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第十四章 私となぎさ(後半)

お久しぶりです。もくそんどす。

しばらく更新が空いてしまいましたが、また物語を進めていきます。


今回は “さち視点” の続きになります。

なぎさが事故に遭ったあの日、そしてその後、彼女のそばにいた幸が何を感じ、

どんな葛藤を抱えて過ごしていたのか――そこに焦点を当てました。


投稿が止まっている間にも読んでくださっていた方、本当にありがとうございます。

少しずつですが、また丁寧に紡いでいきますので、これからもお付き合いいただけると嬉しいです。


 帰宅してからも、あの横顔が頭を離れなかった。

 机の上に広げたノートを見ても文字が入ってこない。

 お風呂の湯気の中でも、まぶたを閉じればあの笑顔が浮かぶ。

 「大丈夫」と言った彼女の声は強く響いていたのに、不思議と頼りなげに聞こえた。


(このままじゃ、なぎさが一人で抱え込んでしまう)


 そう思った瞬間、いてもたってもいられなくなった。

 けれど、その夜は何もできなかった。

 どんな言葉をかければ、あの不安を軽くできるのか分からなかったからだ。


***


 翌日。夏休み最初の一日。

 朝の光は明るいはずなのに、部屋の空気は重たかった。

 試合に負けた虚無感がまだ抜けず、ベッドに横たわっても、スマホを眺めても、胸の奥はざらついたままだった。


 でも、頭の片隅にはずっとなぎさの姿があった。

 キャプテンに任命されて、強く振る舞おうとしていたあの横顔。

 本当は、心の奥で押し潰されそうになっているのではないか――そう思えて仕方がなかった。


 親友だからこそ分かる。

 あの強がりは、ほんの少しの支えで崩れてしまう。

 だから私は、せめて少しでも気持ちを軽くしてあげたいと思った。


***


 昼を過ぎても気持ちはまとまらなかった。

 けれど、午後三時を回ったころ、ようやく決心がついた。

 私はスマホを手に取り、画面を開いた。

 指先が震えた。何を書けばいい? どんな誘い方をすれば、彼女は気楽に応じてくれる?


 悩んで悩んで、最終的に送ったのは、たった一行。


『明日さ、デパートでも行こーよ!』


 打った瞬間、心臓が跳ねた。

 送信ボタンを押すまでに、何度も指が止まった。

 でも、押した。

 送信完了の音が小さく鳴り、画面に吹き出しが浮かんだ。


(断られたらどうしよう)

(無理って返ってきたら……)


