医師と植物学者
神の御使いの牡鹿はスイスイと小川に沿って山を下ってゆく。私たちはその後に続いて、緩やかに下る小川のほとりを歩く。
小川のほとりは先の方までずっと緩やかな下り坂が続いている。
牡鹿はまるで雲上をゆくかのようなふわりとした足運びで坂を下り、背中に乗せている学者を全く揺らさない。
いったいどうなっているんだろう……と首を捻る私。
牡鹿の足運びは神の御使いなのだからああいうことができるのだろう。
それよりも、だ。私たちが先ほどいたトリカブトの群生地まで、険しい上り坂が続く登山道をずっと上ってやってきたのだ。
その群生地から続くこの小川は登山道から斜面をかなり下った辺りを流れてはいるが、こうもずっと緩やかな下りが続いているのはさすがに不自然な気がしてきた。上ってきた勾配と、今下っている勾配が合わない気がする……
そして、ふと後ろを振り返った私は驚愕で目を見開き、口を手で押さえて危うく出かけた絶叫を何とか堪えた。
振り返った先に見えるのは、急な斜面が続き、時に垂直に落ちる滝がある、とてものんびり下っては行けないような険しい地形だった。普通ならこんなところ絶対通らない。いや、通れない。
私たちは平地を歩くような気楽さでのんびり歩いてきたが、実はとんでもないところを下っていたようだ。
牡鹿の背中越しに見える、先に続く景色は緩やかな下り坂なのだ。しかし、たった今通り過ぎたところを振り返ると、大人の男性三人分はあろうかという崖を落ちる滝であった。
この小川のほとりは、本来とても人の通れるような山道ではなかったのである。
振り返れば急峻、前を見ればなだらか……これは神様が何かしているに違いない。
「……カリンちゃん、後ろって振り返ってみた?」
「……ええ」
「……これは何事だと思う?」
「……深く考えないことにしました」
「……そうね」
私たちは神の御使いの牡鹿の先導により、神様が作った道を通って難なく山を下りた。数時間かけて登ってきたが、下りるのは一時間もかかったかな? というくらいだ。
神様が作ってくれた道は登山道入り口脇にある祭壇のところに出た。そういえば、登山前にお参りした祭壇の後ろには小さな滝が流れていたような気がする。
あの小川はここへつながっていたのか……などと妙な関心をしていると、ちょうど祭壇の周りを掃除に来ていた宿場町の人たちにバッチリ見られていたようだ。
「ひ、ひえええええ! 滝が光ったと思ったら! 神の御使い様じゃああああああ」
なんということか。恐れ多いと口々に言いながら跪いて祈り始める街の人たちには、きっと私たちも人外の存在に見えている気がする……面倒なことにならなければいいが。
「神々しいばかりの牡鹿様と、左右にいらっしゃるのは神の御使いの巫女様方じゃ! 鹿神様が眷属を従えてご降臨なされたぞ! ありがたや! ありがたや!」
「……い、いやちょっと待って」
「神の御降臨じゃ! いつも山に入る我ら、そして麓にありますわが街をお守りいただき誠にありがとうございまする!」
「だからあの、私たちはね、違うのよ! どっちかというとこの鹿さんが神の御使いでね……私たちは通りがかりの普通の旅人……って聞いてる?」
だめだ……誰も聞いていない。皆跪いて口々に「なんと神々しいお姿」だの「これほど素晴らしい牡鹿のお姿を初めて見た」だの「従えている巫女様方もなんとお美しい」だのと聞き捨てならないことをつぶやくばかりで、私の話に誰も耳を貸してくれない。
牡鹿は本物の神の御使いなのでこれはわかる。そしてカリンちゃんは月の女神もかくやの美貌の持ち主である。突然光って滝から現れたら神の御使いに見えるだろう。しかし私はどこにでもいる普通のか弱い女の子である。月の女神のような美貌などない。
巫女に見えるとか正気かしらと思って戸惑っていると、カリンが突然威厳たっぷりの雰囲気で街の人々に語りかけ始めた。
