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 私の小学校時代は、最悪だった。小学四年生頃から、私はいじめの対象にされた。きっかけは、いじめられていた子を庇ったことだった。いじめていた子たちは、その矛先を完全に私にシフトさせた。辛かったのは、私が庇ったその子も、いじめに加わったことだった。

 それから私は、誰かと関わることを止めてしまった。勉強はできたから、努力して外部の私立中学校を受験するためだけに、私は学校に通い続けた。

 そのまま五年生に上がった私は、いじめの主犯格が固まったクラスに入れさせられた。いつも真面目に学校生活を送っているのだから、せめてクラス替えくらい報われても罰は当たらないのに、と先生たちを恨んだ。私から相談を持ち掛けないことも悪いけど、一切こちらの状況を把握できていない先生たちにも私は腹が立ち、もう誰にも頼らないことを決めた。

 そんなある日、私はいじめっ子たちに体育館裏に呼び出された。そこにはいつも私を積極的にいじめてくる女子三人と、気まぐれで私にちょっかいをかけてくる男子の二人がいた。そこで、私はバケツの水を被せられた。男子二人による攻撃だったけど、あくまで司令塔はこの女子三人だろう。

 私は自分の服が透けているのを男子たちに見られて、久しぶりにいじめられている最中に動揺していた。何も感じないように心掛けてきたけど、性にまつわることには、まだ耐性がなかった。

 そんな状況で乗り込んできたのが、柊木くんだった。彼が私のために、男子たちに殴りかかっているのを見て、なんとなく納得してしまった。学校での彼は、私よりも唯一勉強が得意な人、くらいの印象だった。けれど、学校以外で彼が泣いている女の子を宥めていたり、お婆さんの荷物を持ってあげたりする姿を見て、密かに彼を尊敬していた。そんな彼だったら、いつか私のことを助けてくれるんじゃないかって、心のどこかで思っていた。それが、今目の前で実際に起こった。

「やっぱり」

 私の言葉は、きっと誰にも聞こえていなかったと思う。

 騒動の後、柊木くんは問題を起こしたメンバーと一緒に先生たちから取り調べをされた。いじめに加担していた五人は、呼び出された保護者によってこっぴどく叱られた。それからしばらく学校に来なかった時は、正直なところ、ざまあみろって思ってしまった。

 私と柊木くんの親は仕事で夜遅くまで帰って来ないので、事情聴取の場には来なかった。柊木くんは暗いからと、私を家まで見送ってくれた。

「私、一生柊木くんには敵いそうにないな」

「え?」

「勉強でも、人間性でも」

「……なんだそれ」

 柊木くんは私のことを薄気味悪そうに見てそう言った。そんな柊木くんの表情は初めてだった。私は思わず笑ってしまった。すると、柊木くんはますます困惑した顔になっていた。

 次の日から、私は積極的に柊木くんに関わるようにした。あれだけ人との接触を拒んでいたのに、自分でも不思議なくらい、柊木くんと話したくて仕方がなかった。

 柊木くんは素っ気ないように見えて、実は親切なんだということは、付き合いを持つ前から知っていたけど、仲良くなってからは想像以上にお人好しなんだと気付いた。私はそんな彼に、どんどん惹かれていった。

 何度か柊木くんの家に行ったり、一緒にどこかへ遊びに行ったりした。時には一緒に図書館でも勉強したけど、同じ勉強時間でも柊木くんには敵わなかった。

 私が一番記憶に残ってるのは、小学六年生の時に二人で行った夏祭りだった。私は張り切って、浴衣を着て行った。その日のために、ずっと着物を着る練習をしていた。柊木くんに何を言われるか緊張していたけど、待ち合わせ場所で先に待っていた柊木くんは、素っ気なく言った。

「今のうちに屋台回らないと、花火の場所取りができないよ」

 彼の現実的な言葉に、私は思わず苦笑した。確かに、柊木くんが「似合ってるよ」なんて言葉を掛けてくれるイメージなんて湧かない。私は無駄なことに期待していた。勝手に浮かれるよりも、今は柊木くんとの夏祭りを純粋に楽しもう。

「ねぇ、私お腹空いた」

「なに食べようか」

「うーんとね、チョコバナナ!」

「定番だね」

「それとたこ焼きと、りんご飴。あとイカと……」

「食べすぎじゃない? この後も歩くんだから、横腹が痛くなるよ。それに、浴衣の帯が苦しくなって」

「もう! そういう現実的なことばっかり言って。今はいいじゃん!」

「……ごめん。言い過ぎた、かも」

 柊木くんは、表情こそ変わらないけど、少ししゅんとした様子だった。

「もしかして、反省してくれてる?」

「……うん」

「大丈夫。別に怒ってるわけじゃないから」

「……いや、怒ってたでしょ」

「怒ってないってば」

 そんな会話をしながら、大体どこに何の屋台があるのかを二人で見まわった。柊木くんが私の少し前を歩く形で進みながら、私はついつい柊木くんの手に視線が向かった。周りにいるカップルたちは、当たり前のように手を繋いでいる。私たちは付き合ってもないし、小学生だけど、本能的に好きな人の手を握りたいと思ってしまうのは仕方のないことだ。柊木くんは、私と手を繋ぎたいとは、思ってくれてないんだろうか。

 やがて神楽殿を見つけると、柊木くんは木の縁に腰掛けた。それから、その隣を手で叩きながら、私も座るように促した。

「え、まだ何も食べてないよ?」

「まずは食べる場所の確保からだよ」

「なるほどね。でも、席を取るための物なんてないよ」

「大井さんがここに居てよ」

「え、なんで?」

「僕が買ってくるから」

「え、私も行くよ!」

「チョコバナナとたこ焼きとりんご飴とイカでしょ。大丈夫、覚えてるよ。ついでに喉が渇くだろうから、ラムネも買ってくる」

「いや、そういうことじゃなくて、全部買ってきてもらうのは悪いよ」

「遠慮しないでよ」

「……そうじゃなくて! 一緒に行きたいの!」

 私がそう言うと、柊木くんは私に背を向けて言った。

「浴衣、崩れたらもったいないでしょ。せっかく似合ってるから、極力歩き回ってほしくないんだ」

「……え」

「とにかく、行ってくるよ。下駄も痛いだろうし、少し休んでて」

 柊木くんはそう言ってこちらに顔を向けないまま、屋台の並ぶ方へ行ってしまった。不意を喰らった私は、自分の顔が火照るのを感じた。

 それからしばらく柊木くんを待っていると、偶然にも兄さんと鉢合わせた。兄さんは私よりも三つ上で、その時は中学三年生だった。同級生らしい男の人たちが兄さんの他に五人もいた。

