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 小屋の中で、パソコンの画面を眺めていた。タブは「生前善行」を開いている。そこには、自分が生前行った善行と、どういった心境でその善行に至ったかが記載されている。


「大井琴音の自殺を止めた 彼女の幸せを願ってのこと」


 僕はその文言を見つけてから、しばらくの間この画面から目を離せていない。昔のことを色々と思い出しながら、僕は溜息を吐いた。

「何見てるの?」

「うわっ」

 突然背後から画面を覗いてきた大井さんに動揺した僕は慌てて電源を消そうとしたけど、そういえばこのパソコンには電源ボタンが存在しない。急いでバックスペースを押すと、六つのタブが並ぶ画面に戻った。

「生前善行を見てたんだね」

「まあね」

「中学生の頃、私が屋上から飛び降りようとした時、柊木くんは必死に引き留めてくれたよね」

「……見られてたか。そりゃあ、誰だって止めるよ。目の前で人が自殺しようとしてたら」

「私は屋上のフェンスを乗り越えて、心許ない塀の上に立ってた。柊木くんだけが迷わず来てくれた。きっと、そんなことができる人は限られてると思うよ」

「……あの時は、必死だったから」

「本音を言うと、あの時はどうして止めたんだって柊木くんに怒ってた」

「……」

「でも、ちょっぴり嬉しかった。私なんかのことを助けようとしてくれる人がいたから」

「……大井さんは、別に周りから疎まれてたとかないでしょ」

「それは、昔柊木くんが私を助けてくれたからだよ。でも、今の私はもう、この世界にいちゃいけない存在になっちゃたの」

「そんなことないよ」

「そんなことあるよ」

「ないよ」

「あるの!」

 大井さんは突然声を荒げた。それからすぐにはっとして、口元を押さえた。

「ごめんなさい」

「……あのさ、教えてほしいんだ。どうして大井さんがそんな風に考えるようになったのか。どうして、中学二年生の時、緑ヶ丘中学校で起きたあの放火事件以降、大井さんは突然学校に来なくなったのか。何が大井さんを、屋上から飛び降りさせるほど追い詰めたのか」

「……それは」

「僕に話してほしい。昔、約束してくれたでしょ」

 僕が言うと、大井さんは小さく呟いた。

「柊木くんには、やっぱり敵わないな。分かった。話すね」

 大井さんはそう言って息を深く吐くと、僕に言った。

「あの放火事件で亡くなった一人に蓮宮茜って子がいたでしょ? あの子は……」

 大井さんは、僕に有り得ないことを言ってきた。

 大井さんの言葉を、僕の脳が理解するのを拒むのが分かった。今、僕の耳に残っている大井さんの声が僕の脳に侵入していくことを拒否している。僕は、思わず大井さんの顔をまじまじと見つめた。

大井さんは、まるで自分が死んだことが仕方ないといった様子で、悲しそうに笑っていた。


 小学校五年生の時、僕は大井さんと同じクラスになった。新学年が始まって一ヶ月ほどが経った頃には、僕は大井さんがクラスから浮いていることに気付いた。五年生になって初めて大井さんとは同じクラスになったけど、どうやらクラスの雰囲気から察するに、前の学年から引き継がれていることらしい。

 最初の頃は、みんな新しい担任を警戒してか、大井さんに直接何かすることはなかった。大井さんの方も、休み時間やお昼休みには誰とも話さず、静かに本を読んでいた。ただ、一学期も半ばを迎えると、徐々にクラスメイトたちの動きが怪しくなってきた。

 その頃には、大井さんが休み時間になる度、何かを探している様子が見られた。筆記用具だったり教科書だったり、ひどいときには上履きを履かずに教室にやって来ることもあった。

 ただ、大井さんはそのことを誰にも相談していない様子だった。おまけに成績が優秀で真面目なことが災いして、大井さんは先生たちから特に異状を感じられることのないまま学校生活を送った。

 ある日の放課後、すでに帰宅していた僕は、お使いの帰りに学校の前を通り過ぎようとしていた。すると、体育館の裏で、大井さんを三人の女子と二人の男子が取り囲んでいるのが目に入った。僕は嫌な予感がして校舎の中に入った。駆け足で体育館の裏にたどり着いた瞬間、男子二人が水の入ったバケツを抱えて大井さんの頭上からかけた。大井さんは小さく悲鳴を上げて肩を竦めた。女子三人はずぶ濡れになった大井さんを見てげらげらと笑っていた。

