第124話 大蛇の長 八俣①
野々に案内され、蒼愛たちは屋敷に入った。
「俺はここまでだ。屋敷内の案内は別の者が担当する。健闘を祈っている」
屋敷の扉が閉まると、目の前に小さな蛇がいた。
「イラッシャイマセ、トウヤカタヘヨウコソ、アルジノヘヤマデ ゴアンナイシマス」
自動音声のような声が響いて、蛇が廊下の先を行く。
蒼愛たちはその後を付いていった。
「コチラノ、オヘヤニ、オハイリクダサイ」
一階の隅にある、大きな扉が開く。
案内の蛇が煙になって、部屋の中に吸い込まれた。
開いた扉の向こう側には、黒髪の背の高い大きな男が立っていた。
男がゆっくりと振り返る。
黒い瘴気を纏った体と、真っ赤に灯る鬼灯の瞳が恐ろしかった。
「大蛇の領土へようこそ、瑞穂ノ神、色彩の宝石。俺が八俣と呼ばれる、大蛇の長だ」
男が窓辺から蒼愛たちに向かい、歩を進める。
瘴気の塊が近寄ってくるように感じられた。
紅優が蒼愛を自分の後ろに隠した。
「魂まで、真っ黒に染める、瘴気にも似た、甘美な味わい……」
八俣が突然、何かを呟き始めた。
真っ黒な瘴気の中に赤い目が光る。
「柔らかで真っ白な雲があるからそこ、夢心地になれる……」
近付いてくる八俣に紅優が手を翳した。
「浄化が必要か? 随分と瘴気が濃いようだ。その瘴気は我等には強い」
井光と真白が前に出た。
その姿を、八俣がじっと見詰める。
蒼愛は八俣をぼんやりと眺めていた。
「んー、良く寝たなぁ……。あれ? ここ、どこだ?」
ピピが蒼愛の髪の中から顔を出した。
「ピピ、今は出てくるな。危険かもしれない。蒼愛の側にいて」
紅優に手で遮られて、ピピが部屋の中を見回した。
緊張状態の紅優たちと八俣を見比べると、蒼愛の頭から飛び出した。
「そっちはダメだ! ピピ!」
八俣に向かって飛んで行ったピピを紅優が止める。
そんな紅優を蒼愛は引っ張った。
「多分、大丈夫だよ。八俣さんから敵意は感じないよ」
紅優が納得いかない顔で蒼愛とピピを交互に見やる。
「何してんの、羽々の旦那。あんま瘴気吹き出し過ぎると、外の妖怪は嫌がるぜ。そんなに嬉しいの?」
ピピが小さい羽根で八俣の瘴気を払ってやっている。
八俣が肩に乗ったピピに向かって小さく頷いた。
「は……?」
訳の分からない顔で紅優がピピと八俣を見詰めている。
「羽々の旦那は感情が昂ると瘴気がいっぱい出ちゃうんだぁ。きっと紅優様や蒼愛様に会えて嬉しいんだ、な?」
ピピに問われて、八俣がまた頷いた。
テーブルの上に目を向けたピピが、そのまま降り立つ。
「あぁ! これ、NYANCHOCOTTの新作のガトーショコラだ! 魂まで真っ黒に染める瘴気にも似た甘美な味わい……相変わらず尖ったセンスしてんなぁ。売り文句やべぇ!」
笑うピピに蒼愛は歩み寄った。
「蒼愛!」
止めようとした紅優も戸惑っている。
テーブルの上には大きなガトーショコラがホールで置いてあった。
ピピが読んでいた紙を覗き込む。
商品の説明が書いてあった。
「魂まで真っ黒に染める瘴気にも似た甘美な味わい。柔らかで真っ白な雲があるからそこ夢心地になれる、チョコと生クリームのハーモニー。隠れた和の王がハーモニーを調和する。最上の甘味をご堪能ください」
紙を手にして読み上げる。
どうやら新作のガトーショコラの売り文句だったらしい。
蒼愛でも読める漢字ばかりで良かったと思った。こんなところで井光との勉強の成果が発揮された。
「もしかして、僕らのために準備してくれたんですか?」
八俣が小さく頷いた。