「え、この子、大井の妹? めっちゃ可愛いじゃん」

「おいおい。犯罪の臭いがすること言うな」

「でも、中学入ったらすげえ美人になってそう」

 男の人たちが、口々に私のことを評価してきた。正直、怖くて不快だった。

「お前ら、人の妹ビビらせてんじゃねえよ。悪いな、琴音。お前今デート中なんだろ? 邪魔する気はないんだ。まぁ、精々楽しめよ」

 兄さんがそう言っている背中越しで、ビニール袋を両手に抱えた柊木くんがこちらを見ていた。見ているというより、睨んでいる? 少なくとも、何かに怒っている様子だった。

 私の視線に気付いた兄さんは、振り返って柊木くんの姿を捉えた。すると、こちらに振り返って私に耳打ちしてきた。

「あいつが、例の?」

 私が頷くと、兄さんは不敵な笑みを浮かべた。

「琴音、悪い。やっぱちょっと邪魔するわ」

「……え?」

 兄さんは訳の分からないことを良いながら、どんどん柊木くんに近づいて行った。絶対に良からぬことをする気だ。止めようとしたけど、時すでに遅しだった。兄さんは柊木くんに話しかけていた。お願いだから、余計なことはしないでほしい。せっかくの夏祭りなのに。

「よう、兄ちゃん。俺たちに何か用か?」

「いえ、あなたたちに用があるのではなく、そこに居る女の子に用があります」

「お、それは奇遇だな。俺たちもあの子に用があって話してたんだよ」

「……その用件っていうのは、なんですか?」

「ナンパだよ」

 兄さんがそう言った瞬間、柊木くんの目の色が変わるのが分かった。

「もしかして、兄ちゃんの方が先にあの子に声かけてたのか?」

「そもそも同級生なんです。事前に約束して夏祭りに来ました。悪いですけど、今日はあの子を僕に譲ってもらえませんか?」

「えー、せっかく可愛い子見つけたのに」

「見たところ、あなたたちは中学生でしょう? 傍から見るとまずい絵になるんじゃないですか?」

「おー、手厳しいね。でも、俺とあの子は、それが許される間柄なんだよ」

「へぇ、そうですか。どんな間柄なんですか?」

「タダで教えるわけにはいかねえな。射的対決しようぜ」

「……こういうことに女の子を巻き込むのはダメでしょう」

「お、逃げるのか?」

「……分かりましたよ。でも、あくまでこの対決は、あなたと大井さんの間柄を聞くことができるかどうかの賭けです。あなたが勝ったところで、彼女を連れて行くなんてのはなしですよ」

「……条件をこっちから出す前に言われたな」

 柊木くんは話がまとまると、私の方に歩いてきた。

「ごめんね。変なことに巻き込んじゃったね」

 柊木くんは申し訳なさそうに私に謝ってきた。本当は私がここでネタばらしをするべきなんだろうけど、なんだかおもしろくなってきちゃって、兄さんのノリに合わせることにした。

「ううん。私は平気だよ」

「ほんと、ごめんね」

 私と柊木くんの会話の向こうで、兄さんは大笑いしていた。兄さんの同級生たちは、兄さんが狂ったように笑うのを見て、引いていた。どうやら、このグループの中で一番おかしいのは兄さんだったらしい。

 私たちは射的の屋台まで向かった。ルールとしては、三発撃って、多く商品を落とせた方の勝ちというものだった。

「言っておくけど、俺結構うまいよ」

「……」

 兄さんと柊木くんは、お店から借りた銃を構えた。店員さんの合図で、二人は一斉に撃った。一回目は、兄さんが一つ商品を落とし、柊木くんが外したという結果になった。

「やりぃ」

「……」

「まだ二回もチャンスあるんだから、そう不貞腐れるなよ」

「別に、不貞腐れてません」

「ははは」

 二人はそんなやり取りを交わしつつ、二発目を打った。今度は、二人とも外した。

「ぐわぁー、やらかしたぁ」

「……狙ってるはずなんだけどなぁ」

 柊木くんは銃を構える前に、念入りにシミュレーションをしている様子が窺えた。頭が良い彼らしい行動だった。

 そして、二人は三発目を撃った。結果は、二人とも商品を落とすことができた。

「よっしゃ、俺の勝ちだな」

「……」

「分かってるよ、上級生が自分の得意な勝負を持ち掛けて勝ち誇ってるのが大人げないってことは。次は、お前の得意なもの選べよ」

「……僕の得意なもの」

「それで、次の賭け事で勝った奴は」

 兄さんは私を指さしながら言った。

「こいつと手を繋ぐ」

 兄さんの言葉に、私は思わず叫んだ。

「な、なに勝手なこと!」

「いいよ。受けて立つ」

「え、柊木くん?」

「よっしゃ決まりな」

 兄さんはそう言って笑いながら、ニッと私にピースした。

 柊木くんが選んだのは、フラッシュ暗算に挑戦する屋台だった。

「うわー、頭脳系かぁ」

「僕の選んだものでいいんですよね?」

「まぁ、そうなんだけど」

「じゃあ、文句はないですね?」

 こんなにもむきになっている柊木くんを初めて見た。今日一日で、柊木くんの色々な表情を見れて、私は内心嬉しく思っていた。

 店員さんは、アナログ時計のように数字が表示された電光板を持ってきた。それが、横並びに三つ並べられた。どうやら、三つの数字を同時に計算する方式らしい。

「一つ計算できれば、ラムネ無料券。二つできたらお好み焼きとステーキの無料券。三つ全部計算できたら、この神社の屋台の食べ物が全部食べられる無料券が手に入るよ」

「おい、マジかよ」

 店員さんの説明に、兄さんは驚いた。でも、この挑戦はかなり厳しいだろう。数字を記憶して、そして計算するという工程を三つ同時に行うのは、相当高度な能力を必要とする。

「じゃあ、始めるよ」

 店員さんがそう言うと、柊木くんと兄さんは集中した顔になった。

「はじめ」

 店員さんの言葉と同時に、とんでもないスピードで電光板の数字が切り替わり続けた。正直、一つの電光板の数字さえ、私には計算できなかった。分かったことは、精々数字が七回切り替わったことだけだった。

「じゃあ、ここの紙にそれぞれの計算結果を書いて」

 店員さんの指示に二人は従った。それから、店員さんが掲示板の裏側を覗き込んだ。結果を確認しているのだろう。

 兄さんは苦い顔をしながら頭を掻いている。一方の柊木くんは、特に表情を変えることはなかった。

「じゃあ、答え合わせするよ。左から順に、78、94、56。いやぁ、これはたまげたな。ちっこい方の兄ちゃんが正解だよ。長いことここで屋台を営んでるけど、初めて全部正解してる人を見たよ」

 店員さんがそう言うと、いつの間にか屋台の周りを取り囲んでいた人たちが歓声を上げて手を叩いた。柊木くんは驚いたように周りを見渡した。

「いやぁ、完敗だ。妹はお前に譲るよ」

 兄さんはそう言って柊木くんの肩を叩いた。柊木くんは兄さんの言葉に驚いたように目を見開いて、兄さんを振り返った。それから私の方を見ると、顔を赤くして俯いた。兄さんはにししと笑っていた。

