第一章 屋上の風と、まっすぐな想い
初めまして!もくそんと申します!
ここから始まるのは、高校生の鈴野なぎさが仲間と出会い、そして自分と向き合っていく物語です!
青春と再生のドラマ、少しでも心に残る時間になれば嬉しいです!
「また部室で!」
朝の昇降口で、私は手を振って笑った。
制服のリボンを結び直していた親友のさちは、「放課後の練習、遅刻すんなよ〜」と小さく笑って、自分の教室へ向かっていく。
私とさちは別のクラス。
でも、毎朝こうして一緒に登校していた。
幼稚園の頃からずっと一緒で、泣いた日も、笑った日も、肩を並べてきた親友。
今では同じバレー部で――私はスパイカー、さちはセッター。
ポジションは違っても、どんな悩みも話し合える相手だった。
私にとって、さちは“全部を共有できる存在”だった。
⸻
朝練を終えて昇降口から教室へ向かう。
まだ午前八時を少し回ったくらい。
夏の日差しがすでに校舎を照らし、窓から差し込む光が廊下を白く染めていた。
体育館で流した汗がまだ乾ききらず、首筋を伝う。
息は整っているはずなのに、どこか火照りが残っていた。
二階に上がると、教室の扉の向こうからにぎやかな声があふれ出してきた。
女子の笑い声、男子の大げさなリアクション、机を動かす音。
私はその空気に吸い込まれるようにドアを開けた。
「おっはよー!」
声を張ると、すぐに返事が返ってくる。
「なぎさ、おはよ! 朝練おつかれ!」
「髪びしょびしょじゃん!」
「朝から元気だね〜!」
笑い声とからかいの声に混じって、自分も自然と笑う。
汗ばんだポニーテールを手で整えながら席に向かうと、クラスメイトが次々に話しかけてくる。
「昨日の『ラブ恋』見た? 告白シーンやばすぎ!」
「わかる! あんなのされたら即落ちでしょ!」
「あんな恋してみたいよねー!」
「てか明日から夏休みとか信じらんないんだけど!みんな何するの?」
「私は家族で海行くよ〜」
「私は彼氏と花火大会! 浴衣も買っちゃった!」
「いいなぁ〜! なぎさは?」
期待の視線が一斉に向けられる。
私は机にカバンを置きながら肩をすくめて笑った。
「私はね、部活ばっかだよ。合宿もあるし、自由なんてほとんどないよ!」
「さすが体育会系!」
「でも恋愛もしたいんじゃない?」
「まあね。浴衣で花火とか憧れるし。でも今はやっぱりバレーが本命!」
「かっこいい!」「青春してるな〜」
また笑いが弾け、教室はさらににぎやかになる。
――こんなふうに、みんなの輪の真ん中で笑っていられる。
そんな毎日が私にとっては何より嬉しかった。
⸻
クラスの空気が一段落したころ、前の席の美咲が身を乗り出してきた。
「ねぇねぇ、もしクラスの男子で彼氏にするなら誰がいい?」
「めっちゃ気になる!私も聞きたい!」
「え〜!」と両手を振りながら笑うと、周囲の目が一気に集まる。
「うーん……わかんないよ〜、 でも優しくて、一緒にいて楽しい人がいい!」
「それって実はクラスにいる誰かだったりして!」
「おお〜!」と男子まで乗っかって大げさに囃し立てる。
「ちょっと! 違うってば!」
必死に否定しながらも、笑いの渦に巻き込まれる。
やがてチャイムが鳴り、朝のホームルームが始まると、先生が分厚い束を抱えて教室に入ってきた。
黒板には大きな字で「夏休みの課題」と書かれる。
「はい、注目〜、明日は待ちに待った夏休みだ。各教科ごとに宿題が出てるぞ。必ず期限を守って提出すること。読書感想文も忘れないように
思い出作りもいいが、宿題はコツコツとやるんだぞ。」
プリントが一枚ずつ配られていく。机に置かれた瞬間、その厚みに私は思わずため息をついた。
「うわ、やば! これ絶対終わらないやつ!」
「え、数学のドリル何ページあるの?」
「英語も長文ばっかじゃん、、、」
あちこちから悲鳴が上がる。
私は苦笑しながらページをめくった。バレーの練習や合宿でほとんど時間が取れないのに、この量……。
――まあ、寝る時間削るしかないか。
「次に生活面について注意だ」
先生は真剣な表情に変わった。
「夏休み中に髪を染めたり、夜遅く出歩いたりするな。交通ルールは絶対に守ること。あと、生活目標カードを配るから、各自で書くように」
「え、もう染めてる人いるのに〜」
前の席の男子が小声で言って、周囲がくすっと笑った。
配られたカードには「早寝早起き・規則正しい生活」と印刷されていて、自分で目標を書く欄があった。
私はペンを持ったまま、しばらく手を止める。
早寝早起き、ね……。合宿では絶対早寝できないだろうな。
「三日坊主で終わりそう」
隣の子がぼやいて、また小さな笑いが広がる。
⸻
授業はゆるい空気のまま続いた。
終業式を前に、先生たちもどこか気が抜けているのか、板書も少なく、雑談混じりの話ばかりだ。
