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ぼんやりする頭を振りながら、俺は辺りを見渡した。気味の悪い靄が立ち込めていて視界が悪い。ただ、剥き出しになった岩肌が自分の左右を塞いでいて、狭い道を成している場所に自分が立っていることは把握できる。おそらくは山道だと思われるが、さっきまでバイクで走り続けていた場所とは似ても似つかない。さらに奇妙なのは、どういうわけか自分の前後に人がずらりと並んでいることだ。見たところお年寄りばかりだ。
「なんなんだよ、ここは」
そもそも、こんな辺鄙な場所に来る前の最後の記憶によると、俺は死んだはずだ。それなのに、俺の意識は未だ存在している。もしかして、ここは死後の世界なのか?
俺はいつか琴音にされた奇妙な質問を思い出した。
俺はこのまま死ぬのは御免だった。引き返そうとしたが、どういうわけか自分の意志に反して前にしか進めない。どうやら、死後の世界では何か強制力が働くようだった。俺は仕方なく人の波に乗ってこのまま進むことにした。
どれほどの時間が経っただろうか。途中で広場に出たが、俺はそこで馴れ合う奴らの横を通り過ぎて、さらに奥へと進んだ。すると、何かの役所が見えてきた。どうやら、山道を登って来た人間はもれなくそこに入って行くことになっているらしい。ただ、そこに入ってしまっては、二度と現実世界に戻れなくなるだろうことが本能的に分かった。
俺はなんとかこの世界から脱出する手段はないかと辺りを見渡した。すると、役所の横に細い道が続いているのが見えた。だけど、周りの人間は誰一人としてその道に向かおうとする者はいない。俺はそのことを訝しく思ったが、役所に入る順番が迫ってきていたため、迷うことなくその道に侵入した。
道の様子は、さっきの無機質な山道とは違って、木々が生い茂っていた。俺はなんとなく、現実に近い雰囲気をこの道に感じながら先へと進んだ。やがて、木々で取り囲まれた広場に出た。そして、その広場の中央に小屋があった。
見たところこれ以上先に進むことはできない。俺はその小屋に入ることにした。中に入ると、薄暗い部屋で突然青い光が灯った。驚いたが、それが見慣れたものであったため、すぐに警戒心は解けた。
小屋の中にあったのは、なんとパソコンだった。テーブルが一つ、椅子が一脚あるのを見ると、誰かが使ってそのまま放置したのだろうか。
「そんなこと考えても無駄か」
俺はとにかく、利用できるものは利用しなければならないと思って、パソコンのマウスに手を置いた。すると、画面上でカーソルが動いたため、画面の真ん中にある何も書かれていないタブを押した。すると、何かの項目が六つ出てきた。
「なんだこれ。生き返り、裁き、生前善行、死後善行、生前悪行、死後悪行……」
俺は上から順にタブを押していった。そして、それぞれのタブがどういう役割を持っているのかを大体把握した。このパソコンは、俺の今後を決定する最後のチェックポイントなんだと悟った。
それから最後の「死後悪行」の項目を開いた時に、俺は思わず画面に食い入ってしまった。というのも、いくつか出てきた項目の中で、こんなものが表示されたからだ。
「生者を殺す」
俺は震える手でそのタブを押した。すると、画面の真ん中に虫眼鏡のマークがついた検索バーのようなものが現れた。その上に「殺したい人物の特徴あるいは名前を入れろ」という文字が浮かんだ。俺はその文字を見て何故か涙が出そうになった。
俺は急いで検索バーに打ち込んだ。
「蓮宮茜を殺した犯人」
犯人の名前はもちろん憶えていたが、憎しみを込めてそう打った。すると、画面が変遷して文字が表示された。
本日午後十七時三十分。緑ヶ丘中学校の302教室にて犯人現る。
「緑ヶ丘中学校……」
犯人は服役中のはずだ。どうしてその教室に現れるんだ。
俺は疑問に思ったが、さらに画面が変遷したため、一旦その思考を弾いた。
蓮宮純也が犯人の首を絞めながら、教室の窓から落下。二人は死亡。
その文字が出た時、俺は思わず笑ってしまった。死後悪行を遂行した人間は必ず死ぬことになるらしい。それもそうか。死んだはずの人間が生きている人間を殺すなんていう禁忌めいたことをするんだ。命の代償くらいあってもおかしくはない。
