93. 時の回廊 蒼愛②
蒼愛は暗い廊下を歩き続けた。
保輔と会って話せた嬉しさの余韻が、まだ残っている。
「そういえば、保輔が年上だったのって、時の回廊で会ったからかな」
色んな時代の色んな人に会えるのなら、未来の人にも会える可能性がある。
もしかしたら、蒼愛が会ったのは未来の保輔だったのかもしれない。
「幽世と現世の時間経過は違うから、今の保輔が僕より年上になってても不思議ではないけど」
何かあったら呼べと、保輔は言ってくれた。
「何もなくても、また会いたいな」
保輔を助けてくれる人たちが、どんな人なのかも知りたい。
保輔の恋人にも会ってみたい。
「クイナと同じ神様を内包している惟神って人にも、会ってみたいな」
もし時の回廊が蒼愛が会いたいと思っている人に会わせてくれるのなら、クイナ本人には会えるはずだ。
(だとしたら、ここからは気を引き締めきゃ。ちゃんとお話しして、聞きたいことを聞かなきゃ)
蒼愛は自分の頬をパンパンと叩いた。
暗い廊下に白い靄が漂う。
また、視界が開けてきた。
白い靄が消えて、少しだけ明るくなった向こうに、白い髪の男が立っている。
「真? 真でしょ?」
蒼愛の声を聴いて、野性味のある耳と髪の男が振り返った。
「蒼愛様? ここは一体、どこですか?」
蒼愛に駆け寄りながら、真が不思議そうに辺りを見回した。
「ここは時の回廊って場所なんだけどね。ここで真に会えるとは思わなかった」
真が蒼愛の前に跪いた。
「時の回廊は、よくわかりませんが、蒼愛様にお会いできて嬉しいですよ。あれから三か月経って、会えるのを心待ちにしておりましたから」
真が蒼愛の手を握った。
「御二人の側仕となれますこと、光栄でございます。少しでもお役に立てるよう、尽力いたします。白狼の里を救ってくださったご恩返しをさせてください」
真を眺めて、蒼愛は考え込んだ。
黙ってしまった蒼愛を、真が不思議そうに見上げている。
「あのね、真に聞きたいんだけど、真は僕たちと会ってから三か月過ぎたって、言っていたよね?」
「はい。白狼の里を救っていただいてから三か月です。風ノ神、志那津様と霧疾さんが迎えに来てくださいました。今日は別の側仕が蒼愛様たちの元に出向くから、俺はそれ以降と伝えられています」
記憶がない時、真を迎えに行けない紅優と蒼愛の代わりに志那津と霧疾が名乗りを上げてくれた。
「真は今、どこにいるの?」
「志那津様の風ノ宮で待機しております」
別の側仕とはきっと、井光の事だろう。
縷々と火産霊が今日、井光を連れて瑞穂ノ宮に来るということだ。
(だとしたら、今日が、縷々さんに乗って散歩に行く日だ。そこで僕は幽世に囚われる)
あの時の紅優を思い返す。
凡そ、いつもの紅優らしくない様子だった。怒り方も焦り方も、その結果に選んだ行動も、総てが蒼愛の知る紅優ではなかった。
(紅優をあんな風にしちゃったのは、僕だ。僕がもっと上手に幽世とお話して紅優をわかってもらえてたら。紅優に幽世の声を届けられていたら。両方にちゃんとわかってもらえたはずなんだ)
蒼愛は真が握ってくれた手を握り返した。
「真にお願いがあるんだけど、頼んでもいい?」
「勿論です。何なりと、御命令ください」
真が仰々しく頭を下げるので、気後れしてしまう。
「あの、そんなに畏まらないで。できれば敬語でない方が嬉しいな。真とは、友達みたいに仲良くなりたいんだ」
「そうは言われましても、俺はあくまで側仕ですので」
困った顔をされてしまって、申し訳なくなる。
