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夕方に照らされながら下校している最中、僕は青の歩行者信号が点滅するのを確認して横断歩道の前で立ち止まった。小学校低学年くらいの女の子が、点滅する信号に慌てながら向こう側の歩道へと駆けている。脇にピンク色のボールを抱えながら、向こう側で待つ母親らしき女性の下へたどり着く、はずだった。
女の子が抱えていたボールが脇から落ち、バウンドしながら逆走を始めた。女の子は慌てた様子で振り返り、ボールを追いかけようとした。女の子の母親は「さき!」とおそらくは女の子の名前を、ほとんど悲鳴に聞こえる声で叫んだ。
女の子は母親の声に驚いて後ろを振り返った。けれど、それはむしろ女の子の命を危ぶむ行動だった。大型のトラックが、女の子目掛けて走ってきていた。女の子は遅れてそのことに気がつき、トラックを振り返った。
僕は無意識のうちに肩に掛けていた鞄を投げ出して女の子の下へと走った。僕は女の子を抱きかかえ、怪我をする危険性はあったがそんなことに気を掛けていられるわけもなく、口元を押さえている母親の方へと放り投げた。
鈍い音が鳴って身体に衝撃が走ったのを最後に、僕の視界は真っ暗になった。
「あの、すみません」
突然背後から聞こえてきた声に、僕は振り返った。そこには、見知らぬサラリーマンのおじさんがいて、不機嫌そうにこちらを見ていた。
「前に進んでもらえますか?」
「え?」
おじさんの言葉で前を見ると、人間がずらりと長蛇の列を成していた。異様な光景に驚いた僕はおじさんがいる後ろを振り返ると、そこにも大勢の人間が一列に並んでいた。
よく見ると、周りに霧が立ち込めていて、どことなく鬱蒼としている。ただ、自分が今立っているこの場所は、どこかしらの山道であることは分かった。ただし、山道といっても一切草木は見当たらず、ただ荒々しい岩の壁が両側に果てしなく続いているだけだ。
霧の向こう側にも人影が続いており、少なくとも数える気にはならないほどの規模で山道を人間が覆いつくしていた。
ようやく状況が呑み込めてきた頃合いで、再びおじさんに「前行けよ」と催促された。慌てた僕は「すみません」と謝りながら、前に詰めようとした。その時、足がもつれて前に並んでいる人に倒れ掛かってしまった。前にいたのは女性で、僕のことを鬱陶しそうに睨み、何も言わずに再び前を向いてしまった。女性に聞こえるか聞こえないかくらいの声で、僕は「すみません」と謝った。そして、僕は倒れ掛かった時に触れた女性の手に動揺していた。
女性の手が、あまりにも冷たかった。まるで死んだ人間のように。
僕は眠りから覚めた時の不明瞭な思考が段々晴れていくのを感じて、状況を整理するのに努めることにした。僕は今しがた、横断歩道でトラックにはねられそうになった女の子を助けた。そしておそらく、僕はその時に死んだ。つまり、僕がいるこの場所は、いわゆる「あの世」だということだろう。けれど、僕を含めて多くの人が、今まさにどこかを目指して山道を登っている。もしかすると今、誰が言うでもなく向かっているその先こそが、本当のあの世なのかもれしれない。でも、さっきぶつかった女性から体温を感じられなかったということは、ここにいる人たちは実質死んだ人間だと考えていいだろう。
「臨死体験……ってやつか」
僕は自分の置かれた状況を理解して、思わず溜息を吐いた。それにしても、臨死体験をする人の多くが目にするのが三途の川だと聞くけど、どういうわけか僕の場合はこんな辺鄙な山の中で立たされている。しかも周りには、縁もゆかりもない人たちしかいない。ムードもなにもないな。
仕方がないので、僕は人の流れに乗りながら、山の頂上? にたどり着くのを待った。
自分が死んだことを悟ってからどれほどの時間登り続けただろうか。気が付けば広場のような場所に出た。ここではどうやら列を成しておらず、広場を出た先に再び人が列を成していた。いわゆる休憩地点だろうか? ただし、相変わらず辺りを霧が覆い隠しているため、景色を眺めることはできず、自分が一体どれほどの距離を歩いてきたのかは分からない。ただ、広場より少し進んだところに、役所のような建物があるのが見えた。もしかすると、あれこそがあの世への入り口なのかもしれない。
