第152話 緑玉と燕と赤玉
目に涙を溜めて震えている童を見付けて、緑風は迷っていた。
長時間並んでやっと入手したケーキと童を見比べ、考えを巡らせた。
番である霧疾が側仕をしている風ノ神志那津が緑風に頼み事をしてきたのは、ほんの数日前だ。
宝石の緑玉とはいえ、最近では天上の風ノ宮に上がる機会は滅多にない。
住処は地上にあるし、緑風の仕事は日の街にある寺子屋の先生だ。
現世でしていた仕事を瑞穂国でも続けられたのは、志那津のお陰でもある。
何より、愛する霧疾が命を懸けて守る大事な主だ。
武家出身の緑風にとっては、仕官先の殿同然だ。無碍に出来る相手ではない。
そんな志那津からの頼み事はと言えば。
『NYANCHOCOTTの、秋の限定ケーキを買ってきてほしい』
初めは耳を疑った。
瑞穂国を千年以上も混乱に陥れてきた災厄の神エナとの対峙が迫るこの状況で、主がケーキを所望している。
どういった仔細かと、流石に訊ねざるを得なかった。
『大蛇の八俣殿が、秋の限定ケーキを楽しみにしているんだが、もしかしたら、それまでに解決できないかもしれない。食べられなかったら、可哀想だろ』
志那津の言葉にも表情にも呆気にとられた。
言葉の総てに疑問符しか浮かばない。
(確かに志那津様はあの洋菓子店を贔屓にしておられる。大蛇の長は悪の頭目ではなく、甘味を好む意気自如な男であったとも、霧疾から話を聞いている。それにしても、この逼迫した時機にケーキ……。いや、それ以上に)
水ノ神淤加美を崇拝する志那津は、他のどの神とも馴れ合おうとしない。
信用しているのは側仕の二人くらいで、他の者を側に置こうともしなかった。
ほんの、最近までは。
瑞穂ノ神となった紅優の番である、色彩の宝石。
緑風と同じ宝石の人間、蒼玉の蒼愛という少年に出会ってから、志那津は激変した。
変わり過ぎて別人が乗り移ったのではないかと、緑風は疑った。
(ここは妖怪の国、神が何者かに精神を犯されても、不思議ではない)
江戸は中期の生まれである緑風は、もう二百年以上を瑞穂国で生きている。
だからこそ、蒼愛に想いを寄せ、それ故に他の神とも馴れ合い始めた志那津に別神疑惑が湧いた。
番の霧疾が志那津の変化を嬉しそうに話しても、信じる気になれなかった。
だが数日前、緑風に直接、限定ケーキ購入の頼みをしてきた志那津を目前にして、霧疾の言葉が腑に落ちた。
(あの志那津様が他者のために、しかも大蛇の長のために本気でケーキを所望されている)
驚きと納得と意外性が入り乱れた心で、緑風は志那津の命に平伏した。
照れた目を逸らしながら恥ずかしそうにコソコソ命を伝える志那津など、この二百年で観た例があっただろうか。
あの顔を自らの眼で確認したら、霧疾の話にも納得せざるを得なかった。
だからこそ、胸に誓った。このケーキは絶対に入手せねばならない。
主のために、何としてもNYANCHOCOTTの秋の限定ケーキを勝ち取る。
(大蛇の八俣という男は、志那津様が労うほどに天上にとり価値がある存在なのだろう。主の面子は潰せぬ。この緑風、必ずや志那津様の命を全うしてご覧に入れます)
NYANCHOCOTTの限定菓子は、売り出しから三十分足らずで売り切れる。
更に、年に四回しか売り出されない季節限定の菓子は人気が高いのに、早い者勝ちだ。
幻の菓子とすら呼ばれる逸品を入手するためには、とにかく早く並ぶしかない。
緑風は陽が昇る前から店先に並び、最前の順番を確保した。
早くに並んだ甲斐あって、緑風は無事に『秋限定・土の庭産大栗を使った贅沢御褒美モンブラン』をホールで購入できたわけだが。
店内で他の季節もの商品を物色している間に、些か遅くなってしまった。
「やれやれ。志那津様からの命は無事に遂行できた。焼き菓子やチョコも、志那津様はお喜びになるだろう」
ほくほくした気持ちで店を出る。
「お嬢ちゃん、ごめんね。限定ケーキはもう終わってしまったんだ。次の時をまた、楽しみに……」
店員の困った声が聞こえてきて、何気なく目をやった。
女子と思われる童が、目に涙を溜めて顔を顰めて立ち尽くしていた。
「お嬢ちゃんじゃねぇ。俺は雄だ。秋の限定じゃないと、ダメなんだ。どうしても欲しいんだ。小さくてもいいから、売ってくれよ」
ぎゅっと目を瞑ったら、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちた。
その姿を見てしまったら、この場を去る気にはなれなかった。
「参ったな。他のケーキじゃダメなの?」