「皆の祭壇の清め、神は満足されておる。ありがたくも神は、日頃の其方らの献身に報い、山にて遭難した者を麓までお運びくださった。この者を治療せよとの神の仰せである。誰かある。疾く医術の心得ある者を此れへ」
カリンはもともと神秘ともいえる美貌の持ち主だ。だが、性格が神秘と真逆なので私としてもとても親しみやすく接しているのだが……
すごいよカリンちゃん。まるで王侯貴族のような威厳に満ちた態度と物言いが完璧にできている。カリンちゃんがやんごとない。恐れ多くて近寄り難い。光る滝から突然現れた効果が合わさり、めっちゃ神の御使いに見える。
絶世の美女が威厳たっぷりに告げた言葉は効果覿面で、額を地面に擦りつけんばかりに平伏していた街の人々は我先にと医者の家へと駆けだしていったのである。
気が付くと祭壇に残ったのは私とカリン、そして学者を背負った神の御使いのみとなった。
「カリンちゃん、すごいね。なんか威厳があってすごく神の御使いっぽかったよ」
「学者さんを早く医者に見せなきゃいけませんからね。私だってちゃんとすればなかなかのものでしょう?」
カリンちゃんがウインクを寄越しつつ、いたずらっぽく笑う。めっちゃかわいいじゃないの。
カリンに感心しつつ、かわいい笑顔に見惚れていると、牡鹿が首をもたげ、私の頭を鼻先でツンツンと突いてきた。
「あ、ごめんなさい。学者さんを下ろすわね。神の御使い様、ここまでありがとう。とても助かりました」
私の言葉がわかるのだろう、牡鹿はスッとしゃがみ背中の学者を下ろしやすくしてくれる。カリンと二人で、牡鹿の背中に横たわる学者を下ろして地面に寝かせると、牡鹿は立ち上がり一言『ピイッ』と鳴いて滝の方へと歩いていった。
滝の前まで来た牡鹿は、そのまま滝に向かって進む。次の瞬間、滝全体が七色に淡く光り、牡鹿は滝に吸い込まれるように消えた。
光が消え、滝は何事もなかったかのように最前と同じく小さな滝つぼに小川の流れを落とし続けている。
「……」
「……」
二人で神秘的な光景が繰り広げられた滝をしばし眺めていたが、私ははっと我に返り祭壇へと進む。
腰のカバンから『植物用栄養剤マルガレットスペシャル』を取り出し、祭壇に捧げる。膝を折り、祭壇の前に跪くと、私は神様にお祈りをする。
「神様。あっという間に麓に戻りました。御使いをお遣わし下さりありがとうございます。お礼に好評だった栄養剤をもう一つ捧げます。どうぞお納めください」
『確かに受け取った。この後西へ向かうなら今回は別の道にせよ。西側は天罰が発動し人の身では通れぬ』
天罰? 土砂崩れでも起こして人相の悪い奴らを一網打尽にしたとかかしら……
『いかにも』
……マジか。人間、悪いことをするものではない。因果応報である。
でも、そうなるとトリカブトをどうしよう……と考えた瞬間、祭壇に供えた私の栄養剤が七色の光を放った。次の瞬間栄養剤はスッと消え、代わりに七色に輝くトリカブトが一束現れた。
「か、神様? これは?」
『取っておけ。今回は特別じゃぞ』
「ははーっ! ありがとうございます」
『其方らの事は覚えておこう。また来るが良いぞ』
私は、カバンから懐紙を取り出すと震える手で七色のトリカブトを包み、大事にカバンの奥にしまった。
それを見ていたカリンがため息を吐く。
「目の前で物が光って消えたり現れたりするなんて今まで生きてきて初めての経験です。やっぱりマリーさんは規格の外の方ですね。色々おかしいと思います」
私が咄嗟に反論しようと勢い良くカリンの方を振り返ったとき、バタバタという複数の足音とともに街の人たちがプルプル小刻みに震えているよぼよぼのお爺さんを輿にのせてやってきた。
「神様! 御使い様方!! お待たせいたしました! この街一番の腕の医師を連れてまいり……あれ? 鹿神様は何処へ?」
