第九章 届かない笑顔と、母の涙
こんにちは、こんばんは、もくそんです!
事故から時間が経ち、なぎさの心はゆっくりと追い詰められていきます。
今回は「孤独」「後悔」「親子のすれ違い」が中心の章です。
少し重めの展開になりますが、最後まで読んでもらえると嬉しいです。
母に怒鳴ってから、病室の空気は一変した。
母は毎日のように顔を出すものの、ほとんど言葉を交わさなくなった。
私もまた、あのとき吐き出した言葉を思い返すたびに胸が痛み、素直に声をかけることができなかった。
重苦しい沈黙だけが、私と母の間に横たわっていた。
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夏休みも残りわずかとなった午後。
蝉の鳴き声は弱まり、窓の外には秋の気配が混じり始めていた。
本来なら友達と「夏の最後の思い出」を作っている時期。
でも私は病室で、動かない足と時計の音に縛られていた。
そんなとき――病室のドアが勢いよく開いた。
「なぎさ!」
さちだった。
その後ろから、バレー部の仲間たちも次々に顔を覗かせる。
日焼けした頬と弾む声。病室に一気に夏が流れ込んできた。
「元気にしてた?あんまり来れなくてごめんね!」
「プリン買ってきたよ! ほら、なぎさの好きなやつ!」
「そうそう、昨日ね、夏祭り行ってきたんだ!」
紙袋を机に置き、みんなは一斉に話し始める。
「浴衣で夏祭りに行ったんだけど、人混みでめっちゃ大変でさ!」
「さち、射的で当てた景品がチープすぎて大爆笑だったの!」
「でも金魚すくいはうまくいって、三匹も取ったんだよ!」
「へぇ……いいな」
私は笑顔を作って相槌を打った。
でも胸の奥では、「私はそこにいなかった」という事実がずっと突き刺さっていた。
「花火もしたんだ! 手持ち花火で名前書こうとしたら、失敗して『へ』みたいになって!」
「海も行ったよ! 砂浜でスイカ割りして、最後に全員で海に突っ込んだの!」
「……楽しそうだね」
口ではそう言ったのに、笑顔は引きつっていた。
みんなが笑えば笑うほど、自分だけ置いていかれる感覚が大きくなっていく。
夏休みという季節ごと、私の手の中からこぼれ落ちていくようだった。
(私だけ、何もない……)
胸の奥がじりじりと熱くなり、相槌を打つ声がだんだん小さくなっていく。
さちが「なぎさ?」と心配そうに顔を覗き込んだとき、私は無理やり笑顔を浮かべた。
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そして――誰かが言った。
「次の大会は絶対勝とうな!」
「なぎさが戻ってきたら、もっと強くなるよ!」
「キャプテン、頼むよ!」
その言葉で、もう限界だった。
笑顔が壊れ、胸に積もった苦しみが一気に溢れ出した。
「……やめて」
低くかすれた声に、みんなが一斉に振り向く。
「やめてよ! そんなこと言わないで!
……私の足はもう元には戻らないの! 何も知らないのに適当なこと言わないで!」
声が震え、涙がこぼれる。
仲間たちは息を呑み、顔から血の気が引いていく。
「そんな……嘘でしょ……?」
「だって、“治る”って……」
困惑の声が飛び交い、私の心にはそれすら鋭く突き刺さった。
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「お願いだから……もう来ないで!」
叫んだ声は涙に濡れ、病室に響いた。
さちの目に涙が浮かび、唇を震わせながら無理に笑おうとした。
「……わかった。また……ね」
それだけを残して、仲間たちは静かに立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく響く。
扉が閉まると、病室には押し潰されるような静けさだけが残った。
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(ほんとは……来てほしかったのに……)
私は枕に顔を押しつけ、声を殺して泣いた。
夏の笑い声が遠ざかるように、孤独だけが胸に沈んでいく。
夢を失った苦しみ。仲間に背を向けてしまった後悔。
二重の重さに押し潰され、涙は止まらなかった。
扉が閉まったあと、病室はまるで音を奪われたかのように静まり返った。
椅子の跡、机に残ったペットボトル、仲間たちが置いていった小さなお菓子の袋。その全てがまだ残っているのに、空気は一気に冷え込んでいた。
胸の奥から、どうしようもない声が浮かんでは消える。
