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第十章 はじまりの前の夜

こんにちは、こんばんは、もくそんです!

母との和解を経て、なぎさのリハビリと“再スタート”の準備が始まります。

少しずつ前へ進む姿を、見届けてもらえると嬉しいです。


母と和解してからの数日は、病室の空気が少しずつ変わっていった。

 長く張りつめていた糸がほどけるように、呼吸が楽になる。


 朝、カーテンを開けるのは母の役目になった。

 「おはよう」と言いながら光を入れてくれるその姿に、やっと以前の母の面影を見た。

 たとえ短いやりとりでも、母と交わす言葉が戻ってきたことが嬉しかった。


 昼には、売店で買ったサンドイッチやおにぎりを二人で分け合った。

 母はいつも私の好きな卵サンドを選んでくる。

 「ほんとは自分が食べたいんじゃないの?」とからかうと、母は笑って「まあね」と答えた。

 その笑顔を見たのは、事故以来初めてだった。


 夜には、私の髪を梳いてくれる。

 長く伸びた髪の毛先を見て「そろそろ切らなきゃね」と言いながら、指先で絡まりをほどいていく。

 昔、熱を出して寝込んだときも、こうして髪を撫でてくれたことを思い出した。


 会話はまだぎこちない。

 「今日は眠れた?」

 「うん」

「次、食べたいのある?」

 「なんでもいい」

 そんな調子で短いやりとりが続く。

 それでも、母は根気よく話しかけてきてくれる。

 私はそれに答えながら、少しずつ前に進んでいる気がした。

 あんなに酷いこと言ったのに、母は何事もなかったかのように隣にいてくれる。

 そのことが、嬉しくて、そして痛かった。


* * *


 数日が過ぎた昼下がり。

 病室に白石先生と早苗さんが入ってきた。

 白石先生はタブレットを手にし、穏やかな声で口を開いた。


「体の回復は順調だね。」


 母と顔を見合わせる。

 白石先生は少し間を置いて、ことばを選ぶように続けた。


「前に言ってた始業式の日、九月一日から始めよう」


 胸が跳ねた。

「……分かりました。」

「みんなが新しい学期を始める日に、君もここで“はじまり”を持つ。同じ日に、新しいスタートを切ろう」


 母は小さく息を呑んだ。

「でも……痛みは」

「ゼロにはできない。でも管理はできる。やめたくなったらやめていい。選ぶのは君自身。大事なのは“昨日より少し前へ”ということだけ」


 早苗さんが笑みを浮かべる。

「九時にストレッチから始めて、午後は体幹のトレーニング。無理しなくていい。五分立てたら合格。できたことを一緒に数えるよう」


 その言い方に思わず笑みがこぼれた。

 不安は消えない。それでも、私にも“はじまり”が用意されていると思えた。


「……よろしくお願いします」


 そう言うと、母が私の手をそっと握った。

 「大丈夫」ではなく、静かに力強くうなずくだけ。

 それが何よりも心強かった。



 九月一日。始業式の朝。

 学校では、もうすぐチャイムが鳴って体育館に生徒たちが整列するころ。

 私は、リハビリ室の前に立っていた。


 扉を開けると、独特の空気が流れ込んでくる。

 ツンと鼻を刺す消毒液の匂い。器具に反射する白い蛍光灯の光。

 床のワックスは磨かれていて、窓から差す陽光を淡く映している。


 中には数人の患者がいた。

 年配の男性が歩行器を押しながら慎重に歩き、若い女性がバランスボールに腰を下ろして足を上げ下げしている。

 その姿を見ただけで、胸が高鳴った。

 ――ここで、私も“始める”んだ。


 母が背中を押すように小さく囁く。

「大丈夫だよ。……ちゃんと、隣にいるから」

 握られた手のひらが震えている。私より母のほうが緊張しているのかもしれなかった。


* * *


 白石先生が柔らかな声で言った。

