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5年目………ランティスは地方視察という名目で、小さな街に足を踏み入れていた。
夕暮れの石畳。
橙の光が街角を染め、パン屋の甘い香りと笑い声が漂う。
どこにでもある平和な光景―だが、
その中に「懐かしい気配」を感じて、
彼の足がふと止まった。
……風の鈴亭。
古びた木の看板の宿。
軒先からは食堂の明かりが漏れ、
その光の中に―彼女がいた。
銀の髪がランプの灯りを受けて柔らかく輝く。
忙しそうに皿を運びながら、
客たちに笑顔を向けている。
――アイリス。
胸の奥から、
張りつめていた何かが一気に崩れ落ちた。
呼吸が乱れ、
喉の奥が熱くなる。
(……変わらない。)
姿も、声も、あの優しい微笑みも。
夢に何度も見た“彼女”が、
今、目の前にいる。
やっと会えた。
どれだけの夜、
この瞬間を願ってきただろう。
「元気だったか」
「なぜ、いなくなった」
「どれほど探したと思っている」
そう言いたいのに、
喉が詰まって声が出ない。
ただ、ただ、
彼女の姿を目で追うしかできなかった。
その時――
「かぁ様! お仕事、終わる?」
小さな声が食堂の隅から響いた。
振り向くと、
四歳ほどの少年が彼女の足元に抱きついていた。
黒い髪、白い肌、
無垢な瞳が母親を見上げる。
アイリスは微笑んで、
しゃがみこんでその頭を撫でた。
「もうすぐよ。待っててね、セレス。」
……セレス?
胸の奥が、きしむ音を立てた。
―結婚したのか?
―他の男と?
―その子は……その男との……?
問いが次々に浮かび、
息が苦しくなる。
心臓が、痛いほどに早く打つ。
彼の知らない世界で、
彼女は別の誰かと生きてきた……
そう思った瞬間、
視界が滲んだ。
だが、少年が顔を上げたとき。
ランティスの呼吸が止まった。
その瞳の色。
その幼い顔立ち。
まるで、昔の自分をそのまま写したようだった。
(……まさか。)
時間が止まる。
心臓が音を忘れる。
(……俺の……子……?)
喉の奥から、
言葉にならない息が漏れた。
掴みきれない現実に、
ただ立ち尽くすことしかできなかった。
その時、
アイリスがふとこちらを見た。
目が合う。
グラスを持つ手が震え、
その紫の瞳が驚きに見開かれる。
「……ラン……ティス様……?」
彼の名前を呼ぶ声が、
揺れる灯りの中で確かに届いた。
五年分の時が一瞬で溶けていく。




