36.甘い誘惑
水ノ宮を訪れた日以来、蒼愛と紅優は泊り込みで淤加美と共に準備をしていた。
準備と言っても淤加美から受けた加護を体に馴染ませているだけなのだが。
蒼玉である蒼愛は水ノ宮にいるだけで霊力が強まり、淤加美の加護が馴染むらしい。
水の加護が馴染むと全体的な霊力の底上げにもなるそうだ。
神力も分け与えてもらっているので時間がかかるらしく、もう数日は留まる予定だ。
「蒼愛、何を見てるの?」
露台で滝を眺める蒼愛に後ろから声が掛かった。
「滝のね、水の飛沫を見てたんだ。ここに居ると水の霊気を感じて、気持ちがいいんだ」
紅優が隣に並んで、蒼愛の顔を覗き込んだ。
「体調は、大丈夫? 辛くない?」
紅優が熱を確認するように額に触れる。
淤加美の加護を貰うと意識を失いそうになるほど体が熱くなるので、心配しているようだ。
「大丈夫だよ。段々、慣れてきたみたいで、熱くなるのも減ってきた」
初日に一回、その後は一日二回の加護を、もう二日受けている。
口付けで流し込まれるのだが、淤加美が蒼愛に加護を授ける度に、紅優が苦い顔で見詰めている。
蒼愛としては居た堪れない。
加護を与えられたあとは、淤加美に隠れてこっそり口直しのキスをされている。
その時の紅優の表情がまた、何とも言えない顔をしていて、申し訳ない気持ちになる。
「蒼愛、紅優。ここにいたんだね」
また後ろから声が掛かった。
淤加美が、いつもの穏やかな顔で歩み寄った。
「今日はこれから月詠見と日美子が来るから、蔵から地図を取ってきてくれないかな。蒼愛に社の場所や結界について、教えてやりたいんだ」
「わかりました。蒼愛、行こうか」
蒼愛の手を握って歩き出そうとした紅優を、淤加美が引き留めた。
「蒼愛には話したいことがあるから、紅優が取ってきてくれるかな」
淤加美が蒼愛の空いている手を握った。
「話なら俺も一緒に聞きますので、まずは二人で地図を取ってまいります」
歩き出そうとする紅優を、淤加美が蒼愛の手を引いて止めた。
「均衡を守る役割をしている紅優が、今更聞いても面白くない話だ。蒼愛だけで大丈夫だよ」
表情を崩さずに淤加美が紅優を見詰める。
「そういう話なら、俺が一緒の方が尚更良いかと存じますが」
紅優が、くぃと蒼愛の手を引いた。
体が紅優の方に傾く。
「どうせ紅優は自分の役割について、蒼愛に何も話してはいないんだろう? 私が話しておいてあげるよ。効率よくやろう」
淤加美が蒼愛の手を引く。
今度は淤加美の方に体が傾いた。
淤加美の胸に蒼愛の肩が当たった。
「あ、すみま……」
淤加美が蒼愛の肩を抱いた。
「効率なんて、神様が人間みたいな真似をするのも如何なものかと思いますが」
蒼愛の手を引こうとした紅優より早く、淤加美が蒼愛の手と肩を引いた。
紅優の手が蒼愛から離れた。
「人間に思考が近い紅優には言われたくないな。紅優こそ、もっと妖怪らしく振舞ったらどうだい? 加護のための口付けで怒るものじゃないよ。勝手に喰ったりしないから、安心しなさい」
「怒っていませんよ」
呟いた紅優の声は、とても小さかった。
「地図は蔵に入ってすぐの、右の棚の二段目にあるよ。よろしくね」
蒼愛の肩を抱いて、淤加美が家屋の中に歩き出した。
「紅優……」
後ろを振り返る。
紅優が、どう控えめに見ても怒った顔をしていた。
それでも結局、蔵に地図を取りに行った。
部屋に入り、蒼愛は淤加美と向かい合って座った。
「今日の分の加護が、まだだったね。今、済ませてしまおう。紅優が怒り顔で監視していると、やりずらいからね」
