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第七章 動かない足と止まった時間

こんにちは、こんばんは。

第七章では、なぎさの事故後の状況と、母の視点で描かれる「もう一つの時間」を扱っています。

少し重い内容ですが、ここを越えて、なぎさの物語は次の段階へ進んでいきます。

静かに読んでもらえたら嬉しいです。



――これは、なぎさが意識を失った瞬間から“少し時間を巻き戻した場面”。

あの時、別の場所で何が起きていたのか──その続き。


 ――一本の電話。

 母はただならぬ気配を感じながら、電話に出た。


「鈴野なぎささんのお母様でしょうか。」

若い男性の真剣な声がした。

「はい。そうですが、どちら様でしょうか」

「お嬢さんが……交通事故に遭われました。これから救急車で若葉医療センターに行きます。お母様もすぐにこちらへ……」


 その言葉を聞いた瞬間、全身の血が一気に逆流した。

 手からスマホが滑り落ち、足元に鈍い音を立てて転がる。

 職場の仲間が心配そうに声をかけてきたが、耳には何も入らなかった。


(事故……? なぎさが……?)


 胸が押し潰される。

 呼吸がうまくできない。

 耳の奥で、過去の記憶が勝手に蘇る。


 ――サイレンの音。

 ――白い廊下に響く足音。

 ――「お連れしましたが、助かりませんでした」という            冷たい声。


 夫を突然奪った、あの忌まわしい日。

 あのときも「事故」という一言で、世界がすべて崩れ落ちた。


(いやだ……もう二度と、誰も奪わないで……!)


 気づけば書類も鞄も置きっぱなしで、母は建物を飛び出していた。

 タクシーを捕まえる手は震え、声は裏返っていた。


「若葉医療センターまで! できるだけ早く!」



 病院に着くと、真っ先に目に入ったのはストレッチャーに乗せられた娘の姿だった。

 全身が冷水を浴びせられたように震える。


「なぎさっ!」


 駆け寄ろうとしたが、看護師に制止された。

 なぎさの顔は青ざめ、汗と血で乱れた髪が頬に張りついている。


「お母さまですね?」

 医師が駆け寄ってきた。


「娘さんは骨折と神経の損傷が疑われます。すぐに手術が必要です」


「……お願いします! どうか……どうか助けてください!」


 震える手で承諾書にサインをする。文字が滲み、紙に涙のしずくが落ちた。



 手術室の赤いランプが点灯する。

 母はただ廊下の椅子に腰を下ろすしかなかった。


 秒針の音が、やけに大きく聞こえる。

 時計の針は確かに進んでいるはずなのに、まるで止まっているかのように感じた。

 両手を強く握り合わせ、祈るように天井を見上げる。


(お願い……神様……あの子の未来を、奪わないで……)


 白い壁、蛍光灯の冷たい光、消毒液の匂い――どれもが容赦なく不安を煽った。

 胸の奥が張り裂けそうで、涙を流すことすらできなかった。



 数時間後、長い手術が終わり、医師が現れる。

「命は助かりました。ただ……後遺症が残る可能性があります。神経の損傷が大きく、今までのように歩ける保証はありません」


 母は必死に声を絞り出した。

「……娘は、バレー部で……キャプテンに選ばれたばかりなんです。これから、仲間を引っ張っていくはずで……バレーは、できるんですか?」


 医師は一瞬言葉を探し、それから静かに首を振った。

「……厳しいと思います」


 その瞬間、母の胸の奥で何かが崩れ落ちた。


 試合の日、汗に濡れたユニフォームを着て仲間と笑っていた姿。

 夜遅くまで机に向かい、戦術ノートにびっしり書き込んでいた姿。

 キャプテンに選ばれて、不安と誇らしさが混じった顔で「頑張る」と言っていた声。


(あの子の未来は、これからだったのに……!)


 涙が込み上げるのを必死に飲み込んだ。

 ここで泣いたら、なぎさを絶望させてしまう。



 さらに警察が来て事情を告げた。

「加害者は中学生です。スマートフォンを操作しながら自転車に乗り、前を見ていなかった。ブレーキもかけずに……」


 母の指先が震えた。

 怒りと悲しみが同時に込み上げる。

 けれど今は、その感情に飲み込まれてはいけない。

 なぎさを守らなければ――ただその一心で立っていた。



 病室で眠るなぎさの手を握る。

 冷たく、細い指先。

 それでも確かに、生きている温度がそこにあった。


(よかった……生きていてくれて……)


 涙が頬を伝う。

 でも、すぐに胸の奥に重い現実がのしかかる。

 あの子はきっと問うだろう。

 「私、どうなるの?」と。


 母はそのとき、心に決めた。


 ――嘘をつこう。


 本当は、一生後遺症が残るかもしれない。

 バレーも、もう二度とできないかもしれない。

 それでも、この子から希望まで奪うことはできない。


 髪を撫でながら、母は祈るように心で叫んでいた。

 ――どうか、この子がまた笑える日が来ますように。



 ――まぶたが重い。

 どこか遠くで「ピッ、ピッ」と機械の音が聞こえる。

 ゆっくりと目を開けると、白い天井が広がっていた。


(……ここは、病院……?)


