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 大井さんの告白に、僕の身体が死人みたいに冷えていくのが分かった。

「殺したって……大井さんが、蓮宮さんを?」

「うん」

 大井さんは僕の目を真っ直ぐに見ながら頷いた。

「いや、でも、そんなはずはない。蓮宮さんはあの放火事件で亡くなったはずだ」

「確かに、形としては火事に巻き込まれて蓮宮さんは亡くなった。でも、そこには私が蓮宮さんに対して取った行動も加わってる。きっと、火事だけなら蓮宮さんは死ぬことはなかったかもしれない」

「……具体的に、何をしたの?」

 僕が訊くと、大井さんは唇をかみしめて俯いた。ただ、すぐに顔を上げると、僕から目を逸らさずに言った。

「中学生の頃、蓮宮さんのことを完全に許せたわけじゃないって言ったこと、覚えてる?」

「……うん」

「私ね、風紀委員だったでしょ? だから、放課後に教室を戸締っていかなきゃいけなかった。その時に、悪戯心というか、仕返しとして、蓮宮さんを放送室に閉じ込めたの。そしたら、そのタイミングで学校が放火されて、蓮宮さんは放送室から出られないまま、死んじゃった」

 大井さんは、何かを諦めるようにそう言った。

「ね、言ったでしょ。私なんか、生きていて良い人間じゃない」

「ちょっと待ってよ。でも、大井さんは故意に蓮宮さんを殺そうとしたわけじゃないでしょ?」

「…………」

「学校が火事になっていることに気付かずに、大井さんは蓮宮さんを放送室に閉じ込めた。そうでしょ?」

 僕の言葉に、蓮宮さんは顔を逸らした。それから、悲痛な声で言った。

「でも、そんなの、言い訳にしか過ぎない。私だって、心の何処かでは、私の責任じゃないって思ってた。思いたかった。思い込んでた。でも、それでも、私の考えとは裏腹に、私の心はずっと、私のことを責めてくる」

 大井さんは、自分の胸元に握りこぶしをつくった。それから、続けて言った。

「私を殺した蓮宮先輩も、私たちと同じでこの世界に来たことがあるの」

「……え」

「先輩はこの世界で、死後悪行を選択した。そして、自分の妹を殺した人間を殺すことにした」

「…………」

「先輩は死後悪行を遂行しようと、私を教室の窓から突き落とした」

「……教室の窓?」

「私は、先輩を呼び出した。緑ヶ丘中学校に。先輩に、自分を殺してもらうために。ちょうどそのタイミングで、先輩は何があったのか、この世界に来るような死にかける状況になった。そこで先輩は死後悪行で私を殺すことに決めた。

 ただ、先輩は私を殺そうとはしたけど、自分の意志でそうしているようには見えなかった。つまり、この世界が私を蓮宮さんを殺した犯人だと判断して、強制的に先輩が私を殺すように仕向けたんだと思う。他でもない世界が、私が人殺しだと判断した」

 大井さんは深く溜息を吐くと、悲しみを湛えた笑みを浮かべた。僕は大井さんのそんな様子を見て、思わず言った。

「……正直に言うと、僕が大井さんと同じ立場にあったら、きっと自分のことを一生許せないんだと思う」

 僕が言うと、大井さんは苦しそうに顔を歪めた。

「でも、僕が大井さんのことを許す。僕は大井さんがどういう人なのか知ってる。大井さんが何をしようと、理屈を通すなら大井さんを咎めなければならないとしても、僕は、それでも、大井さんのことが好きなんだ」

 大井さんは驚いたように、僕の言葉を聞いていた。僕は、大井さんに近づいて行った。すると、大井さんは少し不安そうな表情を浮かべながら後退りした。

 僕は大井さんの手を握った。それから、自分の方へ大井さんを抱き寄せた。

「恋は人を盲目にするっていうけど、あれはどうやら本当らしいね」

「……なんで」

「別に、良い人でなくたっていいんだよ。僕も、世界のために良い奴を演じるつもりなんて、毛頭ないね。世界が大井さんを殺人犯だって判断したのなら、それは世界の方が間違っている。大井さんを殺した蓮宮先輩だって、大井さんを殺すことを望んでいたわけじゃないはずだ。世界が自分勝手に僕たちをこの世界の仕組みに従わせようとしているだけだ。そんなもの、くそくらえだ。僕は抵抗するよ。絶対に、大井さんを死なせたりなんてしない。大井さんも、もう絶対、自分の命を粗末に扱ったりしないで」

