第108話 闇人名無
地上に降りると、蒼愛が思っていたよりずっと大変な事態になっていた。
正気を失って暴れていた人間たちは、蒼愛の浄化で邪魅が溶けて元に戻った。
黒曜の地上部隊が人間の回収を始めてくれていた。
問題は側仕の面々だった。
気を失ったのは陽菜だけでなく、縷々と夜刀も同じだった。
地上に待機していた霧疾と利荔が受け止めてくれたらしい。
陽菜を含め、エナに接触した三人が意識を失っている。
「気を失っているだけなら、そのうち起きると思うんだけどね。どうも、それだけじゃなさそうだ」
利荔が夜刀の首筋に触れる。
「野椎の伽耶乃様に近い呪術のような気配がするんだよ」
利荔の言葉に紅優が顔を引き攣らせた。
蒼愛は三人それぞれの体に触れて、匂いを嗅いだ。
「あの男の匂いだ。時の回廊で会った、さっき、僕らの前に現れた、あの男と同じ闇の匂いがする」
呟いた蒼愛の隣に、紅優が屈んだ。
「時の回廊で会った奴が現れたってことは、大蛇の長の八俣か?」
霧疾に問われて、蒼愛は首を横に振った。
「もしかしたら、俺たちが時の回廊で会ったのは、八俣ではなかったのかもしれません」
紅優の言葉に怪訝な顔をした霧疾が利荔と顔を見合わせた。
「俺も蒼愛も八俣の容姿を知らない。なのに時の回廊で会った時、あの男を八俣だと直感的に認識した」
「……僕も、八俣だって思った。会いたいって思ってたのも、あるけど。そんな風に思わされたんだって、気が付いた」
「……蒼愛?」
紅優が蒼愛の顔を覗き込んだ。
上空から気配がして、世流が八咫烏の姿で降りてきた。
「地上が落ち着いたのなら、全員、天上の水ノ宮に戻れと、淤加美様から御命令だ」
世流が人型になって、気を失った陽菜に駆け寄った。
「陽菜……、なんでっ」
小さく呟くと、人の姿で硬く目を瞑る陽菜を抱きしめた。
(世流さんと陽菜さんは番だって聞いた。番のこんな姿、絶対に視たくないはずだ)
蒼愛は拳を強く握りしめた。
「暴動を起こしていた人間は全員、捕獲できたかな」
利荔が黒曜に問う。
「ああ、恐らく全員、確保できた。後の始末は地上で付ける。助かったよ」
黒曜の言葉に頷いて、利荔は側仕の面々に向き合った。
「じゃぁ、俺たちは引き上げだ。水ノ宮に戻ろう」
撤退の準備を始めようとした所を、黒曜が止めた。
仲間らしき妖怪が、黒曜に耳打ちしている。
「大蛇の野々が話があるそうなんだが、どうする? 聞くか?」
念のため、と言った具合で黒曜が確認する。
「それなら、俺が聞いとくよ。皆は先に戻って……」
「いや、それが。蒼愛と紅優に話してぇらしいんだが」
霧疾の言葉を遮って、黒曜が気まずそうに続けた。
「やめとくか? 俺が聞いておいて、後で伝えるか?」
蒼愛と目を合わせた紅優が、黒曜に向き合った。
「この場で俺が聞くよ。ただし、霧疾さんと利荔さんに同席してもらう。世流さんは気を失っている三人を連れて先に戻ってください」
世流が頷いて、三人を簡易な結界で包み込む。
八咫烏の姿に戻ると、三人を背に乗せて飛び立った。
世流が天上に向かったのを確認してから、黒曜が野々を連れてきた。
紅優と蒼愛を眺めた野々が口を開いた。
「やはり、さっきの人間は色彩の宝石か。道理でこの騒動を簡単に収めてしまう訳だ」
野々の言葉に、蒼愛はドキリと肩を揺らした。
「名乗らなくて、ごめんなさい」
「構わない。名乗らないのが賢明だと、さっきも話した。我等のような濃い瘴気を扱う妖怪に気を許すのはお勧めしない」
野々の目が紅優に向いた。
「空の上でのやり取りは、一通り見ていた。側仕が数名、呪詛を受けただろう。あれは死の神エナの神力に触れたためだ。そこの色彩の宝石か、瑞穂ノ神の神力であれば浄化できるだろう。最後に出てきた男は闇人、名前がないので、我等は名無と呼んでいる」
野々が一気に話した内容に、全員が呆気にとられた。
「死の神? 闇人? 名無? どうして、そんな連中が、蒼愛を……。いや、何故、野々がそんな話を知っている? 何故、俺たちに伝えようと思った?」
紅優の問いかけに、野々が真っ直ぐに向き合った。
「貴方が視察に来るといったからだ、瑞穂ノ神。これまで、どの神にも見捨てられた我が一族の元に赴く覚悟を示してくれた唯一の神だ」
紅優が息を飲んだ。
「だが、これ以上は長の許可なく話せない。知りたい事実は視察の際に、長から聞け。我等大蛇の一族は、一族とはいっても群れる習性が薄く、仲間意識も希薄だ。個体により思想も異なる。そんな我等が群れを成し一つの領土で暮らす意味も、視察で知れるだろう。来訪を待っている」
踵を返した野々の手を、蒼愛は掴んだ。
「色々教えてくれて、ありがとう、野々さん。今してる怪我だけでも、治させて」
癒しの水を展開し、野々の全身をくるむと沁み込ませた。
手足の動きを確認して、蒼愛を見詰めた。
「寧々と俺の傷を癒してくれた礼のつもりだったが、また借りが増えたな」
野々が蒼愛の頭を撫でた。
その手は、脆い物を包むような手つきで、優しいというより怯えて感じた。
「情報提供、助かったよ。野々がくれた誠意には応えたい。この暴動の後始末が終わったら、必ず大蛇の領土に赴く。待っていて欲しいと、長に伝えてくれ」
紅優が野々に笑いかけた。
自然と零れてしまった笑みに見えた。
「確かに伝えよう。大蛇の一族は、瑞穂ノ神を待っている。個体差は、あるがな」
そう言い置いて、野々は帰って行った。
「闇人、名無、か……」
表情を落として、紅優が呟いた。
その顔には、暗い影が落ちて見えた。




