第160話 火ノ神の切ない本音
事件から数日が過ぎた。
あんなに大きな事件があったとは思えないくらい、穏やかな日常を送っている。
いつもの毎日に戻るのは全く難しくなくて、何もないというのがどれだけ幸せか思い知らされる。
変化と言えば、真白が毎日、大蛇の領土にピピに会いに通っているくらいだろうか。
番の契りは瑞穂ノ宮で行う予定だ。
奥の間への引っ越しも、少しずつ進んでいる。
元の紅優の屋敷には、井光と縷々が住んでくれることになった。
井光は地上の家から天上の瑞穂ノ宮まで毎日通ってくれていたから、同じ敷地内に住めるなら有難いと屋敷を引き取ってくれた。
水ノ宮に通う縷々にとっても近くなって都合がいいらしい。
あの家を誰かが使ってくれるのは嬉しい。
瑞穂ノ宮の奥の間は広々として天井が高い。
紅優の屋敷とは趣が違うが、蒼愛にとっては新しい感じがして、ちょっとワクワクした。
今日は紅優と井光と真白と共に、火ノ宮に来ていた。
蒼愛が火ノ宮に来るのは、御披露目の後の挨拶回り以来だ。
「佐久夜が住んでいた庵は、特別手入れはいちゃいねぇんだ。ただ、朽ちねぇように保管しているだけだ。だから、当時のまま残っているぜ」
火産霊が話しながら、案内してくれた。
火ノ宮の奥の間よりずっと奥に、その庵はあった。
狭い庭と小さな庵に、確かに残る火の神力は明らかに火産霊のものではない。
「花は枯れちまっているが、庵も庭も、昔のまんまだ」
そう語る火産霊の目は、どこか切ない。
(佐久夜様への後悔は、もしかしたら紅優より火産霊様の方が大きいのかもしれない)
豪胆に見えて繊細で、いつも笑顔なのに悲しくて、仕草も触れる手も優しいのに切ない。
火産霊に付き纏う表向きとは正反対の質は、総てが佐久夜に起因しているように思えてしまう。
「前の時は、井光さんが幻影術で花を見せてくれたんですよね。でも、この場所に佐久夜の神力が残ってる」
前の時というのは、時の回廊に入る直前。蒼愛が幽世に囚われた時の話だろう。
あの後、紅優が話して聞かせてくれた。
紅優がこの場所の総てを感じるように深く息を吸った。
「もしかしたら残ってるかもって思ったけど、難しそうだね。花に残ったメッセージ、ちゃんと聴くんだったな」
ぽつりと零して、紅優が切なげに笑った。
辺りを何度も見回すが、やはり花は残っていない。
同じように周囲を見回していた蒼愛は、庵のすぐ横の花壇に目を止めた。
佐久夜らしき神力が一番濃く残っている気がして、蒼愛はその場所に近付き、しゃがんで花壇を覗き込んだ。
「自分からこの場所に来られただけでも成長ですよ」
井光が紅優に笑顔を向ける。
「逃げ続けるのは向き合うより辛いって、ようやく気が付きましたからね。井光さんと蒼愛のお陰です」
紅優と井光の会話を後ろに聞きながら、蒼愛は花壇の土に触れていた。
(間違いない、大気津様の神力だ。佐久夜様は大気津様にアドバイスをもらって花を育てていたんだっけ。だからかな。でも……)
手にした土を指で軽く揉む。
ふっくらした土はしっとりとして、柔らかい。
『お前がやりたかった土の力の使い方を、私がしてやると、約束したね、蒼愛』
触れた土から声が聞こえた気がした。
「大気津様……?」
『土は命を生み育て、命が返る場所だ。新しく始まり、終わるを繰り返す。枯れない木もなくならない実も、ありはしないのさ』
「それ、四人の魔法使いの……」
声が語った力の使い方は、あの頃の蒼愛が望んだ土の力の使い方だった。
保輔が書いた『四人の魔法使い』の本の中で、魔王との戦いが終わったあと、魔法使いたちは戦いで破壊された街の復興に動き出す。
土の魔法使いは絶対に枯れない木に、どんなに採ってもなくならない果実を実らせる。
『だが私は、お前の純粋な理想が好きだよ。絵空事のようで、とても綺麗だ』
蒼愛は両手で土を掬い上げた。
「違うんです。僕は枯れない木やなくならない実が作りたいんじゃなくて……」
必死に訴える。
蒼愛の声を聴いた紅優が蒼愛に歩み寄った。
「蒼愛? 誰と話しているの?」
「あのね、この土に大気津様がね」
掬った土が熱を発した気がして、蒼愛は自分の手の中を見直した。
『知っているよ。生かすため、活かすための土だろう。よく覚えておいで、蒼愛。生かすためには死が必要であると。活かすためには死なねばならぬのだと』
大気津の言葉には、何も言い返せなかった。