広場には横長で木製のベンチが複数設置されていた。誰も座っていないベンチがあったので、僕はそこに腰掛けた。しばらくぼーっとしていたら、僕の目の前で、爽やかな男性が立ち止まり、僕を見下ろしてきた。
「隣、いいですか?」
「……はい」
本当は嫌だったけど、断るのが苦手な僕は、生前と同じ癖で思わず返事してしまった。男性は僕の隣で鼻唄を唄い始めた。ベンチ以外には真ん中に噴水しかない殺風景な広場に似つかわしくない陽気なメロディだった。何の唄かは知らないし、知りたくもない。
男の人の横顔を、僕はちらちらと窺った。おそらくは大学生くらいの歳だと思われる。僕の視線に気が付いたのか、男の人は僕ににこやかなスマイルを浮かべてから言った。
「気付きました?」
「は?」
「君も行列に紛れながらここまで来たんだよね」
「……まあ」
「そこで並んでいる人を見て何か気付かなかった?」
「……何に」
僕が警戒しているのに気付いたのか、男の人は苦笑を浮かべながら言った。
「外国人が、一人もいない」
男の人の言葉を受けて、僕は視界が届く範囲で広場を見渡した。確かに、男の人の言う通り、外国人は一人として見当たらなかった。
「確かに、いませんね」
「動物もいない」
「……」
「ははは、ごめんごめん。急に変なこと言って。でも、これってどういうことなんだろうって思ってさ」
「……宗教観の違い、とかですかね」
「お、君鋭いね。まぁ、僕の仮説が合ってるとも限らないけど、きっとそうなんだと僕も思う」
僕は男の人の言葉に、何も反応しなかった。そのことをどう受け取ったのか、男の人は話し続けた。
「僕たち日本人は輪廻転生の仏教観で生きている。日頃から意識していようといなかろうとね。でも、例えば有名な宗教でいうと、ヒンドゥー教では、人が死ぬと日本と同じ火葬を採用しているけれど、死後はブラフマンにたどり着き、再び生まれ変わってこの世に生を受けることはないとされている。つまり、人が死んだ後の手続きがまるで日本とは違う。だから、その国ごとで、あるいはその宗教観ごとで今僕たちがいる煉獄が複数用意されてるんだと思う。だからここは、多くの日本人が信じている死後の世界観を基に構築された場所なんだろうね。だから日本人ばかりがいる。もしかすると、この先に待っているのは、次の生を受けるための準備をする煉獄かもね。もっとも、煉獄という言葉はカトリック用語だけどね」
男の人は言い終えると、溜息を吐いた。どことなく憂いを帯びた表情をしたように見えた。しばらく僕と男の人の間に沈黙が下りた。気まずい思いで、そろそろ広場を離れようかと思ったところで、男の人が再び口を開いた。
「不躾なことを訊くんだけど」
「……」
「君はどうして死んだの?」
発言の意図が分からずに、僕は思わず男の人を見た。男の人は無表情でこちらを見ていた。
「どうしてそんなことを訊くんですか?」
「人間性を疑うだろうけど、興味本位さ。見たところ君は高校生だ。若いのに、どうしてここにいるんだろうって」
「……答えたくないですね」
「不名誉な死に方をしたとか?」
「いや、なんというか……」
僕は見ず知らずの人間に、本音を見せたくなかった。けれど、おそらくは自分が余命いくばくもないからだろう。あるいは、本当のところは誰かに本心を話したかったのかもしれない。もう自分でも、自分の感情が分からなかった。
「死んだ理由を言いたいんじゃなくて、自分が死んだことを自覚したくなかったんです」
「……ほう」
「僕はトラックに轢かれそうになった女の子を庇って死にました」
「……それは」
「こうやって自分の死んだ時のことを口にすると、自分は本当に死者になってしまったんだという事実に目を向けなければいけない。それが、怖かったんです。心のどこかで、まだ助かる余地があるんじゃないかって、信じたかったんです」