「高校最後の夏になる人もいる。悔いのない時間を過ごせよ」
そんな言葉が教室に響くと、ふざけていた生徒たちも一瞬だけ静かになった。
――私にとっても、この夏はきっと特別になる。
胸の奥が小さく熱くなる。
⸻
午前中の授業も半ばに差しかかるころ。
黒板の文字を見つめながらノートを取っていたはずなのに、ペン先が止まっていた。
朝練の疲れがじわじわと押し寄せて、瞼が重くなる。
――やばい、寝そう。
視界がかすんで、こっくりと首が傾いた瞬間。
「ねえ、なぎさ寝てるよ!」
小声で笑う声が耳に届いた。
「朝練のせいだな」
何人かがくすくす笑い出す。
「そこ! 静かに!」
先生の声が飛んできて、教室が一瞬にして静まった。
私は慌てて顔を上げて、必死に目をこすった。
「……起きてます!」と小声で言うと、周囲からまた笑いが漏れた。
先生はため息をつきながら黒板に戻り、授業は何事もなかったように続いていった。
恥ずかしさで頬が熱くなる。
でもその空気に包まれながら、どこか心地よさも感じていた。
午前中の授業がすべて終わり、チャイムが鳴ると教室は一気に解放されたように騒がしくなった。
カバンの中を整理する子、友達と次の昼休みの話をする子、廊下へ走っていく子。
夏休み直前の浮かれたムードに包まれて、空気はどこか軽やかだった。
私は机に突っ伏したまま伸びをして、ふぅと小さく息を漏らす。
――少し寝そうになったけど、なんとか乗り切った。
カーテンの隙間から差し込む光は、真夏の白さを増しているように見えた。
そのとき。
「おい、行けって! 今しかないだろ!」
「無理だって、絶対無理!」
「なに言ってんだよ、ここまで来て!」
「背中押してやるからさ!」
教室の後ろのほうで、男子たちがひそひそ声で騒いでいた。
机の影に隠れるようにして揉めているのは、武田汰一。
顔を真っ赤にしながら、必死に首を横に振っていた。
「だって……話しかけられないって! 心臓止まる!」
「大丈夫だって! 昼休み前に言わないとタイミング逃すぞ!」
「……やっぱやめ――」
「ほら行けっ!」
ドン、と強く背中を押されて、汰一は半ばよろけるように前へ出た。
気づけば、私の机の横に立っていた。
「……え?」
私は顔を上げ、思わず目を丸くする。
汰一は唇を噛み、視線を泳がせながらも、意を決したように言った。
「あの……鈴野さん。今日の昼休み、屋上に来てくれない?」
一瞬、教室の空気が止まった。
私は驚きながらも、小さくうなずいた。
「……うん、わかった」
その瞬間。
「えー!? 屋上!? 絶対そうじゃん!」
「青春すぎ! 「ラブ恋」みたい!」
「なぎさ〜、顔赤いよ!」
周囲の女子たちが一斉にざわつき、男子まで身を乗り出して茶化してくる。
笑い声と冷やかしの嵐。
「ちょっと、違うってば!」
私は慌てて否定しながら席に戻った。
だけど胸の奥はどきどきと騒がしく、頬の熱はなかなか引かなかった。
揶揄われれば揶揄われるほど――余計に意識してしまう。
昼休みのチャイムが鳴ると、教室のざわめきは一層大きくなった。
お弁当を広げる子、購買に走る子、廊下で友達と集合する子――みんながそれぞれの場所に散っていく。
私は机の上に置いた手をぎゅっと握りしめた。
胸の鼓動がさっきから落ち着かない。
「屋上に来てくれない?」
武田汰一の言葉が、何度も頭の中でリフレインする。
――ただの話かもしれない。
でも、周りがあんなに騒いだから。
もしかして、やっぱり……。
考えれば考えるほど、頬の熱は引かなかった。
⸻
屋上へ続く階段を上ると、周囲の喧噪がだんだん遠ざかっていく。
足音だけがコツコツと響き、緊張が一歩ごとに増していった。
階段の踊り場に差し込む光は、真夏の白さでまぶしい。
私はポニーテールを結び直し、小さく深呼吸をする。
――行こう。
鉄の扉に手をかけると、ぎぃ、と重い音を立てて開いた。
一気に風が吹き抜け、髪がふわりと揺れる。
空はどこまでも高く、蝉の声がじりじりと耳を包んでいた。
真ん中に、汰一が立っていた。
シャツの裾が風に揺れ、うつむきがちな横顔が少し頼りなく見える。
「あ、来てくれてありがとう。」
気づいた彼が、ぎこちなく笑った。
「ううん、大丈夫。それで、話って?」
私が問いかけると、汰一は小さくうなずき、深く息を吸い込んだ。
手が震えているのが、遠目にもわかる。
「俺……鈴野さんのことが、前から好きです」
言葉が空気を震わせた。
蝉の声が一瞬遠ざかったように感じる。
「いつも明るくて、誰にでも優しくて。みんなからはお調子者だと思われてるけど、実は落ち込んでる子にはさりげなく声をかけたりする。……そういうところ、好きなんだ。
本当はもっと前から言いたかったけど、どうしても勇気が出なくて。
今日だけは、どうしても伝えたかったんだ」