(大気津様に神力を託した時の僕なら、きっと否定していた。だけど今は、大気津様の言葉の意味が、ちょっとだけど理解できる)
この世界は、たくさんの命が重なり合って連なってできている。
死があるから生が繋がる。命を喰らって命は生きる。
『何よりシンプルで当たり前な法則さ。土になって初めて、受け入れられた。土は生も死も優しく包む衣だ。蒼愛は土になる前に、理解するんだよ』
大気津は、人が妖怪に喰われるのを悲観していた。
守りたかった人間が多くの罪なき妖怪を惨殺する姿に耐えられずに土に潜った。
「いっぱい考えます。今よりもっと考えて、答えを見付けます。見付けてもまた、考えます。クイナさんと約束したから」
手の中の土が、温かくなった。
「土が、生も死も優しく包んでくれるなら、僕は土の力を弔いと育むために使いたい。紅優がしてくれたみたいに使いたいです」
餌として買った子供たちを大事に育てて、痛みも辛さもなく食って、優しく弔う。
生も死も優しく包む衣でありたい。
『そういう神におなり、結彩ノ神。神と人と妖怪を結ぶ神。生と死を結ぶ神。瑞穂国は蒼愛という神に期待している』
ふわりと、温かな風が下から吹き上がった。
庭の中を、吹き上がった風が駆け巡る。
土しかなかった庭一面に、花が咲き乱れた。
「花が、咲いた……」
紅優が驚いた顔で庭を眺めた。
『私からの贈り物だよ、瑞穂ノ神と結彩ノ神。佐久夜はこの庭を造っている時、とても楽しそうだった。この場所に取り残された佐久夜の想いを、拾ってやっておくれ』
吹き流れた風が声を届けた。
その声は蒼愛だけでなく、その場にいた全員に聴こえた。
「大気津様が、花を……」
驚く紅優の隣に並び立つ。
庭中に咲いた色とりどりの花を、蒼愛は見渡した。
「この花を全部、佐久夜様が咲かせたんだ。綺麗……」
この花はきっと、番である紅蓮のために植えたのだろうと、蒼愛は思った。
何もできない自分の代わりに動いてくれる愛する番のために。
(僕が佐久夜様と同じ状態だったら、同じように考える。紅優のために出来ること、何かないかなって、きっと必死に考える)
そう思ったら、綺麗な花が切なく映った。
庵の側の花壇に歩み寄った紅優が、花を一本手折った。
紅優の手の中の花が、紅く燃え上がった。
炎の中から、声がした。
『愛してる、紅蓮。お前が私を喰ったのではないよ。私が自分から、お前の中に溶けたんだ』
佐久夜であろう声が、真実を告げる。
紅優が時の回廊で知った、今まで知り得なかった事実だ。
『私は紅蓮が、幸せに生きる未来を望む』
紅優が、もう一本の花を手折る。
手の中で、花が赤く燃えた。
『時の回廊まで、会いに来てくれて、ありがとう。私が愛した紅蓮は私と共に死んだ』
紅優が手の中の炎と周囲を見回した。
「佐久夜……?」
急く手が、また花を手折る。
燃える花から、声が流れる。
『佐久夜の番の紅蓮は、もういない。だから、蒼愛と幸せになれ、紅優』
蒼愛は紅優と顔を合わせた。
驚いた顔の紅優と一緒に、花を手折る。
蒼愛と紅優の手の中の花が、同時に燃え上がった。
『私たちが造ったこの国を、これからは守っておくれ。私はこの国が好きだ。だから、この国の一部になって、見守っているよ』
庵と庭に漂っていた佐久夜の神力が、花に吸い上げられるのを感じた。
色彩の花々が金色を纏って、美しく顔を上げた。
庭中の花から佐久夜の神力が立ち上り、天に向かって流れていく。
「佐久夜、愛してくれて、ありがとう。これからは蒼愛と二人で、佐久夜を想い続けるよ」
一際綺麗な花に手を添えて、紅優が語り掛けた。
花から浮き上がった神力が人の形になった。
「ずっと留まって、俺が来るのを待っていてくれたんだね。随分長く、待たせたね」
佐久夜を模る神力の金色が揺れる。
小さく笑って、紅優の額に口付けた。
『待ちすぎて、くたびれた。可愛い番を連れてきたから、許してあげるよ。これほど長く私に囚われて、馬鹿な紅優。これからは、愛する蒼愛だけ考えて、生きるといい』
口付けた額を、佐久夜の指が、ちょんと押した。
佐久夜の目が、蒼愛に向いた。
『寂しがりやで泣き虫な紅優を、よろしく頼むね』
蒼愛は力強く頷いた。
「これからは僕が紅優を支えます。佐久夜様と同じくらい、愛します。だから、見ていてください。佐久夜様たちが作ってくれたこの国は、紅優と一緒に守ります」
