第八章 動き出す日々と、焦る気持ち
こんにちは、こんばんは、もくそんです。
なぎさが少しずつ前に進もうとする一方で、心が追いつかない場面が続きます。
この章では、希望と不安、そして“真実”に触れた瞬間の揺れを描きました。
気持ちがしんどくなる描写がありますが、ぜひ最後まで読んでいただけると嬉しいです。
翌朝。
医師の回診を待っていた私は、胸の奥でずっと同じ言葉を繰り返していた。
(リハビリ……始めたい。早く……前に進みたい)
白衣の足音が近づく。ベッドの横に立った医師は、穏やかな表情で私を見下ろした。
「鈴野さん、調子はどうですか?」
少し迷ったけれど、私は意を決して口を開いた。
「先生……私、リハビリを始めたいです」
医師は一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから眉を下げて柔らかく微笑んだ。
「気持ちは素晴らしいですね。ただ、まだ手術から日が浅いんです。体は思っている以上にダメージを受けています。今はまず、体力を取り戻すことが一番です」
「……分かってます。でも、じっとしていると不安で……。早く動き出さないと、自分が自分じゃなくなってしまいそうで」
声が少し震えた。
けれど、それが今の私の本心だった。
医師はしばし黙り込み、やがてゆっくり頷いた。
「その気持ちを持ち続けてください。それが回復への力になります。焦らず、でも諦めずに。……始められる時は、そう遠くないはずです」
その言葉に、小さな光が胸の奥に芽生えた。
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午後二時を過ぎたころ。
病室のドアがノックされ、勢いよく開いた。
「なぎさ!」
真っ先に駆け寄ってきたのは、ジャージ姿のさちだった。
後ろからは部員たちがぞろぞろと続いて入ってくる。髪がまだ汗で湿っていて、ボールの匂いをまとった空気が病室に流れ込んできた。
誰もが練習帰りの顔。少し息が上がったままの子もいれば、ジャージの袖で額を拭っている子もいる。
「練習帰りに寄ったんだ。……おばさんから聞いたよ」
さちは声を落としながら、私の顔を覗き込んだ。
その視線に胸がちくりと痛んだ。
母が、もう伝えていたんだ。
「うん……足はしばらく動かない。でもね、リハビリを頑張れば、また戻れるって」
私がそう言うと、空気がぴたりと張りつめた。
泣きそうに唇を噛む子。無理に笑顔を作ろうとしてうまくできない子。
それぞれの表情に「怖い」「心配」「信じたい」が入り混じっていた。
沈黙が怖くて、私はわざと大げさに笑ってみせた。
「そんなに深刻な顔しないで! ほら、こうして喋れるし元気だから。今なら応援団長くらいはできるしね」
一瞬、部屋が静まった。
けれど次の瞬間、誰かが小さく「ふふっ」と笑い、それに釣られるように周りからも笑みがこぼれた。
「応援団長かぁ……確かに声は大きいよな」
「マイクいらずだもんね」
軽口が飛び交い、少しずつ部屋に明るさが戻っていった。
私は胸の奥がじんわり温かくなるのを感じながら、仲間の顔を見渡した。
そこにあるのは、心配と、それ以上の“信じてくれる気持ち”。
さちが私の手を握りしめる。練習で冷たくなった指先が、確かに熱を伝えてくれる。
「なぎさ、絶対戻ってきて。私たち、待ってるから」
涙が出そうになったけれど、私は強く頷いた。
「うん……必ず戻る」
その言葉は自分自身への誓いでもあった。
病室に漂う汗と笑い声に包まれながら、私ははっきりと想像していた。
――もう一度、コートに立つ自分の姿を。
仲間たちが病室を後にすると、急に静けさが広がった。
ついさっきまで響いていた笑い声や、ジャージの擦れる音が耳の奥に残っている。
部屋の空気にはまだ練習帰りの熱が漂っていて、それが去っていくと同時に、ぽっかり穴が開いたような気持ちになった。
(……さっきまで、ボールを追いかけてたんだろうな)
ほんの数時間前まで、体育館で仲間と声を張り上げていたはずだ。
その熱をまとったまま、わざわざ私のもとに駆けつけてくれた。
ありがたいのに、胸の奥がチクリと痛んだ。
枕元のスマホが震え、小さな光が画面を照らす。
メッセージは、さちからだった。
――合宿で少しの間行けないけど、また行くね。絶対。