 兄さんたちと離れて、私と柊木くんは花火が見える河原に降りた。そこで初めて、柊木くんが口を開いた。

「どうして言ってくれなかったの」

「え?」

「あの人が、大井さんのお兄さんだってこと」

「それは……ぷっ、はははははは」

「…………」

「ご、ごめんごめん。こんな柊木くん初めてだったから」

「なにがおかしいんだよ」

「でも、嬉しかった。私のために本気になってくれて」

「…………」

「それにしても、さっきのフラッシュ暗算凄かったね! 私全然できなかった」

「昔から計算は得意だったから」

「いやぁ、勉強面で柊木くんに勝てそうにないな」

「そんなことないでしょ」

 柊木くんはそう言って、私に屋台の無料券を渡してきた。

「それにしても、こんなものがあるなんて知らなかった。これ一枚で、全部の屋台を巡ることができるんだってさ。訪れたお店でスタンプをもらったら、もうそこには行けなくなるらしい。どのみちもうお腹いっぱいだけどね」

「それって、今日までが有効期限?」

「だろうね」

「じゃあさ、それ、私がもらってもいい?」

「……どうして?」

「今日の思い出として。ダメ?」

「……いいよ」

 柊木くんは、無料券を私にくれた。私はそれを、持って来ていたポーチの中に入れた。ちょうどそのタイミングで、花火が上がった。ちょうど自分たちの頭上で花火は夜空を照らした。色とりどりの模様を描きながら、儚く四方に散っていく。

「綺麗だね」

「そうだね」

 周りの歓声もあって、私はどこか非現実的な感覚を覚えた。夏祭りが終わったら、私も含めてみんなが元の日常に戻る。そして、今日の出来事がまるで嘘だったかのようにまた日々を過ごしていくことになるんだろうな。

 花火を見ていたら、そんなことをふと考えてしまった。少し切ない気持ちで花火を見上げていると、突然私の手が誰かに握られた。慌てて振り返ると、柊木くんが花火を見上げたまま私の手を握っていた。

「ど、どうしたの?」

 私はドキドキしながら、こちらに顔を合わせようとしない柊木くんに訊いた。

「さっきの賭け、僕が勝ったら大井さんと手を握るって話だったでしょ」

「……あ。そういえばそうだったね」

「約束だから」

「な、なるほどね。でも、あれは兄さんの悪戯だから。真に受ける必要はないよ。柊木くんだって、私と手を握るの嫌でしょ?」

 私の言葉に、柊木くんは何も返さなかった。正直、「そんなことない」って言ってほしかっただけに、私は少し泣きそうになった。でも、次の瞬間にはそんな気持ちは吹き飛んだ。柊木くんは、言葉の代わりに、私の手を握る力を強くした。私は思わず柊木くんを振り返ったけど、相変わらず上を見上げたままだった。私は柊木くんの優しさを右手に感じながら、また花火が瞬く夜空を見上げた。

 それからは、私の予想通り元の日常が展開して、柊木くんもすっかりいつもの様子に戻ってしまった。なんとなく、夏祭りでの出来事を掘り返すのが照れくさくて、それからずっと、その日のことについて柊木くんと話すことはなかった。

 時が経って中学生になった。いじめられていた頃は、ずっと外部の私立中学校に進学することを目標に勉強していたけど、いつの間にか私は受験のことは考えないようになっていた。そのため、そのまま学区内の公立の中学校にみんなと進級した。そこでの環境は、小学生の頃とは全く違ったものになった。私は、柊木くんに見合った人間になるために、自分の人生に対して積極的に生きるようにした。自分に正直になってみることにした。そうしたら、私を見る周りの目が変わって、いつの間にか風紀委員にもなっていた。特に立候補した覚えはないのだけど、周りからの推薦で私は色々なことや人に関わっていくことになった。それは、すごく楽しいことだったけど、同時に柊木くんと話す時間が減って、私はそのことを寂しく思っていた。廊下でたまにすれ違うときにも、どこかお互いによそよそしくなってしまって、私はずっとそのことが気掛かりだった。ただ、学校生活が充実していて、私自身楽しくなっていたのは事実だった。けれど、そんな日常を破壊するようなことを、私はしてしまった。

 風紀委員だった私はその日、教室の戸締りを任されていた。最上階の五階から順番に下っていき、各教室の鍵を閉めていた。そして、最後一階までの鍵を閉めた後、二階にある職員室に鍵を戻すというのが決まったルートだった。

 いつものように下位層に向かって順番に鍵を閉めた。四階の美術室にまだ三人生徒がいたので、私はそこ以外の教室を戸締った。それから三階に下って確認していると、放送室から声が聞こえた。静かに中を覗くと、蓮宮さんが持ち込み禁止の携帯で誰かと話していた。見たところ、蓮宮さん以外に放送室にいる人はいないみたいだった。私はそこで、少し悪戯をしてやろうと思った。

 私は蓮宮さんに気付かれないように放送室の鍵をそっと閉めた。一瞬、誰かに見られているような気がしたけど、振り返っても誰もいなかった。私は自分の悪戯がバレてしまったのかと焦った。それから、私は逃げるように順番に教室の鍵を閉めて一階まで下りた。全ての教室の戸締りが終わったのを確認してから、三階に戻ろうとした。正直、蓮宮さんが、自分が放送室に閉じ込められていることに気付いているのかどうかさえ分からない。ただ、私は昔蓮宮さんにいじめられた些細な仕返しとして、少しの間放送室に閉じ込めただけだった。それだけのはずなのに、私のこの行動がとり返しのつかないことになってしまった。

 私が三階に戻ろうとすると、どこからか異臭が漂ってきた。それから、


ジリリリリリリリリリ


 けたたましい音が鳴り響いてきた。

 私は驚いて肩を竦めた。何が起きているのか分からずに動揺していると、二階から慌ただしく先生たちが下りてきた。先生たちは私を見ると、少し安心したように言った。

「良かった。戸締ってくれてた大井がここに居てくれて」

「一体、どうしたんですか?」

「火事が起きたんだ。とにかく、今は校舎から離れるぞ。くそ、日出先生もどこに行った」

「え、で、でも、中にはまだ人が!」

「なんだと!? 一階にいるってことは、戸締りが完了したんじゃなかったのか? くそ、でも、もう間に合わない! もう三階から上は火の海だ。もたもたしてたら巻き込まれるぞ!」

 先生はそう言って私の腕を掴むと、急いで学校から避難した。先生の言葉を聞いて校舎の上を見上げると、さっきまで自分が巡回していたはずの三階から上の窓から勢いよく炎が噴き出していた。私はその光景を見て、血の気が引いていくのを感じた。それから視線を元に戻すと、慌てふためく先生たちの中で一人、仁王立ちをしたまま私の方を見つめている男の人がいた。その人は私と目が合うと、にやりと笑って指さした。そして、何か言った。けれど、周りの喧騒で私の耳には届かなかった。