花が揺れて、りんと鈴のような音を鳴らす。
『見守っているよ、可愛い蒼愛。たおやかに強い、結彩ノ神』
佐久夜が蒼愛の頬を撫でて、微笑んだ。
金色の体を翻して浮き上がり、佐久夜が井光の髪を撫でた。
『今も昔も苦労が絶えないね、井光。紅優を支えてやっておくれ』
「勿論でございます。この命尽きるまで、紅優様は私の主様です。佐久夜様もまた、永遠に私の主様ですよ」
手を差し伸べる井光の指を弾いて、佐久夜が笑った。
『お前がいてくれて、良かったよ。紅優も、きっとそう思っている』
いつもと違う笑みを浮かべて、井光が佐久夜に頭を下げた。
その姿を満足そうに見て、佐久夜が火産霊の正面に躍り出た。
目の前にいる神力だけの佐久夜を、火産霊が呆然と見詰めた。
『ごめんなさい、兄様。ずっと後悔、させました。私は身勝手に兄様を振り回した。これ以上、私のために、兄様が心を痛める必要はありません。幸せに、なって』
佐久夜が火産霊の手を握る。
「幸せなんて、そんなもの……、お前が、いないのに」
大きな体を小さく縮こまらせて、火産霊が佐久夜の握る手に、そっと触れた。
「居たのなら、出てこい。俺にくらい、声を掛けろ。俺はずっと、お前に……。声を、掛け続けて、いただろ」
言葉を詰まらせて、火産霊が俯く。
透明な雫がいくつも落ちては土に沁み込んだ。
『兄様の声が聞こえたから、寂しくなかった。嬉しかったし、悲しかった。もう傍に居られないのが、悲しいです、兄様』
火産霊の腕が佐久夜に伸びる。
金色の体を引き寄せて、抱きしめた。
「……愛していたよ、佐久夜。お前は誰よりも大事な俺の弟だ。お前が死のうと消えようと、永遠に、愛してる」
揺れる金色の神力に火産霊が口付ける。
佐久夜の金色の神力が、火産霊の中に、するりと入り込んだ。
『ほんの少しだけ、兄様の中に私を置いて逝くのを許してください。兄様の幸せを願うのに、未練を残して消える佐久夜の身勝手を、許してください。私は結局、最期まで兄様に甘える身勝手な弟です』
火産霊の目から涙が流れ落ちた。
佐久夜の目からも金色の涙が伝っていた。
「置いて逝け。いくらでも、俺の中に流し込んでいけ。俺はお前を忘れたり、できねぇから。お前の未練くらい抱えて、いつか、番を作って幸せになって、お前に一番に報告してやるから」
涙の流れる顔で、火産霊が笑う。
佐久夜が火産霊の顔を胸に抱いて、縋り付いた。
肩が震えて、泣いているのだとわかった。
『兄様は、優しい。だから私は甘えて、大好きな紅蓮に溶けて、何もかも兄様に背負わせた。なのに怒りもしない。今更、愛の言葉を掛けるくらいなら、いっそ生きている時に、無理やりにでも繋がってくれたら良かった』
火産霊が震える佐久夜の肩に手を掛けた。
「ごめんな、佐久夜。俺は、紅蓮と一緒に笑ってるお前が好きだった。お前がいなくなって、初めて、愛していたんだと、気が付いて……」
火産霊が言葉を詰まらせる。
流れた涙が、縋り付く佐久夜の神力に溶けた。
『佐久夜の身勝手な言葉にちゃんと答えてくれる兄様は、やっぱり優しい。私の神力だけが残るこの場所に、ずっと声を掛けてくれた兄様に、私は恋をした。生きている時じゃ、兄様の愛に気が付けなかった。愚鈍な私を、許して』
佐久夜が顔を上げて、火産霊の唇に口付ける。
一際強く佐久夜を抱く火産霊の腕の中で、佐久夜の体が大きく揺らめいた。
『さようなら、兄様。次は寄り添い合える相手と、幸せになって』
庭の花々から強い神力が溢れ出す。
空に向かって神力が迸り、消えていく。佐久夜の姿も、同じように空に流れる。
金色の風が、空の彼方に消えていく。
風が吹き止む頃には、庭の花も消えてなくなっていた。
漂っていた佐久夜の神力は、もう感じられなかった。
「本当に逝っちまったな。もう声も、届かないか」
佐久夜が消えていった空を見上げて、火産霊が小さく零した。
「佐久夜はこの国の一部になったから、声は、届くよ。この国にいる限り、一緒だ」
紅優が火産霊の隣に並んだ。
「紅優、俺は……」
言いかけた火産霊を、紅優が抱き締めた。
「俺も火産霊に甘えてた。甘えっぱなしだった。俺も佐久夜と同じくらい、火産霊の幸せを願ってる」
紅優の肩に顔を埋めて、火産霊が無言のまま紅優の体を抱き返した。
火産霊の背中が、いつもより小さく見えた。
優しい火産霊が纏っていた切なさの正体が、わかった気がした。