「うっ、うぇぇぇ」

 大井さんは大粒の涙を頬に流しながら、僕の胸元に顔を埋めた。僕は大井さんの頭を撫でながら、自分がすべきことを頭の中で整理した。

 大井さんが泣き止んでから、僕たちは小屋の中に入った。そして、パソコンから「生き返り」のタブを選択した。

「ねぇ、大井さん」

「なに?」

「僕が生き返ったとして、それって事故が発生してからどのタイミングで目覚めるの?」

「……私の経験から言って、多分自分が死んだ瞬間の直後に目覚めるんだと思う」

「……それなら、なんとか間に合いそうだ」

僕は大井さんの言葉を聞いて、安堵した。

無機質にブルーライトを放つパソコンの画面を見つめる僕の背後で、大井さんが言った。

「じゃあ、またね」

「さっき言ったでしょ。大井さんを死なせたりなんてしない」

「……でも、そんなの、どうやって」

「大井さんも気付いてるんだろうけど、山道で参列している人たちは、おそらく死んだ順番に並んでいる。大井さんが僕を助けてくれた時、大井さんは僕の後ろから現れた。つまり、大井さんは僕よりも後に死んだはずだ」

「……流石、柊木くんだね」

「大井さんはさっき、緑ヶ丘中学校に居るってヒントをくれた。ついでに教えてほしいのは、何階に居たのかってことだけど、良かったら教えてくれない? もし、大井さんが第二の人生を僕と歩んでくれるつもりがあるのなら」

「…………もう。やっぱり、柊木くんには敵わないな。ずっと、柊木くんが生き返らなかったのは、私を説得して生き返らせるためだったんでしょ? 生き返るつもりのない私から、何処で私が死んだのか情報を得て、助け出そうとしてくれてたんでしょ? まんまとやられちゃった。分かった。教えるよ。私は、302教室から落ちて死んだ」

「信じていいんだね?」

「うん」

「分かった」

「……ねぇ」

「なに?」

「気になってることがあるの」

 大井さんは、何やらもじもじしながら言った。

「なに?」

「もし、柊木くんが私のことを助けてくれたとするでしょ? そうしたら、私が死ぬことはなくなって、今ここでの出来事はなかったことになっちゃうんだよね?」

 大井さんはどこか悲しそうに言った。

「そうなるだろうね」

「でも、柊木くんは記憶を持ってることになるよね。今ここにいる私は、すっかり柊木くんに絆されちゃってるけど、元の世界にいる記憶をなくした私は、また柊木くんに色々してもらわないと、ヒステリックを起こしちゃうね」

「まぁ、なんとかやってみるよ」

「でも、惜しいことしちゃうんだなぁ。せっかくここで柊木くんと色んなこと話せたのに、そのことを忘れちゃうなんて。ねぇ、どうにかして、記憶を残せないかな?」

「何か衝撃に残るようなことでもすれば、あるいは」

 僕はそう言いながら、「生き返り」のタブを押した。すると、この世界の輪郭が徐々に朧気になって、色が剥がれ落ち始めた。ぼんやりとする視界の中で、表情があまり分からなくなった大井さんのシルエットが、悲しそうに揺れた。

