お客様に説明する資料がまだできてない。早く承認してもらわないと週末のリリースができなくなる。
「いかなくちゃ……」
「どこに行くおつもりですか。その熱じゃ無理ですよ」
起き上がろうとするが、ひどく体が重い。やっと上半身を起こしたのに、肩を押されて寝かされてしまった。
「しごと、いく……」
「お嬢様の今の仕事は、風邪を治すことです」
「わたしがやらないと……」
「お仕事は旦那様と坊ちゃまがやっていますから。さあ、もう一度寝て下さい」
おでこにひんやりとした何かが乗った。気持ちいい。
そうか。父さんとリックがやってるのか。二人に任せていれば、大丈夫……。
ミリアは再び意識を失った。
朝、目が覚めたら、頭とのどが痛かった。少し寒気がする。風邪を引いたかもしれない。
上半身を起こすと、ぽろりと額から何かが落ちた。濡れた布だ。
あれ、昨日、どうしたんだっけ?
「図書館っ! ――ひゃっ!」
昨日のことを思い出し、ベッドから飛び降りたら、膝に力が入らずにがくりとその場に崩れ落ちた。関節が痛い。熱があるようだ。
「お嬢様! まだ寝てて下さい!」
寝室の扉からマーサが入ってきた。
マーサは父親よりも年上で、少し太っている侍女だ。男三人を育て上げたあと、数年前からスタイン家で働いている。ミリアが学園に入るときに別邸までついて来てくれたのだ。パーティの時は支度を頼んでいて、ローズのお茶会も一緒に行ってもらう予定だった。
「マーサ? なんでここにいるの?」
「覚えていないんですか? 昨日の夜からいますよ。カリアード家から連絡があったんです。お嬢様が倒れたって。みんなもう、びっくりしちゃって――」
「そうだ! 私、急いで図書館に行かなくちゃいけないの! 手伝って!」
「駄目です。熱があるんですから。大人しくして下さい」
マーサがミリアを引っ張り起こして、ベッドに寝かせた。
「図書館のことは、カリアードの坊ちゃまが片づけて下さったそうです。全部済んでいるので、お嬢様が行っても意味ありません」
「そんな……!」
もう朝だ。片づいているのは当たり前だった。
「でも、謝りに行かないと!」
「いいえ、その必要はありません」
「私、図書館の本棚を倒しちゃったの。本がたくさん落ちてぼろぼろになっちゃった。謝りに行かなきゃ」
「お嬢様が謝りに行く必要はありません」
「私のせいなの! ……せめてアルフォンス様にお礼と謝罪をしなきゃ。アルフォンス様が助けてくれたの」
「駄目です。今お嬢様が会いに行ったら、カリアード家のお坊ちゃまの迷惑になりますよ。うつしたらどうするんですか」
「……そう、だね」
マーサの言うとおりだった。単なる風邪だと侮ってはいけない。風邪をこじらせれば人は簡単に死ぬ。アルフォンスにも、他の人にも、うつす訳にはいかなかった。
「大体、その体じゃ動けないでしょう」
マーサが軽く押さえただけで、ミリアは布団から抜け出せなくなっていた。
体がだるい。皮膚の表面がひりひりしているような、ふわふわしているような変な感じがする。
「マーサもあまり近寄らないで。うつすと大変だから」
「はいはい。わかっていますよ。お嬢様が眠ってくれたら部屋から出ますから。食欲がないかもしれないですが、お薬を飲むために何かお腹に入れて下さい。スープでいいですか?」
「お薬? お医者様が来たの?」
スタイン一家を看てくれている医者はフォーレンにいる。王都にはなじみの医者がいなかった。
「はい。カリアードの坊ちゃまが手配して下さいました」
「アルフォンス様が!? ええっ、どうしよう、お金払わないと」
医者は高い。薬も高い。
何から何までやってもらってしまっている。
「そういうのは、旦那様にお任せすればいいんです。お嬢様は気にしなくていいんですよ」
「父さんに連絡が行ってるの?」
「だから屋敷中大騒ぎになったんですって。当然早馬を出しています」
「そんな、大げさな……」
「大げさなものですか。全然病気をしないお嬢様が熱で倒れたっていうんですから」
「じゃあ……リックにも……?」
「でしょうね。たんまり叱られて下さい」
ミリアは余計に頭が痛くなった。
じゃなくて。
「アルフォンス様に立て替えて頂いた分のことは父さんに任せる」
「はい。そうしてください。あと、もう一人お医者様が来られたんですが……」
マーサが言いにくそうに言葉を濁した。口さがなく何でもずけずけと言ってしまうマーサには珍しいことだ。
「うちが頼んだんじゃなくて? 学園から? それも父さんに任せるけど」
「いや、それが……王族専属のお医者様だったらしくて……」
王族専属?
まさか、侍医ってこと!?
「…………エドワード様ね」
マーサは緊張した面もちでうなずいた。
何してくれちゃってるのか、あの王太子は。一介の男爵令嬢を侍医に看させるとは。馬鹿じゃないの馬鹿じゃないの馬鹿じゃないの!
「その件は、まず私からお礼を言うから、その後父さんに王宮に行ってもらうことになると思う」
この場合、エドワードに謁見を申し込めばいいのだろうか。それとも国王か。
……国王に、娘に侍医を派遣して下さってありがとうございます、と言うのか? それはちょっとフィンに酷ではないだろうか。感謝というより平謝りになるのでは。
頭が痛い。内側からがんがん叩かれているようだ。熱も上がってきたような気がする。
「マーサ……ごめん、限界。やらなきゃいけないことがいっぱいあるけど、もう、無理……」
「お嬢様、駄目です。先にお薬を飲まないと!」
マーサが急いで運んできたスープを飲み干し、超絶苦い薬を飲んだ。気を利かせてマーサが用意してくれた、蜂蜜をお湯で溶いた甘いシロップを飲んでも焼け石に水だった。薬のせいで吐き気がしてきた。薬効はちゃんとあるんだろうか。
口の中は不快で仕方がなかったが、薬の効果なのか、ミリアはすぐにうとうとし始めた。
起きたら今度こそちゃんとしないと……。
マーサが布団を優しく叩いてくれたのを感じ、ミリアは眠りに落ちた。




