第十二章 僕の番
こんにちは、こんばんは、もくそんです。
第十二章では、汰一の視点に戻ります。
過去のトラウマ、なぎさとの出会い、そして“あの日”への後悔。
いま彼が抱えている想いを、まっすぐに描きました。
高校生活が始まって、一週間が過ぎた。
教室の空気は、もう、いくつもの輪に固まりつつあった。窓際でふざけ合う男子の笑い声。机を寄せておしゃべりに花を咲かせる女子のささやき。黒板のチョーク粉の匂いに、まだ新品の教科書の紙の匂いがまじる。
そのざわめきの端っこで、俺――武田汰一は、後ろの席に陣取り、一冊の文庫を開いていた。ページの端に指をかけ、呼吸を整える。文字は穏やかに目の中へと流れ込んでくるのに、胸の奥は妙にざわついたままだ。
クラスメイトの名前は、まだ半分も覚えていない。
嫌われているわけじゃない。けれど、誰も俺に話しかけてこない。
そして俺も、誰かに声をかけようとはしなかった。
(……このままでいい。いや、こうしておくべきだ)
そう、思い込もうとしていた。
中学のとき、一度だけ「自分を出した」結果、すべてが壊れたからだ。
***
中学二年の冬。
その頃の俺は「賢いやつ」だった。テスト前になると、ノートに赤ペンでまとめたプリントを配り、「ここ、わかんない」と呼ばれれば、廊下でも階段でも立ち止まって解説した。
その時間は嫌いじゃなかった。問題が解けた顔が少し明るくなるのを見るのが、うれしかった。
昼休みの教室も、俺には居場所だった。窓際の列の端。弁当を食べ終えたら、本を開く。ページをめくるたび、世界が広がっていく感覚。俺の一番好きな時間だった。
あの日の昼休みも、いつもと同じはずだった。
机に肘をつき、読みかけのファンタジー小説を開いていた。
その時――「なに読んでるの?」という無邪気な声とともに、手が伸びた。
机の上の本が、するりと奪われた。
やめろ、と言いかけた声は、笑いに飲まれた。
カバーがめくられ、表紙がひらかれる。
そこには、巨乳のエルフと黒衣の青年――派手なイラスト。
男子がひゅうっと口笛を鳴らす。「うわ、エロ本じゃね?」「おいおい、真面目くんの二面性~!」
そして、女子のひとりが、ほとんど吐き捨てるみたいに言った。
「……胸とか見てるんでしょ。キモい」
その瞬間、空気が固まった。
笑いが膨らんで、俺ひとりを飲み込んだ。
喉の奥が熱くなる。俺は立ち上がろうとして、立てなかった。足が震えていた。
昼休みの後半は、長かった。長すぎた。
授業が始まっても、笑いは耳の奥に居座り続け、黒板の字がにじんだ。
翌日から、世界は違う姿になった。
テスト前に「教えて」と言ってきたやつらは、来なくなった。廊下ですれ違えば、横目とひそひそ声がついてくる。
「アイツ、裏ではオタクなんだって」「賢いのって、そういう系なんだよ」
机に置いた本は、カバーで隠していても、目が刺さる。
給食の時間、誰かがわざと小さく笑い、別の誰かが目配せした。
家に帰って布団に潜り込むと、笑い声が暗闇の天井にこだまし続けた。
あのとき、俺は心に鉄の檻を立てた。
二度と心を見せない。派手な表紙は買わない。人前ではカバーを外し、背表紙も隠す。話しかけられても、最短距離の返答だけ。
笑われないように、見つからないように、息をひそめて生きる。
それが、生き延びる術だった。
***
――高校でも、そのつもりだった。
檻の中に座って、ページだけを相手にしていればいい。
そう思っていた矢先だった。
「それ、怖いやつ?」
透明な声が、檻の隙間から差し込んだ。
顔を上げると、長い髪を耳にかけた女子が、少し身を乗り出して俺の本をのぞき込んでいた。見覚えのある顔。体育の時間、バレー部の話題で名前が上がっていた。
「……ホラーだけど、そんなにグロくない」
条件反射みたいに、最短の返答が口をついて出る。
「へぇ。武田くんってホラー読むんだ」
「……なんで俺の名前、知ってるの?」
「前の席だから。点呼のとき、耳に入ってきたからね」
彼女は、当たり前みたいな顔で笑った。
「ホラーとか、本とかあんまり読まないけどさ。ずっと真剣に読んでるから、なんか気になったんだよね」
その言葉は、からかいでも詮索でもなかった。
純粋な興味。まっすぐな眼差し。
彼女の名は――鈴野なぎさ。
その日を境に、鈴野は、毎日なにもなかったみたいに声をかけてきた。
「昨日の続き? どこまで読んだ?」
「それ、どんな話なの?」
「怖いの苦手だけど、話聞いてるとちょっとだけ気になるんだよね」
透明な声が、少しずつ檻の中に入ってくる。
最初は、半歩だけ。
次の日は、もう半歩。
気づけば、窓際の影はやわらいでいた。
***
ある日の昼休み。