「琴音」

 僕が呼ぶと、大井さんは驚いた様子だった。

「……初めて、名前で呼んでくれたね」

 大井さんの声音が、少し弾んだもののように聞こえた。

 僕は大井さんに近づいた。そして、僕は大井さんにキスをした。

「……ありがと」

 そう言った大井さんの姿は、ほとんど僕の目には映っていない。ただ、目の前に存在していることだけが、僕の五感に伝わってくる。

「忘れたく、ないな」

 大井さんがそう言って笑うのを感じた。

 僕は一生、この世界に来ることはないことを悟りながら、消えた。


 いくつもの声が混じり合うのが聞こえてくる。自分の意識が風に揺らされるように心許なげだ。ただ、なんとなく、久しぶりに自分の身体が形あるもののように感じられた。

 目を開けると、ごつごつとしたアスファルトが視界の中に入ってきた。目の前に、手が放り出された状態で横たわっている。その手は、血で塗れていた。

 僕は自分の身体を動かそうと手足に力を入れた。すると、自分の意志に連動して、目の前に転がる手が動いた。そこで初めて、それが自分の手であることが分かった。

 それから徐々に全身に意識を集中して、自分の身体の輪郭を確認した。

「生きてたか」

 僕はそう独り言を呟いてから、両手と両膝を地面について、四つ這いになった。それから、痛む身体に歯を食いしばりながら、立ち上がった。

 尚も耳に届くいくつもの声が響く脳を振ってから周りを見渡すと、何人もの人が僕を取り囲んでいるのに気付いた。

「おい、大丈夫なのか?」

「今、警察と救急車を呼んでるからな!」

「兄ちゃん、あんた立派だったよ」

 口々に話しかけて来る野次馬に割り込んできた女性が、小さな女の子の両肩を押さえながら、僕の方に近づいてきた。それから、申し訳なさそうに頭を下げた。

「うちの子がすみませんでした! うちの子を助けてくれて、本当にありがとうございます! あの、私、なんでもしますから! もちろん、慰謝料も治療費も、なんでも払います!」

 そうやって必死に僕に謝罪する女性とは対照的に、女の子はのほほんとした様子でボールを脇に抱えながら僕に言った。

「お兄ちゃん、ありがとう」

 そう言って、にこやかな笑顔を浮かべた。

「本当に、すみません!」

 女性は何度も僕に頭を下げた。

「あの、すみません」

「は、はい! なんでしょうか?」

「横断歩道を渡った先にあるあの自転車って、あなたのですか?」

「え? あ、はい。そうですけど……」

「さっき、なんでもするって言ってくれましたよね?」

 僕がそう言うと、女性は不安そうな顔をした。

「あの自転車、しばらく借りていいですか?」

「え、自転車? あ、はい。構いませんけど……」

 女性は僕の申し出に怪訝な顔を浮かべながら言った。

「じゃあ、時間がないんで、お言葉に構えて」

 僕は身体をよろめかせながら、自転車を目指した。すると、背後から「お身体は大丈夫なんですか?」と僕を呼び止める声がした。けれど、僕はそれを無視しながら鍵のささった自転車に跨った。それから自転車を漕ぎ始めた。すると、後ろから大きな叫び声が聞こえた。

「お兄ちゃん! 頑張ってね!」

 振り返ると、女の子はボールを両手で持ち上げて飛びあがりながら、こちらに向かって笑いかけていた。女の子に怪我がないようでなによりだった。

 生き返ってから、僕は自転車を漕ぐことを通して、この世界で身体を使うことの感覚を徐々に取り戻していた。それなりに焦っていた僕は、まだ痛む身体に鞭を打ちながら、さらに速度を上げていった。

 おそらくだけど、大井さんは僕が死んだ直後に死んだ。

 あっちの世界で大井さんは、ずっとここに留まり続けている、というようなことを言っていた。けど、あれは嘘だろう。何故なら、僕がこちらの世界に戻る直前、大井さんのことを抱きしめようと手を握った時、彼女の手が冷たかったからだ。

 大井さんは、あの世界に居続けても何も変わらないと最初に言った。けれど、僕のことは元の世界に早く戻そうとしていた。つまり、大井さんは知っていたんじゃないだろうかと思う。ずっと元の世界に戻らないでいたら、生き返る可能性のある人間も、やがて他の人たちと同じように完全な死人になってしまうと。

 最初に大井さんの手を握った時は、全くもって普通の人間と同じ体温をしていた。つまり、あの時点では死んで間もなかったということだろう。山道での順番によると、僕よりも後に大井さんが死んだという関係性は担保できるけど、その代わりに時系列的には僕が死んだ直後に大井さんが死んだと考えていいだろう。だから僕は、今焦っているのだ。

 もしかすると、最後に大井さんの手を握った時、大井さんも僕の手が冷たいのを感じ取ったのかもしれない。彼女は僕になにも言わなかったから、本当のところはどうか分からないけれど。

 大井さんが、役所の隣に細道がありその先を進んだらパソコンがあることを知っており、かつあのパソコンの画面に表示されていたそれぞれの項目について詳しかったのは事実だった。だから最初は大井さんが本当にこの場に留まり続けているのだと僕は考えていた。けれど、それが嘘だとした場合考えられるのは、大井さんが少なくとも二回以上死んであの世界に迷い込んだという事実を認めることくらいしかないだろう。