 結局、何台もの消防車と救急車、そして警察が駆けつけて消火活動が行われた。火事の犠牲者となったのは、美術室に残っていた生徒三人と、おそらく生徒を助けようと火に飛び込んだ日出先生、そして、放送室に取り残された蓮宮さんだった。火事の原因は、意図的な放火だった。校舎の中にポリタンクの残骸が確認され、大量のガソリンが三階以上のフロアに撒かれていたことが判明した。後に、犯人が逮捕されたというニュースが報道された。犯人の名前と顔が発表された時、私は吐き気がした。

 火事騒動の最中、先生たちに交じって私に笑いかけてきたあの人だった。その日以来、何度もあの男の人が夢に出てくるようになった。そして、私を指さしてこう言う。

「あの女はお前が殺した」

 あの女というのは、おそらく蓮宮さんのことだろう。私は、毎朝起きるとすぐにトイレに駆け込むようになった。あの日、私がしたことは、殺人行為だった。そのことを自覚して、嘔吐が止まらなかった。

 それからは、徹底的に自分を否定し続ける日々が始まった。親や兄さんが部屋を訪ねてくる度に私は追い払った。今は、誰の顔も見たくはなかった。携帯のメッセージや着信を確認することもできなかった。今まで自分にとっては宝物で、味方だったはずの存在がオセロみたいにひっくり返って、私を責め立てるのが怖かった。もちろん、蓮宮さんが死んだ経緯は誰にも話していない。話してしまえば、私自身がどうなってしまうか分からなかったから。

 美術室にいた三人も、私が無理にでも下におろしておけば助かったかもしれない。三人を助けに行こうとしたかもしれない日出先生も、死ぬことはなかったかもしれない。結局のところ全てが私という存在によって連鎖した不幸なんじゃないかと思えてしまう。私は、生きるのが嫌になった。

 家に引きこもったまま、学校にしばらく行っていなかった私は、天井からロープをたらした。それから、椅子をその下に持ってきた。今はお昼のため、家族は全員いない。私は早く楽になりたい一心で、ロープに首をかけた。そして、足場になっていた椅子を蹴とばして、全体重をロープに預けた。

「ううっ」

 息ができないと感じた後、一瞬にして意識が遠くなった。すぐに苦しさはなくなって、視界が白くなった。それからしばらくの間、ずっと意識が残っていることに違和感を覚えながら、自分がいつの間にか地面に足がついていることに気付いた。慌てて周りを確認すると、自分の前後に人がずらりと並んでいた。辺りは霧が立ち込めている。そして、自分が今どこかの山道にいることが分かった。

「どこ、ここ……」

 私は不安を覚えた。死ぬ瞬間よりも不安になることなんてあるとは思っていなかった。なんとなく、ここはいつも私が見てきた世界とは違うということが、直感的に分かった。周りの人たちは、何も疑問に思っていないかのように、前へ前へと進んで行く。私は、みんなのその行動が正しいことのように思えて、この先に何があるのかも知らないまま歩いた。

 気付けば、広場にたどり着いた。広場から先にまた道が続いていて、その先には役所のような建物がある。おそらく、みんなはあそこを目指して歩いているらしかった。

 ようやく列から解放された私は、広場の真ん中にある噴水の縁に座った。巨大な噴水の桶に張った水を覗いた。私の姿がはっきりと映っている。噴水から湧き出る水が絶え間なく桶に注がれているはずなのに、水は一切波打たず、平然としている。そして、私の顔の後ろに、女の人の顔が映っているのが見えた。

「こんにちは」

 突然、背後から声を掛けられた。そこにいたのは、おしゃれな恰好をした綺麗な女性だった。

「……こんにちは」

「あなた、一人?」

「……そうですけど」

「これから、あの役所に向かうんでしょ?」

「……多分」

「良かったら、私と一緒に行かない? 話し相手になってよ」

「…………」

 当然警戒しながら女の人を見ていると、その人は苦笑いしながら言った。

「私の名前は玲子。あなたは?」

「……琴音、です」

「琴音ちゃんか。良い名前ね」

 玲子さんはそう言って微笑むと、私の手をとって立ち上がらせた。その瞬間、私は思わず悲鳴を上げた。

「きゃっ」

「……あぁ、ごめんなさいね。私の手、冷たいでしょ」

「…………」

「あなたの手は、温かいわね。良かった。あなたがこれから向かうべきところ、私知ってるの」

 玲子さんはそう言って笑うと、私に手招きして先導した。怪しいとは思いながらも、私は玲子さんについて行った。

 役所まで続く行列に並びながら、玲子さんは私に訊いてきた。

「どうして、あなたはこんなところに来たの?」

「…………答えたくありません」

「なるほどねぇ。乙女の秘密は、一つや二つ、あるものよね」

 玲子さんは顎に手を当てながらそう言った。

「あなた、私のこと全然信用してなさそうね」

「はい」

「あはは。今までで一番返答が早かったわね。うーん、私、あなたとは似てると思うんだけどなぁ」

「……どこがですか?」

「例えば……自分で自分を殺したところとか」

 玲子さんはなんとでもないような微笑みをこちらに向けながら、そう言った。

「……なんで」

「あなたの首の痣」

「え?」

 玲子さんは自分の首元を指さした。それを見た私は自分の首元に触れた。すると、自分の皮膚が腫れているのが分かった。

「多分、首を吊ったんでしょう?」

「…………」

「ごめんなさいね。お互いに手の内を明かさないと、フェアじゃないわよね」

 玲子さんはそう言うと、服の袖を捲った。すると、手首にいくつもの深い傷跡が刻まれていた。いわゆる、リストカットの痕だった。

「私の場合は、これが原因」

「…………」

「これがお近づきの印ってことでいいかしら?」

「そんなわけないでしょ」

「あら、それは残念」

 そんな狂気的な会話から始まった玲子さんだったけど、それから役所の前に来るまでは、意外と普通な会話をした。生きている間は、大企業の社長さんの秘書として働いていたことや、子どもが三人いたことや、大企業で働く前の夢はケーキ屋さんで働くことだったとか、そんなことだった。私の方はといえば、玲子さんのリクエストで恋愛話をした。玲子さんは一々オーバーなリアクションで私の話を聞いていた。こんな人が、どうして自殺なんかしたのだろう。そんなことは本人には訊けないし、訊くつもりもなかった。

 やがて役所まで来ると、玲子さんは私の服の袖を掴んだ。さっきのことがあって配慮してくれたのだろう。玲子さんは私を役所の横にある細道に連れて行った。さっきまでの山道とは全然違った空気感が漂う空間だった。生い茂った木々の間を抜けると、またも広場が出てきた。そして、広場の真ん中には小屋があった。玲子さんは中に入って行った。薄暗い部屋の中で玲子さんは部屋の中を見渡した。それから、「なるほどね」と言って小屋から出てきた。

「さ、ここに入って。あなたはまだ、あの役所に行くべき人間じゃないわ」

 玲子さんの言葉に従って、私は小屋に入った。すると、そこにはパソコンがあった。私が小屋の中に入った瞬間、パソコンの画面がついた。驚いていると、玲子さんは私に座るよう促してきた。玲子さんは、自分の手を袖に隠した状態で私の手に重ねてマウスの方に誘導させた。それから、画面の真ん中にあるタブをクリックさせた。