自分で「もう来ないで」と突き放したくせに、その言葉の鋭さが今度は自分を刺してくる。
何をしても取り返せない。誰も戻ってこない。そう思った瞬間、涙がまたこぼれた。
夜の病院は、静けさが余計に重い。カーテン越しに差し込む街灯の淡い光が、私の影を病室の壁に伸ばしている。
その影は、自分よりもずっと孤独に見えた。
(どうして私だけ……)
記憶が頭をよぎる。
コートで汗を流した日々。仲間と笑い合った瞬間。キャプテンに選ばれて、震える声で「頑張る」と言ったあの夜。
どれも遠くて、戻れない別の世界みたいだった。
(もう全部……終わったんだ)
胸の奥に黒い塊が広がる。息を吸えばその塊が喉をふさぎ、息苦しさで涙が滲む。
(いなくなった方が楽なんじゃないか)
そんな考えが静かに浮かんだ。叫びでも祈りでもなく、ただの願いのように。
けれど、その考えに沈み込む勇気もない。ただ心が擦り切れていくだけ。
涙は止まらず、枕を濡らし続けた。
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そんな夜更け、扉が控えめに開く音がした。
「なぎささん……大丈夫?」
巡回の看護師・早苗さんが入ってきた。小さなライトを手にして、心配そうにこちらを覗き込む。
私は慌てて顔を伏せたが、涙の跡は隠せなかった。
早苗さんは無理に問いただすことはせず、ベッドの横に腰を下ろした。
「眠れなかったんだね。……ねえ、一つ聞いてもいい?」
私は小さくうなずく。
「先生からも聞いたんだけど、なぎささん、リハビリを始めたいって言ってたでしょ。……いつからがいいと思う?」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひどく冷たくなった。
(いつだって同じ。始めても、私はもう変わらない。どうせ、バレーなんてできない)
私は視線をそらし、かすれた声で答えた。
「……いつでもいいよ」
その声には希望も期待もなかった。ただ諦めの響きだけがあった。
早苗さんは一瞬黙り、私の手を少し強く握った。
「そっか。でも、何となくの目安があると気持ちの区切りになると思うんだ。どうかな……始業式の日に始めるっていうのは」
「始業式……?」
「うん。学校も動き出す日だし、仲間もまた新しい気持ちでスタートする日。なぎささんも、その日に合わせて動き出せば……一緒に“再スタート”できると思うの」
始業式の日。
私の胸には何の期待も湧かなかった。どうせ動けるようになったって、あの日々には戻れない。
それでも、早苗さんの言葉を否定する気力も残っていなかった。
「……分かった。始業式の日、で」
私は疲れたようにそう答えた。希望ではなく、ただ流されるように。
早苗さんはそれでも微笑んだ。
「ありがとう。私たちでちゃんと調整しておくから。無理のない形で、少しずつ始めようね」
私は小さくうなずいた。心の奥に残るのは、絶望の冷たさだけ。
けれど“始業式の日”という言葉は、まるで小さな杭のように胸に打ち込まれた。希望ではない。ただ、避けられない未来の印として。
早苗さんは立ち上がりかけて、ふと私を見つめ直した。
「……それとね。お母さんのこと、少し話してもいい?」
私は驚いて顔を上げた。
「お母さん……?」
「うん。毎日病院に来てるのよ。部屋には入らなくても、必ずナースステーションに寄って“娘はどうしてますか”って聞いていくの。
今日も、あなたの顔を見たいのをこらえるみたいに、泣きそうな目で帰っていったわ」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
母は私を避けていると思っていた。怒っていると思っていた。
でも――本当は。
私はシーツを握りしめ、震える声でつぶやいた。
「……私、ひどいこと言ったのに」
「それでも、お母さんは来てる。
きっと、どうすればいいのか分からないのは、あなたと同じなんだと思う」
私は唇を噛み、何度もうなずいた。
胸の中に、冷たい絶望と同じくらい、あたたかな後悔が入り混じる。
早苗さんは優しく微笑み、立ち上がった。
「少しずつでいい。お母さんに会う準備も、リハビリもね」
扉が閉まる音がして、病室は再び静けさを取り戻した。
私は涙で濡れた枕に顔をうずめながら、“始業式”という言葉と“お母さん”の顔を何度も思い浮かべた。
それは希望でも絶望でもない。
けれど、暗闇の中に細い線を引くような感覚が確かにあった。
