第107話 エナ
人間が粗方、倒れて邪魅がほとんど消えた足下を安堵して眺める。
その中に違和感があった。
倒れた人間たちの中で、一人だけ立っている者がいる。
(あれは、なんだろう。邪魅も付いていない。人ではなさそうだけど、妖怪っぽくない。まさかあれが、怨霊?)
浄化を始める前までは、あんなモノはいなかった。
怨霊らしき何かが、空を見上げた。
はるか上空の蒼愛と目が合った。
「え……?」
怨霊のような何かが、蒼愛に向かって飛んできた。
「蒼愛様、屈んで!」
陽菜が叫んで、低く旋回する。
屈もうとするより早く、蒼愛の目の前に怨霊のような何かが、既にいた。
(誰……? 知らないのに、なんでか、懐かしい)
怨霊らしきモノは少年の顔をしている。その顔を蒼愛は知らない。けれど、感じる気がやけに自分に近くて、他人とは思えない。
得も言われぬ親近感が、蒼愛の行動を鈍らせた。
怨霊が蒼愛に向かって手を伸ばした。
『やっと会えた、私の魂の欠片』
伸びた手が蒼愛の胸に触れそうになった。
「魂の、欠片……?」
突然、目の前に結界の壁が現れた。
紅優の結界だとわかった。
「陽菜さん、怨霊から離れて、高く飛んで!」
紅優の命令通り、陽菜が蒼愛を乗せて天上に向かって飛んだ。
その後ろを真白が追いかけて来る。
怨霊の前を蛟姿の縷々に乗った夜刀が塞いだ。
「蒼愛様に手出し、させない」
夜刀が振るった短剣を避けて、怨霊が姿を消した。
次の瞬間、怨霊は蒼愛の目の前にいた。
紅優の結界をすり抜けて、怨霊は蒼愛に手を伸ばすと、胸に触れた。
ドクン、と心臓が大きく震える。
体が否応なしに反応する。
(魂が、僕の魂の一部が、混ざりたがってる。この子の魂に、戻りたがってる)
陽菜の上に膝を付いて、蒼愛は少年を呆然と眺めた。
「ごめんね、エナ。早く返すから。僕の中の、エナの魂の一部を、返すから」
いつの間にか、知らない名前と知らない事実を口走っていた。
エナが首を何度も横に振った。
『私は、私の魂の欠片が戻るのを望まない。蒼愛が今の蒼愛のままでいるのを望む』
エナの手が蒼愛の頬を包む。
唇が重なって、エナの力が流れ込んできた。
(これは、……神力? そうか、エナは、神様だ。この国の神々が誰も見付けられなかった、災厄の神)
怨霊ではない。けれど邪魅に塗れた汚れた神力だ。
綺麗な魂を誰かが、わざと汚したのだ。
蒼愛の中にじんわりと怒りが湧いた。
『今の私の魂は穢れている。だから、私の神力を覚えて、私の所まで来て。私の魂の欠片を持つ蒼愛でなければ、私を殺せない』
蒼愛を見詰めるエナの顔は、泣きそうに歪んでいる。
「エナに会いに行ったら、エナを救える? この国を壊したり、しない?」
エナが何度も頷いた。
『私はこの国が壊れるのを、望まない。だが、望む神がいる。だから、蒼愛。早く私を殺しに来て』
エナの顔があまりに逼迫していて、すぐに返事が出来なかった。
『私が死ねば、この国は壊れない。ヒルが諦めれば、総てが終わる。だから、私を殺して。約束だよ』
エナがもう一度蒼愛に口付けて、神力を流し込んだ。
蒼愛はエナの手を握った。
「死なせない、殺さない。僕はエナとヒルを助けに行く。約束するよ、エナ」
自分からエナに口付けると、神力を流し込んだ。
エナの目から涙が一筋、流れた。
『なんて美しくて優しい神力だろう。懐かしい魂の匂いだ。待っているよ、蒼愛。真実を捻じ曲げる者たちの言葉に、騙されないで。蒼愛は蒼愛のままで、自分を信じて』
エナの姿が消えていく。
蒼愛の神力に浄化されたように、濁った神力が溶けて消えた。
「蒼愛!」
エナが消えた瞬間、紅優の声が聞こえた。
体が落ちる感覚がして、足下に目を向ける。陽菜が気を失っているようだった。
「陽菜さん!」
落下しながら陽菜の体を抱きしめた。
真白が空を駆け降りて蒼愛を追いかけ、紅優がその体を掴まえた。
「蒼愛、今のは……」
紅優が言葉を止めて目の前に手を翳す。
炎の玉を飛ばすと、空間に黒い姿が浮かび上がった。
「お前は、八俣……?」
目の前にいる男は、蒼愛と紅優が時の回廊で出会った男だ。
しかし、大蛇の妖気を感じない。代わりに濃い死の瘴気と強い闇を感じた。
『待っているよ、蒼愛。お前が欲しい。お前に愛されたい。美しい魂を、私におくれ』
ニタリと笑むと、男の姿が空気に溶けた。
返事を待たずに、姿を消した。
何もなくなった空を、蒼愛と紅優と真白は、只々呆然と見詰めていた。




