02.悪夢の刻(前編)
「あら? ノエル、これらからまた出かけるの?」
宿営地から出ようとした時、俺を呼び止める声に振り返ると、腰まで伸びた海碧色の巻き毛を揺らしながら、聖衣姿の女僧侶が駆け寄ってきた。
「ああ、クリスティナ……。うん、アントニーが薪が足りなそうだって言うから。この辺り一帯、昨日の雨でだいぶ湿っちゃってるみたいで」
「私も手伝おうか?」
「ううん、君だって食事の用意があるんだろ?」
「下拵えは全部終わってるから平気よ」
「でも、みんなは討伐で疲れているだろうし……しっかり身体を休めてなよ。俺は裏方でみんなをサポートするくらいしかできないから」
「そんなこと……。でも、分かったわ。未来の旦那様がそうしろって言うなら!」
そう言うと、俺に近づいて腰に手を回し、目を瞑ってキスをせがむように背伸びをするクリスティナ。
俺は、そんな婚約者の透き通るようなおでこにそっと接吻をした。
「んもうっ! 今は大人のキスの場面だったのにぃ!」
と、赤らめた頬を膨らませるクリスティナ。
その可愛さに思わず気持ちがぐらついてしまいそうになったけど、
「ミーティングも残ってるんだろ? まだ作戦行動中なのに、俺たちだけ好き勝手やるわけにもいかないでしょ」
「私たちだけじゃないわよ。ほら!」
クリスティナが顎で指した方向へ目を向けると、ちょうどパーティーリーダーのアントニーと、扇情的なビキニアーマーを纏った女剣士のロシーユが、仮眠用の天幕から出てくるのが見えた。
あの二人も、このパーティーの公認のカップルだ。
「あの二人、今まで乳繰り合ってたのよ!」
と、忌々しそうに眉を吊り上げるクリスティナ。
貞淑で潔癖なところのあるクリスティナには、彼のああいった淫奔な態度がどうにも気に入らないらしい。
「はは……。前衛職は肉食系が多いし〝英雄色を好む〟とも言うから……ある意味、あれも英気を養うための仕事なのかも」
「何よそれ? ほんとノエルってば、アンティには甘いんだから!」
「ははは……」
甘いわけじゃない。
俺だって、彼と対等の立場であれば『いい加減にしろ!』と言ってやりたい場面はいくらでもある。
でも、アントニーはこのパーティーのリーダーであり、ヴァディム王国で勇者の称号を許された五人のうちの一人なのだ。
対する俺はと言えば、通常は月日と共に属性特化していくはずの魔力に成長が見られず、十八歳の今でも幼子のように野放図に属性が分散している役立たずだ。
どの技能も初級未満のものしか使えない俺に付けられた職号は器用貧乏。
しかしそれは、教会から認められた正式なジョブじゃない。もちろん、複属性を扱えることに対する尊崇の念から出た言葉などでもない。
魔物の討伐どころか日常生活でも使い物にならない者への揶揄として付けられた蔑称なのだ。
そんな、本来であれば田舎の村夫として一生を送るはずの俺を、幼馴染のアントニーに頼み込んでこのパーティーに入れてくれたのが、同じく幼馴染で婚約者のクリスティナだった。
正直俺は、村で静かな一生を送ることに不満はなかった。
それが天分なのだとも思っていた。
でも、主に回復系の白魔法に属性特化が見られたクリスティナは、十四歳の成人式では女僧侶の称号を得、上昇志向も強かった。
ただの村人よりも、何十倍もの収入が見込める魔物討伐や魔境探索の仕事に興味津々だったし、将来の結婚を約束していた俺にも同じ道を求めた。
そこで彼女が頼ったのが、同じ村の出身で俺たちよりも五つ上のアントニーだった。
数年前に城下町へ越してからメキメキと頭角を現し、王国屈指の剣士に成長していたアントニーは、すでに若くして魔物討伐のパーティーリーダーを任せられるまでになっていた。
クリスティナはそんな彼に、俺と一緒に身請けしてくれるよう頼み込み、ようやくそれが叶ったのが一年前のことだった。
「アンティだって元は同郷の幼馴染なんだし、私だってノエルだって、もっと言いたいこと言ってもいいと思うよ?」
「縁故に甘えるわけにはいかないさ。無理して使ってもらってる立場だし……」
「またそんな卑屈になって! ノエルだって十分にパーティーのために働いてくれてるよ!」
「ありがとう。でも、みんなと違って俺の代わりなんていくらでもいるだろ?」
はぁ……と、諦めたように短く息を吐いて、肩を竦めるクリスティナ。
「男の人って、そうだよね……。まあ、私もずっとこんなところにいるつもりはないし、二人であと二、三年も働けば、街でお店の一軒でも構えて一生のんびり暮らせるくらいはお金も貯まるだろうし……そうしたら、その時は……」
「うん……結婚しよう」
俺の言葉に満面の笑みで答えるクリスティナに別れを告げ、俺は森の入り口へ向かって歩いていく。
ここから森を抜けて五百ポイル(※約八百メートル)ほど行った場所に、切り立った崖が雨避けのように迫り出している場所があるのを覚えていたからだ。
――あそこならきっと、乾いた薪もたくさん見つかるに違いない。
そう思いながら歩きだしたのだが、森へ入る直前で赤く輝く石が落ちているのに気がついた。
――これは……炎の魔原石!?
マテリアとは、魔物を倒すと手に入る鉱物のことで、加工することで、使用者の魔力量や属性に関わらずさまざまな魔法効果を得ることができる代物だ。
魔物討伐の主な報酬でもあるのだが、この赤いマテリアは確か、アントニーの両手剣に付加効果を与えるためにセットされていたものだ。
――そう言えば、キャンプ地へ向かう途中で落としたと言ってたっけ……。
武器に付けるタイプのマテリアは、魔素の伝導率を上げるために敢えて余計な保存加工はされていない場合が多い。つまり、武器から外れた状態では急速に魔素を放出してその寿命を縮めてしまうのだ。
――大して高価なマテリアではないけれど、まだ出たばかりだし……一旦戻るか。
踵を返してキャンプにもどり、アントニーのテントを訪ねるが、中には誰もいない。
――いくらアントニーでも、こんな短時間で二回目なんて……。
とは思ったが、念のため、先ほどアントニーとロシーユが出てきた仮眠用のテントも確認してみる。
――もし取り込み中だったらそっとマテリアだけ置いて立ち去ろう……。
そう思って中の様子を伺ってみたが、乱れた褥があるだけで、やはり誰もいない。
――ここで、さっきまでアントニーとロシーユが……。
ふとそんなことを想像してしまい、あわてて首を振る。
俺だって昨夜は、自分のテントで声を殺しながらクリスティナと愛し合ったのだ。しかも、贔屓目ではなく、ロシーユとでは比べ物にならないくらい、クリスティナは溌剌と可愛らしくて天使のように美しい女性だ。
彼女だけが唯一、あのアントニーにだって誇ることのできる、俺の自尊心の縁となっている。
――仕方ない。キャンプ内を一回りしてみるか。
そう思って歩き出してから数メートルも進まない所で、不意にアントニーの話し声が聞こえてきた。
どうやら、誰かと会話をしながら近づいてくるようだった。
ちょうど自分のテントのすぐ傍だったので、俺は急いで中へ身を隠した。
――なぜだ? なぜ、俺は身を隠したんだ?
一瞬の自問自答。
だが、その解にはすぐにたどり着くことができた。
アントニーと話している相手が、クリスティナだったからだ。




