03.悪夢の刻(後編)
「本当に? 本当にそこで!?」
「ああ。たまには、そういう趣向もいいだろ?」
「悪趣味ね!」
段々と近づいてくるにつれ、少しふざけた物言いのアントニーに対して、拗ねたように答えるクリスティナの声もはっきりと聞こえてきた。
同じパーティーメンバー同士だ。立ち話をしていること自体は別段怪しいことじゃない。
ただ、二人の声の底に漂うどこか艶っぽい響きが、俺の猜疑心を煽り立て、身を隠させたのだ。
テントの奥で様子を窺っていると、やがて、信じられないことが起きた。いや、もしかすると心のどこかで予想していたことかも?
アントニーとクリスティナが、人目を避けて滑り込むように俺のテントへ入ってきたのだ。
俺は、奥に積んであった荷物の後ろに身を潜めていたため、薄暗いテントの中では二人に存在を気付かれずに済んだ。
「ねえ……誰かに見られなかった?」
「大丈夫さ。たとえ見られたって、ここで俺に文句を言えるやつはいねぇよ」
「あなたはそうかもしれないけど……私は嫌よ? あとでロシーユに苛められたりするのは」
「んなことは俺がさせねぇよ!」
「あっ……ん、んんっ!」
悪夢の始まりだった。
手を伸ばせば届くほどの距離で、アントニーに唇を塞がれ、しかも、それを拒むことなく科を作って受け入れるクリスティナの姿。
すぐにでも飛び出して二人を引き裂きたい衝動に駆られたが、しかし、心とは裏腹に、俺の身体は石化魔法にでもかけられたようにピクリとも動かない。
ただじっと、暗闇の中で息を潜めながら、二人が舌を絡め、唾液を交換し合う淫靡な音を聞かされ続けた。
だが、地獄のような時間はまだ始まったばかりだった――。
「んっ……んん~! ち、ちょっとぉ! どうしたの? 今日は激しいよ!?」
「ふへへっ。昨晩はここで、おまえとあの荷物持ちがよろしくヤッてたかと思うと、すげぇ燃えてくんだよ」
「ほんと、趣味が悪い!」
「そんなこと言って、おまえももう、ずいぶん出来上がってんじゃないのか?」
「そ、そんなことないわよ……」
「そんなこといって……ほら!」
「あっ、ああん……」
二人が俺の寝床の上に倒れこみ、クリスティナの聖衣を脱がす衣擦れの音が聞こえてくる。
――た、頼む……頼むからもう、やめてくれっ!
しかし、そんな祈りも空しく、二人の行為はそのまま……昨夜、俺がクリスティナと交わしたそれよりもさらに激しい男女の目合いへと移行していった。
どれくらい時間が経っただろうか。
おそらく、四半刻(※約三十分)かそれくらいだろう。
しかし、昨日まで自分のものだと信じて疑わなかった美しい婚約者が、他の男の抱擁に歓喜し、受け入れ、嬌声を上げる……そんな痴態を見せられ続けたその四半刻は、俺にとってはまさに永遠の地獄とも言える時間だった。
呆然と――ただ呆然と薄暗がりに蹲る俺の耳に、再び、事を終えた二人の会話が聞こえてきた。
「ふぅ……やっぱ、おまえは最高の女だ、クリスティナ。あの役立たずには勿体ねぇな」
「そんなこと言わないで。これでも私、あの人のことは愛してるんだから」
「その割には俺とこうするのも、もう今日で何回目だ?」
「それは……あなたが、そうしなければノエルをパーティーから追放するなんて言うから……」
「恋人のために、嫌々他の男に抱かれる、出来た婚約者だとでもいいてぇのか?」
「そ、その通りよ」
「ふ~ん……最初は確かに嫌々だったかもしれねぇが、今じゃすっかり俺の身体を求めてるように見えるけどな?」
「つまらないこと言ってないで、さっさと服を着てよ」
クリスティナが、寝床から起き上がり、聖衣を整え始める。
「彼、森を抜けた崖まで行くって言ってたけど、魔物にでも襲われてなければそろそろ戻ってくるわ」
「いっそ、襲われておっ死んでくれれば万々歳なんだがな」
「馬鹿言わないで! 結界の魔原石も預けてあるし、この辺りの魔物に殺されるようなことはないわよ」
「それは分からないぜ?」
アントニーがクリスティナを抱き寄せ、もう一度接吻を交わす。
「んっ、んんん……んはっ……ちょ、ちょっと! ほんとに止めってってば! わ、分からないって、どういう意味?」
「この辺りには昔から魔女伝説があってな。なんでも、森に迷い込んだ人間を取り殺しちまうらしいんだ」
「ばかばかしい! とにかく、私はあの人のことは愛しているの」
――やめてくれ……。
「だから滅多なことは言わないで」
――お願いだ……やめてくれ……。
「ノエルにもしものことがあったら、あなたのことまで恨んじゃいそうじゃない」
――やめてくれぇ――――っ!