さっきまで呆れ顔で私のことをおかしいと言っていたカリンが、スッと雰囲気を変える。一瞬で神の御使い風の威厳たっぷりの雰囲気になるカリンに、私は内心舌を巻く。
「神はお帰りになられた。さあ、疾くこの者を看よ」
患者の前まで運ばれてきた、輿に乗せられプルプルと震えていたよぼよぼの爺さんが、患者を見るやシャキッと背筋を伸ばして目を見開く。
「トルガーロウ? トルガーロウ・マッキヌではないか! なんてことだ! 三顧の礼を以って我が国へ招いた高名な植物学者が! お前たち、このお方をすぐに我が診療所へ!」
プルプル爺さんの言葉を聞いた途端、御使いモードのカリンの眉が一瞬だけピクリとはねた。そして隣にいる私にだけ聞こえるような小声でつぶやいた。
「三顧の礼ですって? まさかこの人、帝室のお客様?」
カリンのつぶやきが聞こえていない街の人たちは、プルプル震える爺さん医師の指示に勢いよく答える。
「よし来た! マルコ爺さん! ……あのぅ、それで……神の御使い様方は……」
「もちろん共に参ります」
カリンが御使いモードのままなので私が代わりに返事をしておいた。このままいくと誤解が誤解を呼び、後々めちゃくちゃ面倒なことになりそうな気がするが。
御使いモードで威厳たっぷりに歩くカリンと並んで街の人たちの後をついていきながら、私はカリンの袖を引っ張り街の人には聞こえないような小声でカリンに聞いてみた。
「このままだと私たち、神様の使いとして扱われちゃうよ? 後々面倒なことになりそうだからそろそろ御使いモードやめない?」
「マリーさん、もう手遅れです。それに、私にちょっと考えがあるのでこのまま合わせてください」
カリンの言葉に私はちょっと考える。この学者の怪我をした状況や、祭壇に現れた時に大勢に目撃されたこと、そして本当に神様が絡んでいることなどを考えた上での行動なのだろう。考えがあるというのなら、ここはカリンに任せることにする。だが、しかし……
「……でも私、カリンちゃんみたいに威厳あふれる佇まいできないよ」
「マリーさんはにっこり笑って黙って私の横にいてください」
……私威厳ない発言を「そんなことないですよ」と否定してくれるかとちょっと期待したが、まったくそんなことはなかった。カリンとはそういう人である。おべんちゃらや心にもないことは決して言わないのだ……特に親しくなった人には。
ということは、私が喋るとボロが出るということね。私はおとなしくカリンちゃんの言うとおりにすることにした。
街の人たちからマルコ爺さんと呼ばれていたプルプル震えている爺さんの診療所は、街はずれにあった。
診療所に患者の学者を運び込むと、マルコ爺さんはシャキッと背筋を伸ばし、さっそく診療を始める。診療所になだれ込んだ街の人たちにカリンが声をかける。
「街の者たちよ。大儀であった。引き続き祭壇を清め、信心を忘れる勿れ。神は其方たちを見守っておられる」
カリンの言葉を跪いて聞いた街の人々は、頭を垂れ、顕現への感謝と今後のご加護を願いながら立ち去って行った。
「やっと静かになりましたね」
街の人たちが出ていくのを見守りながら、カリンはいつもの調子に戻って肩をすくめたのである。
「どうですか? マルコさん。この人、治りそうですか?」
私は治療を続けるマルコ爺さんの横に移動し、病状を訊ねる。
「うむ。危ないところであったが、応急処置が実に見事だ。これは、誰が? まさか神様が施してくださったわけではあるまい?」
「あ、私です。調合した傷薬と血止めの薬草を使いました」
「主ら……さては人間であろう?」
私はもとより、街の人たちが立ち去った今、カリンも体中の力を抜いて緩みまくっている。今街の人たちが私たちを見たとしたら、間違いなく神の御使いだとは思わないだろう。
マルコ爺さんの問いに、カリンが気安く答える。
「そうですよ」
「なぜ神の御使いのフリをしたのだ」
