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あの夜から五年――。
アストゥリア王国の南端、風と森に包まれた小さな街。
穏やかな空の下で、アイリス・ウィンディアは息子と暮らしていた。
朝の陽光がカーテンの隙間から差し込み、柔らかな光が木の床を照らす。
「かぁ様、起きて!」
小さな声に目を覚ますと、ベッドの上には金色の陽を背にした少年が笑っていた。
「……セレスティ、もう朝なの?」
「うん!もうお日さま登ってるよ!」
笑顔で布団を引っ張る息子に、アイリスは小さく笑う。
その仕草も、声の響きも、どこか―幼いあの日の彼に似ていた。
胸の奥が少し痛む。
けれど、悲しみではない。
息子が自分の手で幸せに育っていること、それが彼女の誇りだった。
テーブルの上には、昨夜のパンと野菜のスープ。
質素でも、そこには幸福があった。
外では、鳥が鳴き、街の人々が店を開く声が聞こえる。
ここでの暮らしは穏やかで、何より“普通”だった。
侯爵家の娘としてではなく、ただの母として生きる日々。
洗濯と掃除を終わらせのんびりとした昼下がり、扉を叩く音がした。
ドアを開けると、
「やあ、元気にしていたか?」
そこに立っていたのは、兄――アレックス・ウィンディアだった。
変わらず落ち着いた優しい笑みを浮かべる。
「兄様……!」
思わず声が弾んだ。
アレックスは微笑み、アイリスの頭に手を置く。
「少しは顔色が良くなったな。風邪大丈夫か……セレスティも、久しぶり。」
「おじさま!」
セレスティが駆け寄り、アレックスの脚に抱きついた。
「はは、力が強くなったな。さすが男の子だ。」
三人で囲む小さな食卓。
アレックスは静かに紅茶を口にしながら、窓の外の風景を見つめた。
「……平和だな。」
その一言に、アイリスは微笑む。
「ええ。ここにいると、時間がゆっくり流れているようです。」
湯気の立つ紅茶の香りが、静かな部屋に広がっていた。
アレックスはカップを置き、ゆっくりと妹を見た。
「……父上も母上も、理由は知ってはいるけど……」
一拍おいて、穏やかに続ける。
「戻ってくるつもりはないのか?」
その問いに、アイリスは少しだけ笑みを浮かべた。
「いいの。仕事もあるし、今の生活……楽しいから。」
アレックスは目を細め、妹の顔を見つめる。
彼女の瞳の奥に、確かに幸福が宿っている。
けれど同時に、そこにはどこか“触れたら壊れてしまいそうな静けさ”も見えた。
「……そうか。」
彼は短く答え、視線をカップに落とす。
その仕草が、少し寂しげに見えた。
セレスティが無邪気に笑いながら、外で小さな木の剣を振り回している。
「見ておじさま! ぼく強くなったでしょ!」
「おお、立派だな。母上を守れるようになれよ。」
その声に、アイリスは笑みをこぼす。
「……あの子がいるだけで、十分なんです。」
小さく呟いたその言葉に、アレックスの胸が締めつけられる。
彼女がどれほど強がっていても、夜の静けさの中で泣いているのを知っている。
それでも、アイリスの笑顔があまりにも穏やかだったから、何も言えなかった。
「……父上も母上も、ずっと心配している。
でも―その笑顔を見ると、何も言えなくなるな。」
アイリスは静かに頷いた。
「ありがとう、兄様。」
断罪のない世界で普通に生きていく………それがアイリスの幸せだった。