汰一の声は震えていたけれど、その目は真剣だった。
私は驚きに息を飲み、そして小さく笑みを浮かべた。
「……お調子者ってとこは余計だけど、ありがとう。まっすぐ言ってくれて、嬉しい」
胸の奥がじんわりと温かくなる。
けれど同時に、答えはもう決まっていた。
「でも、ごめんね。武田くん。今は部活を全力で頑張りたいんだ。
三年生の先輩たちの最後の大会もあるし……中途半端にはしたくないの。
だから、恋愛にちゃんと向き合う余裕が、今はないと思う」
沈黙が一瞬流れる。
汰一は俯きかけたが、やがて顔を上げ、少し照れたように笑った。
「……そっか。言えてよかった。返事も、なんか鈴野さんらしいな。
応援してる。バレー、全力で頑張って!」
その表情は不思議と晴れやかで、負けた顔ではなかった。
むしろ、誰かを心から応援できる誇らしさが滲んでいた。
胸が熱くなる。
私は強くうなずいた。
「ありがとう。……頑張るよ!」
夏の風が二人の間を吹き抜ける。
遠くから響く蝉の声が、空の青さをいっそう濃くしていった。
昼休みが終わると、体育館へ移動するアナウンスが校内に響いた。
ぞろぞろと移動する生徒たちの列に混じり、私は汗を拭きながら体育館へ向かう。
屋上での会話がまだ胸の奥に残っていて、心臓の鼓動は普段より速いままだった。
体育館の中は蒸し暑く、扇風機の風も気休め程度。
床に並んだ椅子に腰を下ろすと、後ろから「暑っ」「熱中症になるって」なんて声が聞こえてくる。
視線を前に向けると、壇上には校長先生が立ち、マイクに向かって話し始めた。
「一学期を振り返り、健康と安全に気をつけて、規則正しい生活を――」
相変わらず長い挨拶。
「やばい、寝そう……」と誰かが小声でつぶやき、周囲が小さく笑う。
私も思わず肩を揺らした。
「夏休みは事故に気をつけろ。交通ルールを守ること。生活リズムを崩すな」
生活指導の先生が念を押すと、あちこちからため息がもれる。
「またその話かよ」と男子がつぶやき、隣の友達が笑いをこらえている。
校歌を歌い、拍手で終業式が締めくくられると、ようやく自由の気配が押し寄せてきた。
⸻
体育館を出ると、外の光がまぶしかった。
夏の匂い――熱気と草の匂いと、どこか遠くのプールから届く塩素の匂い。
深呼吸をすると、胸の奥にまで熱気が入り込み、心臓の鼓動と混ざり合う。
「恋はいつでもできる。
でも、今のメンバーでバレーができるのは今だけ。」
心の奥でそう呟いた。
バレー部に入ったときから覚悟していたこと。
でも屋上での出来事が、もう一度その思いをはっきりさせてくれた気がした。
――この夏は、ただの夏じゃない。
きっと何かが変わる。
その予感が、蝉の声とともに強く胸に響いていた。
⸻
こうして、一学期最後の日は幕を下ろした。
第二章 まだ知らない、“最後の夏”
夏休み前日の放課後、体育館のドアを押すと、もわっとした熱気が肌にまとわりついた。
窓はすべて開いているのに、流れ込んでくるのはぬるい風ばかり。空気の重さは、床をはねるボールの乾いた反響といっしょに、ゆっくりと胸の奥に沈んでくる。
「はい、入念に。パスの質、落とさない」
監督の声はいつもより少し低い。追い込むというより、狙いを絞って整える声。
試合は明後日。今日のメニューは“確認”が中心。けれど、緩いわけじゃない。一本ごとに顔つきが変わる。足音も掛け声も、どこか研ぎ澄まされている。
「なぎ、いくよ」
「任せて」
さちの両手から、回転の少ない美しいパスが胸元へ。私はそのまま足を運んで返す。ゆるいテンポの往復でも、両腕に当たるボールの重みははっきりしている。受け止める角度が少しでもずれると、軌道が乱れる。
真ん中でキャプテンが声を張った。「間延びさせないよ、テンポ保って!」
汗がこめかみを伝い、首の背中に吸い込まれていく。私は練習のときだけのポニーテールを指先でぎゅっと締め直した。結び目の強さを見ると、気持ちの甘さがすぐわかる。今日は、ちょうどいい。
「トス、速めで一本もらえる?」
「オッケー」
さちの合図に合わせ、私は助走二歩目で床の感触を確かめる。重心がほどけないうちに、ふわりとトスが前に現れた。
叩き切らない。今日はフルスイングじゃない。トップを浅く、ネットの向こうのコート半分に“置く”イメージ。
手刀がボールを撫でるように抜け、白い球がネットのちょうど指一本分の高さをすべって落ちた。
「ナイス、いまの高さいい!」
ライン際で先輩が親指を立てる。私は着地で膝を緩め、呼吸を整えた。
心臓は速いけれど、乱れてはいない。いい緊張。視界の端で、三年のブロッカーが後輩に手の形を教えている。指先をそろえ、手首をひねりすぎない――小さな修正が、きっと試合の一点になる。
「サーブレシーブ、クロスに散らすよー!」
