第132話 元凶
触れた心を感じ取って、蒼愛は愕然と立ち尽くしていた。
どっちが前で後ろかもわからない真っ暗な空間は、以前、夢の中に闇人が入ってきた時と同じだ。
(エナの魂を辿って、心に触れたつもりだったけど。ううん、あれはエナだ。間違いなく、エナだ)
助けるために、居場所を知るために、蒼愛にしかできない方法でエナを探した。
見付けたエナの心は、蒼愛が想像もしない過去や想いを抱えていた。
あまりの事実に、すぐには理解も受け入れも出来なかった。
真っ暗な空間に、影が浮いて、エナの形になった。
初めて会った時の少年の姿ではない。もっと大人びた青年だ。
「私の心を勝手に覗き見たね、蒼愛。もう少しの間は、闇人に利用される可哀想な死の神エナを演じていたかったのに、残念だ」
笑いも怒りもせず、淡々とエナが語る。
蒼愛は息を飲んだ。
自分の中にあるエナの魂の欠片から軌跡を辿って、エナの心に潜り込む試みは、成功したようだ。
思った以上の情報が得られたのが蒼愛の実力なのか、エナの誘導なのかはわからない。
どちらであっても、予想外の真実なのは間違いない。
「いつから、エナだったの? 時の回廊で会った闇人は、エナ? 蛇々は? 人間が暴走した時、僕に自分を殺してっていった、あの言葉は、嘘だったの?」
驚いた心から、じわじわと怒りが湧き上がる。
「いつから、か。明確には覚えていないな。互いに利用し合っていたから。時の回廊の闇人は、私だよ」
ふわりと、エナが蒼愛に近付いた。
「ヒルの振りをして何度も蒼愛に声を掛けた。蒼愛が神々を殺してくれたら良いと思った」
そろりと頬を撫でられる。
ぞわりと怖気が走った。
「この国を壊せって、神々に騙されるなって、あの声は、エナだったの……?」
「そうだよ。私の存在にすら気が付けない愚鈍な神々など、この美しい国には不釣り合いだろう」
エナが愛おしそうに蒼愛の髪を撫でる。
「蛇々に種を仕込ませて蒼愛に私の術式を刻もうと試みたけど、流石にアレはバレてしまったね。大蛇のせいだと勘違いしてくれたのは、狙い通りだったよ。お陰で神々の大蛇への憎悪は増した。その勢いで潰してくれたら、尚良かったけどね」
エナが蒼愛の髪に口付ける。
思わず払い除けて後ろに下がった。
(最初に時の回廊から聞こえた声も、種も、エナだったんだ)
「水ノ宮で、僕を闇に落として連れ去ろうとしたのも、エナ?」
「ああ、そうだよ。初めて本物の蒼愛に会えたのが嬉しくて、興奮してしまってね。本当はあそこまでする気はなかったんだけど。あれだけあからさまなやり方をしても、愚鈍な神は誰一人、私に気が付かなかった」
表情はほとんどないのに、エナが嘲笑しているのがわかる。
蒼愛が闇に攫われそうになったあの日は、空の上でエナに初めて会った日だ。
(最初から全部、僕に迫っていた危機は全部が、エナの仕業だったんだ。僕だけじゃない、大蛇の皆を陥れたのも、大気津様を土に潜らせたのも、須芹を孤立させたのも、神々を欺いたのも、全部、全部……エナ、だったんだ)
蒼愛は歯軋りして、拳を強く握りしめた。
俯く蒼愛に、エナがふわりと寄った。
「まさか蒼愛が、ここまでするとは思わなかったけど。蒼愛から会いに来てくれて、嬉しいよ。予定は狂うけど、誤魔化さずにあけすけな私を曝け出したよ。誠意を見せた私に御褒美をおくれ」
唇が寄って、蒼愛はエナを突き飛ばした。
(この感じ、時の回廊で会ったあの男と同じだ。話し方も似てる。あれは間違いなくエナだ)
「何が本当で嘘なのか、わからない。エナは嘘ばっかりで、何を信じていいか、わからないよ」
怒りで声が震える。
エナが小さく息を吐いた。
