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セリスが1歳になってすぐの頃……
冷たい風がまだ残る早春の朝。
陽が昇りはじめた小さな家の窓辺で、アイリスは幼子を胸に抱いていた。
――セレスティ。
この世界で、たったひとりの自分の子。
あの夜……たった一度だけのランティスとの契で生まれた子。まさかとは思ったがそれでも愛する人の子をまさか自分がとは思っていなかったから嬉しかった。
小さな寝息を立てる息子の髪を指先で撫でながら、
アイリスは微笑む。
「……おはよう、セレス。」
その瞳に映るのは、かつての貴族令嬢ではなく、
一人の母としての静かな決意。
貴族の名も、贅沢も、
愛された記憶すらも捨てた―
でも腕の中のこの小さな命だけは、何よりも大切な宝だった。
彼女はそっと息子を寝かせ、
袖をまくって立ち上がる。
「さて……働かなくちゃね。」
今日から街の宿屋の給仕係として働く。前世でウエイトレスをしていた記憶がきっと役に立つ。
前世の母もシングルマザーだったから大変さはわかっているが幸い自分には助けてくれる兄がいる。
仕事さえ見つかれば細々とでも暮らしていける。
新しい出発は楽しみでしかたなかったがアイリスはどこか寂しげに目を伏せる。
――あの人に、いつか会う日が来るのだろうか。
胸の奥に浮かぶランティスの姿。
名前を呼ぶだけで痛くなる心。
それでも、今は立ち止まってはいられない。
「セレスのために…。」
彼女の髪が風に揺れ、
胸の奥に小さな決意の灯がともっていた。
――過去に囚われず、前に進む。
それが、母として選んだ“新しい運命”だった。
アイリスはセレスティを腕に抱いて、
まだ人通りの少ない通りを歩いていた。
その隣には、若い女性――アーニャが寄り添っている。
栗色の髪を後ろで束ね、控えめな眼差しの侍女。
彼女は侯爵家時代からずっとアイリスに仕えてきた唯一の人だった。
「……お嬢様、やはり私が働きますから。
こんな宿屋の仕事など、貴族のご令嬢がするものではありません。」
心配そうにアイリスを見上げる。
けれど、アイリスは微笑んだ。
その笑みは穏やかで、けれど決して揺るがない強さを持っていた。
「いいのよ、アーニャ。
侯爵家から、あなたを私のもとへ派遣してくれてるだけでも十分ありがたいわ。……それに、セレスのためにも今のうちに仕事を覚えたいの。」
かつては令嬢としての作法の学びのために使った手。
けれど今は、食器を運び、客に笑顔を向けるための手になる。
――宿屋〈風の鈴亭〉。
街でも評判の良い宿で、
アイリスはその食堂で給仕係として働き始めた。
昼時になると、旅人や商人たちで賑わう。
暖炉の炎が灯り、パンとスープの香りが漂う。
「お客様、お水をどうぞ。」
アイリスの声は柔らかく、所作も美しかった。
その銀の髪と紫の瞳、凛とした佇まいは、
この街では見かけない美しさで――
自然と客たちの目を引いた。
ざわ……とした空気に、
厨房の奥から顔を出した女将カティアが眉をひそめる。
がっしりした腕。年季の入ったエプロンを腰に巻き、
髪を後ろでまとめた中年の女。
彼女はアイリスを雇った人であり、
来る人たちに母親のように世話を焼く女性だった。
「おい、そこの兄ちゃん!」
客席でにやついていた商人たちに、
カティアが鍋を構えながら怒鳴る。
「うちのアイリスに手ぇ出したら―鍋で煮込むからねっ!!」
「ひっ……はい!?」
慌てて顔を引きつらせる男たち。
その様子に、アイリスは苦笑しながら小声で言う。
「……カティアさん、そんな怖い顔をして。」
「当たり前でしょ!
あんたみたいな美人、世の中にそういないんだから。
守るのが女将の仕事さ。」
そう言って笑うカティアに、
アイリスもつられて笑った。
セレスティはアーニャの腕の中で嬉しそうに手を振る。
「かぁしゃまー!」
その声が響くたび、
アイリスの心は少しずつ満たされていった。
貴族ではなくても、
聖女でもなくても―
今はこの街の一人の母として、生きている。
その日々が、何より尊く、あたたかかった。