「志那津と霧疾さんも、敬語じゃなかったでしょ? 僕ね、風ノ宮の皆みたいな関係が好きなんだ。だから、真にも、いつもの感じで話してほしいんだ」
側仕と神様の関係は色々なんだろうが、蒼愛は風ノ宮の利荔や霧疾のような関係が好きだ。
「それに、紅優は畏まられると、どうしたらいいかわからなくなっちゃうから。気楽にしてあげてほしいんだ」
祭祀前に側仕に散々、揶揄われていた紅優を思い出す。
井光に仰々しい挨拶をされていた時も、顔を引き攣らせていた。
「蒼愛様がそう願うなら、俺も気楽に話させてもらうよ。その方が、仲良くなれる気がするよな」
照れたように笑って、真が受け入れてくれた。
「うん、そんな感じがいい。それでね、お願いなんだけど。紅優を助けてほしいんだ」
真の顔が引き締まった。
「僕が今いる時の回廊は時間の感覚が曖昧な場所みたいで。僕は今、過去の真に話し掛けているんだけどね」
「そう、なのか」
真が素直に頷いた。
初めて会った時も未来から助けに来たと話しているので、真に驚きはあまりないようだ。
「恐らく今日、僕と紅優は大きな竜と虎と空の散歩に行くんだけど、そこで僕が幽世に攫われていなくなっちゃって、紅優がすごく怒って、悲しんでしまうはずなんだ」
あの時の紅優の顔が浮かんで、蒼愛の胸が締まった。
「このままだと紅優は間違った答えを出して、間違った選択をしちゃう。だから、真に紅優を僕の所まで連れてきてほしいんだ。何があっても紅優の味方でいてあげてほしい。間違えそうになったら、叱ってあげてほしい。お願いできる?」
静かに話を聞いていた真が、迷いなく頷いた。
「俺が紅優様と蒼愛様の味方をするのも、頼みを聞くのも、当然だ。確認なんかしなくていいぜ」
真の大きな手が蒼愛の頭を撫でた。
「時の回廊に入れば、紅優の試練が始まる。ちゃんとできれば、きっと僕に会える。それまで紅優を支えてあげて」
「蒼愛様は、一人で大丈夫なのか?」
真が心配そうに問う。
「僕は……」
ここまでで出会った芯や保輔を思い出して、蒼愛は笑んだ。
「一人じゃないよ。時の回廊の中で、友達に会えて、いっぱい元気をもらった。だから、大丈夫だよ」
芯と保輔が、蒼愛に頑張る気力をくれた。
楽しい時間をくれた。だから、充分だ。
「そうか、蒼愛様は強いな」
真が褒めてくれて、嬉しい。
けれど、自分が強くあれるのは、周りにいて支えてくれる皆のお陰だ。
「僕は強くなんかないよ。皆が助けてくれて、愛してくれるから、強くいられるだけなんだ。今だって、真が紅優を助けてくれるから、僕は時の回廊の試練を頑張れる」
真が蒼愛の頬に手を添えた。
鼻の頭を合わせて、狼のキスをする。
「俺が必ず紅優様を蒼愛様の所に連れてくる。だから蒼愛様は安心して試練を受けてくれ」
「うん、ありがとう。紅優と真が来てくれるの、待ってるね」
真の姿が透け始めた。
薄まっていた靄がまた濃くなった。
「蒼愛様、俺は現世で人と暮らした経験があるから、飯作るのが得意だ。帰ってきたら食べたいもん、考えといてくれよ」
蒼愛に向かい真が笑顔で手を振る。
「わかった、いっぱい考えて、楽しみにしてるね」
蒼愛も手を振って、笑顔で答えた。
黒い闇が真の姿を塗りつぶし、白い靄が隠した。
また、静かな回廊に戻った。
蒼愛は静かに歩き出した。
「真に会えて、良かった。紅優のこと、お願いできた……。あ、そっか。僕がここで真にお願いしたから、真が紅優を助けに来てくれたんだ」
竜の背から落ちた紅優を拾い上げた真を、唐突に思い出した。
