第131話 忘却の願望
天を突くほどに高い朴木の葉が揺れている。
どこからともなく、当然のように吹き流れる風が、大地から堂々と聳え立つ大樹の葉をさらい、揺らす。
差し込む陽は温かいのに、力強い。夜の闇はしっとりと魂を包み込んで優しく癒す。
灼熱の炎が罪を焼いても、流れる水は心も体も癒して、命を蘇らせる。
瑞穂国は、他のどの幽世より美しい。
「あの男が望んだ通りの国になった。ただ一点を、除いては」
見上げても果てが見えない大樹のてっぺんを眺めながら、遠い昔を思い返した。
遠い昔でありながら、まるで近歳にも感じる。
小さな木の苗を大事そうに植える男が、やけに楽しそうだったので、声を掛けた。
「何を、しているの?」
男は振り返りもせず、手を止めぬまま答えた。
「木を植えているのさ」
そんなのは、見ればわかる。
何もない荒野にたった一本の木を植えている姿が、滑稽だった。
「この幽世はできたばかりでね。守ってくれる神様を探している最中さ。まだ何もないが、今に美しく豊かな国になる。何せ、瑞穂国だからね」
「みずほの、くに?」
苗に土をかぶせていた男が、ようやく振り返った。
「水が豊かで喰うに困らない、美しい妖怪の国。人間と妖怪が仲良くなるための国。神様が守ってくれる国だ」
男の目が真っ直ぐ、こちらを向いた。
「お前さんも神様だね。けどまだ幼い。大きくなったら、この国を守って欲しいから、瑞穂国に住んでおくれよ」
荒れ果てた大地しかない、何もないこんな国に、住めというのか。
大概、失礼な人間だ。
「……住んで、いいの? 私が?」
口から零れた言葉は、自分でも予想もしなかったほどに弱々しかった。
「この国が本当の瑞穂になるためには、住んでくれる妖怪や神様が必要だ。住人、いや住神第一号だね」
たかが人間風情が、何を言っているのだろう。
人間なんか、妖怪にも劣る、神の成りそこないのくせに。
「俺はクイナというのだがね。お前さん、名前は?」
名前など知らない。
生まれてすぐに不具の子と呼ばれて、親の神に葦舟で流された。
先に生まれた不具の子もまた、同じように流されたのに、ヒルという名を貰っていた。
自分は名前すら呼ばれずに捨てられた。
黙り込んだら、クイナが目の前に屈んで胸に耳をあてた。
驚いだが、払い除ける気にならなかった。
「強くて大きな力だ。命を生み育む胞衣のような、大地にも似た力だね。エナって名は、どうだい?」
「私に、そんな力があるの?」
クイナが嘘を吐いているんじゃないかと思った。
不具の子だから捨てられたのに、神力など、あるはずがない。
「あるよ。まだ育っていないだけさ。エナはまだ、幼いんだ。時期に大きくなれるよ。この国のようにね」
クイナが立ち上がって、頭を撫でる。
当然のように自分が与えた名前を呼んだ。
なんて傲慢な男だろう。けれど、嫌な気がしなかった。
「私は、捨てられた神子だよ。そんな私がこの国に住んでも、きっと国を壊す。クイナの理想を、壊す」
クイナがカラカラと笑った。
どうして笑っているのか、全く理解できない。本当に失礼な男だ。
「だったら余計に、この国に住んでおくれよ。瑞穂国がエナの故郷だよ。この国は今に、妖怪も人間も神様も仲良くなれる理想の国になる。見守っておくれ」
「故郷……」
そんな言葉は自分とは無縁だと思っていた。
この世のどこにも、自分が生きていい場所など、ないのだと思っていた。
「理想通りにならなかったら、どうするの?」
クイナの目が苗木に向いた。
「そうなったら、それが幽世の答えさ。けど、願わくば、豊かで皆が仲良く暮らせる国であって欲しいね。その願いが、この木さ」
「その小さな苗?」
クイナが苗木の、一枚しかない葉を撫でた。
