第109話【番外編】互いの呼び名 3/3
その日の帰り、アルフォンスはいつものようにミリアを屋敷まで送ったが、監査室に迎えに行ったときはもちろんのこと、馬車の中でもミリアは一度もアルフォンスを見ようとはしなかった。
火に油を注ぐのではないかと内心怯えながらも何度か話しかけてみたが、返ってきたのは一言、二言で、会話が続かなかった。
ミリアはアルフォンスに怒っている。
日が変われば多少は機嫌が直るかもしれないという淡い期待はすぐに砕け散った。
朝、スタイン家別邸に迎えに行くと、ミリアはすでに王宮に向かったというのだ。ミリアが王宮に入ってから、つまり婚約してから初めてのことだった。
アルフォンスは避けられているのだ。
呼び方を変えたいなどと言うのではなかった。ミリアを腕に抱けるだけで幸せだったはずなのに。
ミリアを失うかもしれないと思うと、胸が潰れそうだった。
午後のお茶の時間、アルフォンスは監査室の扉の前で足を止めていた。
ミリアに会いたい。
だが、しつこいと思われるかもしれない。明らかに避けられているのに、それでもなお押し掛けたら本当に嫌われてしまうのではないか。
このノックが決定打になるかもしれないと思うと、アルフォンスは足がすくんで動けなかった。
後ろには、ティーセットを乗せたワゴンを押してきた使用人が控えている。アルフォンスの挙動を不思議に思っているだろうが、十分に教育を受けている彼女はそれを口に出したりはしない。
深呼吸をして息を止めたアルフォンスは、ノックをしようと手を上げた。
と、扉が内側から開いた。
「うわっ! あ、すみません、監査長」
扉を開けたのはルーズベルトだった。部屋を出ようとして扉を開けたら、目の前にアルフォンスがいたのだった。
「どうぞ」
ルーズベルトが扉を大きく開いた。その向こうにミリアが見えるが、アルフォンスの方を見ようとはしない。いつもは笑顔で迎えてくれるだけに、その落差が堪えた。
「ミリア嬢」
アルフォンスがか細い声で名前を呼ぶと、ミリアは立ち上がって隣の応接室に入っていった。お茶は一緒に飲んでくれるのか、とアルフォンスはミリアに続いた。
かちゃかちゃと使用人がお茶の準備をしている間、ミリアはアルフォンスから目をそらして黙っていた。
アルフォンスにも話しかける勇気はなかった。何を言えばいいのかわからない。何を言っても不正解に思える。アルフォンスは途方に暮れていた。
使用人が一礼して退室したところで、ミリアがやっとアルフォンスを見た。しかしその表情は硬い。
「アルフォンス様」
「はい」
アルフォンスは膝の上の拳に力を込めた。
何を言われるのかと怖くて仕方がなかった。婚約を解消したいと言われたらどうすればいいのだろう。すがって許しを乞えば思い留まってくれるだろうか。
しかしミリアの口から出てきたのは、監査長補佐から監査長への報告だった。昨日の午後から今までの進捗状況を淡々と述べていく。恐る恐る発したアルフォンスの問いにもきちんと答えた。だが顔は無表情なままだ。
以上です、と言って報告を締めくくったミリアは、そこで口を閉じた。
紅茶を飲み、ケーキに口をつけたが、にこりともしない。
目線を落としたまま、じっと黙っている。業務上仕方なく報告はするが、アルフォンス個人とは話したくないと言わんばかりだった。
アルフォンスは頼みの綱のケーキが効かなかったことに絶望していた。ミリアの機嫌を直すべく、厳選に厳選を重ね、ここぞというときに使おうと思っていたとっておきを用意したのだ。
他にミリアの機嫌の取り方がわからない。普通の令嬢なら、ドレスや宝飾品を贈るという手があるのだが、ミリアにそれは効かない。勝手に贈ればさらに機嫌を損ねる可能性すらあった。
アルフォンスはティーカップに一度も口をつけずにミリアを見つめていた。
すると、ぱっとミリアが視線を上げた。眉根が寄って、目がつり上がっている。
ミリアの口が開いた。ああ嫌だ。聞きたくない。
だが、ミリアの口から出てきたのは――
「アル」
どきりと心臓が跳ねた。