「まずはパラレルバーに立ってみよう。今日は五分立てれば十分。……一歩出なくてもいい」


 無理しなくてもいい。

 そう言われたのに、私は首を横に振った。


 ――五分なんて、待てない。

 早く歩けるようになりたい。

 でも、どこへ歩きたいのか、その答えはまだなかった。


 バーに手を置いた瞬間、冷たい金属が掌に伝わった。

 深呼吸して、片足を前に出そうとする。

 でも――膝が笑う。

 太ももに力が入らない。

 心臓がバクバクと鳴り、汗が背中を伝った。


「焦らなくていい」

 先生の声が背中から届く。

 それでも私は、息を呑んで一歩を踏み出そうとした。


* * *


 ――その瞬間。

 視界が揺れた。


 足が支えきれず、体が傾く。

 手のひらからバーがすべり落ち、床が迫ってくる。


「なぎさ!」

 母の叫びと同時に、早苗さんが私の肩を支えた。

 がくん、と膝を床につく。

 衝撃よりも、悔しさが胸に突き刺さった。


「……っ、もう一回……やらせて」


 涙がにじんで視界がぼやける。

 母が「無理しなくていい」と言おうとしたのを、私は遮った。

 「やりたい。……立ちたい」


 転んで終わりになんてしたくない。

 ここで立てなければ、未来へ進めない気がした。


* * *


 二度目の挑戦。

 バーを握りしめ、ゆっくりと体を浮かせる。

 足の裏が床を掴む感覚。

 膝が震える。筋肉が弱っているのが嫌でもわかる。

 でも――立てた。


「いいぞ、なぎささん。そのまま」

 先生の声。

「がんばれ」

 母の震える声。


 十秒。二十秒。

 全身が汗ばみ、呼吸が荒くなる。

 もう無理だと思った瞬間、膝が崩れて再び座り込んだ。


 でも、さっきとは違った。

 確かに私は、立っていた。


* * *


 リハビリを終えた。

 体は鉛のように重いのに、胸の奥は熱くて仕方なかった。

 今日は一歩も進めなかった。転んだ。

 でも――立ち上がることはできた。


 その小さな成功をかみしめながらも、心の奥にかすかな影があった。

 ――本当に、私は学校に戻れるんだろうか。

 期待と同じだけ、不安も膨らんでいた。



 リハビリが始まって三週目に入ったころ。

 体は少しずつ変わり始めていた。

 最初は立つだけで足が震えていたのに、今では杖を使えば五歩、十歩と進めるようになった。

 けれど歩くたびに太ももの奥が張りつめ、呼吸はすぐに荒くなる。

 終わる頃には全身汗だくで、シャツが肌に張りついて冷たかった。


 その日も全身ぐったりとベッドに倒れ込むと、母が椅子を引き寄せてきてタオルを手に取った。

「汗、冷えると風邪ひくよ。……じっとしてなさい」

 優しくそう言って、首筋から背中にかけて丁寧に拭ってくれる。

 タオルがひやりと肌をなぞるたび、安心感に包まれる。

 子どものころ、熱を出して泣いていた夜に母が同じように拭いてくれたのを思い出した。


「だいぶ歩けるようになったじゃない」

 母はわざと明るく声を弾ませる。

 私は顔を背け、シーツを握りしめた。

「……でも、怖いんだ」

「怖い?」

「学校に戻ること。……前みたいに笑えなくなるんじゃないかって」


 言葉にした瞬間、胸がずしんと重くなった。

 教室のざわめき、昇降口の靴の音、体育館から聞こえる掛け声――全部が頭の中で蘇る。

 その中で、自分だけが杖をついてよろめく姿を想像してしまい、心臓が苦しくなった。


「……みんなにどう見られるのかな。気を遣われて、距離を置かれて……」

 声が震えて、最後は言葉が詰まった。


 母はしばらく黙って、汗を拭う手を止めた。

 そして私の手を包み込み、ゆっくりと話す。

「なぎさ。お母さんだって、怖いよ。あなたがまた転ぶんじゃないか、痛い思いをするんじゃないかって毎日思ってる。……でもね、怖いからこそ、少しずつ強くなれるんだと思う」