店員に優しく諭されても、男童は首を横に振るばかりだ。
長い時間、粘っているのだろう。人だかりができ始めている。
「どうしたんだい? 限定商品で何かあったかな」
赤褐色の髪をした赤目の青年が店から出てきた。
「明灯殿」
思わず声を掛けてしまった。
素顔で店から出てきた明灯に慌てた。
振り返った青年が、緑風を見付けて爽やかな笑顔を見せた。
「これは緑風さんじゃありませんか。秋のモンブラン、お買い求めいただけたのですね。ありがとうございます」
明灯が緑風に向かい、丁寧に頭を下げた。
同じ宝石の人間である、赤玉の明灯とは知己だ。地上で働く者同士、会う機会も多い。
緑風は明灯に歩み寄った。
「顔を晒して良いのか? 誰が見ておるやも知れぬのに」
こそっと耳打ちする。
明灯がNYANCHOCOTTのパティシエであることは秘密の筈だ。明灯だけでなく、従業員は全員が顔と名前を隠している。その為に普段は猫又の姿に変化しているのだ。
明灯の仕事を知っているのは番の黒曜以外では緑風だけの筈だ。
明灯がこそっと耳打ちを返した。
「緑風さんにしか見えていませんよ。オーナーの仮面の術は、見せてはいけない相手と見せても良い相手を選びます」
「そうであったか」
一先ず安堵の息を吐く。
対応していた店員が困った顔で明灯に助けを求めた。
その顔に頷いて、明灯が店員を店の中に戻した。
「こんにちは、お嬢ちゃん。私はこの店のパティシエだよ。モンブランを求めてくれるのは嬉しいのだけど、売り切れてしまってね。他の商品では駄目なのかい?」
明灯の言葉にも、男童は首をぶんぶん振った。
「俺は雄だ! 御褒美モンブランじゃないとダメなんだ。秋の限定ケーキ、羽々の旦那はずっと楽しみにしてたんだ。蒼愛様や紅優様と、スイーツ男子会するって。でも今は大事な御役目で並べねぇから、俺が代わりに来たんだ」
明灯が神妙な顔で緑風を見上げた。
宝石の赤玉であり、地上の統治者である黒曜の番の明灯は、緑風と同じようにある程度の事情を把握しているのだろう。
「その、旦那様には、ケーキを買いに行くように指示されたのかい?」
男童がまたぶんぶんと首を振った。
「旦那はいつも、自分で並んでんだ。今回は、並べねぇから。俺が気を利かせて買いに来てやったんだ。でも、目の前で売り切れちゃって」
すんすん泣きながら、童が終了の甲板を指さす。
ちょうど目の前で売り切れてしまったらしい。
「羽々、と言ったね。羽々、羽々……。そうか、そうだったか」
明灯が呟きながら何度か頷くと、童に目を向けた。
「君の名前は、なんて言うんだい?」
「……ピピだよ。言っとくけど、この名前考えたのは蒼愛様だからな! 俺はもっと格好良い名前が良かったけど、蒼愛様がくれたから貰ってやった名前だからな!」
ピピが、ぷんすこ怒っている。
自分がどれだけ高位な相手から名を賜ったか、理解しているのだろうか。
「素敵な名だと、私は思うよ。ピピは、燕見かな? 大蛇の領土に住んでいる燕だね?」
「だったら、何だよ。大蛇に関わる妖怪には、ケーキ売ってくれねぇのかよ」
ピピが怒りの籠った目を明灯に向ける。
「そうじゃないよ。羽々って名の御仁は、もしかしたら大蛇の長殿かな?」
「そうだよ! 呪詛対策で本名隠して……あっ」
ピピが自分の口を手で覆った。
その姿を、明灯と緑風は苦笑して眺めた。
(大蛇の長の本名は、私も霧疾から聞かなんだ。明灯殿も黒曜様から聞いておらんのだろう。呪詛対策なら、然るべきか)
災厄の神エナは闇人を利用し、闇の呪詛を使って黒い神力を手に入れたと聞く。
そういった手合いと対峙するにあたり名を伏せるのは理解できる。呪詛に真名は不可欠だからだ。中途半端に近しい者ほど、利用され名を吐かされる可能性は高いから、伏せるのは妥当だ。
明灯がピピの手を握った。
「良かったら、店の中にお入りよ。緑風さんも、どうぞ。今日は店仕舞です」
明灯がニコリと笑む。
よくわからないまま、明灯に手を引かれるピピと共に店内に入った。
店内に入り、戸が閉まると、明灯がポンと一つ手を打った。
シャッターが一気に閉まって、店が閉じた。
「二人は掛けて待っていてください。今、お茶を準備しますので」
明灯が厨房に下がった。
椅子に掛けたピピが、物珍しそうに店内を眺めていた。
「日の街に来たのは、初めてか?」
緑風の問いかけに、ピピが無言で頷いた。
大蛇の領土に住まう妖怪は、領土から滅多に外に出ない。
殊更、日の街は人喰の妖怪を嫌悪する傾向が強いので、近づかない妖怪が多い。