あの時の真は確かに、「蒼愛はこれから頼む」と言っていた。
「とても不思議な感じだけど、色々な欠片が上手くハマっていってる気がする。僕と紅優を助けるように動いてくれている気がする。だからきっと、大丈夫だ」
自分に言い聞かせて、蒼愛は顔を上げた。
また真っ暗になった靄のかかる道を、歩き出した。
さっきよりは長く歩いた気がする。
靄が消えていって、辺りが明るくなってきた。
闇が払われ、陽の光が射しこんだ。
眩しくて目を閉じる。
ゆっくりと目を開くと、いつの間にか森の中にいた。
大きな岩が、平たい椅子のように置かれている。そこに男が座っていた。
「やぁ、見ない顔だなぁ。俺に会いに来たのかい? 人のようだから、喰いに来たわけじゃぁ、なさそうだ」
男がカラカラと笑う。
「貴方は、クイナさん?」
直感的に、そう感じた。
「ああ、そうだよ。俺と話でもしたそうな顔だなぁ。良かったら隣に座りなよ。ゆっくり話をしよう」
自分が座っている岩を、ポンポン叩く。
促されるまま、蒼愛は隣に腰掛けた。
「瑞穂国はどうだい? 人にはあまり住み良い国ではなかろうが、妖怪には良い国だろう」
「僕が瑞穂国に住んでいるって、どうしてわかったんですか?」
蒼愛はまだ何も話していない。
ここが何処かはわからないが、神代の頃の現世なのだろう。
「だって匂いがするもの。俺と知己だった神や、妖怪たちの匂いだ。懐かしいなぁ」
クイナが嬉しそうに言いながら、蒼愛の匂いを嗅いだ。
「クイナさんは瑞穂国を妖怪のために作ったんですよね?」
「そうだよ。妖怪と人のためにね」
「人のためにも?」
クイナが笑顔で頷いた。
「人がたくさん食われたりしないように。妖怪がひもじい思いをしないですむように。その為に番を作ったんだ」
「人を喰わなくても妖怪が生きられるように?」
クイナが頷く。
「妖怪は霊力の強い人間を喰いたがる。だったら、霊力だけ喰ってもらったらいいと思ったんだよ。番になるために互いを知って、番になったらもっと仲良くなれるし、いいだろ」
とても良いアイディアだと、蒼愛も思う。
「けど、今の瑞穂国は人を嫌っています。人間が、豊かで美しい瑞穂国を侵略しようとして、妖怪をたくさん殺して、瑞穂国は人間を嫌いになっちゃったんです」
蒼愛の顔が俯く。
「人を喰う妖怪を怖がった人間が攻め込んで、人を喰わない妖怪までたくさん殺して、現世より良い国だから人間のモノにしようとした。神々が怒って人を排除して、今の瑞穂国で妖怪の番になってるのは宝石の人間くらいです」
しばらくの間、黙っていたクイナが口を開いた。
「人は弱くて臆病で脆いから、徒党を組んで強い者を根絶やしにしないと安心できないんだよなぁ。何とも愚かで、見苦しいなぁ」
笑んだような表情を変えずに、クイナが言った。
「瑞穂国には、まだ人を喰う妖怪がいます。クイナさんは、人を喰う妖怪をどう思いますか? いなくなればいいって、思いますか?」
「いいや、思わないよ」
間髪入れずに帰ってきた返事があまりに潔くきっぱりしていたので、蒼愛は驚いた。
「妖怪だって喰わねば死ぬもの。喰って食われるのは、自然だ」
「でも、自分が喰われるのは……」
「いやだよ。だから逃げるよ」
またもはっきりきっぱり、返事された。
「自分より強い生き物に喰われるのも、喰われないように逃げるのも、自然だよ。けど、喰わなきゃ死ぬのに喰いたくないとか、喰うべき相手を愛してしまう、なんて話も聞いたりしてね。だから番を、瑞穂国を作ったんだ」