 大井さんの首にあったあの痣は、おそらく自殺未遂をした時のものだろう。昔、大井さんが転校していく前にマフラーを突然身に着けだしたのは、きっとその時に出来た痕を隠すためだったんじゃないかと思う。最初は、蓮宮先輩に首を絞められた時にできたものだと思った。大井さんはもしかすると、僕がもう自殺しないように懇願したにも関わらず、自殺に及んだことを仄めかす痕跡を残したことに後ろめたさを感じて、隠したかったんじゃないかと思う。だから、最初に大井さんとあの世界で出会って痣のことを指摘した時に、大井さんは慌てて隠したんじゃないだろうか。そして、おそらくその自殺未遂の時に、大井さんは最初の死後世界を体験したんじゃないだろうかと思う。

 僕は臨死体験中に見た大井さんの色々な表情を思い出しながら、緑ヶ丘中学校を目指した。同じ学区内の高校に通っていることに、僕は初めて感謝した。

 やがて緑ヶ丘中学校にたどり着くと、僕は自転車を校門の前に停めて校舎内に侵入した。それから、僕は校舎の三階を見上げた。すると、そこには確かに大井さんの姿があった。そこに、もう一人男の人がいる。彼がきっと、大井さんが言っていた「先輩」なのだろう。

 僕は急いで体育館の中に入った。時間帯的には放課後であるため、部活動に精を出すバスケ部やバレー部、バトミントン部の部員たちの姿があった。

 僕はその人たちに向かって叫んだ。

「校舎から人が落ちそうになっています!」

 僕の声は体育館の中で響き渡った。僕の声に反応した部員たちは、一斉にこちらを振り返った。先ほどまでボールの音や掛け声、ステップの音を封じ込めていた体育館は、開いている窓や入り口の外にそれらを一気に放出した。一気に体育館の中を静寂が支配し、耳鳴りがした。

「302の教室で人が飛び降りようとしているんです! みなさん、体育倉庫にあるマット等があれば、至急校舎の前にそれらを敷いてください!」

 僕の言葉に、全員がうんともすんとも言わずに耳を傾けていた。

「一刻を争います! どうか、みなさん協力してください!」

 僕はそう言い残して、体育館を後にした。高校の制服を着た見知らぬ学生の言葉を一体何人が信じてくれるのか分からなかったけど、そんなことに配慮していられる余裕はなかった。このままだと、大井さんとの約束を破ってしまうことになる。二人を、死なせてしまうことになる。

 僕は自転車を漕いでいる間ずっと殺していた身体の痛みを引きずりながら、階段を上った。痛みを味わうごとに、僕は自分が本当に生きているのだという実感を抱いた。

 やっとの思いで三階にたどり着き、302教室にたどり着いた頃には、教室の中の机や椅子が乱雑に倒れていた。その中に、手を床についてえづく大井さんの姿があった。

 さらに視線を向こうへと移すと、窓を開ける蓮宮先輩の姿があった。僕は気付かれないように蓮宮先輩の背後に忍び込んだ。そして、蓮宮先輩が振り返った瞬間、僕は彼の首を両手で絞めた。

 不意打ちを喰らって驚いた顔をする蓮宮先輩の顔を、今しがた開いたばかりの窓の縁に押し付けた。蓮宮先輩の顔が段々と赤くなっていった。

 蓮宮先輩の首を絞めつけながら窓の下を覗き込むと、そこにはマットが数枚敷かれてあった。その近くに何人か生徒がいて、さらに誰かが呼んでくれたのであろう先生たちがこちらの様子を窺いながら何かを叫んでいた。