 そんな不安が押し寄せ、画面を凝視した。

 数分が永遠に思えた。

 やがて、既読がつく。


 返事は短かった。

『うん、行きたい!』


 その一文を見た瞬間、体の力が抜けた。

 嬉しくて、涙がにじんだ。


***


 翌日、二人でデパートに行くことになる。

 けれど、そのときの私はまだ知らなかった。

 あの小さな誘いが、なぎさの心をつなぎとめる一筋の糸になると同時に、後に訪れる嵐の前触れでもあったことを。 


 デパートに誘った日のことを、私は今でもはっきり覚えている。

 あの日のなぎさは、心から笑っていた。


 最初は正直、不安だった。

 試合に負けてキャプテンに任命されて――心のどこかで無理をしているんじゃないかって。

 だから「デパート行こ!」とLINEを送ったときも、返事が返ってくるまで胸の奥がずっとざわついていた。


 けれど、待ち合わせ場所に現れたなぎさは、普段通りの制服じゃなくて、涼しげなブラウスにスカートという私服姿で、髪をゆるく結んでいた。

 その姿を見た瞬間、「大丈夫だ」と思った。

 ――いや、それ以上に、「やっぱり可愛いな」と思ってしまった。


***


 デパートでは、なぎさは本当に全力で楽しんでいた。

 プリクラ機の前で変顔をして、私の笑い声を引き出してくれたり。

 かき氷を頬張って「頭キーンってする!」と大げさに騒いだり。

 アクセサリー売り場で、「これかわいい!」と子どもみたいに目を輝かせたり。


 私も負けないくらい笑った。

 笑って、笑って、声がかれるくらいだった。

 そんな時間を過ごすうちに、心の奥にあった「大丈夫かな」という不安が少しずつほどけていった。


 特に忘れられないのは、アクセサリー売り場での一瞬だ。

 なぎさが小さな声で「シュシュ、かわいいな……」と呟いたとき。

 その目は、キャプテンとしてみんなを引っ張るときの強さとは違って、どこか頼りなくて、素直で。

 私はすぐに「これ、似合う」と思った。

 だからこそ、彼女に気づかれないようにこっそりと買った。

 後で渡して驚かせようと――それが、私にできる精いっぱいの「お守り」になる気がしたから。

シュシュを渡した時、なぎさはとても嬉しそうに飛び跳ねて喜んでくれた。

***


 次の日は、普通の練習だった。

 体育館に入った瞬間、なぎさの声が響いてきた。

「もっと声出していこう! 一本一本、大事に!」


 その姿に、私は胸が熱くなった。

 新キャプテンとして、しっかりとチームを引っ張っている。

 ただ声を張るだけじゃなく、仲間一人ひとりに目を向け、的確に声をかけていた。

 ボールを落とした一年生にも「次は拾える、顔上げよ!」と明るく励ます。

 その言葉に、練習の空気が変わっていくのを感じた。


 「なぎさはやっぱり大丈夫だ」――そう思った。

 昨日の笑顔も、今日の頼もしさも、全部がつながっている。

 彼女ならキャプテンとしてきっとやっていける。

 私はその背中を見つめながら、安心と誇らしさで胸をいっぱいにしていた。


***


 ――そして、その次の日。


 夕方。その日は部活を終え、お母さんから頼まれていた買い物をするため、校門でなぎさと別れた。

買い物を終え帰宅し、机に教科書を広げていたときだった。

 スマホが震え、画面に「なぎさ母」の文字が浮かんだ。


 不思議だった。

 おばさんから直接電話をもらうなんて、これまで一度もなかった。

胸の奥に小さな不安が広がりながら、通話ボタンを押した。


「……さちちゃん……っ!」


 泣き声に近い震えた声が耳を突き刺した。

「なぎさが……事故で……!」


 その瞬間、頭が真っ白になった。

 呼吸の仕方を忘れたみたいに、肺が空気を求めても吸い込めない。

 手からスマホが滑り落ち、床にぶつかる音が遠くで響いた。


「……うそ、でしょ……」


 震える声が、勝手に口から漏れた。

 足の力が抜け、私はその場に崩れ落ちた。

 膝が床にぶつかって痛みが走ったのに、それすら感じなくなるほど、胸が締めつけられていた。


 すぐにでも病院に駆けつけようとした。

 ランドセルを放り投げる子どもみたいにカバンをつかみ、玄関に向かおうとした。

 でも、そのとき、通話の向こうで母の声が私を止めた。


「さちちゃん……今は来ないで……! なぎさ、手術中なの……! 会えないから……」


 声は震え、涙で何度も途切れた。

 「今は祈ってあげて」と言われた瞬間、私は玄関に伸ばした足を止めた。

 靴箱の前で、手が宙に浮いたまま固まった。