「生き返り」「裁き」「生前善行」「死後善行」「生前悪行」「死後悪行」


 画面に並ぶ不可解な単語に眉を顰めていると、玲子さんは、私にそれぞれの項目の意味を教えてくれた。それからすぐに、私は「死後善行」のタブを押した。すると、項目がたくさん出てきた。項目をいくつも確認していると、最下部に気になる単語があった。


「生者への寿命付与」


 私はそれを思わずクリックした。すると、検索バーが出て来た。そこに名前を打ち込むと、数字が出てきた。どうやら、今私が検索した人の残りの寿命らしかった。

「それは、誰?」

 玲子さんが後ろから訊いてきた。

「私の死んだ同級生の母親です。病弱で、通院しながら生活されています」

「随分余命が短いようね」

「私って、まだ死んでないんですか?」

「……完全には死んでいないわね」

「じゃあ、この人に寿命を与えることができるんですか?」

「……よしておきなさい。あなたはまだ、若いのよ」

「でも、私はその余りある寿命を残してここに来ました」

「…………」

「その同級生は、私が殺したも同然なんです。これくらいはしないと、それこそ何も罪滅ぼしができない」

 私がそう言うと、玲子さんは難しそうな顔をして黙り込んでしまった。私はそれから、その人の名前をクリックした。すると、今度は数値を打ち込むための画面に変遷した。そこには、私の余命も記されていた。私はそれを見ながら、付与する寿命の年数を打ち込んだ。残りの寿命全てを打ち込むつもりだった。なのに、私の手は震えて、何故か涙が出てきた。私はこの期に及んで、死ぬことを恐れているのか。どれほど落ちぶれたら気が済むのか。

 私が自分の不甲斐なさに泣いていると、玲子さんが言った。

「あなたはまだ、生きる可能性を残してる。どうか、そのチャンスを踏みにじらないで」

「……自殺した人に言われても、納得できませんよ」

 私は玲子さんに八つ当たりしてから、たった数年分の数値を打ち込んだ。それから、私はパソコンの画面の前で泣きじゃくった。玲子さんは袖に隠した手で、私の頭を撫でた。

「よく頑張ったわね。普通、そんな勇気なんて誰も持てないわ」

 私はその言葉にどこか救いを感じながら、しばらくの間涙を流し続けた。

 ひとしきり泣いて落ち着いた後、私はパソコンの画面を最初の状態に戻した。

「さっき、死後善行のタブを開いたとき、『健康の付与』っていう項目もあったんです。次は、それを」

「残念ながら、それは無理ね」

「え、どうしてですか?」

「試しにそのタブをクリックしてみて」

 玲子さんの言葉通り、タブを押すと、さっきは六つ表示されていた項目が五つに減っていた。消えた項目は、死後善行だった。

「一度選んだ項目は、もう使えなくなる」

「……そっか」

 私は思わず溜息を吐いた。玲子さんはそんな私を見て言った。

「さっき、あなたが話してくれた柊木くんっていう子。その子は、あなたのこと、必要としてるんじゃない?」

「…………なんですか、急に」

「話を聞いてる限り、あなたのこと、とても大切に想ってくれているようだけど」

「……それは、私が殺人犯だって知らないから」

「うーん、何があったのかは分からないけど、でも、私はあなたが人を殺すような人には見えない」

「でも、実際に私は人殺しなんです。柊木くんだってそのことを知れば、二度と私なんかと関わらなくなる。私はそれが、一番怖い」

「私、その子ならあなたのこと、理解してくれると思うわ」

 玲子さんはそう言うと、私の手に自分の手を重ねて、「生き返り」にカーソルを合わせた。そして、マウスをクリックした。

「ちょっと!」

「もう、自殺なんてしちゃダメよ。またここに戻ってきたら、次は今の私みたいにパソコンが使えなくなるみたいだから」

「……え、それって」

「私にはもう、死ぬことしか残されていない。でも、あなたはやり直すチャンスがある。あの広場で、あなたを見つけることができて良かった」

 私は儚く笑ってそう言う玲子さんに訊いた。

「どうして、玲子さんは私が生きている人間だって分かったんですか?」

「噴水の水に、あなたの姿が映っていたからよ。本当に死んでいる人間は、あそこに姿は映らないの」

 薄れていく意識の中で、私は叫んだ。

「でも、玲子さんも映ってましたよ!」

「そうね。でも、私には戻る術がない。それに、この世界に来ることを選んだのは、自分だから。私ね、前にもここに来たことがあるの」

「……え」

「けど、私は生き返った。それからは少しマシな人生を送った。でも、私はまた絶望して死を選んだ。あなたはもしかしたら、生き返ったその後に良いことがあるかもしれない。無責任かもしれないけど、私はあなたにもう一度生きてほしいと思った」

 そう言って笑う玲子さんの姿が歪み始めた。玲子さんだけじゃなく、その周りの景色もだんだん色が剥がれ落ちてきた。

「勝手なことしないでよ……」

「うふふ。ごめんね」

 玲子さんの笑う声が聞こえたのを最後に、私は意識を失った。

 気付くと私は、白い部屋にいた。視界をぐるりと見渡すと、自分がどこかの病院の病室にいることが分かった。私はベッドの上で横たわっている。首元が痛い。

 そうだ、私は自殺したんだった。戻ってきたのか。

 ぼんやりと淀んだ思考でそれが理解できた瞬間、私は思わず溜息を吐いた。すると同時に、病室のドアが開くのが分かった。

「琴音! 目覚めたのね!」

「琴音! 大丈夫だったか!」

 そこには、お母さんと兄さんがいた。二人とも、目を見開きながら私を見ている。

「お母さん。兄さん」

 私が言葉を発すると、お母さんは泣き崩れた。兄さんも私が無事であることを確認できたことで安堵したのか、よろよろと床に座り込んでしまった。

 それからは、私が目覚めたということでお医者さんがやって来た。身体のことと、精神的なことでいくつか質問された。けれど、私が正常に受け答えをしたことで、数日以内に退院できると言われた。ただし、しばらくは精神病院に通う必要があるとされた。

 私が目覚めた翌日に、私はお母さんと病室で二人になったタイミングがあった。その時に、私は訊いてみた。

「私、あの後どうなったの」

 お母さんはその時を思い出してか、また涙目になりながら言った。

「私、あなたのことが心配で、お昼で仕事を切り上げたの。家に帰ってきてあなたの名前を呼んだけど、全然返事が返ってこないから心配になってあなたの部屋に入ったの。そしたら、あなたが首を……」

 お母さんは口元を押さえて、涙を流しながら言った。

「あなたの身体が痙攣していたから、急いでロープからおろして、すぐに救急車を呼んだの。そしたら、あなたは一度目を覚ました。でも、すぐに気を失って、それから昨日まで三日も眠ったままだった。本当に、目覚めてくれてよかった」

