第101話 新しい生活
紅優の屋敷の庭は広い。
日本庭園風の造りだが、一部に広い芝生の場所がある。
土が盛り上がり坂のようになっているので、滑り降りると楽しい。
「きゃー! はやーい! 面白い! 楽しい! あはは」
蒼愛の楽しそうな声が屋敷を飛び越え、瑞穂ノ宮まで響き渡った。
「真、もう一回! もう一回しよ!」
白狼姿の真の体に付いた草だの葉っぱを払いながら、蒼愛は前足を握った。
「いいけど、蒼愛様、汚れまくってるぞ。紅優様や井光さんに叱られないのか?」
「大丈夫だよ、怪我とかしてないから。ね、しよ!」
心配そうな真を説得する。
真が蒼愛の尻を鼻でくいと持ち上げて、背中に乗せた。
「じゃぁ、もう一回だけだぞ。そろそろ昼餉で井光さんが呼びに来ると思うから」
「わかった!」
真が高台になっている場所に向かって走り出す。
それだけで、蒼愛の胸のワクワクが止まらない。
「人を乗せて走れるなんて、真は凄いね!」
「俺はデカいからな。けど、井光さんや紅優様も乗せられるだろ」
確かに紅優は妖狐に変化できるし、井光は大猫というか大虎だ。
「紅優も井光さんも大きすぎるというか。この屋敷くらい大きいから、こういう遊びはできないし」
「俺もそれくらいにはなれるぞ。今はこのサイズだけど」
「え! そうなの? 真て、凄いワンちゃんだね」
「俺は狼だよ、蒼愛様……」
一番高いところまで昇ると、蒼愛は真から下りた。
真に向かって腕を伸ばす。
「はい、ぎゅってね」
「蒼愛様こそ、離すなよ。ばらけたら怪我するかもしれねぇから」
「わかった!」
狼姿のまま、真が蒼愛を腹に抱きかかえる。
蒼愛をくるむように抱えると、パタンと横になって真が坂をゴロゴロと転がった。
「きゃー! 転がるー! 速ーい! ゴロンゴロンする!」
真に掴まって、芝生の上を急速回転しながら降りていく。
ワクワクが最高潮に達した。
「あー! ゴロゴロ転がるの、楽しい!」
坂を転がった勢いのまま平地の芝生の上を転がっていく。
唐突に、不自然に、真がぴたりと止まった。
蒼愛と真が、同時に上を見上げる。
井光が二人を迫力のある笑顔で見下ろしていた。
どうやら、井光の足にぶつかって止まったらしい。
「昼餉の準備が整いました。お食事の時間です。ですが……」
井光が蒼愛と真を交互に確認して、二人の首根っこを掴んだ。
「草と葉っぱと泥まみれでは食事はできません。風呂に致しましょう」
有無を言わさず井光が歩き出す。
「俺は外で水でも浴びていればいいから、風呂はいいよ」
何気なく言った真に井光が鋭い目を向けた。
「人型に変化して蒼愛様のお背中でも流して差し上げなさい」
井光の目が蒼愛に向く。
ドキリとして思わず目をそらしてしまった。
「蒼愛様、何故私と目を合わせないのですか? 真との遊びを責める気はありませんよ」
「えっと、何となく、怒られちゃうのかなって、思いました」
予定があった訳でもないし、危険な真似をしていたわけではないので、叱られる理由はないのだが。
何となく井光が怒っているような気がして、委縮してしまった。
「問題ありません。少し前から蒼愛様の楽しそうな声が聞こえていたので、風呂の準備を整えておきました。昼餉もそれに合わせて遅らせてあります」
じゃぁどうして井光さんは何となく怒っているんですか、とは聞きたくても聞けない。
ちょっとだけ、怖い。
「今日は昼餉の後、黒曜が来て名前の儀を行う予定でしたね」
井光に指摘されて思い出した。
蒼愛の背筋がぴんと伸びた。
「そうでした! 忘れてました! 真、早くお風呂入っちゃおう。それで、早くご飯食べよう!」
井光の手を離れて、蒼愛は風呂に走った。