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ふいに、父のことが胸に浮かんだ。
――そして、もっと前のこと。
母の涙を初めて見た日の記憶が、暗闇の奥からひっそりと姿を現した。
父が事故で亡くなった日のことは、今でも胸の奥に焼きついている。
夕方、家の電話が鳴った。
受話器を取った母の顔が、一瞬でこわばった。
「……はい……主人が……」
母の声は震え、今にも消え入りそうだった。
私は小さな手で母の袖をつかみ、「お父さんは?」と尋ねた。
母は目を伏せ、作り笑いを浮かべて「大丈夫。すぐ帰ってくるから」と言った。
その言葉を信じたかった。信じなければ、心が壊れそうだった。
しかしすぐに、警察官と病院の人が来て、母に事情を説明した。
「事故」「重体」――その言葉は幼い私には難しく、意味を理解できなかった。
ただ、大人たちの顔がひどく暗くて、胸の奥がざわざわした。
母は唇を強くかみ、私の手を握りしめて病院へ連れていった。
冷たい白い廊下。
母の握る手は温かいのに、少し震えていた。
私は怖くて「お父さんは?」と繰り返した。
母はかすれた声で「大丈夫だよ」と答えたけれど、その言葉の奥にある影を私は敏感に感じ取っていた。
処置室の扉の前で待たされる時間は、永遠に続くように思えた。
母が戻ってきたときの顔を、私は一生忘れない。
強く、凍りついたように表情を保ちながら、その目は深い深い悲しみに沈んでいた。
それでも母は、涙を見せなかった。
私を抱きしめ、「お父さんは天国からずっと見ててくれるよ」と囁いた。
私は「天国」という言葉を理解できず、「じゃあ、いつ帰ってくるの?」と聞いた。
母は声を震わせて笑い、「大丈夫だよ、見守ってくれてるから」と繰り返した。
その瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
――嘘だ。
けれど、その嘘にすがるしかなかった。幼い私はそうやって自分を守った。
葬儀の日。
棺の中で眠るように横たわる父を見ても、私はただ「早く起きて」と願い続けていた。
参列者がすすり泣く中で、母だけは泣かなかった。
背筋を伸ばし、ひとりひとりに深々と頭を下げ続けた。
私は混乱して、「お母さん、泣かないの?」と聞いた。
母は笑って、「泣かないよ、大丈夫だよ」と答えた。
その声が優しくて、だからこそ怖かった。
夜、目を覚ましたとき。
廊下の向こうから、かすかな嗚咽が聞こえてきた。
台所の隅で、母が膝を抱えて泣いていた。
小さな背中が震えていて、床に落ちる涙がぽたり、ぽたりと音を立てた。
私は足がすくみ、冷たい廊下に立ち尽くした。
昼間の母の「強さ」と、夜中の「弱さ」があまりに違って、幼い心は混乱した。
その時に知った。
母は泣いていないんじゃない。泣けないんだ。
私の前でだけは、必死に笑って「大丈夫」と言い続けていたのだ。
――そして、それからも母はそうやって私を守ってきた。
熱を出して寝込んだ夜、母は眠らずに氷枕を取り替え続けた。
試合で負けて泣いた日、玄関で崩れ落ちた私を抱きしめ、「悔しいね」と背中をさすってくれた。
部活帰りの遅い夜には、必ず「おかえり」と声をかけてくれた。
深夜まで働いた帰りでも、机の上には私のために用意されたご飯があった。
靴がボロボロになったとき、無理をしてでも新しいシューズを買ってくれた。
受験前、不安で眠れない夜は、母が隣に座り、私が眠るまで「大丈夫だよ」と言い続けてくれた。
思い返せば、数え切れないほど母に守られてきた。
そのたびに私は安心し、また前に進む力をもらった。
――なのに。
私は、あんなひどいことを母に言ってしまった。
「どうせ分かってくれない」なんて。
本当は、誰よりも分かろうとしてくれていたのに。
母がどれほどの涙を隠し、どれほどの嘘で私を守ってきたか、分かっていたはずなのに。
胸の奥が焼けるように痛む。
暗闇の中で布団を握りしめながら、私は何度もつぶやいた。
「……ごめんね、お母さん」
その言葉は届かず、静かな夜に溶けて消えていった。
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朝。
窓から差し込む光で目を覚ました私は、胸の奥に昨夜の後悔を重く抱えたまま、ゆっくりと身を起こした。
けれど体を起こしただけで、胸の奥がきゅうっと痛む。
謝りたいのに言えない。母の顔を思い浮かべるだけで、心臓が乱れて息苦しくなる。