淤加美にそう言われてしまうと、蒼愛も苦笑いするしかない。
「やっぱり、淤加美様の加護はたくさんいただいた方がいいのでしょうか? 月詠見様と日美子様の加護は、二人纏めて一回きりだったのですが、しっかり沁み込みました」
日美子の日の加護と月詠見の暗の加護は、蒼愛の霊元に溶けて根付いている。
それ以降、追加の加護も貰っていない。
「神力を授けると言ったろう。才のある蒼愛でも簡単に身に付くものではないよ。それに蒼愛は蒼玉、可愛い私の宝石だ。どれだけ加護を送っても足りないよ」
淤加美が蒼愛の手を引く。
強い力ではないのに、体が淤加美の胸に倒れ込んだ。
性急な唇が重なる。
「ぁ、ん……」
入り込んだ舌か絡まって、水音が頭に響く。
蒼愛の腰に回った淤加美の腕が、小さな体を引き寄せた。
頭の後ろをやんわりと抑えられて、逃げられない。
「は、ん……ぁ……」
無意識に声が漏れて、顔が熱くなる。
(淤加美様、いつもこんな風にしないのに。今日は、口付けが深くて、気持ち良く、なっちゃう)
「ぁ……、蒼愛……」
淤加美が声を漏らした。
まるで酔っているような、艶っぽい声だ。
(淤加美様の神力が、いつもより濃い。霊力も、いつもより喰われてる)
紅優には喰わないと話していたが、加護を与える度、多少は淤加美に喰われている。
それを話すと紅優は怒りそうなので黙っていた。
長い口付けがようやく離れた。
神力と深いキスで力が抜ける。
蒼愛の体を抱きかかえて、淤加美が蒼愛を見詰めた。
「可愛い蒼愛。私の蒼玉。手に入れられないのが残念だよ。先に出会っていたなら、確実にお前を愛していたろうに。紅優と番っている今だって、こんなにも愛おしくて堪らない。蒼愛」
目の前の淤加美の顔が、蕩けている。初めて見る顔だった。
脱力した蒼愛の体を抱きしめて、淤加美が蒼愛の唇を食んだ。
「ぁ、ん……、淤加美様、もぅ、許して、くださ……」
体を離そうとするのに、腕に力が入らない。
淤加美が蒼愛の耳を食んで口付けた。
「そんな声を漏らしたら、まるで誘っているようだよ。愛する番があるのに、悪い子だ」
熱い吐息を吐く唇が、また重なりそうになった時。
誰かが淤加美の頭を殴った。
目を上げると、月詠見が怒り顔で立っていた。
「流石に、これ以上は見逃せないなぁ。蒼玉の霊力に煽られるのは、わかるけどねぇ。やりすぎだよ、淤加美」
腕を引いて、日美子が蒼愛の体を引き寄せる。
力の入らない蒼愛の体を抱きとめた。
殴られた淤加美が頭を抱えて蹲る。
何度も頭を振って、呼吸を整えていた。
「ぅ……、はぁ……。助かったよ、月詠見。我を忘れて、止まれなかった。危うく、可愛い蒼愛を傷付けてしまうところだった」
額を抑える淤加美の顔が上気して、まだ熱に浮かされた目をしている。
そんな淤加美の姿に、月詠見と日美子が驚いた顔をした。
「淤加美ですら、我を忘れるのかい? 同属性の宝石の霊力に中てられたってだけじゃ、なさそうだね」
抱きかかえた腕の中の蒼愛を、日美子が見下ろす。
月詠見も、蒼愛を覗き込んだ。月詠見が顔をしかめた。
「確かに、この状態の蒼愛は、まずいね。霊力が甘く薫って、かなり美味そうだ。俺でも手を出したくなるよ。蒼愛は色彩の宝石だから、神様なら全員、欲情を煽られて蒼愛の霊力を喰いたくなるかもね」
蒼愛を抱える日美子の顔も、蒼愛に食いつきたいのを抑えているように見える。
蒼愛自身も、淤加美の神力で体が熱い。
いつもなら感じないような疼きが体中を走って、我慢するのが辛い。
「紅優、は……? 紅優に、抱かれたい。触れたい。キスしたい。紅優……、助けて……はぁ……んっ」
