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 寝室から出て寝ぼけた脳を冴えさせようと水で顔を洗い、タオルで顔に付着した水滴を拭いながらリビングに向かった。リビングに入る前から漂ってきていたいい匂いで予想していた通り、叔母さんが目玉焼きを作ってくれていた。

 叔母さんは俺が起きてきたことに気付くと、「おはよう」と微笑んだ。

「あんたは自分で起きてくれる子だから助かるわ」

 そう言いながら、叔母さんはテーブルに目玉焼きとレタスを載せた皿を置いた。タイミングよくトーストが焼けたベルの音が鳴り、遅れてテーブルに蜂蜜をかけてバターを染み込ませたトーストが用意された。

「ありがとう。いただきます」

 俺は手を合わせてからトーストに齧りついた。叔母さんは俺が食べ始めたのを確認すると、おそらくは自分が食べた分であろう食器を洗い始めた。

「次のニュースです。緑ヶ丘中学校の放火事件から三年が経ち、犠牲者の遺族たちが校舎の前に花束を添えました」

 ニュースキャスターのセリフの後、画面が切り替わって緑ヶ丘中学校に向かって手を合わせる人たちの姿が映し出された。誰もが沈痛な面持ちをしながら何かを小さく唱えている。

 その光景を思わず眺めていると、突然テレビの画面が真っ暗になった。驚いて振り返ると、叔母さんがリモコンを手にしていた。その表情は、なんともいえないものだった。

「……叔母さん」

「そういえば、今日だったわね。茜が亡くなってから」

「……うん。多分、あの事件の犠牲者が身内にいて追悼しに行かなかったのは、俺たちくらいだろうな」

 二つ歳年下である妹の茜が死んで以来、緑ヶ丘中学校へは一度も足を運んでいない。事件当時の茜はまだ中学二年生だった。その時に起きた放火事件で命を落としたのは茜を含めて四人だった。犯人はすぐに捕まり、今は死刑判決を受けて獄中生活を送っている。

 死刑……そんなもので納得なんてできるはずがない。死んでしまえば、あいつは自分の罪に向き合うことのないまま、この世界から姿を消すことになる。

 ……いや、そんな綺麗事はやめておこう。俺は明確に、放火事件の犯人に対して殺意を持っている。自分の手であいつを殺さなければ、気が済まない。

 俺の沈黙をどう受け取ったのか、叔母さんは続けた。

「なんだか、わざわざ中学校にまで行って追悼すると、むしろ茜が悲しむんじゃないかと思って。自分のことが気掛かりで私たちが暗い顔をしていても、安心して天国に行けないんじゃないかしら」

 叔母さんの言葉に、俺は何も返すことはできなかった。少なくとも俺は、茜のために、なんて余裕を持った考えなんてできない。あるのは、復讐心のみだ。自分が捕まったって構わない。だから、刑の執行は、俺の手に委ねさせてはくれないだろうか。

 そんな誰にも届かない願いを心に沈ませてから、俺は朝食を済ませた。それから制服に着替え、歯を磨き、鞄を肩に掛けて学校へと向かった。道中、自分の周りには談笑しながら歩く自分と同じ制服を着た学生が何人もいる。この中の何人が、一体誰かを殺したいという欲求を持っているのだろうか、とふと馬鹿げたことを考えた。