コートチェンジ。私はレシーブ隊に入る。床の木目が汗で少し滑る。スタンスを広めに取ると、足裏に見えないアンカーが打ち込まれるみたいに、すっと落ち着いた。
トスの音。相手側から放たれたフローターが、無音みたいに伸びてくる。
胸の前で肘を固め、角度を残す。ボールが前に低く滑り、さちの正面に吸い込まれた。
「ナイレ!」
「次、もう半歩前でいい!」
監督の短いフィードバックが飛ぶ。言葉が少ないのは、こちらを信じている証拠だ。
さちは受け取った一球を、私に向けて素早く返した。わずかに低い、挑戦的なトス。
私は一歩分だけ踏み込み、半身で捉える。手先で合わせない。体の真ん中で運ぶ。
オープンに払ったスイングは、ブロックの外を通ってベースラインの内側に柔らかく落ちた。
「今の“軽さ”覚えて。明後日は、そこが生きる」
監督の声に、胸の奥が小さく鳴る。力ではなく、タイミングとコースで崩す。試合二日前の練習は、そういう感覚を身体に沈めておく時間だ。
給水の合図。
体育館の端に並べたボトルから一口、冷たさが喉を通っていく。遠くの扇風機が、申し訳程度の風を運んできた。
私はタオルで額を押さえながら、コートを眺める。コーチがメモをめくる音、キャプテンが三年の顔を順に見て頷く仕草。
――この雰囲気、好きだ。
クラスで笑っているときの自分とは、表情が違うのがわかる。ここでは、笑っていても、目の奥だけはずっと“試合の目”になっている。
「コンビ確認するよ、なぎ・さち、CのフェイクからB速」
「はい!」
ホイッスルが鳴り、私はベースポジションへ戻る。助走の入りを浅くして、相手ミドルの視線を一瞬だけ釣る。
さちの指先が合図をくれた。フェイクに跳ぶふり、体を止める、踏み直し――そこに、すでに次のトスが立ち上がっている。
……間に合う。
私は前足を切って、角度のないコースを狙った。手首で殺しすぎず、肩で押し出す。
ボールはラインとブロックのわずかな隙間に吸い込まれ、コートの奥で軽い音を立てた。
「いい、今のテンポで十分!」
キャプテンの声に、胸の真ん中がすっと軽くなる。
隣でさちが息を吐いた。「今の、目合ったね」
「合った。明後日も、あのタイミングでいこう」
言葉にした瞬間、足元が少しだけ地面に深く沈む感覚がした。自信は、言葉より先に身体に宿る。
ラストブロック確認。三年のミドルが前に立つ。跳ぶときの背中の張りは、やっぱりかっこいい。
――村井先輩と、私は同じポジション。
胸の内側に薄い膜のような不安が伸びてくる。レギュラー発表は明日。頭のどこかが、結果の並びを勝手に想像している。
でも、いまは目の前だけを見る。目の前の一球だけ。
私は呼吸をひとつ整え、床の温度を足裏で測るみたいにしてから、スパイク助走の一歩目を置いた。
ネットの向こうで、三年の指先がきれいにそろって跳び上がる。
私はその“壁”を見上げながら、力を抜いてスイングした。真上じゃない、斜め。壁の横に空いた空のようなスペースへ、軽く、深く。
ボールが床に触れた瞬間、短い歓声が弾けて、すぐ飲み込まれた。
歓声のあとに残る静けさが、今日の練習の仕上がりを物語っている。騒がなくていい。分かる人には、分かる。
「よし、ここで切る。ストレッチとクールダウン、丁寧に」
監督の声で練習は締めくくられた。
膝を抱えて座り、ハムストリングをゆっくり伸ばす。床に落ちた汗の丸い跡が、練習の密度を小さく記録している。
呼吸が落ち着くにつれて、外の蝉の声がはっきりしてきた。夕方の色が窓から差し込み、コートの白線を少しだけ金色に変える。
さちが隣に腰を下ろして、ペットボトルを私のほうへ突き出した。「一口、いる?」
「ありがと」
冷たさが喉に触れると、心の芯までさわやかになる。
「明後日、やれるよね」
「やれる。……やる」
短い会話。でも、必要な言葉はそれで充分だった。
目の前の床。白線。ネット。ボール。伸ばした腕の先にある“一点”。
それらが、今の私の世界の全部だ。
立ち上がって、髪をほどいた。ポニーテールの結び目がふわりと緩み、汗で重くなった髪が肩に落ちる。
練習が終われば、私はまた“いつもの私”に戻る。
でも、胸の奥の温度は下がらない。
試合二日前の体育館には、静かで、確かな熱が残っていた。
「じゃあ最後、全員でストレッチして終わりにするぞ」
監督の声が体育館に響いた。
円になってマットを敷き、私たちは座り込む。足を開いて前屈を始めると、ピリッとした張りが太ももから腰へと伝わった。
朝からの練習と合わせて、筋肉はもう悲鳴を上げている。それでも、ここを丁寧に伸ばしておかないと明日がきつくなる。
「いててて……」
まどかが情けない声を出して笑った。
「全然曲がってないよ」
美希が突っ込むと、みんなの間に小さな笑いが広がる。