 お母さんがそう言って悲痛な顔をしながら泣くのを見て、私は自殺した時以上の痛みが胸に走った。私はつくづく、愚かな存在だということを自覚した。

「……目覚めた時のこと、全然覚えてない」

「そうなのね。でも、あなたあの時言ってたわよ」

「……そうなの? 私、なんて言ってた?」

「たしか……『本当に戻ってきた』って」

 お母さんの言葉を聞いて、あっちの世界から戻る時には、自分が死んだ直後から始まるのかもしれない、と思った。

 それからの日々は、家族から慎重に扱われるようになった。みんな、私がいつ精神的に不安定になって取り乱すか分からないという恐怖と隣り合わせの状態で、私に接してくれていることが分かった。私はそんなみんなに、不甲斐なさと申し訳なさを感じていた。同級生の子も何人か私の家に来てくれたけど、私には誰かを迎え入れる元気がなかった。同級生がきたら居留守を使うか、家族に帰ってもらうように伝えてもらっていた。ただ、一人で留守番している時に柊木くんが来てくれたことがあったのは、なんとなく覚えている。その時、私は柊木くんと何か話した気がするけど、当時のことは辛くてよく覚えていない。すぐに帰ってもらった記憶がある。

 それから学年が変わってさらに数か月経つまで、私は学校に行く勇気が出なかった。でも、このままではいけないことは分かっていた。だから私は、ある日、学校に行くことを決意した。家族はみんな、私の決断を喜んでくれた。その後、放火事件があったことで、一時的に別の校舎でみんなが授業を受けていることを知った。正直、前の校舎から移り変わっていることにほっとした。

 当日、私はアスファルトに溶けていくように重い足を引きずりながら、学校まで向かった。首の痣を隠すために、時期は正しくないけどマフラーをしていった。先生たちも気遣ってくれて、校門でわざわざ私のことを待ってくれていた。私は先生たちの歓迎を受けながら、けれど私が人殺しだと知ったら、果たして今みたいに接してくれるだろうかと怖くなってしまった。

 私は震える足で階段を上り、教室まで向かった。廊下にいる何人かの生徒たちは、私を見ると驚いた顔をしていた。けれど、誰も私に声を掛けてくることはなかった。

 教室にたどり着いて、深呼吸してからドアを開けると、クラスメイトの全員が静まり返った。クラスの全員が私に視線を向けているのが分かった。その中に、柊木くんもいた。彼もまた、他のみんなと同じ表情をしていた。

 授業が始まると、基本的に誰も話さない空間になるため、私としてはこの時間がありがたかった。それからお昼休みがくるまで、私は一度も先生にあてられることはなかった。きっと、私を配慮してのことだろう。

 そして、お昼休みになった。私はお母さんが作ってくれたお弁当は持ってきていたけど、家にいるときは一日に一食の生活を続けていた。それも、夜の時間帯しか食べていない。つまり、何もすることがなかった。私は周りが騒ぐ中、じっと机の上を見つめていた。すると、黒板の上にあるスピーカーから放送が流れた。その瞬間、私は放送室にいた蓮宮さんの姿が思い浮かんだ。

「こんにちは。放送委員です。さて、本日のテーマはずばり、『あの時、こうしていれば』です! みなさん誰しもが後悔を抱えていると思いますが、些細なことから大きくなってしまったことまで、いつものようにゲストを迎え入れてインタビューを敢行致します! では、ゲストのKさん。こんにちは」

「こんにちは」

「ずばり、あなたの後悔とは?」

「私の後悔は……」

 後悔、というワードを聞いてから、私は必然的にあの日のことが思い浮かんだ。私は、どうしてあの日、蓮宮さんがいる放送室の鍵を閉めたのだろう。私は、どうして美術室に残っていた部員を帰さなかったのだろう。私はどうして、今日までまた自殺しなかったんだろう。

 そんな自責と後悔が頭の中を駆け巡り、私は気付けば教室を出て屋上に向かっていた。お昼休みにだけ解放されているらしい屋上のフェンス目掛けて、賑やかな生徒たちの間を抜けて歩いた。それから、私はフェンスに足を掛けてよじ登った。

「おい! 危ないぞ!」

 誰かが私に声を掛けてくれたけど、そんなものは私の足枷にはならなかった。構わずフェンスを登り、狭い塀の上に降り立った。誰かが悲鳴を上げるのが聞こえた。けれど、その時の私にはどうでもよかった。

 私は塀から下を覗いた。校庭が見える。ここから落ちれば、打ちどころが悪くなくとも無事に死ぬことができるだろう。そう思っていたら、柊木くんが私を呼び止める声がした。驚いて振り返ると、確かにそこには柊木くんがいた。柊木くんはフェンス越しに、私を思いとどまらせようと何かを叫び続けた。正直、何を言われたのかあまり覚えてはいない。でもたった一つだけ、私の耳に残った言葉がある。

「僕は大井さんが好きなんだ」

 もしかすると、死と隣り合わせの状態だった私の幻聴かもしれない。けれど、その言葉を聞いた私は不意に泣きそうになって、思わず振り返った。その時にはすでに、柊木くんがフェンスをよじ登ってきているのが見えて驚いた。それから、柊木くんは私が立つ塀にやって来た。それからのことは、全く記憶にない。

 その後、私は家族と話し合って転校することに決めた。柊木くんと別の学校になるのは嫌だったけど、知り合いのいないところに引っ越すことになった。ただ、その間も、こんなことを続けていても罪は消せないと思った。どうにかして、蓮宮さんが報われるようなことをしなければならないと思った。そして、私は蓮宮さんの遺族に思い至った。

 蓮宮さんの家に何度か遊びに行ったことがある。その時、私たちより二つ上の兄がいるのを見たことがあった。何回か話したことがあって、もしかすると向こうも私のことを覚えているかもしれない。そして、私はこんなことを思ってしまった。

「蓮宮さんの兄さんは、妹を殺した人を殺したいかもしれない」

 私はそう思って、久しぶりに高揚するのが分かった。蓮宮さんの遺族が、犯人へ復讐することが出来る。それこそが私のせめてもの罪滅ぼしだと思った。

 私はそれから、家族を説得して高校からはまた前と同じ学区に戻してもらうことにした。まだ携帯に連絡先の残っていた当時のクラスメイトに探りを入れて、蓮宮さんの兄がどこの高校に行くのか確認した。当然、私から突然連絡を受けたその子は驚いていた。

 その子と連絡を取って以来、私は連絡先を全て消した。柊木くんの連絡先も含めて、全て。私はこれからの毎日を、全て自分が死ぬために捧げようと思った。そのためには、全ての未練を捨て去る必要があった。

 柊木くんと最後に会った日、私は思わず忘れないでと彼に伝えた。この期に及んで私は、柊木くんに本音を口にしてしまった。私なんかが、幸せになってはいけないのに。

 私は高校に入学するまでに、周りから普通に見られるように訓練をし始めた。家族は私が外でまた誰かと話すようになったことに喜んでいた。そのことに申し訳なさを感じた。全ては、私が殺されるための準備でしかないのに。