「殺させない」

「……お前は、誰だ」

 蓮宮先輩の問いかけには答えず、僕は大井さんの方を振り返って叫んだ。

「逃げるんだ! 琴音!」

 大井さんは状況が呑み込めていないようで、口を開けたまま座り込んでいる。

「……柊木、くん? どうしてここに」

「事情は後で説明する! だから、今はとにかく逃げてくれ!」

 僕が叫ぶと、蓮宮先輩も重ねて大井さんに言った。

「こいつの言う通りだ。とにかく、今は俺から離れてくれ!」

「……でも」

「お前が茜を殺した犯人だなんて、俺はやっぱり納得できない。頼むから、俺が冷静に話ができるようになるまで、俺には近づかないでくれ!」

 蓮宮先輩の切実な頼みが通じたのか、大井さんは頷いて立ち上がり、足を引きずりながら教室の入り口へと向かった。

 それを見届けた僕は、蓮宮先輩の方を振り返った。

「お前、俺の暴走を封じ込めるか?」

 蓮宮先輩は懇願するように言った。

「悪いけど、僕にそんな力はない」

「そうかい。だったら、うまいこと俺だけを突き落としてくれよ」

「それも後味が悪くてできない」

「でも、それしか道はないだろ」

「そもそも、そんな器用なことはできない。だから……」

 僕は蓮宮先輩の首を解放し、少し距離を取った。首元を押さえて咳き込む蓮宮先輩の姿が視界にある。

 僕は蓮宮先輩目掛けて、走った。そして、そのまま蓮宮先輩に突進するように抱きつき、そのまま窓の外に飛び出した。

「柊木くん!」

 後ろで大井さんが僕の名前を呼ぶのが聞こえた。僕はその声に振り返ることができないまま、蓮宮先輩もろとも落下し始めた。

 下にはマットがあるとはいえ、僕は落下しながら、蓮宮先輩の身体の下に潜り込んだ。けれど、蓮宮先輩は僕の意図に気付いたようで、それに対抗するように、今度は僕の身体の下に自分の身体を潜り込ませた。そして、蓮宮先輩は僕の頭を庇うように抱きかかえた。

 大井さんの言う通り、この人は死後悪行によって操られていたらしい。自分と一緒に落下している人のことを、僕は地面に叩きつけられる直前にようやく信じることができた。

 次の瞬間には、僕は教室の窓からこちらを見下ろす大井さんの姿を見ながら、自分の意識が遥か上空へと吸い込まれていくのを感じた。

 多分、死んだ。僕は意識を手放す直前に、そう思った。


 一定の間隔で機械的な音が鳴り響くのが、耳に届く。

 それから遅れて、目の前に光が存在することに気付いた。

 瞼をゆっくりと開くと、主張の激しくない白が一面に広がっていた。

「……いってぇ」

 首を横に捻って、自分の現在位置を把握しようとしたら、信じられないほどの激痛が走った。仕方なく、目だけを横に向けると、心電図に脈打つような波が流れているのが見えた。さっきから聞こえてきていた音は、どうやらこれだったらしい。

 僕は今、どこかの病院の病室にいるらしい。

 さらに情報を得るために、僕は自分の身体の方へと視線を向けた。自分の手首や足から、複数の管が点滴へとのびている。

 僕は思わず溜息を吐いた。

「生きてたか」

 そう呟いたつもりだったけれど、まるで喉から声は出なかった。

 今度は心電図があった方とは反対の方向へ目を凝らすと、僕は今度こそ「あっ」と声を洩らした。

「……大井さん」

 僕は、もう二度と会うことのできないと思っていた人の名前を口にした。

 大井さんはベッドの脇にある椅子に座って、首を上下に揺らしながら眠っている。

 大井さんの姿を見て初めて気付いたけど、大井さんは僕の左手を握っていた。その手からは、しっかりと体温が感じられた。僕はなんだか安心した。

 僕は一体どれほどの間眠っていたのだろう。そう思ってしばらく眠る大井さんの顔を眺めていると、病室のドアが開いた。そこには、母さんの姿があった。

「奏!」

「母さん……」

「あなた、目を覚ましたのね! 良かった。本当に、良かった」

 母さんは涙を流しながら目元を拭った。

 僕たちの声で、大井さんは目を覚ました。少し寝ぼけた様子だったけど、僕と目が合った瞬間大きく目を見開いた。それから、僕の額や頬に慎重に触れながら、まるで僕を崩れやすい砂の城のように扱いながら、大井さんは深く息を吐いた。

「柊木、くん……」

「やあ」

「やあ、じゃないよ、馬鹿! もうわけわかんないよ!」

 大井さんは目に涙を溜めながら言った。僕は大井さんのそんな表情を見て、思わず笑ってしまった。やっと、僕が望んでいた日常が返ってきたような気がした。

 その後は、母さんがナースコールを押して医者と看護師さんを呼んだ。僕が意識を取り戻したことに、全員が驚いている様子だった。やっぱり、教室から落下することを見越して用意しておいたマットが功を奏したようだった。

 結局、僕は三週間ほどで退院することができた。その間に、例の女の子とその母親が僕の病室を訪ねてきた。ちょうど母さんが病室に居合わせた時の来訪だったため、女の子の母親は、僕と母さんに何度も頭を下げてきた。