私は苦笑しながらも、呼吸を意識して前屈を深めた。視線の先では、さちが静かにストレッチをしている。背筋は真っすぐ、足もきれいに伸びていて、やっぱりフォームが安定している。
「なぎさ、ちゃんと伸びてる?」
横目で確認してきたさちに、私はわざと明るく返した。
「もちろん! 明後日動けなくなったら困るでしょ」
「強がり〜」
さちはくすっと笑って、さらに深く体を倒した。
その笑顔を見ていると、少し気持ちが落ち着く。けれど、心のどこかで引っかかっている存在があった。
――村井千尋。
三年生の先輩で、同じポジション。今日も練習中、村井先輩の動きを自然と目で追っていた。
レシーブひとつとっても、やっぱり経験が違う。安定感と視野の広さは私なんか足元にも及ばない。
(あの先輩を押しのけて、私が試合に出ることになるんだろうか……)
胸の奥で、不安と罪悪感が重たく膨らんでいく。
「はい、次はアキレス腱伸ばしてー!」
監督の声で我に返る。足を後ろに伸ばし、壁に手をついて体重をかけた。筋肉の張りが解けていく感覚に集中しながら、心の中に渦巻く思いを押し込める。
---
片付けの時間になると、体育館にボールの弾む音がぱたぱたと響いた。
「ボールかご持ってきて!」
「ネット下ろすよー!」
先輩後輩関係なく、みんなで声を掛け合って動く。
私はボールを集めながら、さりげなく村井先輩の姿を探した。ネットのポールを外す先輩の背中は、いつも通り大きく見える。けれど、その動きの端々から、どこか寂しさのようなものを感じ取ってしまう。
(明日、レギュラー発表だから気にしてるのかな……)
胸がちくりと痛む。
「なぎさ先輩、 それ全部入りました?」
後輩の声に振り向く。
「うん! もう大丈夫!」
かごいっぱいに集まったボールを押し込むと、汗がまた、首筋を伝った。
最後に全員で円陣を組む。
キャプテンが声を張り上げる。
「二日後、絶対に後悔しない試合にしよう!」
「おーっ!!!」
声が体育館の隅々まで響き渡り、壁に反射して何度も返ってきた。
身体の奥に震えるような熱が走る。
---
夕暮れ。校門を出ると、オレンジ色の光が道路を染めていた。
制服に着替えたとはいえ、練習後の汗は完全には消えていない。湿ったシャツが背中に張りついて、不快感と同時に一日の充実感を思い出させる。
「ふぅー、疲れたー!」
さちが大げさに両腕を伸ばして声を上げる。
「でも、明後日だね……ちょっと緊張してきた」
笑顔を見せながらも、その声の端にかすかな震えがあった。
私は空を仰いで、強がるように言った。
「大丈夫。私たちなら、きっとやれる」
さちは驚いたように私を見て、それから口元を緩めた。
「やっぱり、なぎさは頼もしいね……そうだよね、やれるよね」
二人で並んで歩く帰り道。
蝉の声が絶え間なく続き、空は茜色から群青に変わりつつあった。
練習で疲れた身体に、夏の空気が心地よくまとわりつく。
家路へ向かう足取りは重いのに、心は妙に軽かった。
不安も期待も全部、夕焼けの中に溶け込んでいくように感じた。
家に帰り着いたころには、もう空は群青に染まりきっていた。
蝉の声は静まり、かわりに遠くの住宅街から犬の鳴き声やテレビの音が微かに混ざってくる。
玄関を開けると、母の「おかえり」という声がすぐに迎えてくれた。
「ただいまー」
靴を脱いでリビングに入ると、母はエプロン姿で夕飯の支度をしていた。
テーブルには味噌汁の湯気が立ちのぼり、煮魚の匂いが部屋いっぱいに広がっている。
――体育館の汗とホイッスルの音に包まれていた身体に、その匂いは一気に家庭の時間を思い出させた。
「練習、どうだった?」
「んー、今日は軽め。ストレッチで終わったよ」
「ふふ、でも顔は疲れてるね」
鏡を見なくてもわかる。汗をかいたあとの髪が少し乱れ、瞼は重く、頬は赤い。
母はそれを見て、笑いながらタオルを手渡してくれた。
「先にお風呂入りな。汗流してきなさい」
「うん」
タオルを受け取って浴室に向かう。
湯気が立ちこめる浴室の中でシャワーを浴びると、肌に張りついていた疲れが少しずつ溶けていくようだった。
髪を洗いながら、昼間の屋上の光景が不意に蘇る。
汰一の真剣な瞳、まっすぐな言葉、そして自分の返事。
(……恋愛に向き合う余裕はないって、言ったけど)
シャワーの音に紛れて、小さく息が漏れる。
本当は、ほんの少しだけ「もしも」という気持ちがあった。
でもそれを今、思い出している自分に気づき、苦笑した。
「今はバレーに集中、だよね」
湯の音にかき消されるように小さく呟き、シャワーを止める。
鏡越しに見える自分の顔には、少しの迷いと、それ以上の決意が宿っていた。
⸻
風呂上がりにリビングへ戻ると、夕飯がちょうど並べ終わっていた。
母が椅子に腰を下ろしながら笑う。
「いいタイミングね。冷めなくてすんだ」