「……なんで……」


 悔しくて、怖くて、涙があふれた。

 本当は今すぐにでも走っていきたかった。

 でも、会えないと言われた現実が、足を縫い付けるように私を動けなくさせた。

***


 気づけば、涙がとめどなく頬を伝っていた。

 頭の中に浮かぶのは、昨日の練習でのなぎさの姿。

 大きな声でチームを引っ張っていた姿。

 そして、一昨日のデパートでの笑顔。


 その全部が、鮮やかすぎて。

 だからこそ信じられなかった。


「……一緒に帰ってれば」


 声にならない嗚咽が込み上げる。

 あの日、ちさに買い物を頼まれて、なぎさと別々に帰った。

 「また明日!」と軽く手を振った。

 その瞬間が、何度も何度も頭の中で繰り返される。


 ――もし、私が一緒に帰っていれば。

 ――もし、隣にいたら。


 事故は起きなかったんじゃないか。

 なぎさは今も笑っているんじゃないか。


 後悔と自責が胸をえぐり続けた。


***


 その夜、私は布団に潜り込み、声を殺して泣いた。

 枕が濡れて冷たくなっても、涙は止まらなかった。

 「守れなかった」という思いが、胸を締めつけて離れなかった。


 けれど、涙の奥で、かすかに芽生えていた気持ちがあった。

 ――今度こそ、私が支える。

 どんなに弱くても、どんなに頼りなくても。

 なぎさを失いたくない。守れなかった分まで、隣に立ち続けたい。


 そう強く誓いながら、私は目を閉じた。

 暗闇の中で、昨日の笑顔と今日の声が、痛みと一緒に胸の奥に焼きついていた。


 事故の翌日。

 私は、重い足取りで体育館に向かった。


 あの夜、なぎさの母からの電話を受けて以来、頭の中は真っ白だった。

 泣きすぎて目は腫れ、眠れないまま朝を迎えた。

 それでも「練習に行かなきゃ」と自分に言い聞かせ、ジャージに袖を通した。


 体育館に入ると、すでに何人かの部員がボールをついていた。

 でも、いつもより静かだった。

 「おはよう」と声をかけ合っても、その声は小さく、笑顔もなかった。


 ――みんな、まだ知らないんだ。


 そう思った瞬間、胸が締めつけられた。

 私は知っている。昨日の夕方、なぎさが事故にあったことを。

 母の涙声を今でも耳が覚えている。

 でも、ここにいる仲間たちはまだ何も知らず、ただ「キャプテンが来ていない」ことに戸惑っている。

 その差が、私の心をさらに重くした。


***


 全員が揃った頃、監督が体育館に入ってきた。

 「集合」

 短く低い声が響く。


 私たちは列を作って座り込んだ。

 張りつめた空気の中、監督は一呼吸置いてから話し始めた。


「昨日の夕方、なぎさのお母さんから連絡をいただいた。……なぎさは事故に遭った」


 その言葉に、空気が一瞬で凍りついた。

 「えっ……?」「嘘でしょ……」

 前に座っていた一年生が声を震わせ、隣の子は口元を手で覆った。

 全員の視線が揺れ、誰も信じられないように顔を見合わせた。


 監督は続けた。

「幸い命に別状はない。ただ、怪我は重い。詳しいことはまだ分からない。

 ……お母さんが“キャプテン就任早々に迷惑をかけてすみません”と、何度も頭を下げておられた」


 私は思わず拳を握った。

 なぎさは謝る必要なんてない。

 それなのに母親までが――そう思うと、悔しくて涙がにじんだ。


 周りを見れば、先輩も後輩も下を向いていた。

 目を赤くする者、唇を噛みしめる者。

 みんな、キャプテンの不在を初めて現実として突きつけられたのだ。


***


 その日の練習は、どこか上の空だった。

 ボールを落としても、誰も強く責めなかった。

声を掛け合っても、弱々しく、すぐに途切れてしまう。

 私自身、トスを上げても手が震えて、思うようにボールが回らなかった。


 なぎさの「一本!」という声が聞こえないだけで、ここまで違う。

 体育館の空気は、重く沈んでいた。


***


 練習を終えたあと、全員がベンチに腰を下ろした。

 汗を拭く手の動きも鈍い。

 誰も話さず、ただ沈黙が広がる。


 私は胸の奥に渦巻く思いを抑えきれなかった。

「……お見舞いに行こう」


 声を出した瞬間、全員の視線が集まった。

 心臓が高鳴った。けれど、言葉を止めなかった。


「みんなで行こうよ。なぎさは、きっと自分を責めてる。だから私たちが元気に会いに行って、“大丈夫だよ”って伝えたい。泣いてばかりじゃ逆に心配させちゃう」


 沈黙が落ちた。

 けれど、一年生の一人が涙をこらえながら言った。