 話を聞くと、母さんはその人から治療費を受け取らなかったらしい。女の子の母親は何度もお金を母さんに突き付けたけど、母さんは頑なにそれを受け取ろうとはしなかった。そんな大人同士のやり取りが繰り広げられる横で、僕は妙に懐いてくる女の子と人形遊びをした。結局、治療費は受け取らないことで収束した。もちろん、相手側が納得することはなかったけれど。

 そもそも僕が入院することになった直接的な原因は、校舎の三階から落下したことによるものだから、僕は母さんが治療費を受け取らなかったことに納得した。

 僕が退院するまでの間、大井さんは毎日僕の病室に通ってくれた。その際に大井さんから知らされたことがある。

 蓮宮先輩は、僕が入院しているこの病院の別室にいるらしかった。命は取り留めているそうだけど、まだ眠ったままなのだそうだ。

 さらに驚いたことに、同じ病院で蓮宮先輩の母親も入院しているとのことだった。僕は、今回のことで蓮宮先輩をこんな状態に導いてしまう結末しか用意できなかった。蓮宮先輩の病室を横切る度、僕は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。そして、蓮宮先輩の母親の病室の前を横切る時も、僕は胸が痛んだ。

 入院中、僕は警察から事情聴取を受けた。僕と先輩が取っ組み合いをした原因を調査するためだ。ただ、どう説明すれば良いのか困った。

 僕が一度体育館に顔を出したこともあり、暴走した蓮宮先輩を止めるための行動だったという周りの証言によって、蓮宮先輩の方が分が悪いという状況になってしまった。本当は蓮宮先輩の擁護もしたかったけど、まさか臨死体験での出来事から証言を引っ張り出すこともできず、結局は蓮宮先輩が目覚めてから詳しい状況説明を伺うとのことだった。つまり、一旦は蓮宮先輩が元凶だということで落ち着いてしまった。

 退院後、僕はまた学校に通い出した。それから毎日、僕は大井さんと待ち合わせて病院に通った。蓮宮先輩のお見舞いをするためだった。ただ、僕たちはずっと、蓮宮先輩の母親 の病室に行くことはできなかった。

 病室に訪れる度に見る蓮宮先輩の表情は、当たり前だけどあの日からずっと止まったままで、果たしてその表情が納得したものかどうなのかは、分からないままだった。

 教室から落下したあの日から一ヶ月が経った今でも、蓮宮先輩が目覚めることはなかった。それでも、僕たちは毎日病室に通い続けた。

 いつものように大井さんと待ち合わせて蓮宮先輩のお見舞いを終えたある日、いつもならすぐに解散するところを、大井さんは僕を病院近くの公園に寄り道しないかと誘ってきた。

 僕は大井さんの言葉に頷き、二人で公園に向かった。夕方の公園で、砂場やブランコ、滑り台で遊び回る子どもたちを眺めながら、僕たちはベンチに座った。

 しばらくはお互いに無言の時間が続いたけど、大井さんは意を決したように僕に言った。

「緑ヶ丘中学校に放火した犯人の死刑が、昨日執行された」

 大井さんの声は静かだったけど、その内容が衝撃的で僕は思わず大井さんを振り返った。

「そう、だったんだ」

「蓮宮先輩は、そのことをどう思うんだろう」

「……どう、だろうね」

「蓮宮さんを本当に殺したのは、私なのに」

「大井さん。それは、違うよ」

「ううん、違わないよ」

「大井さんが蓮宮さんを放送室に閉じ込めたのは、わざとじゃない。そうでしょ?」

 大井さんは僕の言葉に勢いよく振り返った。

「どうして、そのことを?」

「今は消えた未来で、僕は大井さんと出会ったんだ。大井さんはあの日、蓮宮先輩と一緒に教室から落下するはずだった。それとほとんど同じタイミングで、僕も死ぬはずだった。でも、僕も大井さんも、互いに生き返る権限を得た状態で向こう側の世界で再会するんだ。僕はそこで、大井さんから全部聞いた。なんで大井さんが、あの日屋上から飛び降りようとしたのか。どうして、蓮宮先輩に接触するようになったのか」

