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静まり返った公爵邸の一室。
夜の灯が揺れ、窓の外では春の雨がやさしく屋根を叩いていた。
ランティスの瞳は真っ直ぐに彼女を見つめている。
その瞳はただ、心の底から知りたいという切実な想いがあった。
「……アイリス。どうしていなくなった?」
低い声が静寂を破る。
問い詰めるでも、責めるでもなく、
それでも逃げ場のない優しさがあった。
アイリスは小さく息を吸い、
俯いたまま指先をぎゅっと握りしめた。
答えたいのに、声が出ない。
胸の奥が苦しくて………
どう言えばいいのか、言葉が見つからなかった。
「……言えないのか?」
「……違うんです。」
アイリスは顔を上げる。
その紫の瞳には、決意と恐れが交じっていた。
「……信じてもらえないと思いました。とても……信じられる話ではないんです。けれど本当の事で………
聞いてくれますか?」
静かに告げられたその言葉にランティスは静かに頷く。
アイリスはゆっくりと息を吐き、
長い時間をかけて言葉を紡ぎ始めた。
「……私は5歳のとき神の啓示を受けました。未来で現れる聖女に貴方が恋をして断罪されると――」
ランティスの表情が動く。
けれど、遮ることなく黙って彼女を見つめていた。
「最初は信じられませんでした。
でも……あなたと婚約した瞬間、確信に変わったんです。私は貴方に断罪される。そして侯爵家は取り潰しになる。貴方は聖女と結婚する。伝えられた運命が怖くて逃げました。」
喉が詰まり、言葉が震えた。
前世の話とゲームの世界の話を神の啓示を受けたとしたがそれでも現実としてありえない。
聖女でもない…ただの侯爵令嬢の自分。それでも伝えたかった。
「運命を変えられるかもしれないって思ってがんばったつもりでした。
だけど……もし変えられなかったら……
あなたに断罪されるなんて、耐えられない。」
アイリスの目から、一筋の涙がこぼれた。
「だから、逃げました。
あなたを、嫌いになったんじゃないんです。
むしろ……好きになりすぎたから、怖くなったんです。」
ランティスは静かに目を閉じ、
深く息を吸った。
部屋に沈黙が満ちる。
炎の音だけが、二人の間を満たしていた。
やがて、ランティスが口を開く。
「……それで、君は自分を犠牲にしたのか。」
その声は、怒りではなく、
深い哀しみと愛しさに満ちていた。
「アイリス。俺は突然現れた“聖女”など好きにならない。
君を見てきた。笑う顔も、泣く顔も、全部。
俺の妻は――君だけだ。」
アイリスは顔を上げ、彼の瞳を見た。
そこには偽りも迷いもなかった。
「……本当に……?」
「ああ。君がどんな運命を知っていようと関係ない。
俺は、君を愛している。」
ランティスはそっと彼女の頬に手を伸ばし、
涙を拭った。
「君を断罪なんてありえない。俺が、運命を壊す。」
その言葉に、
アイリスの胸の奥で何かが弾けた。
ずっと聞きたかった声。
涙を流しながら、
彼女は小さく頷いた。
「……はい。」
ランティスは微笑み、
また彼女を抱き寄せた。
二人の間に、長い時を超えた温もりが満ちていく。
――この夜、
“運命を知る令嬢”と“運命を壊す公爵”の物語は、
新たな章へと歩み出した。