そんなことを考えていると、また画面が変遷した。
死後悪行を選択した者は、必ず罪を最後まで遂行することになる。
その一行が表示された後、さらに画面が移り変わる。
蓮宮純也の死後待遇 無への回帰
画面上で俺の名前が表示された。「無への回帰」という言葉が添えられた状態で。
俺はその言葉の意味するところをすぐに理解した。
「つまり、死後悪行なんてものを使った人間が、普通に死ねると思うなよってことか」
おそらく俺は、死後悪行という禁忌を犯すことで、本来なら天国や地獄という輪廻転生が起こる前段階の世界に移行するところを、俺の魂だか意識だかが消滅させられてそのどちらにも行けないということなのだろう。
「それでも、構わない」
俺は深呼吸をしてから、エンターキーを押した。すると、画面上に表示されていたタブが全て消えた。それと同時に、俺は意識が遠くなるのを感じた。そして、俺は長年の願いがようやく叶うことを実感した。それから視界が白くなり、気付くと俺は地面に横たわっていた。
「いってぇ」
俺は明るくなった山道の斜面で身を起こした。背中を打ったのだろう。痛みが走った。だけど、生と死の狭間を彷徨ってきたにしては、重症というわけでもなさそうだった。あるいは、本来なら死んでもおかしくはない状態だったけど、死後悪行による見えない力で身体が一時的に強化されているのかもしれない。本当のところは分からないが、俺は痛む身体をゆっくりと起こした。それから周りを見ると、装着していたヘルメットが割れているのが見えた。あれがなければ俺は即死していただろう。スリップしたバイクを確認すると、これ以上は使い物になりそうにはなかった。
俺はそれを放置して、ゆっくりと山道を下った。
「それにしても、偶然なことに俺が事故を起こしてから日を跨いだ今まで、誰もここを通っていないんだな」
そうでなければ、俺は誰かに発見されて今頃病院にいたかもしれない。ある意味運が良かったともいえる。それともあの世はこの世の全てを把握していて、あのパソコンの画面は下界の状況を分かった状態で今日を俺の復讐日に設定したのかもしれない。
俺はせっかくもらったチャンスを必ずものにしようと心に決めて、山道を下った。画面で示された時間までにはまだまだ余裕がありそうだった。俺はゆっくりとその時を待つことにした。
昼頃、最後になるランチをカフェで堪能していると、どういうわけか初めて琴音から連絡が入った。連絡先の交換を向こうから求めてきたくせに、最初の「よろしく」という琴音からのスタンプ以降、一切トーク画面は機能していない。もちろん、俺から連絡を送ることもなかった。
「ついに勇気を出してみようと思います!」
琴音からの連絡は、その一言だった。
「どういう意味だよ」
「先輩に告白しようと思いまして」
琴音からの連絡に、俺は首を傾げた。
「お前、好きな奴が他にいるんだろ?」
「あー、確かに今の文面だとそう解釈しちゃいますよね(笑)」
琴音が何を言いたいのか分からず、俺は困惑しながら次のメッセージを待った。それはすぐに来た。
「告白といっても、愛を囁く方じゃなくて、衝撃的な事実を伝える方の告白ですよ」
「あー、お前そういえばいつか俺に伝えるとか言ってたな」
「そう、それです。それを今日にしようと、ふと思ったんです」
「悪いけど、俺その話聞けそうにないわ」
「えっ、どうしてですか?」
「俺、多分この世界から消える」
「……先輩、頭大丈夫ですか?」
「多分、昨日のバイク事故で頭打った」
「え、本当に大丈夫なんですか!?」
琴音の反応に、俺は思わず笑ってしまった。琴音のリアクションは、当然のものだった。
「とにかくそういうわけで、気にはなるけど結局聞けず仕舞いになりそうだ」
「……どうしても、会えないですか?」
「今この連絡で言えないのか?」
「それは、絶対に出来ません」
「そうか。じゃあ、仕方ないな」
「今日の夕方とかは空いてないですか?」
「あー、わりい。ちょうど今日の夕方に予定があって、それから俺、いなくなるんだわ」
「……あの、先輩」
「なんだ?」