「お、こいつ服濡れて肌透けてね?」

「うわ、マジだ。見せろよ」

 大井さんは男子二人の言葉に胸元を手で覆った。二人は大井さんの腕を取り払おうと腕を掴んだ。

「いやっ、やめて!」

 大井さんは泣きながら叫んだ。

「うっせえ、先生にバレたらまずいだろ」

 男子の一人が大井さんの髪を掴んで引っ張った。一連の光景を見ていた僕は、そいつの頬を思い切り殴った。今の今まで僕の存在に気付いてなかったらしい男子は、「うおっ」と声を上げながら倒れた。女子三人は「きゃー!」と声を上げた。僕に殴られた男子は、頬を押さえながら涙で赤くなった目を僕に向けてきた。

「なにすんだよ」

「正当防衛だよ」

 僕が言うと、もう一人の男子が僕に殴りかかってきた。僕もそいつに突進して、もろとも倒れ込んだ。それから、僕は、思い切りそいつの耳を噛んだ。

「いってぇぇ!」

 耳を劈くような叫び声が響き渡ったけど、僕はお構いなしにそいつの耳に歯を立てつづけた。

「やめろ! 離せ、離せよ!」

 そいつは必死で抵抗し、僕を振り払った。泣きながら僕を睨みつつ、耳を押さえている。血が出ているようだった。

「お前、マジで頭おかしいんじゃねえの?」

 男子の言葉に、女子三人が横から口を挟んできた。

「そうよ、やり過ぎよ。耳がちぎれちゃったらどうするの?」

「あんた、サイコパスだったんだね」

「マジできもい」

 口々にそう言われたけど、やり過ぎなのはどっちだよ、と僕は心の中で思った。

 転がったままだったもう一人の男子も立ち上がり、僕から後退るようにもう一人の男子の隣に並んだ。

「先生に言うからな」

「いいよ」

「お父さんとお母さんにも言うからな」

「うん」

 僕が二人の言葉に頷くと、二人はそそくさと職員室に向かった。この場に残っている女子三人は、怯えたように僕を見ていた。

「あんた、こいつのこと好きなの」

 女子の一人が大井さんの方に顎を上げて言った。

「いいや」

「じゃあ、なんでここまでしたの」

「止めた方がいいと思ったから。それより、僕からも質問していい? どうしてこんなことしたの?」

 僕の質問には誰も答えなかった。いや、答えられなかったのかもしれない。

「大井さんが頭が良くて先生からも好かれていて、おまけに美人だから? それで嫉妬したみんなは、力がないから男子まで引き入れて寄ってたかって大井さんをいじめてるわけだ。知ってるよ。君たちがこのいじめの主犯格だってことは」

 僕がそう言うと、女子三人はうっ、と言葉に詰まった。ただ、さっき僕に質問を投げかけてきた女子が僕に突っかかってきた。

「こんなやつのどこが美人なわけ?」

「美人というよりは、可愛い、かな?」

「どっちも違う! こんなブス! じゃあなに、あんたこいつとチューできんの?」

 女子の突然の質問に、大井さんは驚いたように顔を上げた。けれど、顔を赤くしてすぐに俯いた。

「できるよ」

「……マジか」

 僕が答えると、質問した女子は引いた様子だった。大井さんはといえば、口をぽかんと開けて僕の方を見ていた。

「この子、あんたのこと好きなのに」

 もう一人の女子が、僕に向かってそんなとんでもない発言をしてきた。確かによく見ると、僕に対して大井さんにキスできるかどうかの質問をしてきた女子は、目を赤くしていた。僕の返答に引いたのではなく、ショックを受けていたのか。

「悪いけど、性格が歪んでる子のことを好きにはなれないな」

 僕が言うと、その子はいよいよ声を上げて泣き始めた。

 そんな状態がしばらく続いていると、騒ぎを聞きつけた、というよりは男子二人が呼びに言ったであろう先生たちがやって来た。それから僕たちは双方の言い分を先生たちに伝えた。当然のことではあるけど、大井さんのいじめが露呈して五人はこっぴどく叱られた。家族にも話がいき、五人は後々、しばらく学校を休むことにまでなった。僕の方は、少しやり過ぎたと注意を受けただけで済み、その日は解放してくれた。ただ、面倒なことに家にも連絡が入ったため、帰ってから母さんに根掘り葉掘り事情を説明させられてうんざりした。最終的には僕の行動を讃えてくれはしたけれど。