「嘘は何一つ言っていないよ。ただ、何者かに成り代わっただけだ。私は蒼愛の願いに応えている。呪詛も瘴気も使わずに本音を言えと言われれば、そうしている。今だって、私のありのままの過去と気持ちを教えた」
仮にすべてが本当だとしたら、その事実が受け入れられない。
頭の整理がつかないのに、怒りの感情ばかりが込み上げる。
「紅優を、殺したいの? この国を壊したいの?」
エナがまた近付いて、蒼愛の髪を撫でた。
「そうだよ。でなければ、蒼愛は手に入らない。クイナが理想とした国を一から蒼愛と作り直すんだ」
エナが蒼愛の髪に口付けた。
「人間の暴動が遭った時、蒼愛に話した言葉も嘘ではないよ。蒼愛が私を殺す選択をしないと踏んで言った言葉だったけどね。ヒルを殺してほしかったけど、蒼愛がヒルを殺すわけがないからね。別の誰かに殺してもらおうと思っていたんだ」
何の感情もなく語られるエナの言葉を、蒼愛は愕然と聞いていた。
「けど、それも難しそうだね。折角、酷い言葉を投げて自分を壊させたのに。まさか、この国で大蛇の長に保護されていたなんてね。蒼愛のせいで、苦労して壊してきた大蛇と天上の関係も修復されそうだ。流石、クイナに酷似した魂の持ち主は、この国を守るのが得意だね」
エナの言葉をどう理解したらいいか、わからなくて、言葉を返せなかった。
俯いたまま目を見開いて、蒼愛はゆっくり口を開いた。
「……ヒルを、本当に愛していないの? 殺したいほど、憎いの?」
エナの、蒼愛の髪を撫でる手が止まった。
「憎い、か。昔は、そうだったかもしれない。今はただ、邪魔なだけだよ」
エナがまた、蒼愛の髪を梳き始めた。
単調な手つきは冷たくて、熱を感じない。
「ヒルはエナに会いたがってる。一緒に、生きたがってる。会って、謝りたいって、愛して欲しいって、そう言ってる」
顔を上げた蒼愛の胸に、冷たいものが流れた。
エナの目は冷え冷えとして、何の感情もない。
「感情を向けられるのが鬱陶しい。だから、死んでほしい。執着されるのは、もう面倒なんだ」
エナの言葉は冷たくも温かくもなくて、だからこそ本音なのだと思った。
「最初にヒルがエナの魂を千切ったから? クイナさんがエナを残して現世で死んじゃったから? だからエナはこの国を壊そうと、神々を殺そうと、するの?」
エナの胸に縋って、着物を掴み上げる。
その様をエナが冷静に眺めていた。
「私の心が死んだ理由は、それだったかもしれない。クイナの理想に縋って生きてきたのは、他に手段がなかったからだ。けど、今は全部、どうでもいい」
エナの腕が蒼愛を包み込んで抱きしめた。
「今の私には、蒼愛がいる。私自身の願望がある。蒼愛と一緒にこの国を作り直す。蒼愛と私だけが幸せに生きる国を作る。蒼愛を手に入れるために、総て壊そう」
幸せそうに語るエナの声が、耳元で響く。
「愛している、蒼愛。お前が私を愛せるように、余計なものは総て排除してあげるから。この瞳に私だけを映すことに、疑問すら抱かない蒼愛にしてあげようね」
唇が重なって、何かが流れ込んできた。
胸が熱くなって、焼けるように痛い。
蒼愛はエナの胸を突き返した。
「黒い神力は、僕には効かないよ。呪詛も瘴気も浄化できる。今なら種だって、自力で破壊できる」
口元を拭って、蒼愛はエナを睨みつけた。
エナが詰まらなそうに息を吐いた。
「そうだったね。蒼愛は完璧な色彩の宝石になったんだったね。精神操作されて狂ったように私を愛する蒼愛も愛でてみたかったけど、それは二人きりになってからの遊びでも構わない」
エナが蒼愛に腕を伸ばした。
身構えた蒼愛の体が、何もない空間に横たわる。
気が付いた時には、エナが蒼愛の上に乗っていた。