涙目で縋り付いて、日美子に訴える。
「蒼愛自身も煽られているね。淤加美、何かしたのかい?」
「いつも通り、加護を与えながら神力を流しただけだよ。あとは少し、蒼愛の霊力を……」
日美子に叱られて、淤加美が申し訳ない声で弁明している。
遠くで何かが落ちる音がした。
バタバタと駆け寄る足音が聞こえる。
「蒼愛!」
紅優の声が聞こえて、蒼愛は必死に手を伸ばした。
「紅優、紅優……!」
涙で歪んだ視界に、紅優の影が映った。
知っている匂いと大好きな温もりが蒼愛を包んだ。
「紅優、お願い、キスして。僕を抱いて。も……、我慢できない、からぁ。いっぱい紅優が欲しいよぉ」
泣きながら紅優の首に腕を絡めて縋り付いた。
「蒼愛? どうして急に、何があって……」
戸惑っている様子の紅優だが、蒼愛の体をしっかり抱きとめてくれた。
「奥の部屋、使っていいだろ?」
月詠見が淤加美に確認している。
「紅優、向こうで蒼愛を抱いておいで。じゃないと蒼愛は収まらないから」
月詠見にとんでもない命令をされて、紅優が訳の分からない様子で困惑している。
「よくわかんないんだけど、淤加美が蒼愛に神力を流し過ぎて、中てられちまったみたいなんだよ」
日美子が呆れ顔で淤加美をねめつけた。
「私の神力に中てられているはずなのに、紅優の名前しか呼ばないなんて、妬けてしまうね」
淤加美が不服そうに呟く。
紅優の腕が蒼愛を強く抱いた。
「お部屋、お借りします」
蒼愛を抱えた紅優が立ち上がり、奥の部屋へ走り去った。
〇●〇●〇
蒼愛を抱いて走り去った紅優の姿を、三柱の神は眺めた。
姿が部屋の中に消えたのを確認して、息を吐いた。
「永遠の祝福をあげる約束など、しなければ良かったよ。私も欲しかったなぁ、蒼愛。紅優が羨ましい」
物欲しそうな子供のような顔で、淤加美が呟いた。
「淤加美が執着するなんて、珍しいね。余程に気に入ったのかい?」
日美子の揶揄いめいた言葉にも、淤加美は素直に頷いた。
「あれだけ綺麗な魂と、芳醇な霊力は他に例がない。素直で真っ直ぐな質も、可愛いよ。ちょっと幼い性格は、私と過ごせばきっと、大人びた良い青年に成長できるだろう?」
同意を求める淤加美に、月詠見と日美子は頷かなかった。
「人間の年齢だと十五歳らしいけど、蒼愛は年齢より中身が幼いよね。見た目が可愛いから違和感もないけど。現世で育ってきた環境にも関係があるんだろうね」
「ああいう、何にも染まってない感じの子が淤加美といたら、性格がひん曲がっちまうよ。紅優辺りがちょうどいいのさ」
日美子にすぱっと言い切られて、淤加美が苦笑した。
「どうして月詠見と日美子が過剰に干渉するのか、わかったよ。紅優の番だからってだけじゃぁ、ないようだね。あんな風に手を出した後では説得力もないけれど、私は自制心のない神様ではないからね」
月詠見が、ふんと鼻を鳴らした。
「知ってるよぉ。自分の神子より国の宝石を優先できる俺たちのリーダー、神を統べる神だもんね。そんな淤加美でも魅了される。我を忘れるほどに欲しくなるのか。蒼愛は使い方次第じゃ、救世主にも破壊者にもなれるね」
月詠見の視線を受けて、淤加美が考える仕草をした。
「色彩の宝石は神に愛され、世に喰われる。故に、この国の均衡を保つ存在足り得る。神ですらも抗えない理が顕現した姿なのだろう。守ってやらねばなるまいね。瑞穂国のためにも、神として、蒼愛と紅優という番をね」
神は色彩の宝石を守るために存在する。
淤加美の言葉を聞いて、日美子と月詠見は、その意味を噛み締めていた。