「俺は、もてなすのが苦手だから菓子でもあれば違うかと、思ったんだが」
八俣が蒼愛に向き合って、その手を握った。
「蛇々を殺してくれて、ありがとう」
蒼愛が答えるより早く、次の瞬間には八俣は真白の前に立っていた。
驚きで緊張を高めた真白に向かい、深く頭を下げた。
「白狼の里の一件では、迷惑をかけた。一族を代表して謝罪する。だが、我等は断じて長を殺してはいない」
八俣がまた素早く移動して、紅優の前に立った。
その手を強く握った。
「火ノ神佐久夜様の側仕であった時分から、存じ上げていた。瑞穂ノ神よ。我が領地に視察に来てくれたこと、長である俺と話しに来てくれたこと、礼を言う」
深々と頭を下げる八俣の肩に、ピピが乗った。
「羽々の旦那は話すのが苦手で五蛇以外とはほとんど接しないから、怖いイメージが強いけどさ、悪い蛇じゃないよ」
片羽を上げるピピを、紅優が呆気に取られて眺める。
「色々聞きたい話はあるが、とりあえずピピは、八俣殿と仲が良いのか?」
「おぅよ! 俺は羽々の旦那のスイーツ仲間だ。五蛇に内緒で時々屋敷に来て一緒に菓子食ってんだ。こんな厳つい顔して、羽々の旦那はスイーツ男子だからさ。NYANCHOCOTTの会員カードも持ってんだぜ」
ピピが八俣の肩でケラケラ笑っている。
「ポイントがたまって、会員限定のNYANスイーツが届く予定だから、また内緒のお茶会をしよう」
「マジで? 巷じゃ幻の菓子って呼ばれてるヤツ、また送られてくんの? 滅多にもらえねぇのに旦那、何個目だよ。今日のガトーショコラも限定品だろ。蒼愛様たちのために頑張ったじゃん」
「昨日、呵々たちに内緒で街に行って、並んだ」
ピピに労われて、八俣が嬉しそうに頷いた。
いつの間にか、瘴気が収まっていた。
「じゃぁ、僕が取り分けるよ。お皿、これでいいですか?」
蒼愛の言葉に激しく反応した八俣が、ガトーショコラの元に戻ってきた。
「俺がやろう。皆様は、どうぞ、掛けて」
その目は鋭くて、職人のようだと思った。
「切り方でも味が変わるんだってさ。俺にはわかんねぇけど。蒼愛様、とりあえず座ったら?」
ピピに促されて、紅優と蒼愛はソファに腰を下ろした。
和風な家屋の中に、洋風な家具が点在する。
ソファやテーブルはアンティークな雰囲気だ。
「どうぞ」
慣れた手つきと素早さで、八俣が皿を差し出した。
生クリームが添えられたガトーショコラはとても美味しそうだ。
八俣が、後ろに控える井光と真白に目を向けた。
「後ろに椅子とテーブルがある。使って、食してくれ」
後ろのテーブルにもガトーショコラの皿と紅茶を八俣が自ら準備している。
紅優が井光に目配せして、二人はテーブルに腰掛けた。
席に戻った八俣が蒼愛をじっと見詰めている。
どうしたらいいかわからず、見詰め合ってしまった。
「旦那、先に食ってやりなよ。毒とかないよって教えてやんないと」
ピピの言葉に八俣があからさまに驚いた顔をした。
「スイーツに毒など無粋だ。NYANCHOCOTTは、そんな店じゃない」
「いや、アンタが入れてるかもって、普通は思うだろ」
ピピが呆れた目をしている。
「じゃぁ、俺が食ってやるよ」
口を開けたピピに、八俣がガトーショコラを差し出す。
ちゃんとピピの口の大きさに合わせて、爪楊枝のような匙にケーキと生クリームを載せている辺り、流石だ。
頬張ったピピが嬉しそうな顔を上げた。
「うまーい! 隠し味、わかんねぇ! けど美味い! 今まで喰ったガトーショコラの中で一番、美味い!」
ぴっぴと喜ぶピピの姿を八俣が嬉しそうに眺める。