「……そうですよね。元気を見せなきゃ」


 その声に、別の後輩が力強くうなずいた。

「笑顔で会いに行ったほうが、絶対に安心します」


 先輩たちも静かに言葉を重ねた。

「そうだな。笑顔を見せてやろう」

「なぎさに負けないくらい、元気を届けよう」


 重苦しかった空気に、少しずつ光が差すのを感じた。


***


 放課後、私たちは制服のまま病院へ向かった。

 電車に揺られながらも、誰も多くを語らなかった。

 「どんな顔をすればいいんだろう」

 「何を話せばいいんだろう」

 そんな不安が、小さな声で交わされた。


 病室の前に立つと、全員が息を潜めた。

 ノックをして扉が開く。


 ベッドの上にいたのは、青白い顔をしたなぎさだった。

 腕には点滴、足にはギプス。

 壁には松葉杖が立てかけられている。


 一瞬、全員が固まった。

 あまりに痛々しい姿に、息が詰まった。


 ――でも、沈んだ顔は見せられない。


 私は笑顔を作って声を張った。

「なぎさ! みんなで来たよ!」


 その言葉を合図に、仲間たちが次々に声を重ねる。

「早く元気になってください!」

「また一緒に練習しましょう!」

「みんな待ってるから!」


 明るく振る舞おうとする声が病室に広がった。

 なぎさは驚いたように目を見開き、そして――小さく、ほんの少し笑った。


 その笑顔を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。

 私は心の中で強く誓った。

 ――絶対に支える。今度は私が、なぎさを守る。


 なぎさに会ったのは、あの日以来だった。

 本当なら毎日でも会いに行きたかった。けれど、私たちには合宿があった。

 監督は「予定は予定だ」と言った。気持ちは分かる。でも、心のどこかで「行きたいのに行けない」苦しさがずっと残っていた。


 合宿の間も、なぎさのことが頭から離れなかった。

 トスを上げるときも、声を出すときも、心の奥で「もしなぎさがここにいたら」と思ってしまう。

 夜、布団に入っても眠れなかった。体育館の天井を見つめながら、涙がじんわり滲んだ。

 ――なぎさは今、ひとりでどんな思いをしているんだろう。

 そう思うと、胸が締めつけられた。


***


 合宿を終えて、ようやくお見舞いに行ける日が来た。

 みんな緊張していた。

 「明るく行こう」「元気を届けよう」――そう何度も確認し合いながら、制服姿のまま病室の前に立った。


 ドアを開けると、なぎさがベッドに腰かけていた。

 顔色はまだ青白い。それでも私たちを見て、小さく笑った。

 「みんな……」

 その声を聞いただけで、胸が熱くなった。


「プリン買ってきたよ!」

「夏祭り行ったんだ、花火すごかったよ!」

 仲間たちは一斉に声を上げ、明るく話しかけた。

 私はそれを聞きながら、なぎさの表情を見ていた。

 笑っている。だけど――その笑顔はどこか無理をしているように見えた。

 私には分かる。親友だから。


 みんなが盛り上げようとすればするほど、なぎさの目の奥に影が落ちていく。

 私の胸はざわめいて、落ち着かなくなった。


***


 そして――。

「……もういいから。帰って!」


 なぎさの声が病室に響いた。

 空気が、一瞬で凍りついた。

 笑い声も、言葉も、すべて止まった。


 なぎさは俯いたまま、肩を震わせていた。

「……もう見ないで。前みたいに動けない私を、見られたくないの……!」


 その言葉に、胸が引き裂かれるような痛みを感じた。

 私も、後輩も、先輩も、誰も動けなかった。


 ただ一人、一年生のちさが前に出た。

 涙で顔を濡らしながら、必死に声を上げる。

「そんなの……そんなの関係ないです! 私たち、なぎさ先輩にいてほしいだけなんです!」


 声が震えていた。けれど、その必死さは真っすぐだった。

 「どんな姿でもいい! 私、絶対に先輩と一緒にバレーしたいんです!」


 なぎさは顔を上げた。

 涙で濡れた瞳が、ちさを映していた。

 でも――すぐに視線を逸らし、震える声で繰り返した。

「帰って……お願いだから……」


 その言葉に、誰もそれ以上踏み込めなかった。

 沈黙が、病室を満たした。


***


 私は、その光景をただ見つめるしかなかった。

 なぎさの苦しさも、ちさの必死な想いも、痛いほど分かる。

 なのに、私は何もできなかった。

 胸の奥で「何か言わなきゃ」と叫ぶ声があったのに、声にならなかった。


 ――私は、こんなときにすら力になれないの?


