20
――あの事件から、半年。
アストゥリア王国はゆっくりと平穏を取り戻していた。
神殿の修復は終わり書物は厳重に管理される。
魔界の瘴気は完全に消え去っている。
マリアは王城の客間で紅茶を口にしながら、分厚い書を広げていた。
この国の礼儀作法や言語、歴史を学ぶための授業。
窓から差す柔らかな光の中で必死に目を通す。
その傍には指導係となった淡い藤色のドレスに身を包んだ公爵夫人―アイリス・ブルーヴァルド。
ふとアイリスは軽く首を傾げ、柔らかく笑った。
「皇太子様から……プロポーズされたそうですね?」
マリアは小さく息を呑み、そして苦笑する。
「ええ……。でも、正直……気乗りはしないの。
異世界から来た私が、この国の王妃になんて……務まるかしら?」
その不安を和らげるように、アイリスは小さく笑った。
「ふふ……私も、同じでしたよ。」
マリアが瞬きをする。
「同じ……?」
「ええ。私は――転生者ですから。」
その一言に、マリアの瞳が大きく揺れた。
そして、少しの沈黙ののち、彼女は小さく笑った。
「やっぱり……そうだったのね。」
その声には、どこか確信のような温かさがあった。
アイリスは頷き、遠い窓の外に目を向けた。
「悪役令嬢が“逃げる”なんてルートはありませんでした。でも――逃げる事を選んだことで、私はこの世界で生きる覚悟を得ました。」
マリアはその言葉を噛みしめ、そっと紅茶を置く。
「……そしてその覚悟が、セリス様に受け継がれたのね。」
窓の外で、風が庭の花を揺らした。
金色の蝶が飛び立つ。
どこかで子どもの笑い声が響いた―それはセリスの声だった。
「ええ……あの子は“選んだ未来”そのものです。」
アイリスの横顔は穏やかで、強く、美しかった。
紅茶の香りがまだ漂う中、扉の向こうからコンコンと軽やかなノックの音が響いた。
「……失礼します。」
静かな声とともに扉が開く。
入ってきたのは、深い青の礼服を纏ったランティスと、その隣に立つ皇太子リュオネスト。
陽光を背にした二人の姿はまるで絵のようで、マリアは思わず息を呑んだ。
ランティスはアイリスのもとへ歩み寄り、穏やかな微笑を浮かべる。
「授業は終わったか?」
「はい。少しだけ昔話をしていたところです。」
アイリスが微笑むと、彼はその手を取って小さく頷いた。
一方、皇太子は軽やかに歩み寄り、マリアの前で立ち止まった。
「マリア。」
その声に、マリアの肩がわずかに跳ねる。
リュオネストは、いたずらっぽく笑いながら彼女の右手をそっと取った。
「――今日は、そろそろ返事をもらえると嬉しいのだけどな。」
その仕草は優雅で、けれどどこか茶目っ気がある。
彼の金の瞳が揺らめき、微かに困ったようなマリアの表情を映す。
「こ、皇太子殿下……」
マリアは頬を染め、視線を逸らす。
「けど…私まだ覚える事も多くて」
彼の声が少しだけ低くなる。
「君がこの国を愛してくれるまで、気長に待つつもりだったが――
そろそろ“王妃候補”としての心の準備をしてもらいたい。」
その言葉に、部屋の空気が一瞬止まる。
マリアは息をのんでランティスとアイリスを見る。
アイリスは微笑んで頷く。
「大丈夫ですよ。……あなたなら、この国に光をもたらせます。」
その言葉に、マリアの瞳が揺れた。
その瞳には、もう迷いよりも“決意”が映り始めていた。