「朴木は友情の木だ。俺の願いや理想を幽世が忘れずにいてくれるように、臍の近くに植えたんだ。この木が見違えるほどの大樹に育った頃には、俺の理想が叶っているといいと、そう願って植えたんだよ」
クイナの隣に屈んで、朴木の苗木を眺めた。
こんなに弱々しくてか細い枝が、大樹に育つまで、どれくらいの時が掛かるだろうか。
「見届けてあげるよ。この国がクイナの理想の国になるまで。もしならなかったら、私が壊して作り直してあげるよ」
喰う側と喰われる側である妖怪と人間。人の先祖でありながら人に無頓着な神。
そんな存在同士が仲良くなれるはずもない。
クイナの理想は、どこまでも理想で叶うはずがない。
皆、自分を捨てて見て見ぬ振りをしてきた忌むべき者たちだ。
絶滅しようが苦しもうが、どうでもいいけれど。
「理想通りにならなくても、それはそれでいいのさ。何百年、何千年先の、この国に住む者たちが幸せであれば、それでいい。俺の理想は、ただの願いさ」
純粋な想いが只の理想を語る姿は、とても楽しそうだ。
羨ましいなんて、思わない。
ただ、ここまで夢中になれる何かがあって実行できるクイナが、眩しかった。
「エナもこの国に住むのだから、ちゃんと幸せになるんだよ。それが俺の願いの一部だよ」
クイナの手が頭を撫でる。
苗木の葉を撫でるように、優しい手だ。
こんな風に触れられたのは初めてで、驚いた。
だから涙が流れたのも、きっと驚いただけだ。
「幸せなんて、知らない。無責任な願いをかけるお前は、どうせ先に死ぬのだろう。私は、ずっと一人だ」
たった一人の兄弟だと思っていたヒルには、会った瞬間に魂を引き裂かれた。
会いたかったのは自分だけだったと思い知らされた。
それ以降、ずっと命を狙われ、付け回されている。
安息の地を探して辿り着いた国は、創世したばかりで、何もない。
きっと自分は、生きるに向かない。
世界の総てが、生きるなと告げているのだ。
「俺は惟神だけど、人だからね。神様のエナよりは先に死ぬよ。けど瑞穂国はなくならない。エナより長くあり続ける。この国でエナの生き方や欲しいモノや願望を探すといい。きっと見つかる」
止まってくれない涙を、クイナの指が拭う。
あまりにも涙が止まらないからか、クイナが胸に顔を抱いた。
余計な真似をする男だと思うのに、ずっと縋っていたい。
「私が、欲しい……モノ? 願望……」
欲しかった言葉は、出会ったばかりの男がくれた。
名前と故郷をくれた男は、自分という存在を受け入れてくれた。
まるで、生きていてもいいと言われたようだった。
「クイナの理想を、守る。その為に、生きる」
生きる意味も価値もない自分には、他人の願望に寄生して生きる他ない。
だから、クイナの理想を利用しようと思った。
「最初は、それでもいいさ。この木が大樹になる頃には、エナ自身の願望がきっと見つかる。見つかったら俺の理想や願望なんかに縛られないで、自由に生きるといい」
クイナが顔を覗き込んできた。
「願望が一つ、増えたよ。エナの笑った顔が見てみたい」
そう言って笑ったクイナの笑顔はとても綺麗だった。
綺麗すぎて、真っ直ぐ見られない。
だから、顔を逸らした。
あの時、もっとちゃんと見ていたら、上手に笑えたのかもしれないと後悔した。
クイナは、探していた六柱の神を見付けると、現世へ戻った。
エナは神子だからと神々への紹介を申し出てくれたが、断った。
ずっと一緒に生きられるのだと思っていた。
クイナも瑞穂国に住むのだと思っていた。
まるで裏切られた気持ちになって、クイナの言葉を素直になど受け入れられなかった。
「私の笑顔が見たいだなんて、あれは虚言だったのか」
心の底に刻まれたのが絶望なのか憎悪なのか、わからなかった。