「わー、美味しそう!」
二人で向かい合って箸をとる。
煮魚の香ばしい香りが鼻をくすぐり、味噌汁の湯気がまた温かさを運んでくる。
一口食べるたびに、体の芯からほっとするようだった。
「明後日だっけ? 大会」
「うん」
「なぎさが頑張ってきた成果が出せるといいね」
母はそう言って、優しく笑った。
私は少し間を置いてから口を開いた。
「……ねえ、もしさ。私がレギュラーになって、誰か先輩の席を奪っちゃったら、どう思う?」
母は目を瞬かせ、それから静かに微笑んだ。
「それは“奪う”んじゃなくて、“与えられる”ことじゃない?」
「でも……その人は悔しいと思うし」
「悔しいと思うのは自然。でも、それを受け入れるのも、その人の努力なんだと思うよ。なぎさが必死で頑張ってきたことは、ちゃんと周りも見てる」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
けれど同時に、あの村井先輩の背中がまた思い浮かんだ。
強いのに、引退の影が少しずつ滲んでいる背中。
私がそこに割り込むことで、誰かの夢を押しのけてしまうんじゃないか――。
「……わかってるんだけどね」
小さく呟くと、母は私の髪をやさしく撫でた。
「なぎさはなぎさらしく。全力でやればいいの」
⸻
夕飯を食べ終えると、私は食器を片づけてから部屋に戻った。
窓を少し開けると、夜風がカーテンを揺らして入ってくる。
机の上には、配られたばかりの夏休みの課題プリント。
厚い束がそこにあるだけで、胸が重くなる。
(終わる気がしない……)
でも、それより今は――。
制服をクローゼットにかけ、キャプテンに言われたノートを取り出す。
――“夏の目標を書いておくこと”。
そこに私は、迷いながらもペンを走らせた。
「全力で戦う。後悔しない。」
文字を書き終えると、不思議と心が落ち着いた。
ベッドに横たわると、筋肉の疲れがじわじわと広がっていく。
窓の外からは、まだ蝉の声が残響のように聞こえてきた。
まぶたを閉じると、緊張と期待と少しの不安が入り混じった感情が胸に波打つ。
――きっと、明日も明後日も。
この夏が、私を変えていく。
そう信じながら、私は静かに眠りに落ちていった。
夏休み初日の朝。
まだ九時前だというのに、体育館にはすでにむっとした熱気がこもっていた。
窓から射し込む日差しは白く、床板に反射してまぶしいほどに輝いている。
汗の匂いとボールの音、靴底のきしむ音――夏の大会前日特有の空気がそこにあった。
「はい、それじゃあアップいくぞ!」
キャプテンの柏木紗良先輩の声が響く。
全員が走り出し、体育館を何周も回る。
掛け声を合わせ、息を切らしながらも声を出す。
ただのアップなのに、今日はなぜか普段より胸の鼓動が速かった。
ストレッチを終えると、監督がホイッスルを鳴らした。
「よし、ここでレギュラーを発表する」
空気が一瞬にして張りつめる。
全員が自然と背筋を伸ばし、視線を前に向ける。
心臓の音が、自分にだけ大きく響いているように感じた。
「セッター、佐知」
「はい!」
力強い声が、体育館に響く。
さちの返事は、いつもより少し低く、でもまっすぐだった。
次々と名前が呼ばれていく。
「ウィングスパイカー……鈴野」
「……はい!」
思わず声が裏返りそうになる。
胸が一気に熱くなり、目の奥がじんとする。
それでも必死に笑みを作って前を見た。
けれど――。
その直後、私の視線は無意識に村井千尋先輩を探していた。
……呼ばれなかった。
村井先輩は下を向いたまま、微動だにしなかった。
指先が膝の上でぎゅっと握られている。
爪が食い込むほど強く。
肩がかすかに震え、唇を噛みしめる音が、静かな体育館にまで届きそうだった。
誰も、何も言えなかった。
隣にいた篠田葵先輩がそっと背中に手を置いた。
「千尋……大丈夫。ここまで一緒にやってきたじゃん」
優しい声。だけどその優しさが、余計に胸を締めつけた。
村井先輩は顔を上げないまま、かすかにうなずいた。
その頬に、光がひとすじ落ちたのが見えた。
胸が痛む。
でも私は、拳を握って立ち尽くすしかなかった。
選ばれてしまった以上、もう引き返せない。
⸻
監督は短く告げた。
「選ばれたメンバーは残って、最後の合わせをやる。ほかは明日に備えて体を休めろ」
レギュラーに選ばれたメンバーだけがコートに残り、簡単な実戦形式の練習が始まった。
相手コートに立つと、普段の仲間なのに空気が違って感じられる。
緊張と責任が重なり、ボールを打つたびに手が震えた。
「ナイス、なぎさ!」
さちの声が飛ぶ。
その声に背中を押されるようにして、私はスパイクを打ち込んだ。
床を叩く音が、胸の奥にまで突き刺さる。
ベンチに座って見守る先輩や後輩たちの視線が痛いほど刺さった。