俺の問いかけに対して、それまで滞りなく続いていたやり取りがパタリと止んだ。それから十分ほど時間が経っても琴音からの返信は返ってきていない。おそらくはタイミング悪く何か一時的な用事ができてのことだろうが、こうやってお預けをくらうと、早く返信が返ってこないかとソワソワしてしまう。もしかすると、俺の寿命のタイムリミットがくるまでに返ってこないかもしれない。
「おいおい、気になって死ねないだろ」
冗談めいた独り言を呟いてから、俺はカフェを後にした。一度帰宅してから茜の遺影に手を合わせた。それから、俺は病院に向かった。いつものように病院につくと、顔パスでそのまま母さんがいる病室に向かった。ドアを開けると、驚いた様子で母さんがこっちを見ていた。
「あれ、あんた今日学校は?」
「早退したんだ」
「一体、どうして」
「母さんに会いたくて」
「……純也、あんたなんかあった?」
「別に、なんもないよ」
そう言いながら、俺は病院に来る途中で買ったメロンをテーブルに置いた。それから、ベッド脇にある椅子に腰かけた。母さんは俺の一挙手一投足を慎重に窺っていた。
「こうやってゆっくり話すことを、母さんは望んでただろ」
「そう、だけど」
「いざこうやって俺が素直になると変?」
「変というか、気持ち悪い」
「おいっ」
「冗談よ」
母さんは俺の反応にクスクスと笑った。それからタイミングよく病室にやって来た看護婦さんに、母さんはメロンを切ってもらうようにお願いした。
「私と、この子の分をお願い」
「分かりました」
看護婦さんはそう言うと、慣れた手つきでメロンを切り分け始めた。
「そういえばあなた、彼女は出来たの?」
「いや、いないね」
「えー、あなた顔のつくりはいいんだから、もっと積極的になりなさいよ」
「確かに、告白される頻度は多いな」
「ほらー」
「顔の良さは母さん譲りだろうな」
「お父さんもイケメンだったわよ」
「覚えてないな」
「前に写真見せたじゃない」
「そうだっけ」
俺と母さんが談笑していると、看護婦さんが切り分けたメロンを二つの皿に取り分けてくれていた。それらを、俺と母さんにそれぞれを手渡してきた。
「ありがとう」
「では、失礼致します」
看護婦さんはそう言うと、病室から出て行った。
俺と母さんはメロンを食べた。母さんに買うばかりであのスーパーのメロンを食べたことのなかった俺は、想像以上にうまいことを知って密かに感動した。それから、食べることに夢中になっていると、母さんが不意に言った。
「そういえば、茜も可愛らしい顔をしていたから、モテてたわね」
母さんが突然茜の名前を口にしたことで、俺は思わず顔を上げた。
「純也は覚えてる? 茜が小学五年生だった頃、クラスの女の子をいじめてたこと」
「……あぁ、そういえばあったな」
「茜がいじめに加担してることを知った時はすごくショックで、すごく怒ったのを覚えてるわ」
「それは俺も覚えてるな」
「でも、それからは茜、かなり反省したみたいで、中学校に上がってからは、自分がいじめていた子と仲良くなって罪滅ぼしをしようと必死だった」
「それは、知らなかったな」
「でも、相手の気持ちもあるし、私はゆっくりでいいんじゃないかってあの子に言ったの。でも、あの子は首を横に振っていたわ。あの子の行動原理自体は悪いものじゃなかったから、それ以上は追求しなかった。でも、あの子、不器用だから色々な手順をすっ飛ばして、突っ切っちゃってるんじゃないかって、いつも心配してた」
「あー、まぁ、そういうところあるな、あいつ」
「あなたもよ」
「……え?」
母さんは、俺の方を神妙な顔をしながら言った。
「あなたも、時折周りが見えなくなって、一度決めたことは梃子でも動かない」
「……どうだろうな」
「私は、今のあなたから、なんだかそんなものを感じてる。今日、ここに来たのは、本当に気まぐれなの?」
母さんの声音がいつにもまして真剣なものだったから、俺は思わず母さんから顔が離せなくなった。やっぱり親という存在はすごい。全てお見通しってわけか。
「確かに、猪突猛進気味なところがあるのは、俺自身も自覚はしてる。でも、今日俺がここに来たことに関しては、ただの気まぐれだよ」
