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アイリスは窓の外の月明かりを見つめながら、静かに息を吐いた。
心の奥底で、前世の記憶がざわめく。
――この世界は、ゲームの世界。
悪役令嬢である私は、婚約者ランティス・ブルーヴァルドに断罪され、侯爵家は没落する。
そしてランティスは、異世界から来た聖女リンカと結ばれるはずだ…
ゲームの筋書きでは、私は侯爵家の屋敷で追い詰められ、涙を流しながら断罪される。
そのあと、盗賊に攫われ、売られ、逃げ場のない悲劇を味わう。
――そんな恐ろしい未来が、目の前にあった。
しかし、現実は違った。
ランティスは私を追い詰めるどころか、静かに私を見つめ、抱きしめてくれる。
ランティスは、私を選んでくれる―
そう信じたくてもゲームの強制力が怖かった。
七歳――父に手を引かれ、初めて公爵邸の大きな門をくぐった。
庭園の東屋で父と2人待っていると石畳を踏む足音が響き、一人の少年に自然と目が吸い寄せられる。
黒髪が光を吸い込み、青い瞳が静かに自分を捉えていた。十二歳のランティス。まだ少年の面影はあるが、瞳にはどこか大人びた落ち着きがあり、空気まで凛とさせる威厳があった。
「アイリス嬢、初めまして」
その声は柔らかく、まるで静かな湖のように澄んでいた。
胸の奥で、ドキリと小さな衝撃が走る。まだ幼いアイリスの心臓は、初めての感覚に戸惑った。
ランティスはにっこりと微笑む。
その笑顔には、気取りも威圧もなく、純粋な優しさだけが宿っていた。
自然に差し出された手に、アイリスは息を飲む。
小さな手をそっと触れ合わせると、温かさがじんわりと指先から伝わる。
その瞬間、胸の奥にふわりと柔らかい何かが広がり、幼い直感が囁いた――
(この人は、きっと優しい人……)
「……は、はじめまして」
言葉はつっかえがちだ。声は震え、手も少しこわばった。それでもレディとしての礼を取る。
ランティスは静かに瞳を細めて微笑む。焦らず、急がず、ただこちらを見守るように。
二人だけの時間が止まったかのように思えた。
「……よろしくお願いいたします。ランティス様」
「こちらこそ、アイリス嬢」
その声には柔らかさと確かさがあり、未来を暗示するかのように、アイリスの心に深く刻まれた。
――あの出会いから、すべてが始まったのだ。
優しい笑顔、青い瞳、温かい手。
幼い心に残ったその記憶は、運命を揺るがすほどの力を秘めていた。
アイリスは出会った瞬間ランティスに恋をした…