 母の言葉は真っすぐに胸に入ってきた。

 私は涙をこらえながら、唇を噛んだ。

「……学校に、戻りたい。さちたちと、また一緒に笑いたい」


 小さな声で絞り出したその言葉に、母は驚いたように目を見開き、それからやさしく微笑んだ。

「クラスが違っても、笑い合えるでしょ。さちはきっと待ってる」


 私は布団を握りしめてうなずいた。

 怖い。だけど――戻りたい。

 初めて、その二つの気持ちが同じ場所にあることに気づいた。



 その夜、私は夢を見た。


 学校の廊下。窓から差す午後の光が床を照らし、生徒たちの笑い声がこだましていた。

 廊下を歩いていると、向こうからさちが駆けてくる。

「なぎさ!」

 いつもみたいに手を振って、笑顔で。

 胸がじんわり温かくなる。

 ――ああ、また一緒にいられるんだ。


 駆け寄ろうとした瞬間、足が動かなかった。

 膝が鉛のように重く、前に出そうとしても一歩も進めない。

 「え……?」と声が漏れる。


 さちが手を伸ばしてくる。

「ほら、早く!」

 私は必死に腕を伸ばす。けれど指先は虚空を掴むだけで、さちには届かない。


「待って……行かないで……!」

 必死に叫ぶのに、声はかすれて廊下に届かない。

 周りの笑い声はどんどん遠ざかり、光が薄れていく。

 さちの姿も、霧のように溶けて消えた。


 ――ガバッと目を覚ました。

病室の天井。真夜中の静寂。

 心臓が破裂しそうに打ち、頬は濡れていた。


 暗闇の中、私は布団を握りしめて呟いた。

「……怖い」

 戻りたいのに、怖い。

 また届かないんじゃないか。また笑えないんじゃないか。

 胸が締めつけられる。


 でも同時に、夢の中で必死に伸ばした手の感覚が残っていた。

 ――あの手を、現実で掴みたい。


「……戻る。絶対に」

 声は震えていた。

 それでも、布団を濡らす涙の奥で、確かな決意が芽生えていた。



 リハビリを始めて二か月。

 日々の積み重ねは、確かに私を変えていた。


 最初の一週間は、立つだけで限界だった。

 足に体重をかけるたびに、骨の奥が軋むように痛んだ。

 汗と涙が混ざり、息をするのも苦しかった。

 「一秒でも早く座りたい」と何度も思った。

 それでも、支えてくれる理学療法士さんと母の声に背中を押され、

 ほんの数秒でも立っていられた日は、それだけで涙が出た。


 二週目には、杖を使って二歩、三歩と足を前に出す練習が始まった。

 足が自分のものじゃないみたいに重く、

 「進む」ことよりも「倒れない」ことに必死だった。

 けれど、母が小さく「できたね」と言ってくれた瞬間、

 胸の奥に小さな灯がともった。


 三週目、ようやく十歩ほど進めるようになった。

 杖の先が床を叩くたびにリズムを刻む。

 その音が「生きてる」と教えてくれるようで、

 少しずつ歩くことが怖くなくなっていった。


 四週目には、十五歩、二十歩と距離を伸ばし、

 廊下の窓際まで自分の足でたどり着けた。

 窓の外の空は高く、秋の風が遠くに揺れているのが見えた。

 その景色を見た瞬間、何かがじんわりと込み上げてきた。

 “ここからまた、歩いていけるかもしれない”――そう思えたのは、その日が初めてだった。



 五週目。

 足の筋肉痛はまだ残っていたが、痛みよりも達成感が勝るようになった。

 歩行器を使ってリハビリ室を一周できるようになり、

 母はそのたびに「すごいね」と笑ってくれた。

 その笑顔を見るのが嬉しくて、

 私は無意識にもう一歩、もう一歩と足を前に出した。


 六週目。

 リハビリの内容は少しずつ厳しくなった。

 手すりを頼らずに立ち上がる練習、階段の一段目を上がる練習。

 たったそれだけなのに、汗が背中を流れ落ちる。

 けれど、以前は怖くて仕方なかった“段差”に、

 この週になって初めて自分から足を伸ばせた。

 その瞬間、早苗さんが「いい顔してる」と笑った。


 七週目。

 杖を片手に、病棟の廊下を端から端まで歩けるようになった。

 まだバランスは不安定で、少しでも気を抜けば膝が崩れそうになる。

 それでも――自分の足で立っている、という実感があった。

 リハビリ室のドアを開けて出た瞬間、

 母が涙をこらえながら「もう、ちゃんと歩いてるじゃない」と言った。

 その言葉が、何よりのご褒美だった。


 八週目。

 外の光の下で歩く練習が始まった。

 秋風が肌を撫で、冷たい空気が頬に刺さる。

 それでも気持ちは不思議と軽かった。

 歩くたびに、過去の自分が一歩ずつ遠ざかっていくような気がした。


 母はその横で、いつも通り笑っていた。

 「焦らなくていいよ。ゆっくりでいい」

 その言葉に何度も救われた。


 歩くたびに汗は滝のように流れ、足は棒のように重くなった。

 倒れ込み、床に涙を落とした日もある。

 「もうやめたい」と心の中で叫んだ夜もあった。


 けれど母は、いつも隣で支えてくれた。


 病室に戻ると、母が買ってきたおにぎりを半分に分け合った。

 塩気の効いた鮭の味が、涙のあとでも温かかった。


 窓の外には、遠くに校舎の屋根が見える気がした。

 「今ごろ、さちは練習してるんだろうな」

 そんな想像をするだけで胸が熱くなる。


 怖さはまだ消えない。

 でも「昨日より少し前へ」という言葉を繰り返すうちに、気づけば十一月が迫っていた。


 ――十一月一日。復学の日。

 その朝を思うだけで胸が震える。

 それでも私は、二か月の積み重ねを信じた。

読んでくださりありがとうございました。

なぎさが「戻りたい」と願い、復学の日が決まるまでを描きました。

次章から、いよいよ学校での新しい日々が始まります。

引き続き応援してもらえると嬉しいです。


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