第2話 疑惑
「笛ですか?」
「狼除けの笛だ。大事なものだ。鳥に取られて……追いかけていた。おかげ様で助かった」
「どういたしまして」
「ところで」
男は笛を腰に吊るすとソフィに聞いた。
「ここの堤はずいぶんと高さがあるな。ここまで水が来るのか?」
「いいえ。この小川は水を引き込むための用水です。大雨でも水はさほど増えません」
「なるほど、詳しいな。この土地の者か」
「そうですけど……」
言いながらソフィは思った。
(領内のことに詳しいのは当然。でもまさか、自分が城の娘だとは言えないけれど……)
「城に向かう途中なのだが、この道でいいのか?」
「ええ、すぐ向こうに見えるのがそうです……城にご用ですか、旅の方?」
城の近くと知って男はほっとしたようだった。
「よかった。呼ばれて来たのだが、途中、橋が通れなくて、時間がかかってしまった」
「どこの橋のことでしょう?」
「『奇跡の橋』」
「……それはおかしい。昨日までには直るはずだったのに。すぐに人をやって調べさせます。ご不便を」
「いや、別の道を通って、思ったよりも早く着いたようだ。それ以外はまったく不便なかったし、ここの領内の通行は安全だと感じた。大したものだ」
領地の治世を褒められて悪い気はしない。が、
(ずいぶんと偉そうだな……)
ソフィはあらためて男の姿を見回した。
男の衣服は、派手ではないが上等と見てわかる。田舎の城には不釣り合いな洗練された容姿。連れている馬の毛並みも見事なものだ。
そういえば出がけに、側近が「王家からの使者が遅れている」と報告するのを聞いた。
ソフィは男の素性を思い、何となく嫌な予感がした。
が、今さら逃げ出してもどうにもならない、と思い直した。そして客人の正体については素知らぬ振りを続けることにした。
「お客人、城へ参りましょう。ご案内します」
ソフィは馬の手綱を取ろうとした。が、アルフォンスはそれを制した。
「構わない、俺も歩く」
ソフィは先に立って歩き、馬を引いた男も徒歩で続いた。
***
客人を連れて城の礼拝堂に戻ると、父親はそのお客にだけ声をかけた。
「アルフォンス殿下、ご無事のお着きでございますか。お待ち申し上げておりました」
案の定、客人は王家からの使者だった。
使者の身分は、王家の二番目の王子のアルフォンス。彼はしばしば、王家の名代として地方を訪れている。特にソフィたちのように田舎領地に派遣されることが多く、彼がやって来たことで父親は、
(よりによって第二王子が来たか。宮廷は、我々を田舎者と馬鹿にしているのだ)
と、内心で舌打ちした。
それでも、王家からの使者は使者。アルフォンスに対して、父親はこれまでにないくらい慇懃に、低姿勢に出て接する。礼を尽くされることに慣れている王子は、片手をあげてそれを受け流す。
「予定より遅れた。……婚礼の式はこれからか?」
「はい、彼がシリルです」
父親はシリルの背をアルフォンスの前へと押し出す。
シリルは花婿の衣装を着て、いつにもまして美男子っぷりを発揮していた。
ソフィが視線を動かすと、少しだけ離れてオデットの姿もあった。
アルフォンスはシリルからも丁重な挨拶を受けていた。
「じゃあ、お前が夫で、いずれ城の跡継ぎだな………」
「はい、よろしくご承認くださいませ」
シリルは頭を下げた。
「そしてこれが妻になる我が娘……」
父親はソフィの手首をつかんで王子の前に突き出そうとし、そこではっとした。
「お前、指輪はどうした?」
「指輪……?」
ソフィは父親が乱暴に放した左手首をさすった。
(指輪なら、たった今、川に捨ててきたところだ)
父親はわめいた。
「婚約指輪だ、あれがないと、結婚が成立しない」
「いつの間にか……失くしてしまったのかもしれません……」
「失くした?! 指輪をなくすなどと、前代未聞、何を考えているのだ、この未熟者め……」
父親の悪口雑言は続く。ついに、