指先が止まる。
短い言葉なのに、胸の奥に温かさが広がった。
けれど同時に、寂しさも込み上げてくる。
「行けない」というたった四文字が、思っていた以上に重くのしかかってきた。
(合宿……そっか、もうすぐだったんだ)
毎年、夏の合宿はチームにとって大事な時間。
先輩から受け継いだ練習メニューをこなし、後輩に声をかけ、仲間と寝食を共にする。
あの濃い日々を、私はもう経験できないのかもしれない。
その事実に、胸が締めつけられた。
でも、メッセージの最後の言葉が、私を強く抱きとめてくれる。
――また行くね。絶対。
その「絶対」が、さちらしくて。
その言葉に、どれほど救われるか分からなかった。
私はスマホを胸に抱きしめ、天井を見上げる。
浮かんでくるのは、汗だくになってボールを追う仲間たちの姿。
それは切なくて、眩しくて――でも、背中を押してくれる光景だった。
「……私も、負けてられない」
ぽつりと声に出す。
コートには立てなくても、今できることがある。
リハビリを頑張って、必ずまた仲間の輪に戻る。
画面をそっと閉じると、胸の奥に小さな炎が灯った。
それはまだ弱々しいけれど、確かに消えない炎だった。
数日が経った。
まだ足は動かないけれど、体力は少しずつ戻ってきている。
今日は担当医や看護師の許可を得て、車椅子で病棟内を移動できるようになった。
初めて廊下に出た瞬間、胸がどきどきしていた。
消毒液の匂い、誰かの笑い声、廊下の窓から差し込む光――それらすべてが新鮮に感じられた。
ベッドに横たわったままでは見えなかった世界が、目の前に広がっている。
(……やっと、少し自由になれた気がする)
廊下の突き当たりで車椅子を止め、深呼吸をした。
小さなことでも、自分が前に進めているような気がして、胸が少し温かくなる。
***
病室に戻ろうとすると、扉の前に立っていた人影がこちらを振り向いた。
「なぎさ!」
声を上げたのは、さちだった。
数日ぶりに会う彼女は、どこか日焼けしていて、合宿を終えたばかりの空気を全身に纏っていた。
少し疲れた顔をしているのに、目だけはまっすぐ輝いていて、その姿に私は思わず笑みをこぼした。
「さち……おかえり」
「うん、ただいま!」
さちは満面の笑みで答え、すぐに車椅子の後ろに回り込んだ。
「ねえ、屋上に行こうよ。さっき患者さん同士が“あそこ人気なんだよ”って話してるの聞いちゃってさ」
そう言って、悪戯っぽく口角を上げる。
「ちょっと盗み聞きしたんだ。……でも気になっちゃって」
その仕草がなんだかさちらしくて、私は吹き出しそうになった。
ほんの少し怖さもあったけれど、同時に“行ってみたい”という気持ちが確かに湧き上がっていた。
***
屋上の扉を開けると、強い光と風が一気に押し寄せてきた。
真っ青な空。入道雲が高くそびえ、遠くの街並みがかすんで見える。
病室の白い天井とは比べ物にならないほど広大な景色が、視界いっぱいに広がった。
「……すごい。空、こんなに広かったんだ」
思わずつぶやいた私の横で、さちが「ふふっ」と得意げに笑った。
「ね、来てよかったでしょ。噂通りだった」
風に髪を揺らされながら、しばし二人で空を仰いだ。
やがてさちは私の前に立ち、真剣な眼差しを向けてきた。
「……なぎさ。おばさんからなぎさが事故にあったで聞いた時……もう、信じられなかった。胸がぎゅってなって……怖くて……」
さちの声が少し震えた。
普段は強くて、笑顔でみんなを引っ張る彼女が、今こうして素直に不安を打ち明けている。
「合宿に行ってても、ずっと頭から離れなかった。大丈夫かなって、心配で心配で……」
私は胸が熱くなった。
そんなにも想ってくれていたことが、嬉しくて、切なくて。
「だから……時間がかかってもいいからコートに戻ってきて。みんなと一緒に、またバレーしよ」
風が吹き抜け、彼女の声をさらう。
けれど、その言葉は確かに私の胸に深く刻まれた。
「……うん。必ず戻る。リハビリして、絶対に」
涙が込み上げそうになったけれど、私は笑顔で答えた。
その瞬間、さちの表情がふっと和らぎ、安堵の色が浮かんだ。
「よかった……ほんとによかった。」
二人の間に、しばし言葉のいらない沈黙が流れた。
ただ、風と青空だけがそこにあった。
やがて、さちが少し照れたように笑って言った。