その後を真が付いていく。
「落ち着きがないですね。焦らなくていいですから、転ばないように気を付けてください」
「はーい!」
井光に返事して、蒼愛は真と風呂に向かった。
幽世の試練と寄合が終わってから十日程が過ぎ、蒼愛と紅優は穏やかな日々を過ごしていた。
側仕に来てくれた井光と真が生活に加わって、賑やかになった。
今まで紅優が一人で熟していた家事は井光と真がしてくれている。
その分、紅優はやることがなくなったかといえば、そうでもなく。
瑞穂ノ神として他の神々とそれぞれに話し合いを行い、国全体の状況の把握などに努めている。
むしろ仕事がないのは蒼愛で、時には紅優と共に公務も行うが、基本は一人でいる時間が多くなった。
故に、さっきのような遊びを真と楽しんだりしている訳だ。
本当は風ノ宮に預けてあるパズルを完成させに行きたいが、志那津の方が忙しくて滞っていた。
大蛇の領土に視察に行く話は難航している。
神々の反対より、地上の状況の変化で、迂闊に動けなくなった。
今は黒曜との擦り合わせに、紅優は苦労している。
「井光さんと真の名前の儀以外にも、視察の話もきっとするよね? 僕も一緒に聞いて、いいかな」
今日のお昼は井光特製和風おろしハンバーグだ。
大根おろしのソースで口の中がさっぱりして美味しい。
「名前の儀は共に行っていただきますが、地上の現状については、紅優様と黒曜の話し合いになるかと存じますが」
予想通りの返答に、蒼愛の心が塞いだ。
(僕は色彩の宝石で神力もあるけど、神様じゃない。だから、仕方がないけど)
紅優は、蒼愛にあまり仕事をさせたくないように感じる。
特に地上の現状を知らせないようにしていると感じるのだ。
(子供の僕じゃ、紅優の役には立てないのかな。学校にも行っていないような僕じゃ、ダメなのかな)
国政ともなれば、学のない蒼愛では足手まといにしかならないんだろう。
蒼愛は決意して顔を上げた。
「井光さん、僕に早く勉強を教えてください。紅優の役に立てるような大人になりたいです」
井光がニコリと笑んだ。
「勿論でございます。いつからでも始められますよ」
「じゃぁ、今日から!」
「承知いたしました」
鼻息荒くハンバーグを食べる蒼愛を、井光が眺める。
「紅優様が公務に蒼愛様をお連れしないのは、学がないからではありませんよ」
井光の言葉に、ハンバーグを食べる手が止まった。
「じゃぁ、どうして紅優は僕を仕事から遠ざけるの? 邪魔だからじゃないの? 知識があったら、もっと紅優の役に立てたら、一緒に連れて行ってもらえるんじゃないの?」
しゅんと顔が俯く。
井光が蒼愛の顎をするりと撫でた。
驚いて顔が上向く。
「知識の多い者が聡明なのではございません。多くの知識を材料に思考を組み立てられる者が聡明なのです。蒼愛様は思考を組み立てられるお方です。今でも充分、聡明でいらっしゃいます」
井光の言葉は難しくて、蒼愛には理解できない。
慰めてくれているのは、何となくわかった。
「蒼愛様を敢えて遠ざけているのは、紅優様なりに蒼愛様を気遣っての配慮なのでしょうが、……そうですね」
井光が考える素振をしている。
「また同じ過ちをさせるわけにもまいりません。今日は同席できるよう、私から紅優様にお伺いを立ててみましょうか」
「良いんですか?」
思わず前のめりになった。
井光が笑顔で頷いてくれた。
「ただし、蒼愛様。どのような内容であっても受け入れる覚悟をお持ちくださいませ。蒼愛様にとり、気分の良くないお話も多くあるかと存じます」
井光の目が仄暗く光る。
何となく、嫌な予感がした。
「わかりました……」
だからこそ余計に、聞かなければならないと思った。