気がつけば俺は天幕の中で仁王立ちになり、薄暗がりの中、まだ半裸だった二人を見下ろしていた。
自分でも分かる――完全に魂が抜け落ちた、凍えるような眼差しで。
「お、おいっ! て、テメェ、なんでここに!?」
「の、ノエル……な、なんで、あなたが……」
「もう……止めてくれ……頼むから……」
「の、ノエル……こ、これは違うの……あ、あなたのために……い、いえ、私たち二人の将来のために……仕方なく……」
「……やめろ……」
「ノ、エ……ル……」
震えるクリスティナの声を振り払い、俺は続けた。
「……俺よりもアントニーを選んだと言うなら、まだ救いはあったんだ……」
「ノエル……信じて……いずれ私は、あなたと結婚するつもりで……」
「結婚? なんのために? 俺を愛してると言いながら他の男に身を任せる君のことは……まったく理解できないよ……」
その時。
「ほんとだよなぁ――っ!」
そう言って立ち上がったのは、いつの間にか戦闘用のクロップドパンツを穿き、荷物の中から予備の片手剣を引き抜いたアントニーだった。
彼が剣を一振りすると、周りを覆っていた天幕が炎に包まれながら引き裂かれ、三人の姿が黄昏の下に晒される。
「俺も、いつかはこんな日が来るんじゃねぇかと思ってたぜ、ノエル」
「アントニー……」
「や、止めてアンティ!」
「安心しろ。同郷の誼だ、殺しやしねえ……だが……」
自分の足に縋り付くクリスティナを、アントニーは流し目で睥睨しながら言い放つ。
「選べ、クリスティナ。俺か、この役立たずかを!」
「……え?」
「俺を選ぶならおまえはこのままパーティーに置いてやる。ノエルは追放するが、お咎めはなしだ。でも、もしノエルを選ぶなら……」
アントニーがクリスティナから俺に視線を向け直し、続ける。
「おまえらは二人ともここで追放だ。それだけじゃねえ。パーティーへの背任行為があったとしてたっぷり賠償責任も追及させてもらうし、もう二度と他のパーティーでも働けなくしてやる。一生、借金に苦しみながら暮らすことになるだろうな」
もっとも、クリスティナの身体を使えば十年くらいで返せるかもしれねえけどな、と、下卑た笑いを浮かべるアントニー。
「さあ選べ! クリスティナ!」
「そ、そんな……私……」
しばしの間、クリスティナが長く美しい睫毛に涙を湛えながら、俺とアントニーの間で視線を行き来させる。
やがて、その眼差しをひたと俺に当てて動きを止めた。
もしクリスティナがもう一度、すべてを捨てて俺を選んでくれるなら……。
その時は、すべてを忘れて、もう一度……。
「クリスティナ……俺は、君を……許……」
しかし、茜色に染まったクリスティナの唇は、ゆっくりと絶望の一言を紡いだ。
「……ノエル……ごめんなさい」




