54.おまけなんて言わないで
暗い、只々真っ暗で、何もない。
目を瞑った時の瞼の裏より暗くて、まるで黒い絵の具を一面に零してしまった空間のようだと思った。
誰もいないのに、たくさんの気配を感じる気がする。
大勢のようで一人にも感じる。
その誰かは、泣いているようだった。
『……憎い、私を捨てた者たちが。嫌い、みんな喰われて消えればいい。総て壊れてしまえばいい、人も妖怪も神も、この世も。何もかも、消えてなくなればいい』
悲しい感情が流れ込んでくる。
同じくらい強い怒りの感情が、恐ろしかった。
『お前が壊しなさい、蒼愛。この世を何もなかった頃に戻すの。お前は意志を持つ色彩の宝石。私の敵になってはいけない。神々にかどわかされては、いけない。真実を知りなさい』
何も見えないのに、何かが近付いてくる。
あれはきっと触れてはいけない何かだ。
聞いてはいけない声だ。
怖くて走って逃げた。
「紅優、紅優、助けて、助けて!」
「蒼愛! こっちだ。ここに居るよ。手を握っているよ」
右手に温もりを感じて、ようやく胸に安堵が降りた。
「紅優、僕を引き上げて。紅優の胸の中で、抱き締めて」
呟きながら、蒼愛はゆっくりと目を閉じた。
目を開くと、紅優の匂いがした。
顔を上げたら、紅優が心配そうに蒼愛を見下ろしていた。
「大丈夫? うなされていたみたいだけど、怖い夢でもみた?」
蒼愛は力いっぱい紅優に抱き付いた。
紅優の着物を強く掴んでも、手の震えが消えない。
そんな蒼愛に気が付いて、紅優が蒼愛の体を抱きしめてくれた。
「誰かが、この国を壊せって。神様に騙されるな、真実を知れって」
紅優が息を飲んだ。気配が緊張したのが分かった。
「あれは、聞いちゃいけない声だ。僕を、色彩の宝石を使って、悪いこと、するつもりの声だ」
思い出すだけで怖くて、体が震える。
「蒼愛はそんな風に、感じたんだね」
紅優に問われて、何度も頷いた。
「あの声に従ったら、紅優も、淤加美様も、火産霊様も、僕の大切な存在がみんな、どうにかなっちゃう。この国が、壊れちゃう。きっと僕も、壊れちゃうんだ」
蒼愛の体を紅優が引き上げた。
目尻に溜まった涙を舐め上げると、優しく笑んだ。
「蒼愛がそんな風に感じてくれて良かった。その声は、今は何もできない。怖がらなくて大丈夫だよ」
耳元で聴こえる紅優の声が優しくて、ようやく体の震えが収まってきた。
「風ノ宮には時の回廊という場所があるんだ。感受性が強い蒼愛だから、そこから流れてくる声が漏れ聞こえてしまったのかもしれないね」
「時の回廊?」
紅優が蒼愛の頭を撫でる。
「色んな時代の、色んな場所の、色んな人と話しができる回廊らしいんだけどね。一度入ると戻って来られない場合も多いから、真相は定かじゃない」
紅優の説明を聞いて、ぞっとした。
なんでそんな物騒なものが風ノ宮に存在するのだろうと思ったが、聞くのは無意味な気がした。
「僕に話しかけてきたのは、誰だったんだろう……」
時の回廊も気になったが、それ以上に蒼愛は自分に話しかけてきた相手が気になった。
「何となく予測は付くよ。蒼愛の存在に気付いたんだろうね。やはり皆、蒼愛を欲しがるんだね」
そう話す紅優の顔は、寂しそうに見えた。
「僕が色彩の宝石を作れるから? 蒼玉だから? 紅優の番だから?」
紅優が首を横に振った。
「どれでもあるけど、どれでもない。蒼愛自身が色彩の宝石だからだよ。蒼愛は、自分の価値を受け入れないといけない。蒼愛は色彩の宝石、理そのもの。神々が欲する特別な存在なんだよ」
紅優の言葉が、上手く耳に入ってこない。
蒼愛は何度も首を振った。
「僕は紅優の番だよ。僕の価値は、それだけでいい」
逃げていると言われてもいい。
蒼愛にとって最も大事な価値は、紅優の番である事実、ただ一点のみだ。
「番の俺は、おまけ。蒼愛には、それ以上の価値がある」
「おまけじゃない! そんな価値、要らない!」
蒼愛は半身を起こした。
紅優の顔の脇に両手を付いて、見下ろす。
「他の誰かが、僕にどんな価値を付けたって、どうでもいい。紅優の番でいられないなら、全部要らない。紅優と番って、一緒の幸せを見付けるために、そういう未来のために、僕は頑張るって決めたんだ。紅優が僕の全部だ。おまけなんて、言わないで」
目に溜まっていた涙がぽたぽたと落ちて、紅優の頬に流れた。
まるで紅優が泣いているようだった。
「蒼愛……」
紅優の手が伸びて、蒼愛の涙を拭った。
「こっちにおいで」
優しく肩を抱かれて、紅優の上に横たわる。
「ごめんね、蒼愛。俺もちょっと寂しくなってた。蒼愛が遠くに行ってしまいそうで、怖くて。俺の蒼愛なのに、皆に愛されている蒼愛に、ちょっとだけ嫉妬した」
神々に会うたびに加護と称してキスしたり、それらしい行為をしてしまっているので、何も言えない。
そういうのも、きっと紅優を不安にさせているんだろうと思った。