紅優が浮かんだ。
喰わなきゃ死ぬから喰うけど、居なくなっちゃうと悲しい。
人の魂を喰っていた紅だった頃の紅優はそう話していた。
「今の瑞穂国は、クイナさんが理想にした国ではないのかもしれないです」
人間は餌か奴隷か番でしか瑞穂国で生きられない。
妖怪のための国だ。
「そうでもないんじゃないのかなぁ」
顎に手をそえて、クイナが考える仕草をした。
「俺が作ったのは皆が幸せになれる国っていう理想郷だよ。理想郷は現実になって、今でも夢みたいな理想を追いかけて生きているさ」
クイナが蒼愛の額に指をあてて押した。
「色彩の宝石が考えてくれている。答えが出るまで考え続ける。俺は途中で死んじゃったけどね」
ははっとクイナが笑った。
「番は共存のための手段。そのお陰で、人喰の妖怪がかなり減った。ゼロにするにはね、人喰という概念を失くすくらい根気がいる。一万年くらい後に生態系とか変わったら、なくなるかもね」
「クイナさん、本気で考えてたんです、よね?」
ふざけて聞こえて、思わず疑ってしまった。
月詠見が悲壮感がないと言っていたが、実感した。
「考えてたよ。喰われたくはないけどさ。人間は調子に乗る生き物なんだ。怖いからって抗った戦で、勝てそうだから国を取ってしまおうと考える強欲な生き物だ。住む場所はあるのに人のモノまで奪おうとする。自然の生き物は喰う分しか狩りをしないのに、それ以上を狩ってしまうのが人間だ。戒めもなくなると困るからね」
蒼愛はクイナをじっと見詰めた。
「だから、人喰の妖怪も必要?」
クイナが元々笑んだような目で笑んだ。
「いてもいいって俺は思うよ。それが自然だ。けどそれは、色彩の宝石が出した答えじゃない。今の瑞穂国を治める神々が、妖怪が、瑞穂ノ神が、今を生きる者たちが考えないといけない」
蒼愛は視線を落とした。
「僕はずっと、結論を探してました。考え続けるのが、大切なんですね」
結論を出して、また考える。出した結論が途中経過になってもいい。考え続ければ、答えが変わるかもしれない。元の結論も新しい結論も間違いじゃないのだ。
顔を上げて、クイナに目を向ける。
「戒めも、なくなると困る。僕もそう思います。けど、それもきっと間違ったら意味がないとも、思いました。だから、考え続けるんですね」
クイナが蒼愛の頭を撫でた。
「色彩の宝石は、最初は只の石だった。人にしたのは幽世だよ。瑞穂ノ神は、本当はもっと早くに現れるはずだった。隠れてしまったのは偶然の重なりだ。世界は、そんな風に出来ている。堅苦しく考えなくっていいのさ」
クイナに微笑まれて、肩の力が抜けた。
この人と話していると、色んな事が簡単に思えてくる。
「今の瑞穂国は、これまでの歴史の積み重ねで出来ている。今この瞬間の積み重ねが千年後の国を作る。どんな国にしたいのか、ゆっくり考えてみるといい。君には俺より時間があるから、焦る必要はないよ」
周りの景色がぼやけ始めた。
明るかった場所が暗くなって、クイナの姿が霞む。
蒼愛は立ち上がった。
「この国に来て、会ってみたいって、話してみたいって、ずっと思っていました。話せて嬉しかったです」
「楽しかったよ、色彩の宝石、蒼愛。理想郷を、よろしく頼むね」
クイナが蒼愛に手を振った。
真っ白い靄が覆いかぶさって、クイナの姿を隠した。
暗くて静かな回廊が戻ってきた。
蒼愛は目を瞑って、深呼吸し、顔を上げた。
「もう一人、会わなきゃいけない」
決意して、蒼愛は廊下を歩き出した。