そう時が経たないうちに、風の噂で、クイナが現世で死んだと聞いた。
もう永遠に、笑顔を見せる必要はなくなった。
百年もすると、瑞穂国は水が豊かで食べ物が豊富な国に育った。
ヒルの追撃を避けるため、エナは他の幽世に身を潜めながら、時々には戻って瑞穂国で暮らした。
瑞穂国を壊されるのだけは、どうしても嫌だった。
身を潜める国は人間をぞんざいに扱う幽世と決めた。
ヒルが壊しても、後悔しないで済む。
むしろ、ヒルの力を利用して壊してしまおうと思い付いた。
気に入らない幽世は総て壊す。壊すのはエナではなくヒルだ。
逃亡と破壊を繰り返すうちに、何となく気が付いた。
「ヒルはもしかしたら、自分に会いたがっているだけかもしれない」
それは殺意でも憎しみでもなく、エナが知らない愛なのかもしれない。
強すぎる力を制御できずにいるヒルを眺めて、そう感じた。
けれど今更、どうでも良かった。ヒルの本音など、今のエナには関心も興味もない。むしろ邪魔だった。
同じ頃に、現世で人間が瑞穂国を見付けた気配を感じた。
人喰いの妖怪を殲滅しようと戦を仕掛ける様子だ。
良い機会だと思った。
美しく育ったこの国を、人間に明け渡してやろう。ここはクイナが作った国だ。人のために使うべきだ。
クイナに会ってから二百年程度が過ぎていた。
エナの中の神力も多少は育った。だが、まだ足りない。
偶然知り合った闇人は、蛇々とかいう大蛇とこの国を乗っ取り壊したいという。
何とも馬鹿らしい存在だと呆れた。
だから、利用しようと思った。
クイナの理想を壊す存在は、生きていなくていい。使えるだけ使って、捨ててしまおう。
闇人の呪詛は使い勝手が良かった。
エナの魂を黒く染めて神力を利用したい闇人の思惑に乗ってやった。
まるで自分の思い通りに利用していると考える闇人や蛇々が面白かった。
試しに、別の闇人を黒く染まった神力で取り込んでみた。
黒い神力で覆い尽くして取り込んだら、闇人の自我が死んだ。
都合がいいのでそのまま、自分の分身として使い始めた。
最初に出会った闇人は周囲に名無と呼ばれていたので、分身の闇人も同じ名前を使った。
闇人名無として、蛇々に契約の印を与えた。
自我を持つからくり人形になった蛇々は、エナが思う以上に仕事をしてくれた。
闇の呪詛で黒く染まった神力は、今まで以上に強い力になった。
エナの黒い神力は、まだ未成熟な日暗の結界を弱めるには充分だった。
人が攻め込みやすいように結界に穴を空けた。
攻め込んできた人間は、妖怪を殺しまくった。
その様はあまりに醜悪で、この美しい国をくれてやる価値があるのか疑問に感じた。
「クイナがたまたま人間だっただけなんだ。人も妖怪も、守る必要は特にないのか」
クイナだって、勝手な理想と願望を置いたまま死んでしまった。
エナを置いて、消えてしまった。
攻め込んできた人間を殺して、霊を闇人にして利用した。
結界を閉じて、最初にクイナが作った形に戻した。
ただ、朴木を傷付けた者は、人だろうと妖怪だろうと、エナが自ら惨殺した。
それらも総て闇人にして使える駒を増やした。
大気津が人間に絶望したのは予想通りだった。
この国も人間も愛せない神など、居なくていいと思った。
蛇々に須勢理を丸め込ませて、大気津が土に溶けるよう、追い込ませた。
土に潜った大気津が人間に色彩の宝石を盗ませようと、止めなかった。
そのために少数の人間を生かして、わざと現世に戻らせた。
色彩の宝石はどうせ、現世に戻れば弾け飛んで消滅する。
この国に当然と流れる妖力や瘴気や神力が現世は薄いから、色彩の宝石は存在を維持できない。
結界が弱まると、大気津が神力で人を誘き寄せ狩り始めた。
