7
夜の帳が街を包み、
宿屋〈風の鈴亭〉の外は、
ランプの灯りだけが淡く揺れる。
客で賑わう食堂の入り口に黒髪の男が立っていた。
ランティス・ブルーヴァルド――
アイリスはその姿に声を失い水を注いだグラスを持つ手が震えた。
ランティスは喉の奥から、絞り出すように声がこぼす。
「ずっと……探してたんだ、アイリス。」
長い沈黙のあと、彼女の唇がかすかに動いたが……
言葉にはならなかった。
その時――
「かぁ様? この人だぁれ?」
幼い声が、
空気を切り裂くように響いた。
アイリスはハッとして、
少年――セリスを背中に隠すように立つ。
「君の子か?」
ランティスは低く、静かに問う。
アイリスはしばらく迷ったあと、
小さく頷いた。
「……そうです。
私の……私の息子です。」
その答えに、ランティスの呼吸が止まる。
けれど、すぐに彼はしゃがみ込み、
セリスと目線を合わせた。
「名は?」
少年はきょとんとしながら恥ずかしそうに笑う。
そして真っ直ぐに彼を見つめて答えた。
「セレスティ。……4歳。」
「……父様は?」
セリスは首を傾げ、
「とーさまはいないよ?
とーさま偉い人だから、お仕事で会えないって!」
その言葉に、
ランティスは目を細め、
そっとその小さな体を抱き上げた。
驚いたアイリスの声が震える。
「ラ、ランティス様っ……!」
だが、彼は穏やかに微笑んだ。
「……俺が君の父様だよ、セレス。」
「え?」
「迎えに来た。一緒に帰ろう。」
少年は目をぱちぱちと瞬かせ、
次の瞬間、にっこりと笑った。
「ほんと? とーさまなの?」
「……ああ。」
「やったぁ!」
無邪気な声が夜の静けさを満たした。
だが―その光の中で、
ただ一人、震える手で口を覆うアイリス。
「駄目……駄目です。」
ランティスはセリスを抱いたまま、
その言葉に眉をひそめる。
「何故?」
アイリスの瞳が揺れる。
声は小さく、掠れていた。
「……だって、あなたは聖女様と結婚したはずでしょ?」
その一言に、
ランティスの表情が固まった。
一瞬の静寂。
風が二人の間を抜けていく。
「俺が?」
低く、確かな声。
「俺は君と婚約している。
それは今も変わらない。」
アイリスは信じられないように彼を見上げる。
「……どうして…」
ランティスはゆっくりと、
彼女の肩に手を置いた。
「どうしても何も……
俺の婚約者は、君以外にいない。」
言葉を失うアイリス。
その頬を涙が伝い落ちる。
そのとき、宿の奥から
女将カティアが腕を組んで現れた。
「……事情がありそうだねぇ。」
彼女はため息をつき、
けれどどこか温かい目をしていた。
「アイリス。
せっかく迎えに来た旦那を追い返すなんて、野暮なことはおよし。
……ゆっくり話し合いな。
どうしても無理だったら、その時はまた帰ってくればいいさ。」
アイリスは涙を拭いながら小さく頷いた。
ランティスの腕の中でセレスは無邪気に父に抱きつく。
――ようやく、取り戻した。
けれど、まだ終わりではない。
夜の灯りの中で、
三人の運命が再び交わり始めていた。