マルコ爺さんが鋭い眼光でカリンを見る。
「その人、山中で悪い奴らとトラブルになって刺されたんですよ。刺した奴を指揮していたのが貴族っぽかったのでこの人がこの街に担ぎ込まれたのが後々知れ渡ると街の人たちが被害に遭うかもしれないんで神の御使いのフリをしたんです。神様が現れた! という話なんて、その場にでもいない限り誰も信じないでしょう?」
カリンの説明にマルコ爺さんの顔色が変わる。
「な、なんだと!? 刺し傷なのは見れば分かったが……貴族にやられただと? この者は外国の有名な植物学者なのじゃが、その知識を求めて我が帝室が礼を尽くして客人として招いたと聞いておる。それを山中に連れ出し害するなど……その貴族とやらはこの男、トルガーロウに山中で何をさせておったのだ?」
「トリカブトが欲しかったようですね。どれがトリカブトかこのトルガーロウさん? に聞いていましたから。私たちも見つからないように物陰に潜んでいたので詳しくはこの人に聞かないとわかりません」
「……トリカブト採取に、帝室が招いた高名な学者を連れ出した挙句、山中で暗殺か。もし、それをやったのが貴族だというのなら、これは反逆の陰謀やもしれぬぞ。かなりきな臭い話じゃ。確かにこんな小さな街など一晩で消えかねんな」
なんと。そこまで大事だったとは。帝室が招いたいわゆる国のお客様を一貴族が山中に連れ出し、トリカブトを探させた上、そのまま山中で殺して捨ててくるなど、バレたらその貴族はこの国にはいられない。下手したら死刑である。普通の感覚の貴族ならばそんなことは絶対にしないだろう。
そして、そのトリカブトを何に使うのかが問題である。そこまでしたアブナイ貴族なので、もしかするとそのトリカブトは帝室の一員の暗殺に使用するのかもしれない。
帝室が礼を尽くして迎えた植物学者である。毒殺を警戒した帝室が、毒物を見分けるためにこの国に招いたのかもしれない。
もし、帝室の誰かを狙っているのならば、よく効く毒を探させた上で毒殺の邪魔になるこの哀れな学者を消してしまおうとするのはあり得る話ではないか。
まったく。これだから権力は嫌なのだ。できれば私は、生涯一市民として陰謀に巻き込まれることなくへらへら笑って楽しく過ごしたいものである。
しかしこのプルプルお爺ちゃん、何者なのだろうか。イリス山脈の登山口の宿場町という、お世辞にも栄えていない一地方都市の街はずれで医者をしている平民の爺さんとは思えない。
このひょろひょろの学者の名前を知っていたし、帝室が招いた外国の名のある学者であることを知っていた。そして、山中でトリカブトを探しに行かされ殺されそうになったと聞いただけで帝室の暗殺を疑うのである。
妙に国の中枢付近の事情に明るいような気がする。
私が首を傾げていると、カリンが私の疑問の答えをくれた。カリンはこのプルプル爺さんに次のように語りかけたのである。
「まさかこのような山中に籠られていたとは。あなた様はアルメニアン帝室の侍医をされていたジョン・マルコ老でございますね」
「ふん。このような田舎にワシを知るものがやってくるとはの」
肩を竦めるマルコ爺さん。
こんなプルプル震えている爺さんが帝室の侍医だったとは。世の中分からないものである。そして、なぜカリンちゃんはそんなことを知っているのだろう……
「まずはトルガーロウさんが目覚めるのを待ち、事情を聴きましょう」
カリンの提案に、私とマルコ老は頷いたのだった。
山中で拾った学者さんはアルメニアン帝室が迎えた賓客でした。そして、神様の助力で麓へ運び、医者に見せたところ、その医者は元帝室の侍医でした。
気楽な黒胡椒仕入れの旅のはずが、なにやら怪しげな陰謀に巻き込まれ始めたマルガレットとカリン。果たして二人は無事にバーラート王国まで辿り着けるのでしょうか?
次回は目を覚ましたトルガーロウに事情を聴くマルガレット達です。