「……ごめんよ」
「いえ。でも、もう仕方ないですよね。どういうわけか、列に並んでいた時も、さっき広場の入り口に戻っても、逆走することができなかった。前に進むことしかできなかった。これはもう、そういうことですよね」
「……」
男の人は気まずそうに俯いてしまった。
「すみません。僕、もう行きますね」
とっくに観念していた僕は、ベンチから立ち上がった。すると、男の人も立ち上がった。
「よかったら、一緒に行こう」
「え?」
「気付いていると思うけど、きっとあの役所までが、僕たちが人間としての姿や理性を保っていられる最後の場所だ。それまで、僕の話し相手になってくれないかい?」
男の人は、最初僕に声を掛けた時と同じ笑顔でそう言った。僕は彼の言葉に頷いた。
広場を出てから再び列に並び、男の人と話しながら自分の番が来るのを待った。徐々に近づく自分の死は、やっぱりいつかはやって来るものなんだと、本当の意味で理解した。
やがて役所の前にたどり着いた。外観は至って普通だった。ただ、入り口のドアの横に、丸い鏡が設置されてあった。前の人はその鏡に自分の姿を映した。すると、鏡は映像を映し出し始めた。それには、手術室のような場所が映し出された。客観的な視点でカメラが映し出されており、やがて医師によって抱きかかえられている赤ん坊にズームした。
「なるほど。浄玻璃の鏡か」
一緒にその光景を見ていた男の人が、そう言った。浄玻璃の鏡は確か、死後の世界で生前の自分の人生を映し出し、今世での自分の行いを反省するための道具だ。
浄玻璃の鏡に映るその人は段々成長を重ね、やがて老人になった。それから、病室のベッドで家族と思わしき人たちに囲まれながら、息を引き取った。その映像を最後に、浄玻璃の鏡は何の変哲もない鏡のようになって、その人の姿を映し出していた。その人は、嗚咽を洩らしながら泣いていた。それから、ゆっくりとドアの中に入って行った。きっと、そこで次の人生を決めることになるのだろう。
「自分の人生は、見返したくないな」
男の人がぽつりと呟いた。僕は何て返せばよいか分からず、黙り込んでしまった。気まずくなって視線を役所から逸らすと、僕は思わず「あっ」と声を上げた。
役所の隣に、細道があった。
「どうしたの?」
「え、いや、そこに道が」
「え、どこに?」
僕がわざわざ指さしているにも関わらず、まるで見えていないかのように男の人はきょろきょろと辺りを見渡した。
「そんなものは見当たらないけど。役所以外は岩で取り囲まれてるじゃないか」
「……でも、確かにここに」
そこまで言いかけて、僕よりも前に並んでいた男の人が、次に役所の中に入って行く番になった。男の人は今まで見せていた余裕の表情を崩して、どこか苦しそうに顔を歪めていた。やがて浄玻璃の鏡が男の人を映し出し、人生を映し始めた。
鏡の中の男の人が中学生くらいになり、クラスメイトの男子たちが寄ってたかって男の人を蹴ったり殴ったりしていた。男の人は鏡の中で苦しそうにしながら、周りのクラスメイトたちに「助けて」と呻き声を上げた。けれどクラスメイトたちは誰も駆け寄って来ず、我関せずの姿勢を保ち続けていた。
やがて男の人は高校生になり、周りの誰とも関わらなくなった。それに加えて、父親が興していた会社が倒産し、多額の借金を背負うことになった。取立人たちが何度も何度も家を訪ねてきては、父親を殴り続けた。やがて父親は姿をくらまし、残された母親と自分が借金の肩代わりをすることになった。男の人は何とか借金を返そうと高校を中退して低賃金で働き、母親と二人三脚で借金を返済し続けた。けれど、無理が祟り、母親が過労で倒れてそのまま亡くなってしまった。病院に行くお金もないことによる結末だった。男の人は部屋の中で横たわる母親を見下ろしながら、天井からぶら下げた紐を首に巻き付けて、その生涯に幕を閉じた。
浄玻璃の鏡は、涙を零しながら蹲る男の人を映した。
「母さん。ごめんなさい。もっと、もっと俺が頑張っていれば」
男の人の悲痛な声と姿に、僕は何も声を掛けることができなかった。