ミリアがふいっと視線をそらした。
エドワードが言っていたのはこれか、と思った。じわじわと幸せな気持ちが胸を満たしていく。全身に鳥肌が立っていた。
「……いいですよ、私のこと愛称で呼んでも」
ミリアが目をそらしたまま、渋々といった様子で言った。
「本当に?」
昨日はあんなに嫌がっていて、呼び捨てたら口をきいてくれなくなった。同じ過ちは犯したくない。
「呼びたくないならいいですけど」
「そんなことはありません!」
アルフォンスが強く否定すると、ミリアがちらりと視線を向けた。
「その……リア、と呼んでも?」
ミリアが目をぱちぱちと瞬かせた。
「父さんやクリスはミリィと呼びますが」
「はい。でも私は、リア、と呼ばせて欲しいのです」
「なぜですか」
ミリアが首を傾げた。
ぐっ、とアルフォンスが言葉につまる。言いたくない。が、言うべきだろう。
「……似てるんです。響きが」
「何に?」
アルフォンスは目をそらした。
「…………リリエント・ミールに」
「リリエント様?」
ミリアが、ああ、と声を上げた。
リリエントの愛称はリリィだ。ミリィと聞くたびに嫌な思いをしていたのはそのせいだった。だからアルフォンスはミリィと呼びたくない。
ミリアはくすくすと笑った。一日ぶりの笑顔だ。
「それならいいですよ、リアでも」
アルフォンスは拳に力を込めた。また機嫌を損ねるのではないかと不安になる。
深呼吸をし、ミリアの目を見つめた。
「リア」
「はい」
ミリアがふわりと笑った。
愛称を許してもらえた。しかもそれはアルフォンスだけの呼び名なのだ。
「リア」
「何ですか、アル」
照れくさそうにアルフォンスの名を呼ぶミリアは、とんでもなく可愛かった。ばくばくと心臓が高鳴っていく。
アルフォンスは立ち上がってミリアの横まで行くと、両腕を広げて、ミリアを呼んだ。
「リア」
ミリアがその腕に収まる。失われたかと思ったその体温が腕の中にあるのがたまらなく嬉しかった。
「リア」
ぎゅっと腕に力を込めると、ミリアが、アル、と呼んで抱きしめ返してくれた。
「どうして、昨日は離れていってしまったんですか?」
今日は離さない、としっかりミリアを抱きしめて、そっとたずねた。
「ええっと……すみません、恥ずかしくて……」
はぁ、とため息が出た。怒らせたわけではなかった。
「嫌な態度をとってしまってごめんなさい」
「いいんです」
ミリアの頭にほほをすり寄せる。
「リア」
想いを込めたらまた離れてしまうかもしれないと思ったが、止められなかった。愛おしくて仕方がない。
「リア」
自然と腕に力がこもっていく。
「リア」
「どうしたんですか?」
名を呼びすぎたことを不思議に思われ、ミリアが見上げてきた。ピンク色の瞳がアルフォンスを映し出す。
視線が交錯し、アルフォンスの頭の奥がしびれた。
ミリアが欲しい。
ミリアの顔に手を添える。ミリアは嫌がらない。そのままゆっくりと、ミリアの反応を確かめるように顔を近づけていく。
だが途中で、ミリアがぎゅっと強く目をつぶった。ぷるぷると体が震えているのがわかった。アルフォンスは口づけをするのをやめ、ミリアの頭を抱き寄せた。
ミリアの肩に頭を乗せ、はぁ、と息を吐いた。
危なかった。調子に乗りすぎた。
アルフォンスはミリアの頭に口づけを落として腕を解いた。
ミリアと目を合わせ、アルフォンスはもう一度愛を込めて名を呼んだ。
*****
アルフォンスから愛称で呼んで欲しい、呼びたいと言われたその日、アルフォンスに、ミリア、と呼ばれて心臓を打ち抜かれたミリアは、帰りの馬車の中でも、アルフォンスをまともに見ることができなかった。頭の中を先程の声がぐるぐると回っている。
夜は全然眠れなかった。
自分が、アル、と呼ぶところを想像して恥ずかしさに震え、アルフォンスが、ミリィ、と呼ぶところを妄想しては悶え苦しんだ。妄想なので笑顔つきだ。妄想なのに――妄想だからか――破壊力は絶大だった。
しかしやがてミリアは、これはなかなか美味しいのでは、と思ってきた。きっと恥ずかしいのは最初だけだ。愛称で呼べて、愛称を呼んでもらえるなんてラッキーではないか。
