声が届く
蒸し暑い七月末の夜。
団地のマンションに住むマモルくんは、一人で留守番をしていた。
親戚に不幸があって両親はお葬式に行くことになったが、マモルくんは一緒には行かなかった。
自分ももう小学五年生だし、留守番くらい一人で出来る。
両親は心配そうに顔を見合わせてはいたが、納得して出掛けていった。
用意してもらった夕食のチャーハンを食べ終えて、食器を流しへ片づけると、マモルくんはにんまりと笑った。
これで親の目を気にしないでファミコンができる!
マモルくんの家のテレビは茶の間にしかない。
そして、お母さんは主婦なので、だいたい家に居る。
その結果、ゲームは一日一時間。
あとちょっとでクリア出来そうなのに……!
そう思うことも一度や二度ではなかった。
この日のために、わざわざ友達から借りたゲームのカセット。
さあ、思う存分に遊ぶぞ!
そんな意気上がるファミコン戦士の情熱は、きっちり一時間でへし折れた。
三面が難し過ぎて、まったく進まないのだ。
どこをどうやっても勝てる気がしない。
せっかくゲームを遊びまくれるチャンスなのに……。
わくわくした気分から急転直下、やるせなさと苛立たしさが募るばかり。
仕方なくゲームはあきらめて、部屋に戻ることにした。
すれ違うのも難しい廊下。狭い風呂場と狭苦しいトイレ、玄関を横目に、十歩も行かないうちに通り過ぎた。引き戸を開けて自室に入る。
暑い。
すこしだけ開けていた窓をさらに開ける。
五階建ての四階にある部屋だが、別に見晴らしがいいわけでもない。
転落防止用の鉄格子の向こう、共同の物置と芝生を挟んで、手前の棟のベランダ側が見えるだけだ。
空き室は、ほぼ無い。
ベランダからカーテン越しに漏れるお茶の間の灯りが連なって、意味ありげなモザイク模様を描いている。
やることも特にないし、読み飽きたマンガでもまた読み直そうかな。
そう思ったが、散らかった勉強机の上を見て、すみっこに置いたまま忘れていた物を思い出した。
ポケットに入るポータブルラジオ。
大人用ポロシャツの胸ポケットに入れても結構はみ出すこのラジオは、親戚のおじさんから譲り受けたものだった。
新しいのを買ったので古いのはいらなくなったとかなんとか。
けれど、マモルくんはテレビっ子世代の小学生。
音しか出ないなんて退屈でしかない。
なので、貰ったときに、物珍しさからすこし聞いたくらいでそれっきりになっていた。
手に取って音量のつまみを回してみる。
かちりとした手応えとともに、スイッチがオンになり、ざあざあと雑音が流れ出した。
今度はチューニングのつまみを回してみる。
すこしするとクリアな音声の帯域をみつけた。
でも、おじさんが喋ってる話の内容がよくわからない。
他の番組も探してみる。
リクエストで曲をかかっているけど、英語なのでよくわからない。
何局か合わせてみたが、どれもいまいち面白くない。
マモルくんは退屈になってきて、チューニングを一気に動かしたりまた戻したりする。
合間のノイズと放送の声が混ざって一瞬だけ聞こえる、ぐにゃりとした音声。
さして面白くもないけど、意味もなくそのまま何度か繰り返した。
「おい」
突然、ラジオから呼びかけられた。
不意のことでびっくりしたが、マモルくんはすぐに気が付いた。
ラジオはテレビの音声を拾うことがあるのだ。
ドラマかなにかのセリフが、ちょうどいいタイミングで合ったんだろう。
そう思うと、なんだか楽しくなってきた。
チューニングがずれてしまったのか、セリフはあれきり聞こえない。
場所が悪くて電波が届かないのかもしれない。
マモルくんは部屋をあっちに行ったりこっちに行ったりしながら、ラジオのつまみを微調整する。
ざざざ、とノイズが続くばかりで、なかなかその位置がみつからない。
「おまえ」
あった! ここだ!
マモルくんは窓の手前で立ち止まった。
次は何を言うんだろう?
手の中のラジオを見ながら、わくわくして待っていると、次のセリフが来た。
「あけろ」
……え?
ラジオばかり見ていた目を上げた。
外が暗い。
向かいのマンションからの灯りがひとつも見えなかった。
ヘンだな。
そう思うと同時に窓を開けて、目を凝らした。
ポッと五階の右端で灯りが点く。
逆光でマモルくんにはよく見えない。
ガラス戸を開けて、人影がベランダに出てきたようだった。
「とべ」
ラジオからの声。
ベランダの手すりを掴んだ五階のシルエットが、鉄棒をするときのように身体を持ち上げた。
そのまま、頭から手すりを乗り越えた。
どちゃっ。
いままで聞いたことがない、柔らかさと重さを感じさせる音。
しかし、暗くて落下地点でなにがどうなっているのかは見えない。
……飛び降り自殺?