「……そう、だったんだ」

 大井さんは僕の話を呑み込もうと努めているのか、俯きながら目を閉じた。それから、ゆっくりと瞼を開いてこちらに視線を合わせてきた。

「死後悪行を選んだ先輩は、私のことを殺そうとした」

「それは、世界の方が過ちを犯してるんだよ」

「きっと、先輩は目を覚ましたら、もう一度私を殺そうとするんだと思う。あの世界での法則は、絶対だと思うから。一度決定したことは、二度と取り消すことはできない」

 大井さんはこちらを振り返ることなく言った。

「もし、あの時柊木くんが駆けつけてこなくて、私が死んでいたら。もしも、その時に『死後善行』を先輩のお母さんに働きかけることができていたら、私は『健康』を差し出していたんだけどな」

「それはできないだろうし、大井さんが負う責任じゃない。大井さんは、小屋にあったあのパソコンを使うことはできなかったみたいだよ」

「……やっぱり、玲子さんの言った通りだった」

「れいこさん?」

「あ、ううん。なんでもない。あの世界に二回目に訪れた時には、パソコンは電源がつかないようになるんだって」

「……そうなんだ」

「そっか。私、どのみち罪滅ぼしはできなかったんだ」

「大井さん。自分の身を削ることが正しいだなんて、思わないで」

「……ごめん。せっかく命を投げ出してまで助けてくれたのに、こんなこと言って」

 大井さんは不甲斐なさそうに涙を零した。

 次の日も、僕たちは蓮宮先輩のお見舞いに行った。相変わらず静かに横たわったままの蓮宮先輩は、生きているのか死んでいるのか分からない状態だった。大井さんはいつも、蓮宮先輩の眠る病室の前から立ち去る前に、手を合わせる習慣があった。

 今日は蓮宮先輩に手を合わせた後、大井さんは「よし」と言って病室を出た。その後に続くと、大井さんは僕に背を向けたまま言った。

「先輩のお母さんのところに行ってくる」

「……急に、どうして」

 僕の問いかけに、大井さんは振り返った。

「ちゃんと、謝っておかないと。先輩にとって先輩のお母さんは、唯一の希望なんだと思う。それと同じように、先輩のお母さんにとっても、先輩は残された一人息子。私は、二人からそれぞれの希望を奪い取ってしまった。そのことを、謝りに行く。そして、もう死ぬことなんて考えない。

 柊木くんが、自分の命を差し出してまで、私を守ろうとしてくれた。散々自分を殺してもらうために利用した先輩は、最後の最後で私を助けるために、逃げろって言ってくれた。二人の命を犠牲にしかけたのに、私一人だけのちっぽけな命のために、これ以上周りの人を振り回すなんて、どれだけ身勝手なことなんだろうね」

 大井さんはそう言って僕に微笑んでから、蓮宮先輩の母親の病室へと向かった。僕はそんな後ろ姿を呼び止めた。

「僕も行くよ」

「……え」

「蓮宮先輩を昏睡状態に追いやった張本人は僕だ。僕からの言葉もあった方が、蓮宮先輩の母親も納得しやすいと思うんだ」

 僕が言うと、大井さんは小さく「ありがとう」と言った。大井さんの肩が少し下がったような気がした。

 僕と大井さんは、目的の病室の前で深呼吸をした。それから、病室のドアをノックした。すると中から「はい」という返事が聞こえた。

「失礼します」

 僕がドアを開けた。後ろから続いて大井さんも入ってきた。本当は医者や看護師さんに許可を取って面会しなければいけないのだろうけど、どうしても直接話がしたかったため、勝手ながら僕たちは無断で蓮宮先輩の母親にコンタクトを取ることにした。