「私もそこに立ちたかった」――そんな声にならない思いが伝わってくるようで、息苦しかった。
⸻
練習が終わるころには、体育館の空気はさらに熱を増していた。
汗で濡れたユニフォームが肌に張りつき、息をするたびに胸が焼ける。
それでも、みんなの顔にはどこか充実した表情があった。
最後は全員でストレッチ。
「明日、全力で戦おう」
キャプテンの言葉に、声が重なった。
けれどその響きの奥には、涙や悔しさ、いろんな感情が混じっていた。
監督が「今日はこれで終わりだ。しっかり休め」と告げると、練習は締めくくられた。
時計を見ると、まだ昼前。
けれど心も体も、一日のすべてを終えたように重く、熱くなっていた。
⸻
体育館を出ると、真夏の太陽が容赦なく照りつけた。
アスファルトが陽炎で揺れ、空気が歪んで見える。
校門を出る道を、私はさちと並んで歩いた。
「……なぎさ、おめでとう」
さちは微笑みながらそう言った。
「ありがとう。さちも、おめでとう」
笑い合ったその一瞬だけ、風が少しだけ涼しく感じた。
けれど、どちらの笑顔にもほんの少しの影が差していた。
二人とも、村井先輩の姿が頭から離れなかったのだ。
「村井先輩……泣いてたね」
「……うん」
それ以上、言葉は出なかった。
蝉の声だけが、夏の空気を満たしている。
(先輩の分まで戦わなきゃ)
私は心の中でそう繰り返した。
そして無意識に、手のひらをぎゅっと握りしめていた。
第三章 決戦前夜と、火を灯す名前
午前の練習を終え、さちと並んで歩いた帰り道。
「明日、絶対勝とうね」
信号待ちで立ち止まったとき、さちが笑ってそう言った。
その横顔は太陽に負けないくらい明るくて、同じ二年生なのに、まるで頼れる先輩みたいに見えた。
「うん!」
私も負けないように声を張ったけど、胸の奥はきゅっと熱くなる。
レギュラーに入った嬉しさと、責任の重さ。
村井先輩の悔し涙を思い出すと、ただ「頑張る」だけじゃ済まされない気がした。
交差点で「じゃあまたLINEするね!」と手を振って別れ、私は一人で自宅へ向かった。
街路樹の緑は濃く、蝉の声は耳を突き抜けるほど大きい。
小学生たちの笑い声や、どこかの庭先で回るホースの水音が「夏休み」を告げていた。
家の玄関を開けると、ふわっとみそ汁の香りが鼻をくすぐった。
「おかえり、なぎさ。今日も暑かったでしょ」
台所から母が顔を出す。前髪をピンで留め、エプロン姿で小さく汗を拭った。
「ただいま」
スニーカーを脱ぎながら答える。足裏にじっとりとした熱が残っていて、畳の感触が心地よかった。
リビングのテーブルには冷やしうどんが並んでいた。氷が浮かんだガラスの器は涼しげで、きゅうりや錦糸卵の色合いが夏そのものだった。隣には小鉢の枝豆、そして麦茶のグラス。
私はバレーで火照った体を冷ますように一気に麦茶を飲み干した。氷がカランと音を立てる。
「練習、どうだったの?」
母の声は、仕事帰りの疲れが残っているはずなのに、どこか柔らかい。
「最終調整って感じ。アップして、監督からレギュラー発表があって……」
言葉が自然とそこで止まった。
箸を動かしていた母が、ゆっくり私を見る。
「……なぎさ、入ったのね」
まるで確信していたみたいな声だった。
「うん」
こくりとうなずくと、母はふっと笑った。
「やっぱり。頑張ってたもの」
その一言で、胸の奥にじんわりと熱が広がる。
「でもまだ安心できないよ。明日が本番だから」
口ではそう言いながらも、誇らしさが小さく芽生えていた。
「明日、応援行けなくてごめんね。仕事がどうしても休めなくて…」
申し訳なさそうに母は言った。
「仕事じゃしょうがないよ。」
と応援に来て欲しいという気持ちを抑えた。
食事をしながら、母は何度も「水分ちゃんと取りなさい」「夜は早く寝るのよ」と繰り返す。
それはいつもより少し多く、そして少し真剣だった。
食後、食器を片付けて部屋に戻ると、スマホが震えた。
画面には部のグループLINE。
『明日、絶対勝つぞ!』キャプテンからのメッセージに、すぐ『おー!』『任せて
!』と返信が次々に流れる。
スタンプが連続で飛び交い、画面が一気に賑やかになっていった。
そのやり取りを見ながら、私は午前の光景を思い出す。
レギュラーから外れた村井先輩の涙。
それを支えた葵先輩の背中。
――あの姿を忘れちゃいけない。
ベッドにスマホを置き、拳をぎゅっと握る。
明日は、絶対に勝ちたい。
その思いがまた胸を熱くし、心臓の鼓動を速めていった。
昼食を終えて部屋に戻ると、扇風機の回る音と蝉の声が混ざって、眠気を誘った。
午前の練習の疲れがじわじわと全身に広がり、ベッドに横になった瞬間、意識はすぐに沈んでいった。
――夢を見ていた。
体育館。照明の下、白いボールが宙を舞う。