 ぼんやりとした視界の中で、母がベッドのそばに座っているのに気づいた。

 その目は赤く腫れていたが、笑顔を作ろうとしていた。


「……お母さん」


「なぎさ……よかった、目が覚めて……」


 震える声を押し殺すようにして、母は私の手を握りしめた。



 それより少し前。

 母は手術を終えた医師に呼ばれ、別室で説明を受けていた。


「命は助かりました。しかし神経に大きな損傷があります。……正直に言えば、これまでのように自由に歩ける保証はありません」


 母は顔を歪め、必死に問いかけた。

「……娘は、バレーをやっているんです。キャプテンに選ばれたばかりで……それでも、リハビリをすれば……」


 医師は慎重に言葉を選んだ。

「改善の可能性はあります。ただ、現実は厳しいでしょう」


 母は強く息を呑み、そして頭を下げた。

「先生……お願いです。なぎさには“治る可能性がある”と伝えてください。あの子から希望まで奪いたくないんです」


 しばし沈黙のあと、医師は小さく頷いた。

「分かりました。……希望を持つことも、回復に必要な力ですから」



 ベッドの横で、医師が私に声をかける。

「鈴野さん、よく頑張りましたね。命は助かりました。足の神経に損傷がありますが、リハビリを続ければ改善する可能性は十分にあります」


 その言葉に、胸の奥で小さな光が灯った。

「……ほんとに、治るんですか?」


「はい。時間も努力も必要ですが、希望を持ってリハビリに取り組むことが大切です」


 母がすぐにうなずいて、私の肩を抱いた。

「ね、大丈夫。お母さんもついてるから」

 その言葉に、不安でいっぱいだった胸が少しだけ和らいだ。



「……どうして、私……こんなことに?」

 掠れた声で尋ねると、母は一瞬視線を落とし、それから静かに答えた。


「警察の人から聞いたの。……中学生の子がね、自転車に乗りながらイヤホンをして、スマホをいじっていたの。前を見ていなくて、あなたに気づけなかったんだって」


 呆然とした。

 そんな、ただそれだけのことで……私の足は……。

 胸の奥に怒りとも悲しみともつかない熱い塊が広がっていく。


 けれど、すぐに母が言った。

「大丈夫。リハビリをすれば、必ずよくなるわ」


 その声に縋らなければ、心が壊れてしまいそうだった。


(治る……リハビリすれば、治るんだ……)


 布団の下で足を動かそうとした。

 けれど、鉛のように重く、わずかも反応しない。


 不安が押し寄せる。

 それでも必死に心の中で繰り返した。

(治る。……絶対に、治るんだ……)



 夜になり、母は「必要なものを持ってくるから」と病室を後にした。

 その背中を見送った瞬間、静寂が広がり、胸にぽっかり穴が開いたような感覚が押し寄せる。


(ほんとに……治るのかな。コートに、また立てるのかな……)


 闇に沈む天井を見つめながら、私は母の言葉を何度も思い返していた。

 それは不安に飲み込まれそうな心を、かろうじて繋ぎ止める一本の糸だった。

 夜の病室は、ひどく静かだった。

 母が「必要なものを持ってくるから」と言って出ていったあと、残されたのは私と、機械の小さな音だけ。


 ――ピッ、ピッ。


 一定のリズムが、やけに耳に響く。

 さっきまで母が握ってくれていた手の温もりが消えていき、胸の奥に冷たい寂しさが広がった。


(……私の足、ほんとに……治るのかな)


 布団の下で足を動かそうとする。

 けれど、鉛の塊のように沈んだまま、まったく反応がない。

 その現実が胸を締めつけ、涙が頬を伝った。


「……っ……」


 でも同時に、母の声がよみがえった。


――リハビリをすれば、治る。


 不安で押し潰されそうな心に、その言葉だけが残っている。

 暗闇の中の小さな光のように。



 私はシーツを握りしめ、小さく呟いた。


「……治る。絶対に……」


 涙は止まらない。

 それでも、その言葉を繰り返すたびに、胸の奥で何かが強くなっていくのを感じた。


 もう一度コートに立ちたい。

 仲間と声を掛け合いたい。

 ――あの場所に戻りたい。


(泣いてるだけじゃだめだ。……リハビリ、頑張ろう)


 そう思った瞬間、張り裂けそうだった胸に、ほんの少し温かさが灯った。

 涙に濡れた瞼を閉じながら、その小さな炎を抱きしめるようにして、私は眠りについた。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます!

大きな試練にぶつかったなぎさですが、まだ物語は続きます。

これからの彼女の選択や変化も、ぜひ見守ってください。

次の章もよろしくお願いします。


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