 中学校を卒業するまでの間、人と関わるリハビリを終えた私は、昔自分が住んでいた地域に戻ってきた。無事に蓮宮さんの兄が通っている高校に進学できた。休学している期間が長かったけど、事情を考慮してくれた先生たちのおかげで、内申に関して特に受験の時に支障はなかった。遅れた分の勉強は、転校して以降の学校生活でなんとか取り戻した。

 無事に高校に入学できた私は学校が始まってすぐに、蓮宮さんの兄を探した。体育館で行われた始業式中に、私は彼を見つけた。始業式が終わってみんなが教室に戻って行くタイミングで、私は高鳴る鼓動を押さえながら声を掛けた。

「蓮宮先輩。大井です。覚えていますか?」

 先輩は突然声を掛けられて怪訝な顔をしていた。

「……茜の部屋に来てた子?」

「そうです!」

「一瞬誰か分からなかった。お前、琴音か」

「覚えてくれていたんですか! 嬉しいです!」

 私は、リハビリ期間で取り戻したコミュニケーション技術で、先輩と関係を持とうと必死だった。私は先輩を見た瞬間から、念願の人に会えた感覚に陥っていた。やっと、私はこの人に殺してもらえる。この人に、恩返しができる。ようやく私が、死んでくれる。

 そのことに期待を膨らませていたのだから、前のめりになるのは当然だった。

「それで、何の用?」

「いえ、上級生に知り合いがいたものですから、つい声を掛けてしまって」

「ふーん」

「あの、迷惑じゃなければ、これからも話しかけていいですか?」

 私は久しぶりにひどく緊張しながら訊いた。すると、先輩は頭を掻きながら答えた。

「好きにすれば」

「あ、ありがとうございます!」

 私は思わず頭を下げた。先輩は、「大げさだな」と呆れた。その日以降、私は積極的に先輩に話しかけるようになった。ただし、私はプライベートでまで先輩の時間を奪うつもりはなかった。私の目的は、あくまで先輩に殺してもらうこと、先輩に復讐を遂げてもらうことだった。私が人に愛されることなんて万が一にもないだろうし、あってはならないことだけど、仮に先輩が私に思い入れができてしまうと、いざという時に私を殺すことに抵抗を感じてしまうかもしれない。それに、私も先輩との距離が近づきすぎて、自分の中で先輩が特別な存在になってしまったら、死んだ後に蓮宮さんに顔合わせができない。まっさらな心で謝罪することができなくなってしまう。

 私はずっと、先輩と近すぎず、遠すぎずの関係を保つように心掛けた。ただ、関わっていくうちに、私は先輩がとても良い人であることに気付いてしまった。関わっていくうちに、情が出てきてしまった。だから私は、本末転倒なことに、本来の目的を遂げることができない状態が続いた。

「私が、蓮宮茜を殺した」

 先輩に、そのことを告白することができなくなってしまっていた。私は焦った。そもそも、私は独りよがりにも先輩が犯人への復讐を望んでいるのかどうかさえ分かっていなかった。ずっと自覚していたことではあるけど、蓮宮さんの遺族の復讐に貢献するためだと謳いながら、ただただ私が自殺という方法以外でこの世界から解放されたいだけだった。そんなこと、最初から分かっていた。自分がいかに醜い化け物かなんて、とうの昔に知っていた。死に損ないの人間紛いが、私だった。きっと、地獄に行った人たちよりも、私はおぞましい存在だ。

 私はそんな独りよがりな考えを押し通してもいいものか、この期に及んで躊躇していた。だから私は、最終確認として先輩に訊いた。

「自分が地獄行きになってでも叶えたい願いって、先輩にはありますか?」

 私の質問に、先輩は私の意図を窺おうとしたのか、こちらを見てきた。そして、少し考える素振りを見せてから、こちらに振り返って答えた。

「あるよ」

 その言葉を、私は独りよがりではない、先輩の本音だと捉えた。

 その後、私はふと今日先輩に真実を伝えようと思った。先輩に殺されてしまおうと思った。だから私は、何故か学校に来なかった先輩に連絡した。待ち合わせ場所は、やっぱり緑ヶ丘中学校だろう。けれど先輩は、今日に限ってはダメで、何故か緑ヶ丘中学校を合流場所にすることを拒んだ。さらに、先輩がバイク事故を起こしたことを知った。今日で世界から消えると言い出した。そして、頑なに先輩は、私を緑ヶ丘中学校へ向かうことを止めてくる。

「そっか。先輩、行ったんだ。あそこに」

 私は知っている。臨死体験をした人が、死後悪行を選んだらどうなるのか。私は玲子さんに呆れられながら、死後悪行で「生者を殺す」というタブを押し、自分の名前を選んだ。結局玲子さんに止められて自分が死ぬことはなかったけど、実行する直前で、自分が無に帰ってしまうことを知った。先輩はきっと、それを選んだんだ。そして、自分が殺す対象は、私なんだ。

 私は笑った。大笑いした。自分が望んでいた以上に好ましいことが起きてしまったのだから。あっちの世界で選択したことは、絶対だ。先輩は必ず私を殺すことになるし、私は何があっても先輩に殺されることになる。絶好の機会にも程がある。

 先輩から電話が掛かってきた。私はそれに出て、先輩に確認した。

「先輩、一回死んだんじゃないですか?」

 先輩は、電話越しでも狼狽えているのが分かった。こんなにも動揺している先輩は初めてだった。先輩のその反応が、私の質問に対する答えとなっていることは、明確だった。私は先輩からの忠告を無視して、緑ヶ丘中学校に向かうために電話を切った。きっと、私が今日先輩に自分の罪を打ち明けようとふと思い立ったのは、先輩が死後悪行を選択したからなのだろう。私は妙に納得しながら、ゆっくりとオンタイムを狙って学校に向かった。

 特にどの先生と接触することのないまま、私は緑ヶ丘中学校の校舎内に入り、待ち合わせの教室がある三階を目指した。人の気配が感じられない廊下を突き進むと、302教室の扉の窓で、先輩が教室を出ようとしているのが見えた。私は思わず頬が緩むのを感じながら、教卓側の扉の前に立った。すると、ちょうどそのタイミングで先輩がそれを開いた。先輩は私を見ると驚いたように固まった。けれど、次の瞬間には、私の首が先輩の手によって掴まれた。先輩の狼狽える様子を見るに、自分の意志とは無関係に手が私の首を絞めているらしかった。

「死後、悪行」

「……今、なんて」

「や、っぱ、り、先輩も、行ったん、ですね。あっちの、世界、に」

 私は、薄れる意識の中で、今の状況に腑に落ちながら言った。私は、世界からも殺人者として判定されている。それはつまり、あの放火事件で直接蓮宮さんに手を下したのが、私だと判定されていることを意味している。私は先輩にこうやって殺されるまで、微かな希望を抱いていた。故意に蓮宮さんを殺しているわけではない、偶発的な出来事だったのだから、世界だけは、私を正当に評価してくれるんじゃないだろうかと。ほんの少しだけ、私は人殺しなんかじゃないと、心の何処かで思っていた。けれどどうやら、私のその浅はかな考えは、やっぱり間違いだったらしい。