「ここは私の心の中だよ。自分からやってきたのに、忘れてしまった? ここなら私は、蒼愛を好きなように蹂躙できる」
腕を頭の上で押さえつけられ、縫い付けられる。
動けない蒼愛の唇に、エナが噛みつくようなキスをした。
「んっ……、ぅん、ぁ……」
唇をかまれて、口内に血の味が広がる。
そのまま舌を絡められて、息が詰まった。
エナの足が執拗に蒼愛の股間を刺激する。
「ん! んぁっ、やっ、やめっ……、ぁん!」
抵抗しようとする体を押さえつけて、エナの手が蒼愛の股間に伸びる。
開けた着物の袷から手が入り込んで、男根を扱き上げた。
重なったままの唇から、くぐもった声だけが漏れる。
「勃ってしまったね、蒼愛。私の手で、蒼愛は気持ち悦くなれるんだよ」
何度も扱かれて勃起した男根の先から、先走りが流れた。
それを指で掬ってエナが舐め挙げる。見せ付けるような表情に、胸の中に怒りとも取れない感情が湧き上がった。
「は、ぁ……、も、やめ、て……」
エナの顔から色が消える。
同時に男根を扱く手が激しさを増した。
「ぁ! あぁっ! ヤダ、もう、やぁ!」
勝手に浮いてしまう腰を抑えたいのに、何も出来ない。
そんな蒼愛を、エナが愛おし気に眺めている。
「蒼愛は私に愛されるしかないんだ。素直に私を受け入れられるように、早く番を殺そう。蒼愛を愛する取り巻き総てを殺せば、蒼愛の瞳には私しか映らない」
エナが蒼愛の唇に口付けた。
血が流れる下唇を強く吸い上げる。ビリっと痛みが走った。
「……させない、絶対に。そんな風には、しない!」
縫い付けられた両手に神力を展開して、腕を持ち上げる。
浄化の球をエナに向かってぶちまけた。
エナにぶつかり弾けた球から金色の雨が降り注ぐ。
「ぅっ……」
小さく苦悶の声を漏らしたエナの姿が、青年より幾分か幼くなった。
「些細な浄化で、この威力か。流石、色彩の宝石だ」
自分の姿を冷静に眺めて、エナが蒼愛に向き直った。
「攻撃せず、話し合いで何とかしたかったようだけど、諦めたのかな? 蒼愛にとって、私の命など、どうでもいい?」
エナの心の中で蒼愛が強い神力を使えば、エナを壊しかねない。
特に闇の呪詛で魂まで黒く染まっている今のエナは、存在から掻き消えてしまうかもしれない。
だから神力は、できれば使いたくなかった。
「エナは、僕と生きたいの? それとも、殺してほしいの?」
人間の暴動があった時、空の上でエナに初めて会った。
今のエナが本物なら、あの時のエナは演技した偽物なのかもしれない。
(でも、あの時の言葉は、僕には嘘には聞こえなかった。それにエナは、僕に嘘は一つも吐いてないって言った)
「エナの本当の願望を、教えて」
声を絞り出して、蒼愛はエナに向き合った。
エナが考えるように首を傾げた。
「この国をリセットして、蒼愛と二人で生きたい。けど、蒼愛に殺されるのも、悪くない。私を直に殺した蒼愛が、永遠に私に囚われて生きてくれるなら、それもいい」
蒼愛は強く拳を握った。
「わかった。エナが望む、どれでもない方法で、僕はエナを救いに行く。嫌って言っても、皆の前でごめんなさいって、謝ってもらう」
言い切った蒼愛に、エナが不機嫌な目を向けた。
「聞き分けが悪いね、蒼愛。蒼愛は私のモノになっていればいい。私を愛する以外の意志なんか、蒼愛には必要ないんだ」
思いもよらない返答に、蒼愛は息を飲んだ。
エナが怠そうに息を吐いた。
「手の内は総てバレてしまったし、私の過去や想いも流れてしまった。これ以上、隠れても意味はないね」
エナが蒼愛に向かって、七本、指を立てた。
「蒼愛を愛する、蒼愛が愛する神々を、一人ずつ殺す。蒼愛が自分から私に愛したいと懇願するまで続けよう。どうせ殺すのだから、面白い命の使い方をしよう」