「俺たちも、いただこうか」
紅優に促されて、蒼愛もケーキを一口頬張った。
「んー! 美味しい、とっても美味しい! しっとりふわっとで蕩ける」
チョコがたっぷり沁み込んだケーキは内側が重いくらいしっとりしているのに外側がフワフワで、一緒に食べた生クリームが雲のように軽くて舌の上で蕩ける。
チョコの風味を引き立たせながら混ざり合って、何とも言えない美味しさだ。
(NYANCHOCOTTって志那津とスゼリが好きなチョコレート屋さんだよね。わかるかも)
「隠し味って、餡子かな。内側に薄く入ってるの、そうだよね。甘さ控えめなこしあんな気がする」
蒼愛の問いかけに紅優が首を捻っている。
八俣がまたも、じっと蒼愛を見詰めていた。
「貴方とは仲良くなれそうだ」
そう言って握手を求められた。
蒼愛は素直に八俣と握手した。
「こんなに美味しいケーキ、並んでまで準備してくれて、ありがとうございます」
蒼愛はぺこりと頭を下げた。
「NYANCHOCOTTのファンを、増やせたかな」
照れ臭そうにそう話す八俣は可愛いと思った。
「これほどのもてなしをしてくれるからには、我々を歓迎してくれていると受け取って、いいだろうか」
紅優が戸惑っている。
気持ちはわからなくもない。
八俣は見た目が厳つい大男だ。目付も、お世辞にも良いとは言えない。
(けど、僕らが時の回廊で会った相手とは明らかに違う。やっぱりあれは、名無だったんだ)
八俣に実際に会って、確信できた。
「我々大蛇は人を喰うし、時には妖怪も喰う。この国では厄介な爪弾き者だ。だから、諦めていた。神々は、我等を守らない。潰しに来るのだろうと」
フォークを置いて、八俣が目を上げた。
「野々が、瑞穂ノ神なら期待できるといった。側近五蛇の中で一番慎重な男だ。だから昨日、ガトーショコラを買いに行った」
八俣の言葉に紅優が顔をしかめている。
蒼愛には何となく伝わったが、紅優は受け止め方を戸惑っている様子だ。
「そんなに楽しみだったんだぁ。外のヤツのために限定品に並ぶって、羽々の旦那は滅多にしないよな」
ピピがケーキを文字通り摘まみながら、何気なく言った。
その何気ない言葉が八俣の言葉の解説になって有難い。
「えっと、ありがとう。NYANCHOCOTTの限定品なんて、滅多に食べられないから、嬉しいよ」
紅優の戸惑った礼に八俣がとても嬉しそうに笑んだ。
その笑顔に紅優が気後れしているのが、蒼愛にもわかった。
「ピピはなんで、八俣さんを羽々って呼ぶの?」
蒼愛が首を傾げると、ピピが同じように首を傾げた。
「羽々は俺の本名だ。八俣はいつの間にか呼ばれ始めた呼称だが、呪詛対策には丁度いいと、放置している」
「呼ばない方が良かった?」
ピピが蒼い顔で八俣を見上げた。
首を振りながら、八俣がピピにケーキを差し出す。ピピは迷いなく小さなケーキを食べた。
「神に本名が知れても困らない。困る相手は、別にいる」
「やはり八俣殿も、闇人を警戒しているのか?」
ここぞとばかりに紅優が身を乗り出した。
本題に入れるタイミングをやっと見つけた感じだ。
「人間が餌でしかない瑞穂国で呪術師は半鬼か、闇人くらいだな。怨霊の成れの果て、いや、塊か。お隣様とは仲良く、というのが大蛇の、俺のモットーだ。同じ人喰の妖怪とも仲良くしている。だが、闇人とは仲良くする意味がなくなった」
八俣が手の中のフォークをくるくる回しながら皿に置いた。
八俣の言葉はどこか独り言のように聞こえる。
「それは、どうして?」
恐る恐る、蒼愛は聞いた。