「よか、った。ずっと、こう、なれば、いいのに、って。せ、んぱ、いに、ずっと、殺して、ほしかった」

 私がそう言うと、先輩は悲痛な表情をして言った。

「……なんで。なんで俺は、お前を殺そうとしてるんだよ」

「……わたし、が、茜さんを、殺した、から」

 先輩は大きく目と口を開いた。私はやっと言えた、と思った。それと同時に私はどれほど取返しのつかないことをしてしまったのかと申し訳なくなった。私は泣きながら、「ごめんなさい」と口にした。ただ、首を絞められている状況で、自分の声が先輩に届いているのかは、自分では分からなかった。

 やがて先輩は、私の首を掴んだまま、私の身体を教室の窓側まで移動させた。私の身体は窓に打ち付けられた。すると、私は突然、先輩に教室の中央へと投げ飛ばされた。私は机や椅子に身体をぶつけたけど、それ以上に混沌とする意識が私の五感を鈍くさせ、痛みを感じることはなかった。

 私は極端に狭まった喉を無意識のうちに押し広げようと、咳を繰り返した。私の意識に反して、身体の方は生きることを望むように肩を上下させて必死に呼吸を促した。その間、先輩は窓の鍵を外して開いていた。

「琴音、頼む。俺から離れてくれ」

 先輩は今にも泣き出しそうな顔でそう言いながら、手をこちらに突き出しながら迫って来た。それから、私の首を掴むと、さっき以上の力で、着実に私を殺そうとしてきた。そのまま私を窓の方へ押し出して、私の首から上を窓の外に追いやった。後頭部の下に死が迫っているのを感じた。少しの恐怖と、圧倒的な快楽が混じった感覚が私を支配した。

「ごめん、琴音。本当に、ごめん。こんなつもりじゃ、なかったんだ」

 先輩がこんなにも感情的になっているのを、私は見たことがなかった。先輩は私の頬に涙を零した。それが私の頬を伝って、三階から落ちた。

「あや、まるのは、私、の方、です。茜、さんの、こと、ほ、んとうに、ごめん、なさい」

 私は最後の気力を振り絞って言った。先輩は聞いたことのない叫び声を上げたかと思うと、私とともに窓から身を投げた。視界の中で、先ほどまで自分がいた教室が遠ざかるのがスローモーションに見えた。隣で一緒に落下する先輩が、私を抱きかかえて自分の身体を下にするのが分かった。私はそうやって自分が守られていることに、死ぬことを望んでいながら嬉しさを感じてしまった。

「ありがとう。ごめんなさい」

 私は先輩を下敷きにしながら、地面に叩きつけられた。


 当たり前のように、私は次の瞬間に目を覚ました。そして、自分がいつか見た山道に、行列を成す人の流れの中にいることに気付いた。どうやら、私はまた死に損なったようだった。今度もまた、神様は私を死なせてはくれなかった。

「嘘でしょ……」

 そう呟いてから、私は慌てて周りを見渡した。どこに視線を向けても、私が確認できる範囲で先輩の姿を確認することはできなかった。ほとんど同時に死んだことから、私の近くに居てもおかしくはないはずだ。おそらくこの列は、死んだ順番に並んでいると考えられるからだ。もしかすると、落下した後に、私と先輩の間で絶命するタイミングがずれたのかもしれない。先輩は落下するとき、私を庇って自分を下敷きにした。先輩は即死して、私は遅れて命を落としているのかもしれない。私と先輩が死ぬ僅かな時間でも、これほどの人が命を落としていてもおかしくはない。私よりももっと先に、先輩はこの列に紛れているのかもしれない。

 私は、先輩も死なせてしまったことで、余計に自己嫌悪に陥った。もう誰も、私以外の誰かを死なせたくはなかった。私はやっぱり、生きている人にとって疫病神なのだろう。いよいよ救いようがなかった。

 前と同じようにしばらく山道を登っていると、広場が見えてきた。私が一度目に死んだ時、玲子さんに声を掛けられた場所だった。私はそこで、信じられない光景を目にした。何故か、広場のベンチに柊木くんが座っていた。私は見間違いじゃないかと思って、目を擦った。それからもう一度、目を凝らして確認すると、やっぱり柊木くんで間違いなかった。背丈が伸びていて、顔も最後に見た時よりもシャープになっていて、すごく大人びている。

「柊木くん、死んだの……?」

 私は自分が冷静さを失っていくのを自覚した。

 柊木くんは隣に座る見知らぬ男の人と話していた。それからまもなくすると、二人は一緒に広場の向こう側へと向かってしまった。

 私は慌てて広場で寄り道することなく、向こう側の列に並んだ。私より六、七人ほど前に柊木くんがいる。このままでは、柊木くんが役所の中に入ってしまう。どうしても、柊木くんを死なせたくはなかった。

 必死に柊木くんの名前を叫んだけど、何故か柊木くんに声が届く様子はない。私は列から抜け出せないことにもどかしさを感じていた。前にこの空間にやって来た時と同じで、役所の横にある細道を認識して、そちらに向かおうとしない限り、この列から抜け出すことはできない。

 私は役所が見えてきて、その隣に細道を視界に捉えたタイミングで、そちらに向かおうとした。すると、私の身体は解放されたように列から逸れることができた。それから、役所の鏡を見ようとしている柊木くんの手を掴んだ。彼は驚いたように私を見た。私の正体に気付いている様子はない。そして、彼が驚いている以上に、私も驚いた。

 彼から、体温が感じられた。私はその瞬間、安堵から涙が出そうになった。柊木くんは、まだ生きている。私はそのことが嬉しくて、彼を細道に誘導した。私は柊木くんを生き返らせようと、小屋の中に入った。すると、玲子さんのいう通り、二回目にここに来ると、パソコンの電源は入らなかった。私は死ぬためのブラフを得ることができたような気がした。けれど、最後の最後に柊木くんの姿を見た瞬間、もう二度と彼と話すことができないことに、今更ながら未練を覚えてしまった。

 ここへ来て、私が何かを望むなんてお門違いも甚だしい。私は自分の感情を殺しながら、柊木くんが生き返る手筈を整えられるように、パソコンでこの世界の仕組みを教えた。

 けれど柊木くんは、一向に生き返ろうとしない。それどころか、私を生き返らせようとしているのが分かった。柊木くんは、やっぱり相変わらずだった。

 私は、玲子さんが体験することのなかった、二回目の死の先にある人生を、少し考えてしまった。柊木くんが、前と変わらずに私を救い出そうとする姿に、そそのかされてしまった。私は自分の心が揺らいでしまうのを感じて、それを振り払うように、ずっと心の内に秘めていた私の罪を、柊木くんに告げた。

「私は、蓮宮茜を殺したの」

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