 そんなことがあってから、大井さんはちょくちょく僕に話しかけてくるようになった。大井さんは授業の合間の休み時間や、お昼休みを狙って僕に声を掛けて来るのだ。それから月日が流れて六年生になっても同じクラスになった大井さんは、いつの間にか随分と明るくなった。クラスのみんなとも話すようになったのだ。僕はといえば相変わらず誰かと積極的に関わることはなかった。それなのに、クラスの中でもカースト上位になった大井さんは、僕に話しかけることをやめなかった。

「柊木くん。さっきのテストどうだった?」

「どうって、まぁ、普通だけど」

「見せてもらっていい?」

 大井さんは僕からテストの答案を受け取ると、思わずといった様子で笑った。

「やっぱり、柊木くんには敵わないや。あのテストを普通って言うんだもん」

「え、普通じゃなかった?」

「私には少し難しく感じた。多分、平均点も下がると思うよ。こっそり先生に教えてもらったんだけど、難関私立中学校の入試問題を混ぜてるんだって」

「へー、そうだったんだね」

「興味なさそうだね」

「受験するつもりがないからね」

「こっちは必死で柊木くんに勝とうと頑張ってるのに。柊木くんいつも満点だから勝てないや」

「たまたまだよ」

「出た、賢い人の謙遜」

「大井さんだって賢いでしょ」

「でも、柊木君には勝てないな。あ、そうだ。次私がテストで勝ったら、何かご褒美くれない?」

「……どうして僕に利のない話を」

「……そっか。ダメかぁ」

 大井さんはそう言って肩を落としながら自分の席に戻ろうとした。その姿を見た僕は、溜息を吐いてから言った。

「次のテストだけだよ。それ以降のテストは無効」

 僕が言うと、大井さんは表情を輝かせて踵を返してきた。

「なんでも言うこと聞いてくれるんだね? 約束だよ!」

「……それは初耳だけど、まぁ、分かったよ」

 僕の言葉に、大井さんははにかんだ。

 そして、あろうことか、僕は次のテストで大井さんに負けてしまった。大井さんのあの勝ち誇った顔は今でも忘れられない。

「柊木くんに勝つために、先生が出す私立中入試の問題の対策をしてきたんだ」

「……すごい執念だね。でも、素直にお見事だよ。あの問題で九十点以上取れるのは。今回は完敗だよ」

「えへへ。じゃあさ、今日の放課後、体育館裏に来てよ」

「え、なんで」

「テストで勝ったら、何でも言うこと聞いてくれるんでしょ?」

 大井さんはテストをひらひらさせながら言った。

 放課後、僕は大井さんに言われた通り体育館の裏に向かった。思えば大井さんと関わるきっかけになったバケツ事件もここが現場だった。大井さんはこんなところに来て嫌なことを思い出さないのだろうか。そう心配して大井さんを待っていると、手を振りながら大井さんがこちらに向かって来た。

「ごめん、お待たせ」

「いや、大丈夫。それより、何をするつもり」

「えーっとね、あのさ」

 大井さんはそう言うとぐいっとこちらに顔を寄せてきた。そして、言った。

「柊木くんにとって、私って美人? それとも可愛い?」

「……突然、なに?」

「いいから、答えてよ」

「……あくまでその二択を選ぶなら、可愛い、なんじゃないかな」

「そっか。ふふふ」

「……」

「じゃあさ」

 大井さんはさらにこちらに顔を近づけると、耳元に吐息をかけながら言った。

「今でも、私にキスできる?」

「……は?」

「前にここで私を助けてくれた時、蓮宮さんの質問に答えてたでしょ? 私にキスできるかどうかって」

「……そういえばそんなこともあったね」

「それって、今でも変わらない?」

「……」

「私のお願い、一つだけ聞いて。たった一度だけでいいから、キスして」

「……なんでもするっていうのは、この事?」

 僕が訊くと、大井さんはゆっくりと頷いた。

「ずっと、この時のために私は勉強してきた。柊木くんにテストで勝てたら、勇気を持ってお願いしようって」

「……そんなことのために」

「そんなことのため、だからだよ」

 大井さんはそう言うと、目を静かに閉じた。いよいよ逃げられない状況に追い込まれたと観念した僕は、大井さんの唇に自分の唇を重ねた。たった数秒の出来事だったけど、随分と長く感じられた。大井さんから顔を離すと、大井さんが目を潤ませながらこちらを見上げているのが視界に入った。僕は慌てて大井さんの側から離れた。

