あまりにも嫌だったので逃げてしまいましたが、婚約者が泣きついてきました
とある過去作を参考に書いた実験作です。
侯爵令嬢エリナ・グレイウッドには、物心つく前に両親がいなかった。
家を継いだのは、形式的な後見人――遠縁の叔父。
彼は財産の維持しか興味がなく、王家との縁談を「最高の投資」と言って笑った。
エリナが王太子の婚約者に選ばれたのは、彼女の意思ではなかった。
それでも彼女は務めを果たそうとした。
幼い頃から教わった礼儀、言葉、勉学。
誰にも迷惑をかけず、王太子の隣に立つにふさわしい人間であろうとした。
だが――それは報われるものではなかった。
婚約者であるアルト王太子は、華やかで、傲慢な青年だった。
「君は地味でつまらない。王妃にはもっと輝きがほしい」
その言葉に、取り巻きの笑い声が混ざる。
エリナは微笑を崩さず、杯を口にした。
泣いても何も変わらないと、いつの間にか知っていたのだから。
その夜の舞踏会も、彼女にとっては耐えるだけの時間だった。
シャンデリアの下で笑い合う貴族たち。煌びやかな衣装と香水の匂いが渦を巻き、息をするたびに胸の奥が重くなる。
アルトは群衆の中心にいた。
片手には金の巻き髪をした伯爵令嬢――ミレイナ・エルヴァン。
彼女は新作のドレスを誇示するように胸を張り、王太子に向かって愛らしい声で囁いていた。
「殿下、私のドレス、どうかしら? 殿下のお好きな色なの」
「よく似合っている。やはり華のある女性は違うな」
そのやりとりに取り巻きが笑い、拍手まで起こる。
エリナの名は誰の口にも上らなかった。
彼女が王太子の婚約者であることさえ、まるで過去の話のように扱われている。
それでも、エリナは笑った。完璧な微笑を。
誰もが望む“理想の令嬢”の姿で。
踊りの誘いも断り、壁際でグラスを持つ。
磨かれた銀面に、自分の顔が映る。
そこには笑っている自分がいた。けれど、その瞳には何の色もなかった。
「エリナ」
不意に声がかかり、彼女は顔を上げた。
声の主はアルトだった。
ミレイナを従え、群衆の視線を集めながら、まるで見世物のように歩み寄ってくる。
「君も退屈そうだな。どうだ、彼女を見習ったら? 明るくて、社交的で……私にはこういう女性が似合うと思わないか?」
会場がどっと沸いた。
エリナは微かに息を吸い、そして――微笑んだまま、答えた。
「ええ、殿下。とてもお似合いですわ」
アルトは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに興味を失ったように視線を逸らす。
その背中を見送りながら、エリナは心の中で小さく呟いた。
――もう、いい。逃げよう。
誰かに止められたわけでも、誰かを憎んだわけでもない。
ただ、これ以上ここにいても何も変わらないと、ようやく理解したのだ。
舞踏会の喧噪の中で、誰もエリナの表情の変化に気づく者はいなかった。
王太子の婚約者が、いままさにその立場を捨てようとしていることを、誰も知らない。
曲が終わると同時に、彼女はそっと退室した。
仮面舞踏のような笑い声と拍手を背に、磨かれた廊下を音も立てずに歩く。
薄暗い回廊の先で、月明かりが差し込んでいた。
あの光の先に、まだ知らない世界がある――そんな予感がした。
◇
屋敷に戻ると、侍女のアンナが心配そうに待っていた。
「お疲れでございますか? 殿下のお側に長くおられましたから……」
エリナは首を振り、穏やかに微笑んだ。
「いいえ。……少し旅に出ようと思うの」
「旅、でございますか?」
アンナの声が震える。
侯爵令嬢が、ひとりで旅など前代未聞だ。
だがエリナは、もう迷っていなかった。
「しばらく、静かな場所で過ごしたいの……」
アンナは息をのんだが、やがて何も言わず頷いた。
彼女は忠実な侍女であり、エリナの唯一の理解者だった。
「でしたら、荷を整えます。着替えと少しの金貨を。……夜明け前には出られます」
「ありがとう、アンナ」
支度の音が静かな夜に響く。
鞄に詰めるものは少なかった。
必要なのは衣服と薬草道具、そして数冊の本。
すべてを詰め終えたとき、エリナは鏡の前に立った。
薄い青の瞳が、自分を見返している。
その瞳には、もう恐れも迷いもなかった。
――そう、彼女はようやく“自分”のために動こうとしていた。
◇
まだ夜明け前。
街は眠り、王都の空に微かな霧が漂っている。
アンナが用意した馬車が、裏門にひっそりと待っていた。
「……本当に、行かれるのですね」
「ええ。ここを離れた方がいい。誰の影でもない場所で、生きてみたいの」
アンナは涙ぐみながら、エリナの手を握った。
「どうか、ご無事で……」
「あなたもね。私のことは、しばらく黙っていて」
「必ず」
短い言葉のやりとりを最後に、エリナは馬車へ乗り込んだ。
扉が閉まり、御者が手綱を引く。
蹄の音が、夜の石畳に小さく響いた。
王都の灯が遠ざかっていく。
あれほど眩しかったのに、離れてみるとただの小さな光だった。
エリナは窓の外に顔を出す。
冷たい空気が頬をかすめる。
吐いた息が白くほどけて、すぐに風にさらわれた。
夜明け前の空はまだ薄暗く、遠くの地平に金色の線が走っている。