「……まさか、お前、婚約者として、正しくない振る舞いをしたのではあるまいな。それで指輪が、お前では相応しくないと、消えてしまったのだ。すべてはお前の素行のせいだ……」
「それを、お疑いですか? いつでも私は、あなたの誇りとする城の娘ですのに」
さすがにソフィは腹が立って言い返した。心の中では
(婚約者としての正しさを疑うのなら、私ではなくてシリルの方だ)
という思いがあったからだ。
親子の話を聞いていたアルフォンスが調停に入った。
「婚約指輪がなくても結婚証明に支障はない。婚約者同士だったと誰もが納得できれば……何かないか、例えば、すでに夫婦のように寝室を共にしているとか、子供があるとか」
「全くありません」
ソフィは勢いよく答えた。一方でそれを聞いたオデットが卒倒し、シリルが駆け寄って身体を抱き留めた
父親はソフィに言った。
「まずはお前が婚約者として相応しいかどうかだ。身の正しさを証明してこい。すべての話はそれからだ。明日の夜明けまでは戻るな。いいな?」
実際の所、身の正しさを証明する方法はほとんどない。ただ一つ、禁止されている神判を除いては。
ソフィはこれ以上口を聞くのも腹立たしいとばかり、無言でその場を去る。
「お前も行くんだ」
父親に言われて司祭もソフィの後を追って去った。
アルフォンスは父親に言った。
「どうあっても構わないが、期限は三日後、それまでに結論を出せ。四日目には俺は帰る」
「もちろんです、殿下」
「それと、知っているだろが神判は禁じられている。その結果を証明に使うことはできないし、実施した者も処分の対象になる」
「存じております。しかしそれでは娘が納得しないでしょう……娘の身勝手には手を焼いております」
「……」
アルフォンスは父親の真意をますます疑わしく思った。
神判は事の是非を神の名のもとに占う方法で、事実との関連性は乏しい。信憑性はない、とアルフォンスも思っている。
それでも、どうしても、決着がつかない場合や、不貞を問う場合には広く行われていて、禁止されていても、なかなかなくならない。
「殿下、お帰りになるまではどうぞ我が城に滞在を。田舎の城ですができる限りの御用を供させていただきます」
父親は恭しく頭を下げた。
***
父親が去った後、アルフォンスと、シリルと、気を失ったオデットが取り残された。
アルフォンスがシリルに声をかけた。
「その娘は……お前の恋人か?」
シリルはむっとして答えた。
「ソフィの妹です。名前はオデット」
「へえ……妹がいたのか」
アルフォンスはオデットの顔をわざと無遠慮にのぞきこんだ。
「お前とは、親しいのか」
「そんなことはありません。……殿下、あなたの方こそどうなんです? ここに来るまでの間、ソフィと二人きりでいたではありませんか」
「彼女とは『奇跡の橋』が落ちた話をしていた」
「それは何かの暗号ですか」
「いや、ただの橋の名前だ……お前の方こそ、自分の婚約者を信じないのか」
シリルは一瞬言葉に詰まり、それから言い返した。
「あなたが王子といえど、侮辱されて平気ではいられません、失礼します」
シリルはオデットを抱きかかえ、その場を後にした。
シリルとオデットの後ろ姿を見ながらアルフォンスは思った。
(身の正しさに問題があるとすれば、あいつらの方じゃないのか……)
***
思った以上に城は広かった。
アルフォンスは歩きながら考える。
(もし神判を行うとすれば、どこか)
城には複数の礼拝堂があるのが常だ。城全体で開かれた礼拝堂があり、他に家族専用や特殊な目的の礼拝室があったりもする。
ふと、ある扉の前で城の小姓が座り込んでいるのが目に入った。小姓はこっくりこっくりと船をこいでいる。
「おい、お前……」
アルフォンスが声をかけると小姓は飛び起き、床に頭を擦り付けて叫んだ。
「だめです、誰も中に入れるなとのご命令なのです」
(俺はまだ何も言っていないのに、……疑わしいこと、このうえない)
アルフォンスは苦笑した。