「蒼愛様が蛇々を殺したから。蛇々は俺の名を使い、俺の振りをした闇人は多くの悪事を働いて来たらしい。神々が見限り北方に追いやられても仕方のない所業だ。領土以外に興味がないと、こういう惨事が時々ある」
のんびり紅茶を飲みながら話す八俣は淡々として怒っている風でもない。
「蒼愛が蛇々を殺したから、隠れていた事実が明るみに出たのか?」
紅優の問いに、八俣が指を上げた。
「強制力が緩んだ。恐らく蛇々が使っていた呪詛なんだろう。我等は厄介者と嫌われる種族だが、大事にしてきたお隣様のお陰で、情報が入ってくるようになった」
紅優が腕を組んで考え始めた。
「蛇々は大蛇の領土周辺に広く呪詛を巡らせていたのか。蛇々の行動を他言しない強制力、闇人の動きを気付かせないような隠れ蓑のような呪詛が働いていたわけか」
つまり蛇々は闇人と結託し、大蛇の一族を裏切って単独行動していた、ということになる。
「蛇々や闇人の所業に大蛇は無関係だったと信じていいんだな」
八俣が紅優にちらりと目を向けると、すぐに逸らした。
「どう考えるかは、貴方の自由だ。我等が呪詛を好む蛇々を嫌悪していたのは事実。遠ざけた結果、我が一族の存続すら危ぶまれる事態を招いた。見過ごしてきた報いは受けねばいけない。一族は守らねばならない」
見過ごしてきた報い、という表現を野々もしていた。
蛇々を放置したツケという意味だろうか。それとも蛇々を理解してやれなかった後悔だろうか。
「八俣さんは蛇々の事、後悔していますか?」
「いいや、していないよ」
蒼愛の問いに、八俣があっさりと答えた。
「どう生きるかは蛇々の自由だ。放置したのは俺の判断だ。結果に対してはこれから対処する。それだけだ」
とてもあっさりした考え方だと思った。
「人間や神を見てきた俺の、個人的な心象だが。妖怪は人間ほど後悔をしない。失敗を後ろ向きに捉えもしない。その辺りは蒼愛様には理解し難いかもしれないな。紅茶のおかわりは?」
八俣が蒼愛に手を伸ばした。
蒼愛は空のカップを手渡した。
「ありがとうございます」
八俣が丁寧に紅茶を入れてくれる。
何となく井光に似て見えた。
(普段から自分でやってるんだ。興味なさそうだけど、よく見てくれてる。お話は、得意じゃなさそうだけど。悪い妖怪には感じない)
ソーサーに角砂糖を添えて、八俣が蒼愛に手渡した。
最初に角砂糖を三個入れていたからか、同じように三個乗せてくれた。
角砂糖を眺めながら、蒼愛は口を開いた。
「蛇々と闇人のせいで、大蛇は悪者になっちゃったんですね。大蛇が全然悪くないかどうか、僕にはわからないけど、少なくとも野々さんや楜々さんや八俣さんは、ただ一族を懸命に守ってきた、そんな風に感じました」
蒼愛の言葉に、八俣が首を捻った。
「悪くないかどうかは、知れないな。一族を守るためにした殺しを自ら否定もしないが、少なくとも相手にとっては正しくはないだろう」
蒼愛は顔を上げ、八俣に向き合った。
「僕らに協力してくれませんか。僕らは闇人と対峙しないといけない。ヒルとエナを救うためにはきっと避けて通れない。その為には、八俣さんの力は必要だと思うんです」
心配そうに蒼愛を見詰めていた紅優も、八俣に向き合った。
「今回の視察で、大蛇の生態や生活の一部が知れた。大蛇は天上に疎まれる存在ではないと、俺は感じた。神々にも、そう報告するつもりでいるよ」
蒼愛に向いていた目を紅優に向けて、八俣が目を閉じた。
「救う、か……」
じっくりと考え込んだ八俣を見詰める。
開いた目が、真白に向いた。