「今、会いに行くよ。母さん」
男の人は泣きながら、役所のドアに手を掛けた。それから、僕の方を振り返って言った。
「僕に話しかけられた時、優しくしてくれてありがとう。君だったら、なんだか僕を受け入れてくれそうな気がしたんだ。君が死んだ理由を聞いて、僕の勘は当たっていたんだって分かったよ。それじゃあ、さようなら」
男の人はそう言い残すと、役所の中へと入って行ってしまった。
いよいよ僕の番になってしまったため、浄玻璃の鏡の前に立った。僕の場合はたった十六年の歳月しか人生を経験していない。男の人も若かったけれど、僕はそんな壮絶な人生を送っていない。おそらく、今から浄玻璃の鏡に映し出されるストーリーは見応えのないものだろう。
鏡に映る自分の姿を見ていたら、突然誰かに手首を掴まれ、そして引っ張られた。
「鏡を見たら、もう戻れなくなっちゃうよ」
僕は手を引かれたまま、制服を着た女の人に役所から引き離された。周りにいた人たちも今の出来事にどよめいている様子だった。それもそうだろう。おそらくは自然の摂理に逆らおうとしている行動なのだから。
「えっと、誰ですか?」
僕の問いかけに、彼女は答えることなく言った。
「君、役所の隣にある逸れ道が見えてるんでしょ?」
「え……君にも見えるの?」
「うん。君が行くべきところは、そっちだよ」
彼女にそう言われて、僕は役所の横にある細道を見た。
「さぁ、行くよ」
彼女はそう言うと、細道に向かって歩き出した。僕は思わず小走りで彼女の後ろを追いかけた。細道に入ると、後ろの方で再びどよめきが起こった。
「さっきの二人が消えたぞ!」
「あれ、どこに行った?」
一歩細道に足を踏み入れただけなのに、役所の前にいた人たちは途端に僕たちの姿を見失ってしまったようだった。
「あの人たちには見えていないの?」
「うん。君とは違って、もう生き返る余地のない人たちだから」
「……生き返る?」
僕は彼女の言葉の意味が理解できなくて、復唱した。けれど彼女はこちらを振り返ることもせず、ずんずんと奥へと進んだ。今の僕にできることは、大人しく彼女について行くことだと思ったため、彼女の後ろを追った。細道の左右には、先ほどまでは一切なかった草木が並んでいて、役所のあった場所とはまるで違う空間のように感じられた。
しばらく歩くと、やがて広場のような場所に出た。周りは木で取り囲まれている。真ん中には、木製の小屋があった。
「ここだよ」
彼女は小屋を指さした。色々訊きたいことがあったけれど、一先ずはここに来るまでに気付いたことを彼女に訊ねた。
「君は、大井さん、だよね」
僕が彼女の正体に思い至ったことに少し驚いた様子だった。
「よく分かったね。久しぶり、柊木くん」
「中二以来かな。最初分からなかった」
「うん。私もまさかこんなところで柊木くんに会うとは思わなかった」
「そりゃあ、そうだね」
僕が言うと、大井さんはクスクスと笑った。
彼女とは同じ小学校・中学校に通っていて、その頃にきっかけがあってお互いに話す仲になった。けど、中学生になってからはあまり話さなくなり、大井さんは中二になってから学校に来なくなってしまった。それ以来音信不通だった。
「それにしても、大井さんはどうしてここに?」
「それはこっちのセリフでもあるけど」
「僕は……交通事故で」
「私も似たようなものかな」
「なんだそれ」
「それより、早く元の世界に戻った方がいいよ」
「そう、それ。それってどういう意味なの?」
僕が訊くと、彼女はこちらに手招きをしながら小屋の中に入って行った。僕も続いて小屋の中に入った。
中に入ると、薄暗い部屋の中に机が一つ、その前に椅子が置かれてあった。そして、奇妙なことに、その場に似つかわしくないデスクトップパソコンが一つ、机の上にある。
「……これは、なに?」
「いいから、まずは座ってみなよ」
大井さんの言葉に従って、僕は椅子を引いてから座った。パソコンのブルーライトだけが小屋の中を照らしている。
「パソコンの隣にあるマウスに手を置いて」
「……分かった」