(勇気を出して、ケーキを買いに来たのだろうな。斯様に小さき妖怪にも、八俣は慕われておるのか)
人間も妖怪も見境なく食う大蛇は異端として北の端に領土を追いやられた。というのが瑞穂国の一般教養だ。この国において、大蛇の一族は悪漢であり、悪の代名詞だった。
(子らへの指導を変えねばなるまいな。大蛇の長は今や、瑞穂ノ神の神器。この国を救った英雄の一人だ)
志那津を始めとした神々が、瑞穂ノ神と色彩の宝石の言を受けて大蛇への見方を変えた。
千年以上も続いた常識が、覆された。
「ピピ、ケーキなら案ずるな。私が秋の限定ケーキを買ったのは、八俣殿のためだ」
ピピの眉間に皺が寄っている。
その反応は、正しいと思う。
「私の番は、風ノ神の側仕だ。志那津様に頼まれ、八俣殿のためにこのケーキを入手した。このケーキは、八俣殿のモノだ」
ピピの眉間から皺が消えた。
代わりに信じられない表情になった。
その反応も自然だろうと思った。
「紅優様と蒼愛様とか、日美子様以外の神様も、羽々の旦那に親切にしてくれんのか。限定ケーキに並んでくれるくらいに?」
緑風は笑んで、頷いた。
「今の天上は大蛇の一族の敵ではない。大蛇もまた、瑞穂ノ神の味方だろう。神々は、仲間といえよう」
緑風の感覚からすると、神々は殿であり上様だ。
しかし、この国においては仲間という表現が、適当なのだろう。
「そうそう、だから私たちも、しっかりお礼をしなければね。この国を災厄の神や闇人の魔手から救ってくれた神々や側仕の皆様、それに大蛇の一族の皆様にも」
明灯がケーキと紅茶を、ピピの前に置く。
生クリームが載ったシフォンケーキが、ふるんと揺れる。
「特に羽々様は当店の御得意様だからね。毎月、売れ残りの菓子を全部、定価で買い上げてくださるお陰で、うちの店は余分な廃棄がないんだよ」
ピピが明灯を見上げた。
「羽々の旦那は、領土に住んでる妖怪に菓子を配ってんだ。甘味は人を喰う妖怪の人喰衝動を抑えるかもって、芽衣から聞いて、試してるんだってさ」
明灯が感心した顔をしている。
緑風も素直に驚いた。
大蛇の番になった人間が、人に変わる食料の研究をしている報告は、緑風にも明灯にも、おりてきている。
「我等が成し得なかった努力を、八俣殿はしてこられたのだな。頭の下がる話だ」
「本当に。意外性しかありませんね。御得意様の羽々様が大蛇の長だったとは、今の今まで知りませんでした。どんな御仁か、お会いしてみたい」
明灯が、緑風の前にもシフォンケーキと紅茶を置いた。
「だから、ピピ。ここでケーキを食べながら待っていてくれるかな。これから私が、羽々様のために特製ケーキを用意するから。私たちと一緒に、天上まで届けに行こう」
ピピの顔が明るく輝く。
「あんたら、天上に行けるのか? 俺も連れてってくれるのか?」
明灯と緑風は顔を合わせて頷いた。
「我等は宝石の人間、緑玉の緑風と赤玉の明灯だ。結彩ノ神、蒼愛様を支える者だよ」
色彩の宝石である蒼玉の蒼愛が神となり、宝石の人間を束ねる立場になった報せは、夢に届いた。
緑風に届いた啓示は、同じように明灯にも届いているだろう。
「恩人に恩返しをする機会をくれたピピに、私は感謝するよ。NYANCHOCOTTが日の街一の洋菓子店と呼ばれるような大店になれたのは、羽々様のお陰だからね」
現世では和菓子屋の次男だった明灯は、常に物腰柔らかく客に感謝を忘れない。
戦時中の空襲で家族を失い、気が付いたらこの国で捕縛されていたらしい。
義に厚く正義感が強い明灯とは、何かと話があう。出会ってまだ百年も経っていないが、明灯が来てくれて良かったと緑風は思う。
「オーナーからも、許可をもらったからね。盛大に祝いのケーキをと念を押されたから、気合を入れて作るよ。少し時間はかかるけど、待っていてくれるかな」
NYANCHOCOTTのオーナーである猫又の夜艶は、パティシエから資産家となり、他にも色んな店を出して経営展開している、遣り手の猫だ。
人喰の妖怪でありながら、日の街で成り上った稀有な妖怪といえる。瑞穂国始まって以来の大事件が解決したタイミングで大蛇の長と天上にケーキを振舞う決断を瞬時に下せる機転と豪胆さは流石としか言えない。
今のNYANCHOCOTTの商品は、シェフパティシエである明灯がメインで作っている。
明灯の言葉に、ピピが何度も頷いた。
「どんだけでも待つよ! 羽々の旦那、喜ぶだろうなぁ。楽しみだなぁ。明灯、ありがとな。緑風も、ケーキ並んでくれて、ありがと」
嬉しそうにケーキを頬張るピピを眺めて、緑風と明灯は顔を見合わせて笑んだ。