いつものように鈴野と、本の話をしていたときだ。
「へぇ、そんなオチなんだ。すご」
「だから、伏線ちゃんと覚えてると、最後めっちゃ気持ちいいんだよ」
とりとめのない会話をしていると、横からひょこっと顔が現れた。
「なにそれ? また本の話?」
柔らかい声。ゆるく結んだ髪。
クラスでもよく笑っている女子――美希だった。
その後ろから、小さく手を振るようにして近づいてきたのは、小百合。
「美希は本なんて絶対読まないタイプだよね?」
「失礼。……まあ、漫画しか読まないけど」
軽口を叩き合いながら、二人は当然のように俺たちの机のそばに立った。
檻の前に、気づけば三人も人がいる。胸がざわついた。
「ねえ武田くん、その本、面白い?」
「……うん。結構、面白い。ホラーだけど、話が綺麗で」
「じゃあさ、おすすめの本、今度貸してよ」
さらっと言われて、呼吸が止まった。
中学のときの記憶が、一瞬で逆流する。
(エルフの表紙……笑われる……)
喉がきゅっと縮む。
「美希、本なんて読まないでしょ」と鈴野。
「読むかもしれないじゃん。ね? ホラーじゃないやつなら、多分」
そこへ、教室の後ろから、ひょいっと顔を出した影が一つ。
「なに? 本の話?」
サッカー部の松崎賢吾だった。
視線は、さりげなく美希の方に流れている。
「松崎くんは本とか読まなそう」と鈴野。
「いや、読むって。……いや、嘘。本は全然読まない。でも、面白いならちょっと興味あるかも」
美希が振り返る。「賢吾も読むの?」
「普段読まないけど美希が読むなら、俺も読んでみようかなって」
軽口に笑いが起きる。
その中心に、自分がいることが、まだ信じられなかった。
「じゃあ……」
俺は、カバンの中の本を指先で探りながら、慎重に言葉を選ぶ。
「今読んでるのはホラーで。結構おすすめ、怖いところもあるけど、話はちゃんとしてる。……美希さんは、いける?」
「ホラーは無理。お風呂入れなくなるから」
鈴野と小百合が笑う。俺も、思わず口元が緩んだ。
「じゃあ、これは……松崎くんなら、いけるかも」
俺は、読んでいる途中のホラー小説をそっと抜き取り、松崎に差し出した。
「さっき言ってたホラーなんだけど、これどうかな?
読み終わったら、また返してくれるなら貸すよ」
「マジで借りていい?」
「うん。ホラー大丈夫なら」
「ホラー? 余裕余裕。サンキュー!」
松崎は、軽く本を振って笑った。
美希は興味なさそうに肩をすくめ、でも少しだけ表紙を覗き込む。
「じゃあ、武田くん。私にはホラーじゃないやつ、またおすすめ教えてね」
「……うん。考えとく」
そう答えたとき、気づけば俺は、誰かと笑い合いながら話していた。
檻の中に座っているはずの自分が、少しだけ前に出ていた。
***
数日後。
昼休みの終わりごろ、松崎が本を抱えて俺の席へやってきた。
「武田!」
呼び捨てにされるのも、なぜか嫌じゃなかった。
「これ、マジで面白かったわ。最後のオチ、鳥肌立った」
「……ほんと?」
「ほんとほんと。てか俺、今まで本とか読んだことほとんどなかったけどさ。これなら全然読める。てか、続き欲しいレベル」
胸の内側で、なにかが明るく灯った。
中二の冬、凍りつかせたままだった何かに、じわっと熱が戻ってくる。
「なあ武田。お前が一番好きな本、教えてくれない? “ガチ一推し”のやつ」
その言葉に、指先が止まる。
カバンのいちばん底。
何度も読み返して、角が少し丸くなった一冊。
かつて俺を笑い者にした、巨乳エルフの表紙の本。
喉の奥が、またきしんだ。
(渡したら、また笑われるかもしれない)
中学の教室。
笑い声。「キモい」。
でも――今、目の前にいるのは、松崎だ。
ホラーを借りて、「面白かった」と笑って返してくれた松崎だ。
鈴野が、毎日話しかけてくれて。
美希や小百合が、輪の中に引き入れてくれて。
あの時とは、違う。
「……あるけど」
自分の声が、自分のものじゃないみたいに聞こえた。
それでも、カバンの底に手を伸ばす。
「表紙、ちょっと派手。……でも、中身は、ほんとに、いい」
震える指で、その一冊を取り出した。
巨乳のエルフと、黒衣の青年。
中学のときと同じ表紙。
でも、今度は自分で選んで、差し出す。
「これが、一番好きな本」
一瞬の沈黙。心臓がうるさい。教室の音が遠のく。
松崎は表紙を見て、目を丸くしたあと、にっ、と笑った。
「うわ、このエルフ、めっちゃタイプだわ。センスいいじゃん。マジで」
あっけらかんと言って、ケラケラ笑う。
「サンキューな。また読んだら感想言いに来るわ」
そう言って、片手を上げて去っていった。
笑い声は、あの頃みたいに俺を刺さなかった。