 自分の無力さに歯がゆさを覚えながら、私は拳を握りしめた。


***


 病室を後にしたとき、みんなの表情は沈んでいた。

 廊下を歩く足音だけが響き、誰も口を開かなかった。

 私もまた、胸に重い痛みを抱えたまま、前に進むしかなかった。


 ――なぎさ。

 あなたの苦しさを全部分かることはできない。

 でも、必ず隣で支えるから。


 心の奥で、静かにそう誓った。


 あの日。

 なぎさの「帰って」という叫びが、ずっと胸に残っていた。

 病室でのなぎさの声は、耳の奥に焼きついて離れない。

 彼女の涙も、ちさの泣き顔も、あの時の空気も。全部が私の心を縛りつけていた。


 それからの日々、私は病院へ行かなかった。

 行きたい気持ちはあった。けれど、あの時の光景を思い出すと足がすくんだ。

 「帰って」と言われたのは確かに私たち全員に向けられた言葉だったけれど、どこかで「私がいるから余計に辛かったんじゃないか」と思わずにはいられなかった。


***


 その後、すぐに合宿が始まった。

 例年なら「きついなあ」「でも頑張ろう」って笑い合える大事な時間。

 けれど今年の合宿は違った。

 練習中も、食事中も、夜のミーティングでも――なぎさのことが頭から離れなかった。


 トスを上げても、声を出しても、心のどこかが空っぽで。

 ボールが自分の手から離れていく瞬間に、「このパスをなぎさが打ってくれたら」なんて考えてしまう。

 横を見ても、なぎさはいない。そこに広がる“空白”が、目に見えない壁のように私の前に立ちふさがっていた。


 夜、布団に潜ると、みんなの寝息が聞こえてくる。

 それでも私は眠れず、天井をじっと見つめていた。

 目を閉じれば、病室で涙を浮かべながら「帰って」と言ったなぎさの顔が浮かぶ。

 私はその時の痛みを思い出して、胸を抱きしめるしかなかった。


***


 合宿を終えてからの日々も、私は病院へ足を運べなかった。

 本当は行きたかった。

 でも、また「帰って」と言われるのが怖かった。

 あの言葉が、まるで呪いのように私を縛っていた。


 学校にいるときも、なぎさのことが頭に浮かんだ。

 けれど私は、その話題を避けた。

 後輩から「なぎさ先輩、大丈夫なんですかね」と聞かれても、「うん、大丈夫だよ」と笑顔でごまかした。

 笑顔を作るたびに、自分の心が少しずつ削られていった。


――そして、夏休みが終わってしばらくして。

 なぎさが、一度だけ登校した日があった。


 勇気を振り絞って、私は彼女の名前を呼んだ。

 「なぎさ」と。


 けれど、彼女は気づかなかった。

 ゆっくりと歩く足は止まらず、前だけを向いたままだった。


 無視されたわけじゃない、と分かっている。

 久しぶりの学校で、周りを見る余裕なんてなかったはず。

 でも――胸の奥がきゅっと痛んで、呼吸が浅くなった。


(私って……もう必要ないのかな)