マモルくんは動けなかった。
異常な状況に遭遇すれば、大人か子供かは関係なく、人は身をすくめてしまう。
「おい」
またラジオから声がした。
「おまえ」
「あけろ」
左端から二番目、四階の電気が灯る。
逆光の中、また誰かがベランダに出た。
「とべ」
じたばたと手すりを越えた人影が転げ落ちるように下へと消えていき、そして。
また、同じ音がした。
まさか、ラジオの声に言われたまま、飛び降りてる……?
マモルくんがそう思った、その瞬間。
「おい」
ラジオの声。
「おまえ」
誰に、呼びかけてる?
「おまえだ」
窓の外から聞こえた。
ラジオと同じ声が。
まっくらな四階の窓の外。
見えた。
鉄格子を掴む真っ黒い両手が。
開ききっていない窓をすり抜けて、頭から部屋に入ってくる。
黒いなにかが。
声にならない悲鳴をあげて、マモルくんはラジオを放り出した。
あまりの恐怖に、その場から逃げ出すこと以外なにも考えられない。
すこしでも明るい方へと向かった先は、電気がつけっぱなしだったお茶の間。
しかし、そこはベランダへと繋がっている。
リモコンを触ってないのに、勝手にテレビがついた。
画面は灰色の砂嵐。ざあざあと雑音が鳴っている。
さっきラジオから聞こえたあの声が、テレビの雑音の中から言った。
「あけた」
閉めていたはずのガラス戸は、いつの間にか開いていた。
ベランダの向こうに光はない。真っ暗闇だった。
「とべ」
大人くらいの影が滑るように追ってきた。
空間に黒い紙でも貼り付けたのかと思うほど厚みがない姿。
にもかかわらず、異常な強い意思を押し付けてくる圧力と存在感があった。
「とべ」
近付いてくる。
マモルくんの行ける場所は、もうベランダしかなかった。
でも、そこに逃げ場はない。
あるのは同じ結末だけだ。
開かれたガラス戸の前に影が立った。
後ずさるマモルくんの背中に当たる、冷たいベランダの壁。
「とべ」
激しい怒りがこもった声。
いつの間にか泣いていたぐじゃぐじゃの顔で、マモルくんは壁伝いに手を伸ばす。
ベランダの手すりだ。
握るとひんやりして気持ちがいい。
ここを飛び越えれば、もう怖いことはなくなるんだ……。
影に背を向けて、両手で手すりを掴んだ。
外は暗くてなにひとつ見えない。
前も上も、そして下も、先のない闇だった。
手すりを乗り越えようとしたとき、手の甲にぴたぴたと落ちた物があった。
涙だった。
気付けば、ぼろぼろ泣いていた。
涙が止まらなかった。
泣きながらしゃくりあげて咳き込んだ。
「じ……! じにだぐないっ……!」
しゃがれて潰れた声で叫んだそのとき。
ワォーーーーォンン……
どこかの犬が遠吠えをした。
その瞬間、夜の風景は元通りに電気の光を取り戻していた。
おそるおそる振り向くと、追ってきていた黒い影も跡形もなく消え失せている。
ほどなくして帰ってきた両親になにがあったかを話したが、どうせまた怖いテレビでも観てたんだろうと一笑に付された。
翌日、調べてみたが、前の棟で起きた二件の飛び降り自殺はなかった。
もし実際にあったら、今頃警察が来て大騒ぎになっているはず。
でも、見間違いだったとも思えない。
あのとき、もしも犬が鳴かなければ、自分が飛び降り自殺させられていた。
そう思うと命の恩人である犬には感謝しかない。
でも、このあたりに犬なんていたっけ……?
そういえば、通学路の途中に、めったに鳴かないおとなしい老犬がいたはずだ。
いてもたってもいられずにマモルくんは犬のいる家へと向かった。
年季の入った犬小屋の前に、いつもぐったり寝ていた犬の姿がない。
すると、ちょうど家からおばさんが出てきたので、マモルくんは犬のことを聞いてみた。
「ごめんなさいね、せっかく来てくれたのに。あのね、シロ、昨日の夜に死んじゃったのよ。もう年だったから仕方ないんだけど……。最期に大きな声で鳴いて、そのあとすぐ静かになっちゃって……」
それから一年経たないうちに、マモルくんはお父さんの仕事の都合で、団地から引っ越すことになった。
中学生になって最初の夏。
あの団地で事件が起こったことをテレビのニュースで知った。
一夜のうちに、飛び降り自殺が連続して発生したのだ。
ふたつはマモルくんがあの夜に見た五階と四階。
そしてもうひとつは、マモルくんが家族と暮らしていたあそこだった。
いずれもベランダから飛び降りて、地上に激突。
即死だったという。
怪事件としてモーニングショーが大々的に報道したが、警察の捜査では三件に関連性はみつからず、奇妙な偶然の一致として処理された。