「……じゃあ、これで」

 僕は大井さんの顔をまともに見れずに、そのまま帰宅した。その日以来、僕と大井さんは気まずさから話すことがなくなった。

 それから中学生になり、僕と大井さんは別のクラスになった。小学生の頃の出来事なんてなかったかのように、大井さんは明るく周りと話している様子を目にするようになった。驚いたことに、大井さんがバケツの水を被ったときにその場に居合わせたあの女子三人とも仲良く話しているのを見掛けた。さらに、大井さんは風紀委員にもなっていた。僕は、大井さんが学校に馴染めていることに密かに安心していた。

 ある日の休日、図書館で本を借りようと歩いていると、目の前でお婆さんが大きな袋を二つ両手に抱えていた。腰が曲がっているために、袋は地面と擦れてボロボロになっている。このままでは底が抜けて中の物が落ちてしまう危険性があった。何より、お婆さんの体力が持つかが懸念された。

「お婆さん。荷物貸して」

 僕はそうお婆さんに声を掛け、荷物を持った。お婆さんは眩しそうにこちらを見上げて「ありがとう」と言った。そして、僕とお婆さんが歩き始めた途端、誰かが声を掛けてきた。

「片方持ちますよ」

 声のした方を振り返ると、そこには大井さんがいた。

「……久しぶり」

「うん。久しぶり」

「えっと、荷物は僕だけで大丈夫だよ」

「そうはいかないよ」

 大井さんはそう言うとにこやかに笑って、僕の荷物を半ば強引に奪い取った。

「あらあら。最近の若い子は親切な子が多いねぇ」

 お婆さんの言葉に、大井さんはまたにこやかに笑った。

 無事にお婆さんの家まで荷物を運んだ後、僕と大井さんは図書館の途中にある公園のベンチでジュースを飲んだ。ほとんど交わされてなかった会話のきっかけを作ったのは、大井さんの方からだった。

「変わってないね」

「なにが?」

「柊木くんのそういう優しいところ」

「……別に、たまたま目に入ったから」

「目に入って行動に移せる人が少ないから、優しいんだよ」

「……相変わらず、諭すような言い方をするね」

 僕が言うと、大井さんは笑った。

「なにがおかしいの」

「違うよ。おかしいんじゃなくて、嬉しいの」

「どうして?」

「こうやってまた柊木くんと話が出来て。中学生になってから全然話せてなかったから」

「まぁ、確かに」

「ずっと、柊木くんと話したかった」

「今更僕と話す必要もないでしょ。今となっては、大井さんはヒエラルキーの最上位にいるんだから」

「ヒエラルキー?」

「……いや、なんでもない」

「色々な人と話せるようになったのは、柊木くんのおかげだよ」

「僕は何もしてないよ」

「ううん、したよ」

 大井さんはそう言うと、僕のことをじっと見つめてきた。

「本当に、感謝してる。ありがとう」

「……どういたしまして」

 僕の言葉を最後に、静かな空気が漂った。なんとなく気まずくなった僕は、大井さんに訊いた。

「そういえば、蓮宮さんとも話してたよね。どういう経緯でそうなったの?」

 蓮宮さんは、大井さんをいじめていた女子の一人で、僕に大井さんとキスできるかという質問をぶつけてきた。

「……あー、私と蓮宮さんが話してるところ見たんだ。えっとね、本当は私、まだ蓮宮さんたちのことを心の底からは許せてないの。でも、向こうは昔のことだって割り切ってるみたいで、すごく気さくに話しかけてくるから突っぱねるにも突っぱねきれなくて。だから、表面上では仲良く見えてるだけだと思う」