婚約者らしいことはハグしかないわけだし、それも友情の証だし、もう一つくらい婚約者っぽい事があってもいいのかもしれない。
と思ったのだが、朝はとても顔を合わせる事ができず、迎えを待たずに先に出てしまった。
お茶の時間に報告に来たアルフォンスの顔も見るのも大変で、それでもプライドに懸けて仕事の報告だけはきっちりやりきった。
その後目をそらし続けているミリアを、アルフォンスはじーっと見つめてきた。無言の圧力を感じる。
たかが名前、たかが名前、たかが名前。
エドワードもジョセフも言っていた。だから大丈夫。
意を決して、ミリアはアルフォンスを見た。
陽光にきらきらと銀色が輝いて、整った顔がミリアの言葉を待っている。
あああぁぁ、くそぅ、かっこいいなぁ。
これが自分の婚約者とはとても信じられない。
「アル」
アルフォンスがわずかに目を見開いた。ぶわっと羞恥心がこみ上げてきてミリアは視線を逸らした。恥ずかしすぎて死ねる。
アルフォンスは何も言わない。エドワードのように、実は嫌だったとか……?
「……いいですよ、私のこと愛称で呼んでも」
ミリアは目を合わせる勇気がないまま、もごもごと言った。
「本当に?」
「呼びたくないならいいですけど」
「そんなことはありません!」
強く言葉が返ってきて、ミリアは思わずアルフォンスを見た。
「その……リア、と呼んでも?」
リア? なんで?
「父さんやクリスはミリィと呼びますが」
「はい。でも私は、リア、と呼ばせて欲しいのです」
「なぜですか」
ぐっ、とアルフォンス口をつぐんだ。
「……似てるんです。響きが」
「何に?」
アルフォンスは目をそらした。
「…………リリエント・ミールに」
「リリエント様?」
ミリアが、ああ、と声を上げた。
リリエントの愛称はリリィだ。確かにミリィに似ている。
アルフォンスは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。そんなに嫌なのか。
ミリアはおかしくなって笑ってしまった。
「それならいいですよ、リアでも」
アルフォンスが深緑の瞳を向けてくる。
「リア」
照れくさい。が、心地よくもあった。これはアルフォンスだけの、アルフォンスにだけ呼ばれる名だ。
「リア」
「何ですか、アル」
アルフォンスが立ち上がってミリアのそばに来て、両腕を広げた。
「リア」
ミリアは立ち上がり、呼ばれるままにアルフォンスに抱きつく。
愛称で呼び合っていると、想いの通い合った、本物の婚約者同士ではないかと錯覚してしまいそうになる。
アルフォンスが、ぎゅっと腕に力を込めた。
「どうして、昨日は離れていってしまったんですか?」
「ええっと……すみません、恥ずかしくて……」
非難めいた声に謝ると、アルフォンスがため息をついた。呆れているのだ。
「嫌な態度をとってしまってごめんなさい」
「いいんです」
アルフォンスがすりすりと頬を寄せてきた。何度もミリアの名前を呼ぶ。
「どうしたんですか?」
口に馴染ませようとしているだろうか。うっかり今までの呼び方をしてしまっても、怒ったりしないのに。
見上げると、思ったよりも顔が近くにあって、どきりとした。深い、深い緑色の眼がミリアの視線をからめ取る。
アルフォンスがミリアの名を呼びながら、ほほに手を添える。ゆっくりと顔が近づいてきた。
キスされる……?
ミリアはぎゅっと目をつぶった。無理。無理無理。
するとアルフォンスは、ミリアの頭を抱き寄せた。ミリアの肩に頭を乗せ、はぁ、と息を吐いた。
恥ずかしい……!
勘違いだった。ギルバートのように額を付けるつもりだったとか、そういう感じの。
無理だこんなの。抑えていられない。
きっともう気づかれている。鬱陶しく思われるのも時間の問題だ。そうしたらハグもできなくなるのだろう。アルフォンスが腕を解いて離れていくのが寂しい。
それでも、アルフォンスがミリアを見て、リア、と呼ぶと、たまらなく嬉しくなってしまうのだった。