マウスに手を重ねると、大井さんが僕の手に自分の手を重ねてきた。
「画面の真ん中に何も書かれていないタブがあるでしょ? それをクリックするの」
大井さんの手に操られながら、僕はタブをクリックした。すると、六つの項目が表紙された。
「生き返り」「裁き」「生前善行」「死後善行」「生前悪行」「死後悪行」
「……なんだこれ」
ディスプレイに表示された文字群に、僕は首を傾げた。
「柊木くんは、これからどうしたい?」
「……どうするって?」
「柊木くんには、生き返る権限がある。もしも生き返りたいんだったら、『生き返り』を選んで」
「他の選択肢を選んだらどうなるの?」
「……柊木くんが知る必要のないことだよ」
「じゃあ、勝手に押すよ」
「……分かった。教えるから」
大井さんは呆れたように言った。
「この『裁き』っていうのは?」
「多分だけど、このまま自分の生涯を終えて、次の人生に進みたい人が選ぶんだと思う」
「あくまで予想なんだね。ちなみに、この項目のどれも選ばなければどうなるの?」
僕が訊くと、大井さんは無表情で目を合わせてきた。
「何を考えてるのかは分からないけど、やめておいた方がいいよ。特に何が起きるわけでもないけど。ずっと、このままだよ」
「そっか。まぁ、どうするかは追々決めるとして、他の項目について訊こうか」
大井さんは怪訝そうに僕を見ていたけど、やがて僕の質問に対して答え始めた。
「この『生前善行』というのは、柊木くんが生きている間他人にしてきた良いことが連ねられてるの。それぞれの善行に対して、どんな利他的な気持ちでその善行に取り組んできたかがリストされてる。これは私の考えでしかないけど、生前善行の内容によって天国に行くことができるかが決まるんだと思う。もしかすると、今の柊木くんみたいに生き返る余地があるのも、生前の行いが良かったからかもね」
大井さんはそう言って僕に微笑みかけた。
「どうだかね。生前善行がそうなら、『生前悪行』っていうのは、僕が生きていた時に他人に施して来た悪い事がリストされてるってことかな」
「その通り」
「一番よく分からないのが、『死後善行』。そして『死後悪行』だね」
「死後善行は、死んだ後、生き返りや裁きを受ける時に、生前の善行がたりない場合に有効となる善行。生き返ることができない、あるいは地獄行きが決定された人が、あともう少しの善行で生き返れたり天国に行けたりするための救済措置として存在してる。死んでから生きている人に対して善行を働きかけることができる制度」
「……へぇ。例えば、どんなのがあるの?」
僕が訊くと、大井さんは「死後善行」のタブを押させた。すると、膨大な数の項目が出てきた。
「簡単なものから難しいものまでたくさんあるみたい。例えば一番簡単そうなのは、『生きている者の幸を願う』なのかな」
「……そんないい加減なものなんだね」
「分からないけど、神様とか天使さんも、案外世界を経営するのに必死なのかもね」
確かに、傍から見れば高級なレストランだって、厨房を覗けば天手古舞だったりする。あくまで世界が秩序だって見えるのも、せわしなく働き回る人知を超えた存在のおかげなのかもしれない。
下へ下へとスクロールしていくと、善行の難易度がどんどん上がっているように思えた。一番最下部までたどり着くと、二つのタブが並んでいた。
「今世の知人に来世の自分の徳を与える」
「生者への寿命付与」
その文字を見た瞬間、隣で大井さんが息を呑むのが聞こえた。それから、何かを取り繕うように話し出した。
「生者への寿命付与は、タブを押すと自分が今まで出会った生きている人たちの名前が表示される。死んだ人には寿命をあげることはできないから、知り合いでも死んだ人の名前は出てこない」
「……なるほど。それで、『死後悪行』の方は、死んでから生きている人に悪行を働きかけることができるってことなんだね」
「うん。ただし、ただでは済まないんじゃないかな。この項目については、私も詳しくは知らない。試したことがないから。多分、地獄行きになったりするんだろうけど」