「なるほどね。面倒くさいね」

「あはは、本当だよ」

 大井さんはそう言って立ち上がった。

「ごめんね。図書館に行くんだよね。引き留めてごめん」

「別に構わないよ」

「柊木くんと話せて元気出た!」

「それはなにより」

 僕も大井さんに倣って立ち上がった。すると、大井さんは肩から掛けていてポーチに手を入れて、携帯を取り出した。

「柊木くんって携帯持ってる?」

「え? あぁ、持ってるけど」

「良かったら交換しない? 一昨日お母さんに買ってもらったんだ」

「そうなんだ。別にいいけど」

 僕と大井さんは、連絡先を交換した。それから、僕たちはまたタイミングが合えば話そうと約束して別れた。けれど、その約束は翌日から守られることはなかった。

 夏もピークを迎えた次の日の放課後、僕たちが通う緑ヶ丘中学校が一人の男によって放火され、全焼した。その事件によって、学校に残っていた四名の生徒と、一人の教職員が亡くなった。僕たちは一時的に別の校舎で授業を受け、元々使用していた校舎が修復されるのを待った。けれど、結局僕たちの代が卒業するまで、別の校舎を使うことになった。

 火事があった日を境に、大井さんは学校に来なくなった。同級生たちは心配していたけど、大井さんの家を訪ねても誰もが突き返されたと耳にした。僕も大井さんのことが気掛かりで、何度か交換した連絡先にメッセージを送ったけど、一度も返信が来ることはなかった。僕は一度、意を決して大井さんの家を訪ねたことがあった。ただ、その時は大井さん本人が立ち会ってくれた。メッセージのことについて訊くと、今は怖くて携帯を見ることができないのだと大井さんは言っていた。返信ができていないことを謝られたけど、あまりにも憔悴しきった大井さんを責めることはできず、申し訳程度の手土産を渡して帰った。

 それから学年が変わるまでの間、大井さんは学校に来ることはなかった。中学二年生になって三ヶ月が経った頃、大井さんが登校してきた。クラスメイト全員が当然驚いた様子だった。一つ、前と大きく変わったのは、時期が外れているにも関わらずマフラーを身に着けていることだった。どことなく以前とは違う大井さんに、声を掛けようとする人はいなかった。それは、僕も例外ではなかった。

 お昼休みになり、各々が昼食を取り始めた頃、大井さんがふらふらと教室を出て行くのが見えた。しばらくお弁当を食べていたけど、大井さんは一向に戻ってこない。僕はなんとなく胸騒ぎがして、大井さんを探した。嫌な予感がした僕は、昼休みにだけ解放されている屋上へと向かった。

 息を切らしながら屋上に出ると、何人かの生徒が集まって何やら騒いでいた。近づいてみると、フェンスの向こう側に大井さんの姿を見つけた。どうやら、フェンスを乗り越えて、向こう側にある塀の上に立っているらしい。僕は肝が冷えるのを感じて、すぐに大井さんに言った。

「何やってるんだ、大井さん!」

 僕が呼びかけると、大井さんは虚ろな目でこちらを振り返った。

「……柊木くん」

「そんなとこに居たら危ないよ! 早く戻って来なよ!」

「嫌。私は、生きていて良い人間じゃないから」

 大井さんはそう言うと、僕に背を向けて俯いた。おそらく、屋上から見える校庭を見下ろしているのだろう。僕は焦りながら叫んだ。

「そんなことしたって何にもならない! とにかく、話を聞かせてよ!」

「嫌だ。柊木くんだけには聞かれたくない! 私の話を聞いたら、柊木くんは二度と私と話してくれなくなる!」

「そんなことない! 頼むから、こっちに戻って来てよ!」

「私は、最低な奴なの。死んだ方が良い存在だから」

 そう言うと大井さんは、徐々に身体の重心を前に傾け始めた。

「大井さんがいなくなったら、僕は困るんだよ!」

「……」

「僕は大井さんのことが好きなんだ! 大井さんが戻らないなら、僕がそっちに行く」

 僕の言葉に大井さんは振り返り、驚いた顔で僕のことを見ていた。僕は構わずフェンスをよじ登った。野次馬からはどよめきが聞こえた。僕は慎重に狭い塀に降りた。よくこんなところまで来れたものだと、僕は大井さんの顔を見つめた。