「また来るね」
私は大きく頷き、力いっぱいの声で返した。
「うん!待ってる!」
その声は風に乗って空へと広がり、二人の笑顔を包み込ん
さちが「また来るね」と笑って去っていくと、病室に再び静けさが戻った。
扉が閉まる小さな音がやけに大きく響いて、その余韻の中で私はぼんやりと天井を見上げた。
さっきまで確かにここにあった笑い声や、車椅子を押してくれた温もりがまだ残っている。
耳の奥には、風に混じって聞こえたさちの声が何度も反響していた。
(……さちがいると、全然違う)
1人でいるときは、どうしても未来のことばかり考えてしまう。
足は本当に治るのか。
リハビリしても、コートに戻れる保証はない。
練習に遅れたら、みんなに迷惑をかけるんじゃないか。
そんな不安が次から次へと湧いてきて、胸の中を黒く塗りつぶしていく。
夜になるとそれはさらに強くなり、暗い天井を見つめながら涙を堪えた日もあった。
孤独は思っていた以上に重くて、時に押し潰されそうになる。
でも――。
さちと会って、話して、笑っていると、そんな不安はどこかに飛んでいってしまう。
未来のことなんて考えられないほど、ただ“今”が楽しくて、温かくて。
「友達って……すごいな」
思わず小さくつぶやいた。
たった一人の存在が、こんなにも心を軽くするなんて知らなかった。
もし、私が一人きりでこの日々を過ごしていたら――想像するだけで怖くなった。
***
夕方、カーテンの隙間から差し込む光がオレンジ色に変わり始めたころ、病室のドアが静かに開いた。
制服姿の母が立っていた。
おそらく一日中働いてきたのだろう、少し疲れた表情。
けれど私を見ると、ふっと顔を緩ませて「ただいま」と微笑んだ。
その笑顔に、胸がじんわりと温かくなる。
母の姿は、私にとって一番安心できる風景だった。
「今日ね、さちが来てくれたんだ」
ベッド脇に腰掛ける母に、私は弾む声で話し始めた。
「合宿から帰ってきたばかりなのに、すごく心配してて……。
一緒に屋上に行ってくれて、空を見たんだ。青くて、広くて、気持ちよくて……なんだか自由になれた気がした」
言葉にするたび、その光景が鮮やかに蘇る。
さちが照れくさそうに笑った顔も、真剣に「戻ってきてほしい」と言った声も。
「“またコートに戻ってきて”って、さちが言ってくれたんだ。だから私、ちゃんと“戻る”って約束したんだよ」
母はじっと聞いていた。
そして目元に手を当て、小さく息を吐いた。
笑っているのに、その目には光るものがにじんでいた。
「……よかったね、なぎさ。いい友達に恵まれて」
その声は少し震えていて、胸に沁みこんでくる。
母もきっと、私のことを心配でたまらなかったのだろう。
でも今の私を見て、安心してくれている――それが何よりも嬉しかった。
***
やがて母は「もう遅いし、そろそろ帰るね。明日も来るから」と言って立ち上がった。
名残惜しさを抱えながら、私は「うん」と笑顔で頷いた。
ドアが閉まると、再び病室には静寂が広がった。
でも、さっきまでとは違う。
孤独の冷たさではなく、胸の中に残った温もりが、静けさを優しいものに変えていた。
ベッドに横たわり、目を閉じる。
まぶたの裏には、さちの笑顔と母の声が重なっていた。
(……今日は、眠れそうだ)
そう思った瞬間、心地よい眠気が訪れ、私は静かに夢の世界へと落ちていった。
数日が過ぎ、病院での生活にも少しずつ慣れてきた。
最初は時間が止まったように感じていた日々も、今では看護師の笑顔や廊下に響く声に囲まれて、流れるように過ぎていく。
それでも、病室に閉じこもっていると気持ちが沈んでしまう。
だから私は車椅子に乗り、院内を動き回ることが多くなった。
窓から差し込む光や、庭に咲いた花を見つけるだけで、ほんの少し気持ちが上向くのだ。
***
ある日、診察室で先生に思い切って口にした。
「先生、私……またリハビリを始めたいです」
その言葉に、先生は少し驚いたように目を丸くし、それから優しく頷いた。
「……そうか。気持ちは少し早いけれど、悪いことじゃない。じゃあ、明後日くらいから始めようか」
「ほんとですか!」
胸の奥に明かりが灯るような感覚が広がった。
リハビリという言葉が、未来への道を開いてくれるように思えた。