ただ、背中を押す風みたいに、遠ざかっていくだけだった。
(……ありがとう)
心の中で、小さくつぶやく。
鈴野が最初の一言をくれたから。
鈴野の周りに、美希と小百合が集まってきて。
そこに松崎も、何気ない顔で混ざってきて。
そこから、高校二年になった今に至るまで、俺たちはずっと同じ輪の中にいる。
あの日貸した一冊が、俺にとっての“友達ができたきっかけ”だった。
――まだ、いい人はいる。
好きなことを、好きだと言っていい。
そんな当たり前のことを、俺はようやく取り戻した。
***
だからこそ。
夏の終わり、事故の知らせを聞いたとき、世界がまた反転した。
「鈴野が……」
教室の片隅でささやかれた噂。最初は冗談みたいに軽かった。
だが、先生の固い表情がそれを現実に変えた。
心臓が、一拍分、抜け落ちた気がした。
その日の放課後、俺は玄関で靴を履いた。靴ひもを結び、玄関のドアノブに手をかける。
――動けなかった。
ドアを閉め、靴ひもを解く。
机に座り、再び立ち上がる。
スマホのメモに、病院の名前と面会時間を書き込む。
玄関へ行く。踵を返す。
扉の向こう側に広がっているかもしれない顔を思い浮かべ、足が固まる。
「俺なんかが行って、どう思われる?」
「何を言えばいい? 『大丈夫?』なんて、軽い言葉で傷つけないか?」
怖くて、また座り込む。
駅まで行ってみた日もある。改札前で立ち尽くし、ホームの風に押し戻された。
結局、俺は行けなかった。
(最低だ)
胸の奥に、濃い墨みたいな後悔が沈殿した。
***
そして、十一月一日。
鈴野が学校に戻ってきた。
ドアが開いた瞬間、教室の空気が変わるのがわかった。
痩せた頬。松葉杖に体重を預ける慎重な歩み。
その顔の大半は、長い髪で隠れていた。
かつて、クラスのムードメーカーだった元気な彼女の姿と、目の前の姿が重ならず、息が詰まる。
教室のざわめきが凍りつく。誰も声を出せない。
椅子を引く音だけが、やけに大きく響いた。
正直、胸がざわついた。
――でも、その感情の正体はすぐにわかった。
ショックでも失望でもない。
ただ、痛かった。
彼女が抱えてきた痛みを思うと、それだけで胸が締めつけられた。
もし俺が行っていたら。
もし隣で笑わせていられたら。
そんな後悔が、いまさらのように押し寄せる。
長い髪で顔を隠し、ゆっくりと歩く彼女は、あの頃の鈴野とはまるで違った。
だけど――変わらないものもある。
外見が変わっても、歩幅が変わっても、鈴野なぎさという“核”は失われていない。
むしろ、痛みを抱えながら前へ進もうとするその姿を見て、支えたいと思う気持ちは前より強くなっていた。
あの日、俺は教室の沈黙を切って、彼女に声をかけた。
喉の奥に震えが残っていたが、それでも逃げなかった。
鈴野は、かすれた声で応えてくれた。
その短い往復だけで、胸の奥に小さく火が灯るのを感じた。
***
そして、記憶はもうひとつの分岐点へ戻る。
屋上での告白のことだ。
七月二十四日、夏の空は高く、風は強かった。
言葉は、用意していたより不器用に転がった。「好きだ」と言った瞬間、手のひらが汗でびっしょりになっていることに気づいた。
鈴野は、まっすぐに目を見て、ゆっくり首を振った。
痛かった。胸の真ん中が、刺すように。
でも、同時に、納得もしていた。
彼女が部活に、毎日の時間に、友だちに、全力で向き合っていることを俺は知っていたから。
「いつか、また話せるなら、それでいい」と思えた。
だからこそ、事故の知らせを聞いたとき、悔しさは倍に膨らんだ。
あの時、断られたからこそ見えた彼女の真剣さを、俺は守りたかったのに。守れなかった。
時間を戻せるなら――何度思ったかわからない。
でも、過去は戻らない。
なら、これからだ。これからを、変える。
***
俺はもう、目をそらさない。
未送信のまま溜まった「行ってもいい?」は、もう要らない。
行く。伝える。支える。
鈴野が俺に光をくれたように、今度は俺が、彼女の足元を照らす番だ。
誰かに笑われようが、陰口を叩かれようが、構わない。
中二の冬に作った鉄の檻は、もう役に立たない。
鍵は、あの日、鈴野が開けてくれた。
「――今度は、僕の番だ」
言葉は、独り言のはずなのに、胸の内側で炎みたいに広がった。
救われたままで終わるわけにはいかない。
ありがとうを、行動で返す。
俺が、必ず、彼女のそばに立つ。
たとえ一歩が遅くてもいい。
昨日より、少し前へ。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
汰一の「僕の番」という気持ちが、少しでも届いていたら嬉しいです。
次の章も、ぜひ読んでください。