エナの発想がわからな過ぎて、蒼愛は絶句した。
指が七本立っているということは、六柱の神と瑞穂ノ神、という意味だ。
「神々で足りなければ、側仕も殺そう。どれだけ死んだら、蒼愛が私を愛する気になるのか、楽しみだよ」
エナの口端が上がって、笑っているように見える。
だが、目は全く笑っていなかった。
「負けないよ、エナ。神様も側仕の皆も、誰一人殺させない。僕は絶対に、エナを許さない」
目の前のエナの姿が薄まって消えていく。
エナの姿がなくなるまで、蒼愛は睨み据えていた。
〇●〇●〇
目を開くと、自室の天井が見えた。
口の中に血の味がする。触れると、下唇から血が流れていた。エナに噛まれた場所だ。
顔を横に向けると、案の定、紅優の心配顔があった。
「やっぱり、気が付いた?」
紅優が当然とばかりに頷いた。
「どこに意識を飛ばしてたの? ヒル? それとも、エナ? どうして行く前に俺に相談しないの?」
紅優が蒼愛の唇に吸い付いて、血を舐め上げた。
「勝手な真似して、ごめんなさい。けど、紅優や他の皆にばっかり辛い事させるの、嫌だったんだ」
蒼愛は起き上がり、紅優の前に膝立ちになった。
「魂の欠片から軌跡を辿って、エナの心に入り込んで来たよ。エナと直接、話をしてきた」
「そんな危険な真似……。他者の心に直に触れるなんて、下手をしたら蒼愛自身が壊れかねないんだよ、わかってる?」
顔を引き攣らせる紅優に、縋るように抱き付いた。
「わかってる。だから、相談しなかった。ごめんなさい。でもこれは、僕にしかできない唯一の方法だったから」
蒼愛の耳元で紅優が息を飲んだ。
「反対されるって、わかってたから相談しなかったんでしょ。反対するに決まってる。それは最後の手段だよ。蒼愛の心が壊れるリスクを負ってまでする段階じゃない」
抱き付く蒼愛を紅優が引き剥がす。
蒼愛の顔を見て、紅優が顔色を変えた。心配の表情が不安に変わる。
「エナに触れて知った、エナの心や過去、交わした会話。全部、紅優に流し込むから、一緒に感じて、考えて。僕は今、怒ってる。こんなに怒ったの、きっと生まれて初めてなんだ。だけど、同じくらい悲しくて、切なくて、辛い。それでも、一緒に感じてくれる?」
蒼愛の顔を見詰めて、紅優は頷いた。
「当たり前でしょ。蒼愛の気持ちは全部、一緒に感じたいよ」
紅優が蒼愛の顔を引き寄せる。
重なった唇から、蒼愛は神力を流し込んだ。
ゆっくりじっくり、紅優の熱を感じながら、流し込む。
(やっぱり、紅優は温かい。エナは温かくも冷たくもなかった。エナの本当の心はきっとまだ、閉ざされたままなんだ)
蒼愛が触れた表在的な心のその奥に、エナ本人すら気が付いていない本音があるのだと思った。
時間をかけて神力を流し終えると、蒼愛は紅優から唇を離した。
紅優の顔が強張っているのが、わかった。
「……これが全部、エナの心の中、なんだね」
紅優の問いかけに、蒼愛は頷いた。
蒼愛の腕を引いて、紅優が小さな体を抱き包んだ。
「頑張ったね、蒼愛。偉かった」
抱きしめる手が、蒼愛の背中を摩る。
何故だか目に涙が滲んだ。
「俺たちはもう既に色んな認識を覆されてきたけど、やっと真相に辿り着いた。全部、蒼愛のお陰だ。誰一人死なせないために、早めに寄合を開こう。この国と神々を守るのも、瑞穂ノ神と色彩の宝石の役目だよ」
紅優の言葉が嬉しくて、蒼愛は強く抱き付いた。
「エナが望む、どれでもない方法で解決しよう。俺も蒼愛と同じように怒ってる。許しては、あげないよ。蒼愛は絶対に渡さない」
紅優の言葉はいつもより凄みがあった。
蒼愛も同じ気持ちだから、怖くはなかった。