ノックの音。
反射的に布団を握りしめた。
扉が開き、母がそっと入ってきた。
目が合った瞬間、胸が凍りついた。
たった数秒のことなのに、何分も見つめ合ったように感じた。
けれどすぐに私は視線を落とし、母もまた目を逸らす。
沈黙が落ちた。
母はベッド脇に腰を下ろし、整っていた毛布の端を指先で直す。
その仕草はいつもの母なのに、どこかぎこちない。
直さなくてもいいはずの皺を、何度も撫でるように伸ばしている。
気まずさを紛らわせるための動作だと分かって、余計に胸が締めつけられた。
「……ご飯、食べられそう?」
母がようやく絞り出した声は、少し上ずっていた。
私は小さく「うん」と答える。
声が震え、喉が乾いていた。
それ以上の言葉は出なかった。
母も黙り込んだ。
病室には、心拍計の音だけが一定のリズムを刻んでいた。
それがやけに大きく響いて、余計に気まずさを際立たせた。
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昼過ぎ。
点滴の交換のために、早苗さんが病室に入ってきた。
明るく「調子はどう?」と声をかけるが、その視線はどか探るように私と母を行き来していた。
「腕、少し楽になった?」
「……はい」
私が小さく答えると、早苗さんは「そっか」と微笑みながら、母に「少し手を貸してください」と声をかけた。
母がベッド脇で点滴の袋を支つつ、私はちらりと顔を上げた。
そのとき、早苗さんと目が合った。
――“言いなさい”
声には出していない。
でも確かにそう訴えていた。
片眉を上げたその合図は、強く、優しく背中を押すようだった。
心臓が跳ねる。
言わなきゃいけないのは分かっている。
でも怖い。
謝った瞬間、母に「遅い」と突き放されたらどうしよう。
母はそんなことを言わないってわかってるのに、口に出すのが怖かった。
許してもらえなかったらどうしよう。
「……」
唇が震える。
声にならない。
私は布団をぎゅっと握りしめて、目を伏せた。
早苗さんは何も言わず、点滴の滴下を確認して退出した。
扉が閉まった途端、静寂が落ちた。
残されたのは、私と母だけ。
⸻
母は窓の外を見ていた。
背中が少し丸くなっていて、疲れがにじみ出ていた。
それを見て、また胸が痛んだ。
謝りたい。
でも、もしも母が怒っていたら。
もしも、私のことをもう見放していたら。
そう考えると、声が喉の奥で固まって動かなかった。
深呼吸をしてみる。
でもすぐに息が浅くなる。
心臓の音が耳に響き、涙がにじむ。
頭の中に、これまでの母の姿が浮かんだ。
――熱でうなされた夜、眠らずに看病してくれた母。
――試合で負けて泣いた私を抱きしめてくれた母。
――夜遅くまで働いても「おかえり」と迎えてくれた母。
――父を失った時でさえ、「大丈夫だよ」と笑ってくれた母。
その全部が、私を守ろうとしてくれていた姿だった。
なのに、私は――。
「……お母さん」
勇気を振り絞って呼んだ。
母の肩がびくりと揺れる。
ゆっくりと振り返ったその瞳は、不安と優しさが入り混じっていた。
言葉が喉で絡まる。
でも、もう逃げたくなかった。
「ごめん……あんなこと言って、ごめんなさい……」
声が震え、涙が頬を伝って落ちた。
母は驚いたように瞬きをして、それから表情を崩した。
唇をきゅっと結び、そっと椅子に腰を下ろして、私の手を両手で包んだ。
「……謝らなきゃいけないのは、私のほうだよ」
「なぎさを守りたくて、強がって……本当のことをちゃんと話せなかった。
本当は、あなたが一番現実と向き合わなきゃいけないのに……私が怖くて逃げてただけなのに」
母の手は小さく震えていた。
それでも、その温かさは少しも変わっていなかった。
「“きっと治る”“大丈夫”って、あなたが聞きたいだろうと思う言葉ばかり言って……
それで余計に、なぎさの心を苦しめてしまったね。
本当に、ごめんね……つらい思いばかりさせて、ごめん……」
最後の言葉は、ほとんど涙に溶けていた。
私は泣きながら、母の手をぎゅっと握り返した。
それだけで、胸の奥の凍りついていたものが、少しずつ溶けていくのを感じた。
病室の午後は静かだった。
けれどその静けさの中に、やわらかな光が差し込んでいるように思えた。
読んでいただきありがとうございました。
なぎさの心の中に積もっていた想いが、ようやく“言葉”になった章でした。
次の章では、ここから少しずつ動き出していきます。
引き続き応援してもらえると嬉しいです。