画面上には六つのタブが浮かんでいる。本当にパソコン上でタブをクリックするだけで、僕は生き返ることができるのだろうか。あまりにも現実離れした状況のため、そもそも僕は本当に死んでいるのかさえ疑われる。大井さんいわく、まだ僕は死んでいないそうだけど。死後の世界について深く考えたことはないけど、三途の川が見えたり、閻魔大王様から天国行きか地獄行きか判決を受けたりと、何かしらの形式ばったイニシエーションを体験するんだとばかり思っていた。それがこんなパソコン一つで決まってしまうなんて、到底信じられない。
「いつまでぼーっとしてるの。早く生き返るよ」
「大井さんこそ、いつまで僕の手を握ってるの」
僕が言うと、大井さんは慌てた様子でマウスに重ねた僕の手から、自分の手を引っ込めた。
「ご、ごめん。忘れてた」
大井さんは顔を赤くしながら照れ笑いを浮かべた。そんな大井さんを見ていると、僕はあることに気が付いた。
「大井さん。その痣って」
僕が指摘すると、大井さんは慌てて首元の痣を手で隠した。
「大したものじゃないよ」
大井さんはそう言って笑った。大したものじゃない、ようには見えなかった。ただ、これ以上触れてほしそうではなかったので、僕は話題を変えた。
「それにしても、大井さんはどうしてそんなに詳しいの? あの世のプロ?」
「なにそれ。別に、長くここにいるからだよ。それより、もうこんなところに来ちゃだめだよ」
「大井さんは戻らないの?」
「戻れないよ」
「どうして? あの細道を通れたってことは、僕と同じで大井さんは生き返る余地があるってことでしょ?」
「……それは」
大井さんは言葉を詰まらせて、視線を彷徨わせた。
「だって、大井さんはまだ生きてるじゃん」
「どうしてそう言い切れるの。細道を通れたってだけだよ」
「大井さんが言ったんじゃないか。生き返る余地がある人だけが、あの細道が見えるって」
「……そう、だけど」
「それに君からは、体温が感じられた。僕の手を引いて細道に向かったときにも、さっきマウスに重ねた僕の手に触れていたときにも。山道で参列していた人からは、全く体温が感じられなかったのに」
「……」
「戻りたくても、戻れない。そうだね?」
僕がそう言うと、大井さんは何かを諦めたように笑った。
「やっぱり柊木くんには敵わないや。昔から変わってないね」
大井さんは、やっぱり温かい手で僕の手首を掴むと、小屋の外に僕を連れ出した。僕たちが小屋から完全に出たところで、小屋の中の明かりが消えた。つまり、パソコンの画面が消えたのだ。
「私だけが小屋に入るから、柊木くんは外から中の様子を見てて」
大井さんは僕にそう言うと、一人で小屋の中に入った。特に変わった様子はない。
「何してるの?」
僕の問いかけに応じるように、大井さんは小屋から出て来た。
「じゃあ、次は柊木くんが小屋の中に入って」
大井さんの意図が分からなかったけど、僕はその言葉に従って小屋の中に身を投じた。すると、小屋の中にあるパソコンの画面が明るくなった。いや、電源が点いたというべきか。
「ね? 私は生き返れないの」
「……どういうこと?」
「柊木くんが小屋に入ったときにはパソコンの電源が入るけど、私が入った時には点かなかった」
「いや、でも、それはコンセントが」
大井さんに言い聞かせようとしながら再びパソコンを視界に入れて、僕は気が付いた。パソコンからは、およそコンセントに繋げるコードが見当たらなかった。そもそも小屋の中を見渡しても、コンセントに相当するようなものがどこにもない。
「きっとね、このパソコンの機動力は人なんだよ」
大井さんはそう言いながら小屋の中に入って来た。小屋の外に出るように指示された僕は、それに従った。
大井さんだけになった小屋の中では、先ほどと同じようにパソコンの画面は真っ暗になった。
「ほら、つかないんだよ。私は、生き返っていいような人間じゃないから」
そう言いながらパソコンのキーボードを叩く大井さんの言葉が正しいことを証明するかのように、パソコンは画面を暗くしたまま、何の反応も示さなかった。