第十一章 視線の先に
こんにちは、こんばんは、もくそんです。
なぎさが久しぶりに学校へ戻る日。
楽しみと不安が入り混じる復学初日の物語です。
彼女が見た“現実”と、揺れ動く心に寄り添って読んでください。
十一月一日。
朝の空気には、冬の気配がほんのりと混じっていた。校門の前に立った私は、深く息を吸い込む。冷たい風が胸の奥まで流れ込み、肺の隅々へとしみわたり、体の内側を静かに引き締めていく。
制服のブレザーに袖を通すのは、本当に久しぶりだった。硬めの布地の感触、肩にかかるわずかな重み。それらが「日常はここにある」とそっと背中を押してくれているようで、少しだけ心が落ち着いた。
鏡の前で何度も姿勢を整えたその服は、まだ体に馴染んでいなかった。
それでも――ここまで戻ってこれた。
胸の奥が静かに熱を帯びる。
髪は、さちからもらったシュシュでまとめてポニーテールにしてきた。結ぶたびに手が震えたけれど、それでもきゅっと結び目を固めた。これは、今日を迎えるための小さなお守りだった。
「なぎさ、本当に大丈夫?」
母の声は、心配を必死に押し隠していた。
この二か月、母はずっと私のそばにいてくれた。リハビリで汗をかいた私の背中にタオルを当て、泣き崩れた日には静かに抱きしめ続けてくれた。その母が、玄関先で今も揺れる瞳を向けている。
「大丈夫。……行ってくるね」
震える笑顔を作って言うと、母はそっと頷いた。
その頷きが、私にとって“逃げない理由”でもあった。
昇降口に向かう途中、ガラス窓の向こうから昼休みのざわめきが聞こえてきた。笑い声、机を動かす音、名前を呼ぶ声。
どれも懐かしいのに、どれも怖かった。
その時、視界のすみにクラスの女子が見えた。
夏休み前まで、“おつかれ”と気軽に声をかけてくれた子。
けれど、私を見るなり、彼女は僅かに目を見開いた。
驚き、戸惑い、言葉を探す沈黙。
そして、隣の友達と顔を寄せ合いながら通り過ぎていった。
誰も悪くない。
ただ本当に、どう声をかけていいか分からなかっただけ。
それでも――
挨拶すら交わせなかった現実が胸に刺さる。
帰りたい。
一瞬で心がそちらに傾いた。
でも、さっき母に「行ってくる」と言った。
あの頷きを裏切りたくない。
あの人の前でだけは、情けない姿を見せたくなかった。
ただ……顔だけは、見られたくなかった。
私はポニーテールを解いた。
髪が一気に肩へ流れ落ち、頬へ、視界へとかぶさる。
それをそのまま手ぐしで前に寄せ、顔の半分以上を隠した。
意図的に、誰とも目が合わないように。
髪の影の中にいると、自分の呼吸の音すらこもって聞こえた。
その暗がりが、少しだけ私を守ってくれる気がした。
階段へ向かう。
前が見づらいので下を向いたまま、松葉杖の音だけを頼りに進む。
――これなら、誰も私の顔を見なくて済む。
一段ずつ、慎重に登る。
かつては二段飛ばしで笑いながら走っていた階段。
でも今は、髪の隙間から見える薄暗い足元だけを見つめて進む“別人”のような姿だった。
教室の前に着き、湿った手でドアノブを握る。
深呼吸をひとつして、そっと扉を押し開けた。
――その瞬間、教室が静まり返った。
昼休みの笑い声が消え、椅子が止まり、視線が一斉に私へ注がれる。
誰も言葉を発しない。
髪に隠れて顔の見えない私に、どんな表情で声をかければいいのか分からないからだ。
優しさも、戸惑いも、全部混ざった沈黙。
私は目を合わせないように、
松葉杖の音を響かせて自分の席へ向かった。
カツ、カツ。
その音だけが、教室に落ちていった。
席に腰を下ろした瞬間、全身の力が抜けた。
窓の外で風がカーテンを揺らしている音だけが、私を包み込んでいた。
沈黙の中、私は机の木目をぼんやりと見つめていた。
髪が視界の端に落ち、世界との境界を曖昧にする。
「……鈴野さん」
不意に、低い声が落ちてきた。
髪の隙間から顔を上げると、隣の列から汰一がこちらを見ていた。
「夏休み明け……事故のこと、聞いたよ」
彼の目は真剣で、臆病で、優しかった。
周囲の空気がまた揺れる。
私は俯いたまま、小さな声で答えた。
「……うん」
汰一はゆっくりと言葉を探し、
そして、悔しさが混じった声を出した。
「病院に行こうと思ったんだ。……でも、迷って、行けなかった」
息を呑んだ。
距離を置かれ続けてきた中で、彼だけは“行こうとした”人だった。
胸が熱くなる。
「でも、これからは……行ってもいいかな?」
同情でも、暇つぶしでもない。
迷いながらも、私の隣に立とうとする声だった。
「……うん」
絞り出すように答えると、汰一は小さく息をつき、ほんの少しだけ笑った。
――少なくとも一人、変わらない人がいる。
午後の授業を終えて廊下に出ると、
髪が視界を半分覆うまま、私は下を向いて歩いた。
松葉杖の音と、自分の呼吸だけが耳に届く。
角を曲がったその時、向こうから誰かの気配が近づいてきた。
「……なぎさ」
さちの声だった。
本当は、その一言で気づくべきだった。
でも、髪の影の中でこもった世界にいる私は、
その声を受け止められなかった。
視線はずっと足元。
髪が、さちの姿を完全に遮っていた。
私はそのまま歩き去り、
背後で立ち止まる気配だけが、胸に残った。
本当は――気づきたかったのに。
校門を出た瞬間、母が駆け寄ってきた。
「なぎさ!」
呼ばれて顔を向けた私は、笑おうとした。
けれど頬が引きつり、視界が滲む。
「……やっぱり、まだ早かったみたい」
その言葉と一緒に、涙が頬を伝い落ちた。
母は何も言わず、強く私を抱きしめた。
松葉杖が地面に落ち、乾いた音が響く。
母の腕の中で、私は泣きながら繰り返した。
「まだ……だめだった……」
夕暮れの空は赤く染まり、校舎の影が長く伸びていた。
その中で私はようやく、自分の弱さを認めた。
――通学は、まだ早かった。
それでも、母の温もりに包まれながら、
胸の奥で小さな光がかすかに灯るのを感じていた。
消えそうなほど弱々しくても、確かにそこにある光だった。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
復学は大きな一歩やけど、簡単に馴染めるわけじゃない。
それでも、なぎさの中に灯った小さな光が、この先の支えになります。
次の章も見てもらえたら嬉しいです。




