16
ラグウェル公爵邸――
リンカの怒声が響いた瞬間、銀のティーカップは床に叩きつけられ、紅茶が散った。
白い絨毯に、血のような琥珀の染みが広がる。
「熱いじゃないって言ってるのよ!」
侍女が震えながらひざまずく。
「も、申し訳ございません、聖女様……!」
リンカはその謝罪を聞いていなかった。
その漆黒の瞳は、遠い虚空を見つめていた。
(違う……。こんなはずじゃない……。)
本来なら、アイリスは断罪され、彼女―リンカこそが「正しき未来」を掴むはずだった。
ゲーム通りなら、聖女の奇跡でランティスは救われ、皇太子リュオネストが彼女を讃える。
そして、幸福なエンディング。
そう、「彼の隣にいるのは私」のはずだった。
なのに、何も動かない。
誰も彼女を見ない。
祈っても奇跡は起きない。
ルートが、止まった。
「……なぜ、動かないの?」
指先を震わせ、紅茶の香りの残る空気を掴むように呟く。
「マリアも……ランティスも……リュオネストも……あの騎士団長も……全部……おかしい。」
侍女はいつの間にか退室し沈黙が降りた室内で、ただひとつ、彼女の吐息だけが冷たく響く。
「アイリス……あの女、何をしたの……?」
怒りと焦燥の混じったその声は、聖女と呼ばれるにはあまりにも醜く、人間らしかった。
――歪んでいく“正しい世界”
リンカは知らない。
断罪を逃れた女が“母”となり、運命の書き換えているとしか思えなかった。
その手に握られた一冊の黒い魔導書が、彼女の中に燃え残る“信仰の残骸”をすべて飲み込んでいた。
「…………もう、神も、ルートも信じない。」
震える唇でそう呟いた声は、祈りではなく呪いのように響く。
ページがめくられるたび、空気が黒く揺れた。
古の魔族の言葉――“契約の詩”。
本来なら、これを読むのはアイリスのはずだった。
魔界の扉を開き、すべてを呑み込む災厄を呼び出し、そしてその後、聖女リンカが“光の加護”で扉を閉じる。
それが「ゲームの筋書き」。
だが、現実は動かない。
アイリスは断罪を逃れ、ランティスは彼女を妻にし、聖女リンカはただの「異世界から来た女」に成り下がった。
「やり直すためには……壊さなきゃ、ダメなのよ。」
瞳が闇を映す。
魔導書の文字が浮かび上がり、光を放ち始めた。
地の底から響く唸り声。神殿の石床が震え、封印の扉の文様が赤く染まる。
リンカは笑った。
それは涙を乾かすための、狂気の笑みだった。
「見てなさい、アイリス。あなたを選んだ“世界”を、私が壊してあげる。」
次の瞬間、封印の扉が開く。
黒い風が吹き荒れ、聖なる神殿が一瞬にして“闇の門”へと姿を変えた。
――こうして、滅びの鐘が鳴る。
本来、光の聖女が閉じるはずだった魔界の扉を、
今、聖女リンカ自身が開いてしまったのだ。