レシーブをしたのは私。トスが上がり、スパイクを打とうとジャンプする。
けれど腕が思うように振れない。
ネットの向こうで相手が構えていて、叩きつけられたのはボールではなく、自分自身の影。
「なぎさ!」
叫ぶ声に胸が詰まり、次の瞬間――。
ブルルッ、とスマホが震えた。
はっとして目を開けると、天井の模様がにじんで見える。額に汗が滲んでいた。
「……夢、か」
寝起きのぼんやりした頭でスマホを手に取ると、画面には「さち」の名前。
「もしもし……」
まだ少し掠れた声で応えると、元気いっぱいの声が飛んできた。
『なぎさ! 寝てたでしょ?』
「うん、ちょっとだけ……」
『やっぱり! 声でわかるもん。疲れてたんだね。』
さちは少し笑ってから、真剣な声に変わった。
『……緊張してる? 明日』
「……うん。夢にまで見ちゃった」
素直に言葉がこぼれる。
『でも大丈夫だよ。なぎさなら絶対やれる。今日のスパイク、めちゃくちゃ良かったじゃん。』
「ほんとに?」
『ほんと。みんなも言ってたよ。レギュラーはプレッシャーもあるけど、私が一番頼りにしてるのはなぎさなんだから。』
電話越しでも、その声はまっすぐ届いた。
胸の奥でしゅるしゅるとほどけていた不安が、少しだけ形を変えて熱に変わっていく。
「……ありがと。さちの言葉、効くわ」
『でしょ? じゃあまた夜LINEするから! ちゃんと休んでね!』
「うん!」
通話が切れ、部屋に再び静けさが戻る。
机に置いてあったノートを開き、ペンを走らせる。
「サーブの安定」「声を出す」「最後まで飛び切る」
夢で失敗した場面を思い返しながら、改善の言葉を次々に書き込んだ。
立ち上がり、ボールを手にスパイクのフォームを繰り返す。
「高く、最後まで。腕を振り切る」
声に出すたびに、電話のさちの言葉が重なり、不安よりも決意が強くなる。
窓の外は夕日に染まり、オレンジ色の光が床を照らしていた。
私は大きく息を吸い込み、ノートの端に大きく書いた。
――「勝つ」。
夕暮れの光が部屋を赤く染めるころ、リビングから包丁の音が響いてきた。
トントンと小気味いい音に混じって、だしの香りが漂ってくる。
部屋のノートを閉じて立ち上がると、腹の底からぐうっと音が鳴った。
「なぎさ、ごはんできるよー」
母の声に「はーい」と返してリビングへ降りる。
テーブルには湯気の立つ肉じゃが、豚カツ、冷ややっこ、そしてわかめの味噌汁。
普段通りの夕食なのに、どこか特別に見えた。
試合前夜だからだろうか、いつもより少し豪華に感じた。
「練習で疲れてるでしょ。たくさん食べなさい」
母は豚カツを私の皿に取り分けてくれる。
「ありがとう。...でも緊張であんまり食べれないかも」
ぽろっと本音が漏れた。
母は箸を止めて、じっと私を見つめた。
「そうね。三年生の引退が懸かった大事な試合だもんね」
その言葉のあとに、少しだけ声を落とした。
「でも、なぎさ。無理はしないでね」
真剣な眼差しだった。
私は思わず背筋を伸ばす。
「大丈夫だよ。絶対勝つから」
力強く答えると、母はふっと笑った。
「その顔なら大丈夫そうね」
二人で一緒にご飯を食べるのは久しぶりに感じた。
母は仕事で帰りが遅いことが多いし、私も部活で夜まで残ることが多い。
だから今夜は少しだけ特別に思えた。
味噌汁をすすりながら、母が何気なくテレビをつける。
ニュースキャスターが「明日は全国的に猛暑日になるでしょう」と告げている。
横で母が「やっぱり暑いのね、熱中症に気をつけなさい」と呟いた。
私は笑って「もう慣れたよ」と答える。
けれど、胸の奥では明日のコートを思い浮かべていた。
汗で滑る床、灼けつくような熱気、鳴りやまない歓声。
その中で自分はどんなプレーを見せられるだろうか。
母は普段通りの話題も挟んだ。
「近所の川で花火大会があるんだって。行きたかったなぁ」
「えー、花火かぁ……いいな。でも部活があるから」
「そうね。なぎさにとってはバレーが一番だもんね」
その言葉は優しくて、どこか寂しげで。
私は箸を持ったまま、母の横顔を見つめた。
本当は試合を見に来たかったんだろう。
でも仕事でどうしても無理だと知っているから、私は口をつぐんだ。
「明日、帰ったらまた報告してね」
母はそう言って、にこりと笑った。
「もちろん!」
私は笑い返す。その声が少しだけ大きくなってしまった。
食事を終え、食器を一緒に片付ける。
水道の水が跳ね、洗剤の匂いがふわりと漂う。
母と肩を並べて皿を洗いながら、ふと安心感が胸に広がった。
――明日は、絶対に勝つ。
この日常を守るためにも。
最後まで読んでくださってありがとうございます!
次は第4章から投稿します!
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