俺が言うと、母さんは「そう」と深く息を吐いた。
「それなら安心ね」
「俺がなにをするって思ったんだよ」
「……もし、私が死んだら、あなたは家族がいなくなることになる。その時が来ても、あなたは必ず、強く生きなさい」
「……おい」
「大丈夫。あなたには味方がいるわ。京子もいるし、あなたみたいに優しい子なら、きっと周りに人が集まってくるわ」
母さんはそう言って、微笑んだ。
また、良い子か。悪いな、母さん。母さんの人格は、身内の俺から見ても出来たものだ。だから、これから俺がすることは、全部、母さんとは無関係だと思ってほしい。最後の最後まで、親孝行できなくて、申し訳ない。
「うふふ。それにしても、あなたとこうやって話すの、久しぶりね。お母さん嬉しいわ。ありがとう」
「なに言ってんだよ。また……」
「どうしたの?」
母さんは俺が言葉を詰まらせたことで、不思議そうに俺に訊ねてきた。
「……いや、なんでもないよ」
「そう? あ、そういえばさっきの話の続きなんだけど」
「なんだっけ?」
「茜のことよ」
「あー」
「茜、中学生になってから、自分が昔意地悪してた子と仲良くなったって喜んでたのよね。後で聞いたんだけど、今まで振られたどころか告白しかされなかった茜を唯一振った男の子がいるらしいのよ」
「へぇ」
「でね、その仲良くなった子も、その男の子が好きらしくて、二人がキスしてるのを見たことがあるんだって」
「……あいつ、そんなことまで親に喋ってたのか。すげえな」
「その女の子の名前が琴音ちゃんっていうんだけど。ほら、何度か家に遊びに来て純也とも話したことあるでしょ? 琴音ちゃんとその子は二人とも頭が良くてお似合いで、つけ入る隙がないんだって」
「…………なんだって?」
「男の子の方は柊木くんっていうんだって。純也は見たことある? 下の名前までは分からないんだけど」
「ちょっと待ってくれ。琴音って、楽器の琴に、音楽の音で琴音か?」
「そうよ。覚えてたのね」
「……琴音は、俺と同じ高校に通ってる」
「えっ、そうだったの?」
母さんは目を丸くした。
茜がいじめていた奴が、琴音だと? そんなこと、今の今まで知らなかった。
母さんは構わず何かを話続けているが、俺の耳にはもう何も入ってこなかった。そのタイミングで、俺の携帯にメッセージが入った。
「私、今日の夕方に緑ヶ丘中学校で待ってますから」
琴音からのメッセージだった。それを見た俺は、血の気が引いた。
「母さん、ごめん。俺行くわ」
「ん? あら、もうこんな時間。随分と話したのね」
「また……、また来るから」
「分かったわ。また、顔見せてちょうだいね」
俺は、母さんの言葉に頷いた。
俺は病室を出て、転がるように病院を飛び出した。オンタイムで緑ヶ丘中学校に向かうつもりだった俺は、琴音を先回りするために学校へと走った。走りながら、俺は琴音に電話した。
「もしもし? 先輩?」
「お前、今どこ?」
「え、どうしてですか?」
「いいから答えろ!」
「んー、結局夕方に落ち合うんで、言わなくてもよくないですか?」
「だから、その時間に緑ヶ丘中学校に行くのはやめろ!」
「どうしてですか」
「今日だけはやめろ。危険だ」
「どうして危険なんですか?」
茜を殺した犯人がそこに居るからだ、とは言えない。
「それは言えない。だけど、頼むから今日だけはやめてくれ」
犯人と琴音を接触させるのは危険だ。ていうか、そもそもなんで犯人はそんな場所にいるんだよ。
俺は自分で取り乱していることを自覚しながら、学校まで走った。俺は痛む身体に耐えながら、がむしゃらに走った。
「なんか先輩、息切れしてません?」
「走ってるからな」
「なんでそんなに慌ててるんですか?」
「お前が学校に行くとか言うからだろ!」
「学校に行っても別にいいじゃないですか」
「高校生が入ったら、それは不法侵入だろ」
「卒業生なんで大目に見てくれますよ。それより、先輩」
「なんだよ」
「先輩が慌ててる理由、当ててみましょうか?」
「……は? こんな時に冗談言うなよ」
俺がそう言った後、携帯の画面越しで琴音が息を吐くのが聞こえた。それから、神妙な声音で琴音が言った。
