10
翌日午後――
公爵邸の庭に柔らかな陽が差していた。
花々が咲き誇り、
風に乗って新緑の香りが漂う。
そんな穏やかな光の中――
屋敷の門前に一台の馬車が止まった。
扉が開き、
中から降り立ったのは、ウィンディア侯爵とその嫡男アレックスだった。
二人の顔には、安堵の感情と共に複雑な影が混じっている。
侍従に案内され、彼らが通された応接間。
そこには、淡いラベンダー色のドレスを纏ったアイリスが立っていた。
「……兄様……」
その声は震えていた。
アレックスが一歩、二歩と近づき、
妹を強く抱きしめた。
「アイリス!!……大丈夫か?」
その腕にこもる力は、心からホッとした兄の優しさ。
アイリスは兄の胸に顔を埋め、
小さく笑って答える。
「……うん。大丈夫。……話したの。
“あの話”を、ランティス様に。」
アレックスは驚き、そして静かに頷く。
「……そうか。」
ほんの少しの沈黙のあと、
アレックスは苦い息を吐いた。
「……けど……もう一人、来るんだろ?」
アイリスの表情が揺れた。
その言葉の意味を、彼女は理解していた。
――“もう一人の異世界人”。
ランティスとの結婚式の最中に新たな“乙女”が現れるという…
あの忌まわしい“運命の続き。
アレックスは眉を寄せ、妹の肩に手を置いた。
「でも…二人なら乗り越えられると信じるよ。私も手伝う。」
「兄様……いつもありがとうございます。」
ランティスがセレスを連れて部屋に入ってきた。
「おじさまっ!」
アレックスに飛びつくセレス。元気な甥の姿にアレックスは優しく目を細めた。
「……聖女リンカが黙っているでしょうか?」
「彼女をもう離さない。誰が何を語ろうと家族は……アイシアとセレスは俺が守る。」
アレックスは少し笑って頷いた。
「……頼もしい義弟だな。」
そのやり取りを見ていたウィンディア侯爵は目頭を押さえた。
「……ようやく、あの子の笑顔が戻った。
ブルーヴァルド公、感謝いたします。」
「頭をお上げください、ウィンディア侯爵。
俺にとって彼女こそ“運命”そのものです。結婚式は早めに執り行います。時間がないですが来月。
陛下の承認は今週には返事をいただけると……」
夕暮れの光が公爵邸の回廊を染める。
窓の外には春の花が咲き誇り、風が淡い香りを運んでいた。
2週間後――
ランティス・ブルーヴァルドとアイリス・ウィンディアは、国王陛下に婚姻の正式な報告をし、
夜会の場で“公爵夫妻として”初めて姿を現す予定だった。
それは、彼らにとって新しい始まりであり、
運命の物語を塗り替える第一歩でもあった。
「……どうしよう、落ち着かないわ。」
鏡の前で、アイリスは落ち着かない様子で髪を整えていた。
侍女たちが慌ただしく動き回り、青のドレスを肩に掛ける。
銀糸の刺繍が光を受けて淡く輝き、
まるで夜空に咲く星々をそのまま織り込んだかのようだった。
「奥様、とてもお似合いです。」
古参の公爵家の侍女ナディアが感嘆の声を漏らす。
「……そんな、まだ正式な奥様ではないわ。」
そう言いながらも、アイリスの頬がわずかに染まった。
鏡に映る自分の姿が、
あの日、侯爵家を逃げ出した少女のものとはまるで違って見える。
瞳には迷いよりも、確かな意志が宿っていた。
王からの承認は先週もらった。
あとは王への挨拶と婚礼の儀式が済めば
彼らの夫婦としての絆は“王国の歴史”に刻まれる。
「……ナディア、セレスは?」
「お坊ちゃまはラオネル様と庭で。
お祖父様に剣の構えを教わっておられますよ。」
「ふふ……きっと泥だらけね。」
微笑むアイリスの頬を、緊張と期待の紅が染めていく。
そのとき――
「入っていいか?」
ドアをノックする低い声。
ランティスだった。
「……どうぞ。」
扉が開くと、
黒髪の男がゆっくりと入ってくる。
黒の礼服に身を包み、
青の瞳が灯りを映して深く光っていた。
胸元には、アイリスの瞳を思わせる紫のハンカチーフ。
彼の中の“誓い”の色。
「……綺麗だ。」
短い言葉に、すべての想いが込められていた。
アイリスは照れたように微笑み、
ドレスの裾を指で摘まむ。
「緊張してるの。
陛下の前で正式に報告するなんて婚約式以来で緊張で息が詰まりそう。」
ランティスは彼女の前に立ち、
手を伸ばしてそっとその指を取った。
「怖がることはない。
君は俺にとって必要な人だ。
……俺の隣に立つべき、ただ一人の人間だ。」
アイリスの喉が詰まる。
心臓が跳ねるように鼓動を打った。
「……あなたは、どうしてそんなふうに言えるの?」
「決まっている。
君を“失った”五年間が俺にそれを教えたからだ。」
アイリスの目が潤む。
ランティスは微笑み、
軽く頭を下げて手を差し出した。
「行こう、アイリス。
今度こそ、運命に正式に名を刻みに。」
彼女はその手を取り、
静かに頷いた。
「……はい、ランティス様。」
夜の帳が降りる。
馬車の窓越しに映る城の灯が近づく。
その光は、まるで新たな時代の幕開けを告げるように煌めいていた。
――あの夜逃げ出した少女は、
今、堂々と王の前へと歩んでいく。
青の公爵とともに。