 蓮宮先輩の母親は、僕たちの姿を見ると、「あら」と声を上げた。

「あなた、琴音ちゃんよね? 大きくなったわね」

「あ、ご無沙汰しております」

「昔、茜と何度か遊んでくれたわよね」

「あ、はい。あの、この度は本当にすみませんでした!」

 大井さんは、蓮宮先輩の母親に深々と頭を下げた。蓮宮先輩の母親は、大井さんの行動を表情を変えずに見守っていた。

 大井さんはずっと頭を下げたままだった。そんな大井さんに、蓮宮先輩の母親は「頭を上げて」と声を掛けた。

「どうしてあなたが謝るのよ」

「……それは」

 大井さんが返答に窮した。僕は大井さんの隣で正座をした。それから、両手を床について、蓮宮先輩の母親に言った。

「あの、柊木奏と申します。頭を下げなければならないのは、僕の方です。この度は、大変申し訳ありませんでした!」

 僕は額を床にこすりつけた。目をきつく閉じながら、僕は出来る限り謝罪に誠実さを込めようと、額を深く床に押し付けた。

「あらあら、大丈夫だから。ね、お願い。顔を上げて」

 蓮宮先輩の母親の言葉に一拍間を置いてから顔をゆっくりと上げた。蓮宮先輩の母親と目が合った。蓮宮先輩の母親からは、こちらを責め立てる様子は窺えなかった。

「二人とも、わざわざこのためにここに来てくれたの?」

「……あとは、蓮宮先輩のお見舞いに」

「まあ!」

 蓮宮先輩の母親は、驚いたように口元に手を当てた。

「どうしてあなたが、あの子のために? あの子はあなたを、教室から突き落としたのよ?」

「突き落としたのは、僕の方です」

「そんなことないわ。あなたたちに謝るのは、私とあの子の方よ。本当に、ごめんなさい」

 蓮宮先輩の母親は、ベッドの上で僕たちに頭を下げた。

「やめてください!」

 大井さんは蓮宮先輩の母親に頭を上げさせるよう促した。

「本当に、先輩は何も悪くないんです。全部、私に原因があるんです」

「……あなたとあの子の間に何があったのか分からないわ。でも、どちらが原因だったとしても、人の命を奪おうとする行為を働くのは、絶対に許されないことだわ」

 蓮宮先輩の母親の言葉に、大井さんは見たことのない悲痛な表情を浮かべて、膝から崩れ落ちた。

「すみません、私が、茜さんを。本当に、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

 大井さんは、蓮宮先輩の母親の手を握りながら、ずっと「ごめんなさい」を唱え続けた。蓮宮先輩の母親は戸惑った様子だったけど、やがて大井さんの頭をゆっくりと撫で始めた。

「あの、後日、また落ち着いてから来ます。失礼しました」

 僕は大井さんの腕を肩に回して、蓮宮先輩の母親に頭を下げた。

「琴音ちゃんは、大丈夫なの?」

「……はい。こちらで、なんとかします」

「そう……。分かったわ。あの、本当にごめんなさいね。うちの子が、迷惑を掛けてしまって」

「……いえ。蓮宮先輩は、大井さんの言う通り、何も悪くないです。本当に、何も」

 僕はこれ以上言えずに、もう一度頭を下げてから病室を後にした。

 それから数日は、大井さんの精神が安定せず、お見舞いにも学校にも行けない状態が続いた。僕は大井さんの家に訪れて様子を窺ってから、蓮宮先輩のお見舞いに行くようになった。蓮宮先輩はまだ、目を覚まさないままだった。

 ようやく大井さんが人と会話できるようになった頃合いで、僕は大井さんの部屋に通してもらえるようになった。大井さんの顔色はあまり良くはなかった。けれど、会話の中で少し笑顔を見せてくれるようになった。僕はそのことに安堵した。それを機として、僕は大井さんに言った。

「前に言ったと思うんだけど、僕はあっちの世界で、大井さんと先に再会してるんだ。その時に、僕は大井さんと約束した。大井さんを死なせたりはしないって」

「…………」

「これから先、僕は大井さんがずっと生きていられるように、ずっと大井さんの側にいる。それが僕の身勝手によるものだって言われたら、確かにその通りだ。でも、これは大井さんとの約束でもある」

 大井さんは僕の言うことに静かに耳を傾けている。

「そして、もう一つ。例え誰かが、あるいは世界が大井さんの敵になったとしても、僕はずっと、大井さんの味方でいる。

 以上、この二つの約束を守るために、僕は大井さんの側にいる。いいね? 異論や反論がある場合は、今から僕がすることを振り払って」

 僕はそう言って、大井さんのことを抱きしめた。全身に大井さんの体温を感じた。大井さんの匂いがする。大井さんの鼓動が聞こえる。大井さんが生きていることを実感した。

 しばらくしてから大井さんを解放した。すると、大井さんは僕の顔を見て驚いた。

「どうして、泣いてるの?」

「……ほら、やっぱり、大井さんは生きていていいんだよ。僕はずっと、大井さんに、ただ生きていてほしかったんだよ」

 そう言ってから、僕は大井さんに顔を近づけた。大井さんは、目を潤ませながら僕を見上げている。しばらくお互いに見つめ合う時間が続いた後、大井さんはゆっくり目を閉じた。大井さんは、僕が約束を守ることに協力してくれるつもりらしい。

 僕は、大井さんにキスをした。

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