「おはようございます」

 思考の海に潜っていた俺を現実という地表に引き戻したのは、一つ下の後輩である琴音だった。生きていれば、茜もこいつと同じ歳だった。

「おう。おはよう」

「先輩、相変わらず機嫌が悪そうですね」

「ほっとけ」

 琴音は俺の言葉にクスクスと笑った。俺の機嫌が悪い理由を知れば、こいつはもう俺に関わってくることもないだろう。

 琴音は俺の心とは正反対の軽やかな身のこなしで俺の前に立ちふさがり、両手を後ろに組んだ状態で目を合わせてきた。それから小首を傾げると、何か感慨深そうに言った。

「先輩、とうとう受験生ですね」

「まあな」

「勉強の方はいかがですか?」

「まぁ、それなりにはやってるよ」

「ふーん。浪人せず、無事に卒業できそうですか?」

「最善は尽くそうと思っている」

 俺の言葉を聞くと、琴音は納得したように「そっか」と呟いた。

「先輩、頑張ってるんですね。じゃあ、私も先輩が卒業するまでに勇気を出さないとな」

「なんの話だ」

「それは秘密です。でも、きっと、これが先輩の望んでいることだと思うから」

 琴音はそんな意味深な言葉を残すと、踵を返して走って行こうとした。俺はそんな琴音を呼び止めた。

「琴音」

 琴音は少し驚いたようにこちらを振り返った。

「なんですか?」

「前からずっと気になってたけど、お前、それ熱くねえの?」

「え?」

「そのマフラー」

 俺の指摘に、琴音は遅れて理解が及んだように頷いた。

「あー、これですね。もう慣れちゃいましたよ」

「夏だってのに、なんでそんなもんつけてんだ。ていうか、年中つけてるよな」

「乙女の秘密ですよ。先輩」

 琴音はそう言って笑うと、今度こそ俺に背を向けて走り出した。その後ろ姿をぼーっと眺めていると、後ろから誰かが背中を叩いてきた。

「……憶真か。いてえよ」

 俺に奇襲をかけてきた主の顔を確認すると、そいつは俺のクラスメイトの船場憶真だった。

「純也。お前は本当に羨ましいよ」

「何がだよ」

「だって、あんな可愛い後輩が慕ってくれてんじゃん」

「……そんなんじゃねえよ」

「いやいや、そんなんじゃなかったら、なんなんだよ今のチチクリは」

「チチクリって。とにかく、あいつはそんなんじゃねえ」

「えー、もったいない。それに、お前が好きじゃなくても、相手の子はお前に好意を寄せてるだろ? 卒業式の時までにちゃんと返事考えておいてやれよ」

「……あいつも、俺のことは好きじゃないよ」

「え、そうなの? そんな風には見えないけどな。それに、同じ中学校出身なんだろ?」

「俺とあいつがこうやって話すようになったのは高校に入ってからだ。それまでは、妹の友達って認識しかなかった。俺もよく分からねえが、あいつからはどうもそういう感じがしない。もっと別の理由で俺に関わってきている気がする」

「お前の妹っていうのは……」

「あぁ。死んだ妹だよ」

「そうか。わりぃ」

 憶真は申し訳なさそうに謝った。俺は気にするなという意味で首を振り、それから話題を戻した。

「それに、あいつ好きな奴いるらしいし」

「マジか。誰?」

「そいつもまた、同じ中学校出身の奴。同級生だって話だ。高校は別らしいけど」

「それは誰情報?」

「本人から聞いた」

「え、マジかよ。じゃあ益々お前に絡んでくる意味が分かんねえな」

 憶真は「女って分かんねえ」と頭をガシガシと掻いた。確かに、俺にも琴音の真意は分からない。ただ、どうしても、俺を好きだとかそういう雰囲気を感じ取れない。それがずっと気掛かりでもあった。ただ、琴音には悪いが、俺はそのことにそこまで興味がない。

 憶真に最近振られたという話で泣きつかれながら学校に向かい、それから普通に授業を受けた。とはいっても、ほとんど授業の内容は頭に入っている。琴音にははぐらかしたが、俺は将来弁護士になるつもりだ。つまり、それなりに高偏差値の大学に進学する必要があり、俺にとってはとうの昔に終わらせておくべき単元だった。そのため、先生たちには悪いが、授業中には入試問題集のテキストで内職させてもらった。