「先輩、一回死んだんじゃないですか?」
「…………は?」
「それで、生き返ったんでしょう?」
「…………お前、何言って」
「今日の十七時三十分に、緑ヶ丘中学校の302教室にいます。絶対に、来てくださいね」
琴音はそう言い残すと、電話を切った。
「おい! 琴音! くそっ。どういうことだよ。なんであいつ、そのことを知ってんだよ」
俺は訳が分からないまま学校まで走り続けた。どういうわけか、琴音は犯人が教室に現れる時間を指定して、しかもその現場で落ち合うと言い出した。考えてみても一向に何が起きているのかは分からない。ただ、琴音がそこに向かうことを阻止すべきことだけは分かった。
なんとか学校にたどり着いたのは、約束の時間の十分前だった。学校の前で琴音が教室に向かうのを阻止しようかとも思ったが、もうあいつは教室に来ているかもしれない。俺は302教室に向かうことにした。
教師に声を掛けられたら卒業生で遊びに来たという言い分と身分証明書を用意していたが、そんなものが必要になる時は来なかった。意外と校舎の中はがらんとしている。階段を二つ登って目当ての階にたどり着いたが、廊下を見渡す限り人の気配はない。
琴音が待ち合わせ場所に指定した302教室に向かったが、誰もいなかった。俺は少し拍子抜けして教室の中に入った。時刻を確認すると、十七時三十分まではまだ五分ほどあった。俺は適当な席の椅子に座り、黒板を見つめながら琴音か、あるいは犯人が来るのを待った。
ただ、冷静に考えれば考えるほど、今の状況が奇妙なものに感じられた。そもそも、犯人はどうやってこの教室までたどり着くのか。まさかこの日本において脱獄が成功するとも思えない。それに、俺はどうしてあの臨死体験での出来事を真に受けているのだろうか。
あれは単なる俺が見た幻想、あるいは妄想だと考える方が合理的だ。琴音に死後の世界を信じるかどうか訊かれた時だって、俺は信じないと答えていたじゃないか。ふと、そんな現実的な考えが過った。
「なにしてんだろうな、俺」
俺は事故を起こしてから今に至るまで、必死になってバカみたいに悲劇のヒーローを気取っていた。でも、それは全て俺が勝手につくりあげたシナリオの中での出来事。そう考えるのが一番自然だろう。
俺は自分の馬鹿さ加減に思わず笑いが込み上げてきた。
「ここに来て、なに当たり前なことに気付いてんだよ、俺」
俺は冷静さに欠けていた。おそらく、今の俺は事故の後遺症に犯されているのだろう。母さんの病院へ見舞いに行ってる場合ではなかった。病院に世話になるべきなのは、まさに俺だったのだ。
俺は一人で笑いながら、立ち上がった。時計を見ると、時刻は約束の一分前だった。
約束の……。
俺は教室のドアに手を掛けたところで、琴音との約束を思い出した。犯人への復讐が虚偽だったとして、俺は琴音とここで会う約束をしていたんだ。どのみち、まだ教室から出てはいけない。そう考えながらも、ついさっきまで教室から出ようとしていた俺の身体は、その手をドアに掛けて勢いよくガラガラと開けた。
「……お前」
教室の前に、琴音が立っていた。
「約束、守ってくれましたね。先輩」
琴音はそう言って微笑んだ。その光景を見た瞬間、俺の手が勝手に琴音の方へと伸びていった。俺の目は、どういうわけか琴音の細い首筋に視線を奪われた。そこには、紫色に浮かびあがった痣があった。琴音がマフラーを外しているのを初めて見たな、と呑気なことを考えた。そんな俺の思考とは乖離した俺の両手はそんなことには構わず、左右から琴音の首を掴んだ。それから、何の躊躇いもなく、琴音の首を強く絞め始めた。
「うぅっ」
琴音は苦しそうに呻き声を上げて、俺の両手に自分の手を重ねた。だけど、その手からは微塵も力を感じられない。つまり、琴音は俺からの攻撃に抵抗するつもりがないということだ。
「な、なんだよ、これ。やめろよ」
俺は自分の意志とは無関係に暴走する手に恐怖を覚えながら叫んだ。
「琴音、逃げろ。くそっ、なんでだ。離れねぇ!」
「せ、せん、ぱい」
「琴音!」
「やっと、楽に、なれる……」
琴音は愉悦に浸るような表情で言った。
「馬鹿、なに言ってんだ。早く抵抗しろ! 俺の手を振り解け」