「もう、神様に会っても加護とかもらったりしないから……」
「それはダメだよ」
紅優が蒼愛の言葉を遮って、ぴしゃりと言い切った。
「神様の加護を貰って、神様に愛されるのが蒼愛の、色彩の宝石の務めだ。蒼愛はそれを受け入れなきゃ。勿論、俺もなんだけどね」
紅優の腕が蒼愛を抱きすくめる。
「僕の全部って言ってくれて、嬉しい。どうしようもなく嬉しい。他の誰にも触らせたくない。どこかに仕舞い込んで俺だけの蒼愛にしてしまいたい。けどね、皆に愛されてる蒼愛を見ているのも、俺は好き。俺の大好きで大事な蒼愛を皆も大事にしてくれてるのが、嬉しいんだよ」
顔を上げると、紅優が優しく微笑みかけてくれた。
「大事な蒼愛を失わないためには、神様の加護も、神に愛されるのも、今の蒼愛には大事だよ。身を守る手段になる。俺たちは今、淤加美様の試練の最中だ。試練を終えたら、永遠の祝福を貰えるでしょ」
「あ! そうだった」
色々あって、すっかり忘れていた。
永遠の祝福を貰えれば、紅優とこれからもずっと番でいられる。
「だから今は、頑張ろうね」
紅優の言葉に、蒼愛は素直に頷いた。
「でも、紅優。もう、おまけ、なんて言わないで。僕が一番大切なのは、紅優だけだよ」
紅優が嬉しそうに蒼愛の目尻を指でなぞった。
「そうだね、ごめん。蒼愛が頑張るのは全部、俺と幸せを見つけるため、だもんね。二人で芯との約束を叶えないとね」
頷いて、蒼愛は紅優に抱き付いた。
芯との約束を紅優もちゃんと覚えてくれていたのが嬉しかった。
「あれ? そういえば、ここって、どこ? 僕は、どうしたんだっけ?」
風ノ宮に来て、志那津に会って利荔に会った後の記憶が曖昧だ。
(利荔さんに霊力を吸われて、その後、志那津様にキスして霊力をあげたくなって……。そうだった、変な悪戯されたんだった)
いつも以上に体が疼いて、抱きとめてくれた志那津にキスしたい衝動を抑えられなかった。
「ここは俺と蒼愛用に志那津様が準備してくれた部屋だよ。蒼愛が落ち着くまで休んでいるようにって」
何のかんの志那津は面倒見が良い神様のようだ。
利荔が素直じゃないと話していたが、もしかしたらそこまで嫌われている訳ではないのかもしれない。
「あれって、利荔さんの妖術だったのかな。全然、わからなかった」
妖怪に妖術を掛けられたのは、紅優がまだ紅だった頃、つまり出会った頃以来だ。
「妖術を掛けるためにわざと首元に吸い付いたんだろうね。キスを警戒しているであろう俺や蒼愛の心理の裏をかいた作戦だなって思うよ。志那津様が自分から蒼愛の霊力を喰わないのもわかってて、蒼愛に何かあれば俺より早く駆け寄るって確信も、最初からあったんだろうね。流石としか言えないよ」
紅優が疲れたように笑って息を吐く。
そんな風に聞くと、頭が切れる妖怪なんだなと思う。
「利荔さんはその辺り、下手したら神様より上手だから、仕方ないけどね。志那津様が怒ってくださったから、正直、毒気抜かれちゃったよ」
利荔の言葉を聞いて、紅優より早く怒ってくれたのは志那津だった。
番である紅優にも、今までの神様の中で一番に気を遣ってくれた。
「志那津様って、言葉はキツいけど、優しい神様だよね。怒りながらも僕にも親切にしてくれるし。もしかして紅優も淤加美様も知ってたの?」
素朴な疑問を投げてみる。
蒼愛に勉強を教えるという淤加美の頼み事も了承してくれた。
紅優が、ぎこちない顔をした。
「まぁ、志那津様のツンデレ気質は知ってたし、淤加美様大好きな神様なのも知ってたよ。ただ、蒼愛をどう思っているかは、ここに来るまでわからなかったけど」
「つん? でれ?」
紅優や神様たちは時々、蒼愛が知らない言葉を使うなと思う。
理研にいた頃はテレビを始めとした電子機器も与えられず、外部の情報をシャットアウトされて俗世から切り離された生活をしていたから、現世の言葉もあまり知らないのだが。
「けど、心配いらなそうだね。利荔さんの話を聞く限り、志那津様は蒼愛に興味津々だし、大好きみたいだから」
「え? そうかな。興味はあるかもしれないけど、好かれているかどうかは……」
きっと志那津は真面目な神様なんだろうとは思う。
だからこそ、言葉もきつくなるのだ。
淤加美の頼み事を引き受けたのも、使命感からかもしれない。
ふと見上げると、紅優が蒼愛を不思議な顔をして見下ろしていた。
小首を傾げると、頭を撫でられた。
「うんうん、蒼愛はそれくらいで良いよ。蒼愛としては、志那津様と仲良くなりたいんでしょ?」
「なりたい。友達は無理でも、今よりは仲良くなれたらいいなって思う」
見た目の年齢が近く見えるせいか、親近感が湧く。
理研に居た頃には怖くて作れなかった友達というものを、作ってみたいと思った。
「きっとなれると思うよ。いつもの蒼愛でいれば、大丈夫だよ」
紅優がそう言って髪を撫でてくれた。
そんな風に紅優が言ってくれるなら、友達になれそうな気がした。