 学校が終わって帰宅しようとすると、俺の靴が入ってある下駄箱の前で琴音が待っていた。俺は溜息を吐いてから琴音の前に向かった。

「どいてくれ。靴を取りたい」

「一緒に帰ってくれますか?」

「……分かった」

 俺が頷くと、琴音は満足そうに微笑んで塞いでいた靴箱から離れた。靴を取り出して履き終わると、琴音は「じゃあ、行きましょう」と俺に言った。

 帰り道、琴音とは他愛のない話をし続けた。最近見たテレビがどうとか、今習っている単元が難しいだとか、そういった話だ。

「ところで先輩、この後は何か予定でもあるんですか?」

「あぁ。病院に行く」

「えっ、先輩、病気なん……お母様のお見舞いですか」

「そう」

「ご容態は……」

「まぁ、良くはないわな。昔から体調を崩しがちだったし。正直、先は長くないって医者には言われてる」

「そうなんですね……」

「本当は学校からそのまま病院に向かいたいところだけど、うちの学校はバイク通学禁止だからな。一旦家に戻らなねばならないのが面倒だ」

 俺がそう言うと、琴音は「そうですね」と小さく呟いた。それから、先ほどまで続いていた会話が途切れ、妙に静かな空気が俺と琴音の間に流れた。

 しばらく無言の時間が続いた後、琴音は意を決したように口を開いた。

「先輩って、死後の世界って信じますか?」

「……急な質問だな」

「すみません。ちょっと興味があって」

 琴音は至って真面目な表情でそう言った。なんとなく茶化すような雰囲気でもなかった。俺は素直に答えることにした。

「信じないな」

 俺が答えると、琴音は納得したように頷いた。

「なんとなく、そんな気がしてました」

「そういう琴音はどうなんだ」

「……私は、信じてます」

 静かに、どこか力強く琴音は言った。それから、琴音は俺の目を見て訊いてきた。

「自分が地獄行きになってでも叶えたい願いって、先輩にはありますか?」

「…………あるよ」

「そう、なんですね」

「まぁ、俺がそもそも天国に行けるような人間かどうかも分からないが」

「行けますよ、先輩なら。もしも先輩みたいな人が地獄行きになるんだったら、それは世界の方が間違っていますよ」

 琴音はそう言って笑った。

「お前、やっぱり変わってるよな。そんな話、誰ともしたことがない」

「私も、こんな話を誰かにしたのは初めてです。やっぱり、オカルトチックな話は浮いちゃいますからね」

「まあな」

 俺は隣に並んで歩く琴音に視線をやった。琴音は前を見ながら、いつもの表情をしている。けど、このいつもの表情こそが掴みどころのない、全てを見透かしていそうなものに見えてしまう。俺はこいつに自分の考えていることが全て筒抜けになっているんじゃないかと思う時がある。こいつには何か、不思議なものを感じてしまう。周りの人間には、琴音が至って普通な人間に見えているだろう。おそらく、琴音も俺以外の奴には普通であるふりをしている。でも、俺には分かる。琴音は、おそらく俺と同類の人間だ。

 俺はふと気になったことがあって、琴音に訊いた。

「なぁ、琴音」

「はい?」

「なんでお前は、俺に構うんだ?」

「え? なんですか、急に。そんなの、乙女の口から言わせるんですか?」

「お前のそのピエロは今は抜きにしてくれ。中学時代、学年が離れているとはいえ茜の友達だったんだ。今みたいに俺に話しかけてくる機会は何度もあったはずだ。こうやって干渉してくることのなかったお前が、どうして高校に入って急に俺に関わってきたんだ」

「……それは、なんとなくというか」

「気を悪くしないでほしいが、俺と話したところで、茜は戻ってこない。茜のことを気に病んで俺に関わっているのなら、むしろ苦しいだけだろ」

「……」

「それに、男女の友情が存在しないとは言わないが、ここまで俺に絡んでくるにしては、俺に気があるとも思えない。そもそもお前には、別に好きな奴がいるんだろ? 俺以外の上級生にお前が話しかけに行ってるところを見たことがない。なのに、俺に恋愛感情を抱いてるわけでもない」

 俺の言葉に、琴音は気まずそうに俯いた。

「無理やり俺たちの関係をカテゴライズするのはナンセンスだと思うが、どうも腑に落ちないんだ。さっきだって、例えば今習ってるところが難しいって話が出たんだから、俺に教えてもらうように予定を立てることだってできたはずだ。お前は一度も、プライベートで俺を誘ったことがない。学校以外での関係は皆無と言っていい」