行動が予想通りすぎて、笑う気も失せた。
エナの狙い通り、妖怪が適度に人間を狩れる状況が整った。
その後に逃げ込んだ幽世で、ヒルがいつもより大きな破壊をした。
大きな国だったせいもあるが、癇癪を起したようだった。
「愛してるって、何度も伝えてる。魂を千切って、ごめん。ヒルはエナと、一緒に生きたい」
ヒルの言葉に、思わず息を飲んだ。
生きるという純粋で前向きな気持ちと、自分の名を知っていた事実に、驚いた。
ヒルの気持ちが届かなかったのは、闇人の呪詛で魂が黒く染まっているせいだと気が付いていた。
煩わしい声が届かなくてちょうどいいと、清々していた。
今更、自分を傷付けた相手の愛なんか、要らない。愛して欲しいなんて、思わない。
「憎くて殺したいって言われた方が、ずっと良かった。私はヒルを愛していないよ」
初めて届けた声が、ヒルを暴走させた。
ヒルは自分を壊して、エナの一部を破壊した。
何とか瑞穂国に戻ってからは、思うように自分で動けなくなった。
神力も呪力も半減した。
分身の闇人や、名無や蛇々を巧く動かして、身を潜めた。
神力と体の回復を待ちながら、彼らの行動を観察した。
「壊したい、奪いたいという割に、やり方がぬるいな」
正直な感想だ。
きっと頭が良くないんだろうと思った。
地上で最も力があり数も多い大蛇の一族と天上を対立させて幽世を壊すのが闇人名無の願望だ。
蛇々も名無も六柱の神を殺して自分が神になりたいらしい。
「時間をかけすぎだ。本気で壊したいなら、神などさっさと殺してしまえばいいのに」
愚図で愚鈍な闇人や蛇々には、そろそろ見切りを付けよう。
自分の分身である闇人を使って名無を取り込み、自我を殺した。
使えない頭しか持たない駒は要らない。自分なら、もっと巧く闇人名無を演じられる。
名無という闇人の頂点になってからは、回復し始めた神力で、数体の闇人を動かした。
妖怪を殺し、魂や霊を取り込んで力を付け、闇人の数を増やした。
蛇々を嗾けて、邪魔になりそうな妖怪は大蛇の一族を使って種族ごと根絶やしにしていった。
この国を汚す生き物は、必要ない。クイナの理想を守るための殺しだ。
風の森の、白狼の里で、偶然、見付けた。
自分の魂の欠片を持つ人間。
色彩の宝石として、幽世に認められた特別。クイナの理想を継ぐ者。
魂の匂いを追いかけて、現世まで行った。
理化学研究所とかいう、低俗な人間が運営する野蛮な場所で、エナの魂を持つ人間は見付かった。
もうほとんど、魂の融合が進んでいるようだった。
「欲しい。あの魂に、愛されたい」
自然と零れた本音だった。
自分の魂など混ざっていなくても、あの魂は美しい。
数千年振りに、会いたかった男に再会したような気分だった。
「そうか、これが私の、願望か」
朴木の大樹が苗木だった頃から、同じ願望を抱えていた。
自分の中の欲に、やっと気が付いた。
「私は、クイナに愛されたい」
気が付いた願望を叶えるために、蛇々を駒にして動かした。
大蛇の悪い印象を増幅させて恨ませて、蒼愛を始めとした天上が大蛇に鉄槌を下すよう仕向けた。
天上と大蛇が潰し合ってくれたら、都合がいい。
この国を更地にして、もう一度新しい国を作る。
クイナの理想の国を、蒼愛と作り直すために、総てを最初に戻す。
「私の蒼愛にするために、瑞穂ノ神は殺してしまおう。紅優は必要ない」
自分から蒼愛を奪う、忌むべき神。
そもそも神など、自分を捨てた卑しい存在だ。
願望を叶えるために不必要な障害は総て殺そうと思った。
「迎えに行くよ、蒼愛。早く私だけの蒼愛になって、二人で幸せに生きよう」
手を伸ばせば届く場所に願望がいる。
そう考えるだけで、エナの心は生まれて初めて高揚した。