 その瞬間、心の中で何かが静かに崩れた。


 あの日以来、私はますます病院へ行けなくなった。

 また同じように、気づいてもらえなかったら――

 そんな想像だけで、足がすくんで動けなくなった。


 ……私は、なぎさにとって本当に親友なんだろうか。

 ずっと一緒にやってきた。

 笑って、泣いて、支え合ってきた。

 そう信じていた。


 でも、あの日の「帰って」という一言は、まるで私を否定されたように響いた。

 「親友」なんて言葉は、もしかしたら私が勝手に使っていただけなのかもしれない。

 本当はただの同級生。

 ただのチームメイト。

 なぎさの心の中では、私は特別な存在なんかじゃないのかもしれない。


 そう思った瞬間、心の奥がぐらりと揺れた。

 私の存在は、なぎさにとって負担だったんじゃないか。

 そうなら、もう……。


***


 季節は確実に進んでいた。

 夏の真っ盛りだった空気は少しずつ薄れていき、蝉の声は日ごとに小さくなった。

 夜になれば、窓の外から秋の虫の声が聞こえるようになった。

 教室の窓から吹き込む風も、汗を冷やすだけではなく、心の奥までしみ込むような涼しさを帯びていた。


 けれど、私の時間はあの日の病室で止まったままだった。

 あの時から、何も変わっていない。

 心は重く沈み、足を前に出すことすら怖かった。


***


 ある日、帰り支度をしていたとき、背後から名前を呼ばれた。


 振り返ると、汰一が立っていた。

 普段は物静かな彼が、真剣な目をして私を見ていた。

「……鈴野さんが、会いたがってる」


 一瞬、言葉の意味が分からなかった。

 心臓が大きく跳ねた。


「……本当に?」と、かすれた声で問い返す。

 汰一は迷いなくうなずいた。


 胸の奥で、熱いものがこみ上げた。

 ずっと怖くて、逃げてきた。

 でも――なぎさが「会いたい」と言ってくれている。

 その一言が、私の中の鎖をほどいていくように感じた。


 不安はまだ残っている。

 「親友」なのか、「ただの友達」なのか。

 答えはまだ分からない。

 でもひとつだけ確かなことがある。

 私は、なぎさの隣にいたい。


 その想いを抱きしめながら、私は小さく息をついた。

 今度こそ、もう逃げない。


 放課後の教室は、部活に向かう生徒の声でざわついていた。

 窓から差し込む夕陽が机を赤く染める中、私はカバンの紐を握りしめて立ち上がった。

 隣の席に残っていた汰一に、勇気を振り絞って声をかける。


「ねえ……武田くん」


 彼は読んでいた本から顔を上げ、静かな目をこちらに向けた。

 その視線に胸がざわつく。けれど、ここで引き下がるわけにはいかなかった。


「なぎさ……今、どんな様子?」


 自分の声が少し震えているのが分かった。

 答えを聞くのが怖かった。けれど知りたかった。


***


 汰一はしばらく迷うように視線を伏せ、それから静かに口を開いた。


「…体はだいぶ安定してるよ。

 でも……学校には、まだ来られてない」


 やっぱり。胸の奥がちくりと痛んだ。

 彼は続ける。


「外には出られる。でも……一歩を踏み出す勇気が出ないみたいだ。

 笑うこともあるけど、それが本当の笑顔かどうかは分からない。

 時々、心ここにあらずって感じで……急に黙り込んだりもする」


 私は唇を噛んだ。目に浮かぶ。

 無理に笑おうとする、あの日のなぎさの顔が。

 あの時の影は、今も彼女の中で消えていないのだ。


***


 汰一は少し間を置いて、言葉を選ぶように続けた。


「でも……それでも、“さちに会いたい”って言ってた」


 心臓が跳ねた。

 思わず顔を上げる。


「……本当に?」


 私の問いに、汰一は真っ直ぐにうなずいた。

「嘘じゃない。なぎさは、君のことを必要としてる」


 その言葉に、胸が熱くなった。

 ずっと自分を責めていた。

 “親友”なんて思っていたのは私だけで、本当は必要とされていないんじゃないか、と。

 でも――彼女は私に会いたがっている。


***


 机の上に置いた手が震えているのに気づいた。

 嬉しさと、怖さと、後悔と。いろんな感情が胸の奥でぐちゃぐちゃに絡み合う。


「……でも、また拒絶されたらどうしよう」

 思わず心の声が漏れていた。


 汰一はしばらく私を見つめ、それから静かに言った。

「それでも、行ったほうがいい。なぎさは幸のことを嫌ってるわけじゃない。

 ただ、自分を受け入れられなくて、苦しんでるだけなんだ」


 その言葉に、少しだけ涙がにじんだ。

 彼の真剣な声が、私の心を支えてくれるように感じた。


***


 教室の外では運動部の掛け声が響いていた。

 夕陽は窓の外に沈みかけている。

 その光景の中で、私は胸の奥に小さな決意を芽生えさせた。


 ――今度こそ、逃げない。

 なぎさの隣に戻る。彼女が学校に来る前に、必ず。


 私はカバンの紐を強く握り直し、深く息を吐いた。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回の幸視点では、

「親友だからこそ抱えてしまう罪悪感」

「支えたいのに近づけない苦しさ」

をできる限り丁寧に描きました。


そして終盤、汰一の言葉が幸の止まっていた時間を動かす“きっかけ”となります。

物語全体としても大切な転換点です。


久しぶりの更新にも関わらず、また読みに来てくださった皆さまに感謝しています。

次の章では、いよいよ――幸となぎさが再び向き合う場面へ進んでいきます。


これからもゆっくりではありますが、物語を積み重ねていきますので、

引き続きどうぞよろしくお願いします。


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