「……」

「別にそれが悪いと言ってるわけじゃない。ただ、お前の行動の意図が読めないんだ」

 俺がそう言うと、琴音は駆け足で俺から距離を取り、それから振り返った。

「つまり先輩は、私が先輩に下心もなしに近づいてるって言いたいんですか?」

「……少なくとも下心は感じないが、俺に関わる目的を知りたいんだ」

「それでいうと、目的はありますよ。しかも、下心だって大いにあります。でもそれは、もう少し待っていてください。私の心の準備が整ったら、その時は、全て話しますから」

 琴音はそう言うと、「さようなら」と手を振りながら去って行った。

「……目的」

 琴音の言葉の真意が汲み取れず、俺は琴音が口にした「その時」を、大人しく待つことにした。

 帰宅して家からバイクを飛ばし、母さんが入院している病院に向かった。受付の看護婦さんたちには顔が知れているため、スムーズに目的の病室に向かうことができた。

 個室の病室のドアを開けると、少し背中部分の上がったベッドの上で、母さんがオレンジに染まった窓の外を眺めていた。

「よう」

 俺が声を掛けると、母さんはこちらを振り返り、嬉しそうに笑った。

「あら、純也。今日も来てくれたのね」

「当たり前だろ。はい、メロン」

 俺はベッド脇にある丸いテーブルに見舞い用のメロンを置いた。病院に来る前にスーパーに寄って買ったものだ。

「いつも悪いね」

「何言ってんだよ。当たり前だよ、これくらい」

「京子にもお礼言っててね。純也のこと、任せっぱなっしにしちゃってるから」

 母さんはいつも、俺が病室に来ると叔母さんへのお礼を今みたいに口にする。朗らかな様子で会話するものの、本当のところは苦しいのを我慢してるはずだ。俺はいつも、長い時間病室に居座ることを避けている。

「じゃあ、明日も来るから」

「え、もう帰っちゃうの? もうちょっと居なさいよ」

「他人が居たら余計ストレスを感じるだろ」

「あなたは家族よ」

「分かってるよ。そういう意味じゃなくて、病人が長い時間喋ったらきついだろ。また体調の良い日に出直すよ」

「……本当にあなたって、優しいわね。良い子に育って、お母さんは心残りがないわ」

 母さんの言葉に、俺は胸が痛くなった。

「縁起でもないこと言うなよ。とにかく、また来るから。じゃあ、安静にな」

「はーい。どうもありがとうね」

 母さんはそう言って、俺に手を振った。俺は病室を後にした。あんな風に振舞ってはいるが、前にこっそり病室を覗いたとき、母さんは随分と辛そうにしていた。おそらく、俺が来たタイミングで気を張って、元気であるように振舞っているのだろう。そんなことで病気が悪化されては困る。もうこれ以上、俺は家族を失いたくはなかった。

「良い子、ねぇ」

 母さんには申し訳ないが、俺は良い子どころか、犯罪にさえ手を染めかねない危険因子を持っている。少なくとも、母さんが生きてるまでは、俺は良い子を演じてみようと思っている。

 俺は病院から出た後、真っ直ぐには帰らなかった。バイクに乗ったまま、近所の山道を登った。そろそろ暗くなる頃合いだったけど、どうもこのまま真っ直ぐ帰る気にはならなかった。

 夕焼けに黒が塗りつぶされる割合が多くなった頃合いで、俺は山の中腹にある広場に到着した。平日のこの時間帯では、人は誰もいない。広場の中に自販機を見つけた俺は、コーヒーを買った。流石に山の頂上まで登るのは厳しいと判断した俺は、ここで少し休憩してから帰宅することにした。

 ここから街の風景を眺めながら、俺はつい、緑ヶ丘中学校のある方角に目をやった。詳細な姿は距離と暗さで確認できなかったけど、どうしてもあの場所には近づきたくないと思ってしまう。もしも妹の茜が生きていたら、この街の嫌いな場所なんて出てこなかったことだろう。例えば生きていれば高校生の茜とこの風景を見渡しながら、中学校であった思い出話なんかもしていたかもしれない。俺は気が付くと泣いていた。

 辺りが暗くなり、人間が山に居ていい時間ではなくなった。俺は飲んでいたコーヒーを広場のゴミ箱に捨ててから、バイクに跨った。それから、ライトをつけて山道を下って行った。対向車が来ることはほとんどない。いつもの見慣れた道並みだ。多少暗くとも、感覚でどのタイミングでカーブを曲がればいいのかは大体把握できている。特に気をつけることはないはずだった。

次の瞬間、何故かバイクがスリップして、俺の身体は吹き飛ばされた。目の前にガードレールが迫ってきて、俺はそれに激突した。最後に自分の呻き声が聞こえたかと思うと、俺の視界はどんどん暗くなっていった。そして、遠のく意識の中で母さんが出てきた。また見舞いに行くって言ったのに。

「約束、守れなくてごめん」

 自分の身体が揺れるような感覚がするのを感じながら、今度は茜が意識に浮かんできた。

「……茜。今、そっちに行くから」

 俺が言うと、茜は何故か悲しそうな顔をして首を振った。その光景を最後に、自分が深い海の底に沈んでいくような感覚を覚えながら、意識を手放した。


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