私はウキウキしながら病室に戻り、ベッドに横たわると、いつの間にか眠りに落ちていた。
***
目が覚めたのは夕方。
オレンジ色の光がカーテン越しに揺れ、病室の時計は五時を指していた。
(……また車椅子で動こうかな)
そう思って車椅子に乗り、廊下に出たときだった。
少し先で、母と先生が立ち話をしているのが見えた。
先生は真剣な表情で、母は俯き、肩を震わせていた。
私は息を呑んだ。声をかけようとした足が、いや、車椅子の動きが止まる。
耳に届いた言葉に、全身が凍りついた。
「……リハビリをしたいと、なぎささんから言われました」
先生の低い声。
「ですが……正直に言えば、バレーボール復帰は不可能です。
これ以上、嘘をつき続けるのは良くないと思います。……そろそろ、本当のことを伝えるべきです」
母の目には涙が溢れていた。
必死に首を振り、震える声で答える。
「でも……あの子から希望まで奪ったら……あの子は立ち直れなくなってしまう……!」
胸の奥が冷たく締め付けられる。
今まで信じてきた未来が、足元から崩れ落ちるような感覚。
私は声も出せず、ただ廊下の影に身を潜めるしかなかった。
母と先生のやり取りは、鋭い刃物のように心に突き刺さった。
廊下の影で耳にした言葉が、胸の奥で何度も反響していた。
「バレーボール復帰は不可能です」――。
たった一言なのに、すべてが壊れた。
夢も、仲間との未来も、母の「大丈夫」という言葉さえも。
私は震える手で車椅子のブレーキを強く握りしめた。
爪が食い込み、白くなる。
それでも、涙は止まらなかった。
***
病室に戻っても、心臓の鼓動は止まらない。
喉が焼けるように乾き、呼吸すら苦しかった。
ただ、ひとつの思いだけが頭の中で渦を巻く。
(お母さん……嘘ついてたんだ……)
その瞬間、扉が開いた。
母が入ってきた。
さっきまで泣いていたはずの目を必死に隠すように、笑顔を作って。
「なぎさ、どう? 今日は……調子、良さそうね」
その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
「……やめてよ」
「え?」
母が戸惑った顔を見せる。
私は唇を震わせながら、声を張り上げた。
「もう……やめてって言ってるの!」
***
涙が一気にあふれ出す。
叫びは嗚咽に混じりながら、止められない。
「足もう治らないんでしょ!? 最初から知ってたんでしょ!?
なのに……どうして“治る”なんて言ったの!? なんで嘘ついたの!?」
母は青ざめた顔で立ち尽くす。
それでも否定はしない。
ただ震える手を握りしめ、耐えるように私を見つめていた。
「私……信じてたのに……! リハビリすれば絶対戻れるって、そう思って頑張ってきたのに!
さちにも、チームのみんなにも約束したのに……! 全部、嘘だったの!?」
母は何か言おうと口を開いたが、声にならなかった。
ようやく絞り出したのは、涙に濡れた小さな声。
「ごめんなさい。……守りたかったの。……」
「守る!? 嘘で!? 私を騙して!?
それが“守る”ことなの!? 私は……私は信じてたのに……!」
母の肩が大きく揺れる。
本当は抱きしめたいのだろう。
でも、私の剥き出しの怒りが壁になって、母は一歩も近づけない。
「……ごめんね、なぎさ」
その一言は、あまりに脆くて、余計に胸を抉った。
「出てって……! もう、顔も見たくない!」
***
重い沈黙。
母は震える唇を噛み、涙をこらえきれず、ただ小さく頷いた。
そして、振り返ることなく病室を出て行った。
扉が閉まる音が、心臓を殴るように響いた。
残された部屋は、あまりにも静かだった。
時計の針が進む音、カーテンが揺れる音さえも胸を突き刺す。
私は枕に顔を押しつけ、声を殺して泣いた。
(どうして……どうして私だけ、こんな目に……)
夢を失う痛み。
大切な母に裏切られた絶望。
二つの感情が胸の奥でぐちゃぐちゃに絡まり、抜け出せない闇へと引きずり込んでいく。
眠れない夜が、果てしなく続いていった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
なぎさにとって大きな転機になる章でした。
次回は、今回の出来事を受けて心がどう動くのか――その続きになります。
引き続き読んでもらえると作者の励みになります!