「……柊木くん」

「あっちに戻ろう」

 僕はフェンスの向こう側にある屋上を指さした。けれど、大井さんは俯いて言った。

「でも、私、生きていて良い人間じゃない」

「それはどうしてなんだよ」

「言えない。特に、柊木くんには」

 大井さんはそう言うと、泣きながらしゃがみ込んでしまった。僕はしばらくの間、大井さんの背中をさすりながらその場に留まった。

 やがて、誰かが呼んでくれた先生たちがやってきて、その場から動かない大井さんをなんとか引き上げてくれた。大井さんは保護者の家にすぐさま連絡が行き、帰ることになった。

 屋上から大井さんが去る時、僕の耳元で大井さんは言った。

「また、助けられちゃったな」

 その言葉を最後に、大井さんは学校に来ることはなかった。

 それからしばらくして、僕は大井さんの家を一度訪ねたことがあった。大井さんが出迎えてくれ、その時は部屋にも通してくれた。

「来てくれてありがとう」

「あれからは大丈夫だった?」

「……うん。なんとか」

「そっか。えっと、大井さんが無事かどうかの確認で今日来たんだけど、一先ずは大丈夫そうでよかったよ」

 そこまで言って、僕はずっと訊きたかったことを訊ねた。

「そういえば大井さん、どうしてずっとマフラーをしてるの?」

「ん? あ、これ? 私、寒がりだから」

「なんなら夏が近づいてる時期だけど」

「寒がりじゃない人には分からないんだよ」

「そういうもんなのかな」

 少し違和感を覚えつつも、前みたい、とはいかなくとも普通に話せていることに、僕は内心ほっとしていた。それからしばらくの時間、僕と大井さんは他愛のない話をした。

「もうこんな時間か。そろそろ帰るよ」

「うん。来てくれてありがと」

 僕が立ち上がると、大井さんも僕を見送ろうと立ち上がった。それから部屋を出ようとドアを開けると、廊下の電気が点いていなくて真っ暗だった。僕は急に不安になって振り返った。大井さんは驚いたように僕を見て「どうしたの?」と言った。僕は少し口を開けた大井さんにキスをした。それからすぐに顔を離すと、大井さんは目を見開いていた。

「お願いだから、もうあんなことはしないでね」

 僕が言うと、大井さんは苦しそうに俯いた。

「少なくとも僕は、大井さんを必要としている。だから、居なくなろうなんて考えないで。何があったのかは、話してもいいって思ってからでいいから」

 僕はそう言って部屋から出ようとした。すると、大井さんが後ろから抱き着いてきた。

「柊木くん。私ね、転校することになったの」

「……え?」

 僕は大井さんからの突然の言葉に思わず振り返った。

「明日引っ越しするから、すごいタイミングで来てくれてびっくりしちゃった」

「……そうだったんだ」

「次に柊木くんに会った時には、何があったのか話すから。だから、それまで私のこと、覚えててね」

「……うん。もちろん、忘れないよ」

 僕と大井さんはもう一度だけ、キスをした。それが、僕の記憶に残る大井さんとの最後の思い出だった。

 その日、僕は大井さんの引っ越し先を訊くことはなかった。僕と大井さんは、携帯の連絡先を交換していたからだ。けれど、その日以来、僕からメッセージを送っても、電話しても、大井さんがそれに応えることはなかった。


「でも、やっぱりそんなこと、信じられないよ。……一体、何があったの」

「詳しいことは、今から話すね。約束だから」

「……それと、もう一つ、この世界で大井さんと会ってからずっと気になってたことがあったんだ」

「なに?」

「大井さんは、どうしてここにいるの? 何が原因で生と死の狭間を彷徨っているの?」

「……」

「まさか、自殺を」

「今回のは違う!」

 大井さんは何か後ろめたいものを隠すように叫んだ。

「……それじゃあ、一体」

 僕が訊くと、大井さんは何度か口を開いては閉じてを繰り返し、それから、意を決したように言った。

「殺されたの」

「……え」

 大井さんの言葉に、僕は思わず訊き返した。

「殺されたって……一体、誰に」

 僕の問いかけに、大井さんは一度目をきつく閉じてから、こちらを真っ直ぐ見つめてきた。それから、一呼吸置いて、大井さんは言った。

「蓮宮純也さん。蓮宮茜さんのお兄さんだよ」

 そう言った大井さんからは、けれど、全く恨む様子がないように見えた。むしろ、こうなることは必然で、そしてそのことを自分すらも望んでいたような、そんな印象を受けた。


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