「先輩も、こう、なるのを、望ん、でた、でしょ?」
「そんなわけないだろ!」
「うそ、ばっか、り……」
俺の身体はやがて、琴音の首を絞めながら教室の中へと誘導され始めた。俺の手は、甲に血管が浮かび上がるほど力が込められている。琴音の首から上が圧迫されて赤くなっていた。
「くっそ、なんなんだよ、これ!」
必死に琴音の首から自分の手を剥ごうとするが、一向に離れてくれない。むしろ、より一層自分の手が琴音の首に食い込むのが分かった。このままでは、本当に琴音が死んでしまう。焦りながら自分の手の動きに抵抗していると、今にも意識が飛びそうな琴音が言った。
「死後、悪行」
「……今、なんて」
「や、っぱ、り、先輩も、行ったん、ですね。あっちの、世界、に」
琴音のその言葉を聞いて、俺は電話している時に琴音が臨死体験のことを口にしていたのを思い出した。
「よか、った。ずっと、こう、なれば、いいのに、って。せ、んぱ、いに、ずっと、殺して、ほしかった」
「……なんで。なんで俺は、お前を殺そうとしてるんだよ」
「……わたし、が、茜さんを、殺した、から」
「…………なんだって」
「ご、めん、なさい」
「お前はずっと、俺にこうされるために、関わってきていたのか」
琴音は俺の言葉に涙を流しながら、「ごめんなさい」と言った。
俺の両手は着実に琴音を殺そうと、教室の窓に琴音を突き出した。その拍子に琴音は窓にぶつかった。俺の両手は琴音を解放し、振り払った。琴音は机に衝突して、いくつか連鎖して音を立てながら倒れた。それから琴音は、苦しそうに咳き込みながら、必死に息をしている。
俺は窓の鍵を外して、勢いよく開いた。それから、窓の下を覗いた。下には、コンクリートの中庭が広がっている。俺はどうやら、ここから琴音を突き落とすために窓を開けたようだ。
おそらくは再び琴音の首を絞めるために、俺の身体が琴音のいる方を振り返った。その瞬間、誰かが俺の首を絞めて窓の方へ押し倒してきた。俺の首から先が、窓の外に出た状態になった。
「殺させない」
「……お前は、誰だ」
目の前には、制服を着た男の姿があった。鬼のような形相で俺の首を掴み、今にも窓から突き落としそうな気迫を感じた。
男は琴音の方を振り返ると、「逃げるんだ! 琴音!」と叫んだ。琴音は目を見開きながらそいつを見ている。
「……柊木、くん? どうしてここに」
「事情は後で説明する! だから、今はとにかく逃げてくれ!」
男がそう叫ぶと、琴音は俺の方を見てきた。
「こいつの言う通りだ。とにかく、今は俺から離れてくれ!」
「……でも」
「お前が茜を殺した犯人だなんて、俺はやっぱり納得できない。頼むから、俺が冷静に話ができるようになるまで、俺には近づかないでくれ!」
俺がそう叫ぶと、琴音は神妙な面持ちで頷いた。それから、立ち上がり、足を引きずりながら教室を出ようとしているのが見えた。
「お前、俺の暴走を封じ込めるか?」
「悪いけど、僕にそんな力はない」
「そうかい。だったら、うまいこと俺だけを突き落としてくれよ」
「それも後味が悪くてできない」
「でも、それしか道はないだろ」
「そもそも、そんな器用なことはできない。だから……」
男はいきなり俺の首から手を離した。そして、そいつは俺から少し距離を取った。突然の行動に面食らっていると、そいつは勢いよく俺に向かって突進してきた。
「おい!」
思わぬ行動に思わず声を上げた頃には、俺とそいつの身体は窓の外に吹き飛んでいた。俺の視界には、このまま落下すれば死が約束されたコンクリートが広がっている、はずだった。でも、そこには体育用のマットが複数枚敷かれてあった。おまけにこいつは、俺の頭を抱きかかえ、自分の身体を俺の身体の下にしている。つまり、こいつは自分を下敷きにして俺を庇おうとしているらしかった。
「そんなことさせてたまるか」
俺は急加速を始めた自分の身体を翻して、男の身体を上にした。そして、そいつの頭が無事であるように抱きかかえた。視界の先には、さっきまで自分がいた教室の窓から琴音が何かを叫びながらこちらを見下ろしているのが見えた。その光景を最後に、俺の視界が先へと吸い込まれていき、真っ白になった。