あの光の向こうに、知らない街や知らない人がいる。
そのことが、なぜだか少し嬉しかった。
◇
数日後、丘の向こうに小さな村が見えた。
煙突から細い煙が上がり、家の前には干した洗濯物が揺れている。
通りを歩く人々の声は穏やかで、平和そうな雰囲気であった。
エリナはそこに定住する事に決め、名を「リナ」と変えた。
どうやら村の薬師が人手を探していたので、手伝いを申し出た。
薬草の扱いには心得がある。
それが、彼女の最初の仕事になった。
薬草は、侯爵家にいたころの暇つぶしで覚えたものだった。
社交のない夜が多く、時間だけはあった。
書庫にあった薬学書を読んでいるうちに、自然と手が覚えていた。
しかし、まさかこんな所で役に立つ日が来るとは思っていなかった。
朝は薬草を摘み、昼は煎じ、夜は帳簿をつける。
必要以上に話さず、前のように人から笑われることもなかった。
ただ手を動かしていれば、無心になれる。
夕方になると、子どもたちが店の前を通りかかった。
「リナ先生、また薬作ってるの?」
エリナは顔を上げて微笑んだ。
「ええ、風邪が流行っているからね」
子どもが笑って走り去る。
その小さな背中を見送りながら、胸の奥が少しだけ温かくなった。
夜、灯りを消す前に本を閉じる。
窓の外から虫の声が聞こえた。
何も起こらない一日を、ようやく心から穏やかに終えられる。
――逃げてよかった。
そう思える日が、少しずつ増えていった
風の便りで、あの王太子はミレイナと婚約することになったらしいがそんなことどうでも良かった。
◇
それからいくつもの季節が過ぎた。
雪が降り、花が咲き、また枯れる。
リナとして暮らす日々は穏やかで、もう王都の出来事を思い出すことも少なくなった。
村では彼女の作る薬が評判になり、病人が出ればまずリナの家を訪ねるのが常になっていた。
それでも彼女は、名を明かすことなく過ごした。
過去を語る必要もなかったし、誰も詮索しなかった。
その日の昼、戸口を叩く音がした。
村人以外で訪ねてくる者など滅多にいない。
扉を開けると、陽光の下に一人の男が立っていた。
「……エリナ」
その声を聞いた瞬間、彼女は理解した。
アルト・レーヴェン。かつての婚約者であり、今も王太子である男。
立派だったはずの衣服は土にまみれ、目の下には深い影が落ちていた。
彼は数歩踏み込み、力の抜けた声で言った。
「君がここにいると聞いて……確かめたかった」
「確かめて、どうするのですか」
「……話がある。少しだけ時間をもらえないか」
エリナは短く息を吐き、手で室内を示した。
「どうぞ。立ち話は落ち着きませんから」
アルトは椅子に腰を下ろし、水を一口飲んだ。
しばらく沈黙が続き、やがて掠れた声で言った。
「……ミレイナとの婚約を解消した」
エリナは表情を変えなかった。
「そうですか」
「彼女は……想像以上に、王家にふさわしくなかった」
「ふさわしくなかった?」
彼曰く、ミレイナは金と名誉を好む女だった。
贈り物をねだり、宝石を増やし、王家の金で衣装を仕立てた。
舞踏会では毎回のように新しい飾りを求め、費用の計算には一度も目を通さなかった。
家臣への言葉はきつく、少しでも気に入らないことがあれば怒鳴りつけた。
周囲は次第に口を閉ざし、誰も彼女に逆らわなくなった。
王宮は静かになったが、それは敬意ではなく恐れからだった。
「……そんな女を王妃にできると思うか?」
アルトの声はかすれていた。どうやらエリナを探しに探して熱を出してしまったらしい。
エリナは俯き、薬包紙を折る手を止めなかった。
「いいえ」
「だろうな。私も、ようやく気づいた」
短い沈黙のあと、アルトは続けた。
「婚約を解消した夜、臣下が“あなたの判断は正しい”と言った。だが、私は何も誇れなかった」
薬草の香りが室内に満ちる。
エリナはただ、無言で包みを重ねた。
アルトは息を吸い込んで、少しだけ視線を上げた。
埃をかぶった窓から射す光が、彼の頬の傷を照らしていた。
「……エリナ。戻ってきてくれないか」
エリナは手を止めた。
包み紙の上で乾いた薬草がかすかに音を立てる。
「殿下、私に何をお望みですか」
「おまえがいれば、もう一度やり直せる気がする。宮廷も、民も、皆が落ち着かない。……だが、お前なら……」
その言葉を、エリナは途中で遮った。
「私はもう赤の他人ですよ。今こうやって処方しているのは、王太子としてではなく、患者としてです。お忘れなきよう」
「……だが、私には――」
「殿下」
エリナは立ち上がり、机の上に薬包を置いた。
「この薬を毎日飲めば、熱はすぐに下がります。それが済んだら、お帰りください」
言葉の温度は冷たくも優しくもなかった。
ただ、現実を告げる声だった。
アルトは視線を落とし、拳を握った。
「……おまえは、本当に変わってしまったな」
エリナは微笑まなかった。
「いいえ。最初からこうでした。ただ、あなたが見ていなかっただけです」
沈黙が落ちる。
遠くで鐘が鳴り、村の子どもたちの笑い声がかすかに聞こえる。
アルトは何も言わずに立ち上がった。
その背に、エリナはただ一言だけ告げた。
「どうか、お元気で」
それが、彼女の最後に見せた“情”だった。




