人生レンタル店(短編 20)
男は安アパートで一人暮らし。
結婚をしなかったので子供はいない。
天涯孤独の身であった。
定年退職して十年。
唯一の楽しみは、週に一度ほど飲み屋に通うことぐらいである。
そんなある夜。
男は飲み屋街の片隅に、奇妙な店のあることに気がついた。店先に『人生レンタル店』と、なにかしら怪しげな看板が置かれてあるのだ。
男は酔いも手伝って、フラフラとその店に足を踏み入れた。
「人生のレンタルとはおもしろそうだな」
「はい。人生の変化をレンタルしております」
店員はいんぎんに答え、説明を続けた。
「同じような毎日に退屈しておられる方は、世間には大勢いらっしゃいます。この店は、そんな方たちが利用されております。よろしければおためしになってはいかがでしょう」
「それで、レンタル料はいくらなんだね?」
「メニューが十通りありまして、レベルが上になるほど料金は高くなっております」
「で、一番安いのは?」
「一日五百円でございます」
「意外と安いな」
「特にそのメニューは、どなたでも気軽に利用できますよう設定しておりますので」
「では、一番高いのは?」
「レベルテンの一千万円です。極上ですので、もちろんそれだけの価値はございまして」
「だが、わしみたいな貧乏人には、とても手が出せる金額じゃないな」
「ですから、たいていの方はレベルスリーをお借りになります。ちなみにレベルスリーは、一日一万円と手ごろな料金となっております」
「それでも高いな」
「お客さまは初めてですので、まずレベルワンをおためしになってはいかがでしょう。お使いになって気に入れば、レベルを上げるというふうに」
「そうだな。五百円なら飲み代より安いし……」
男はまず手始めに、レベルワンをレンタルすることに決めた。
「では、さっそくご説明を……」
店員は小さな白いケースから、白いヒモのついた白い袋を取り出した。
「これには人生の変化が入っております。ですから身につけるだけで、これまでとはなにかしらちがった人生が味わえます。しかしながら、中身がどんなものかは当店もわからないのです。まあ、前もってわからないのが人生の醍醐味でもありますのでね」
「そいつは楽しみだな」
男はお守りのような袋を首にかけ、ウキウキとした足取りで店をあとにした。
次の日。
いつもと同じ一日が過ぎた。変わったことは、これといってなにひとつ起きなかったのだ。
昨晩と同じ時刻。
男は人生レンタル店に出向いて、借りていた袋を店員につき返した。
店員が首をかしげて言う。
「なにかしらの変化が、お客様にかならずあったはずなんですが」
「いや、なにも起きなかったぞ」
「ほんのちょっとした変化なんで、初めてのお使いの方は気づきにくいんです。よく思い出してくださいませんか?」
「ふむ」
男は頭の中で、今日一日を朝から追ってみた。
――そういえば……。
ひさしぶりにヒャッとした。
道でつまずき、あやうく転びそうになったのだ。ただ、それだけのことでもあるのだが。
男はそのことを話した。
「たぶん、それだったんですよ。レベルワンで起きるのは、ほんのささいなことですからね」
「そんなことが人生の変化だと?」
「はい。ちょっとした危険な目にあうなんて、そうそうあることではございませんでしょう」
言われてみれば、ヒャッとすることなどめったにあることではない。
「レベルを上げると、もっと大きな変化があるのかね?」
「上のレベルほど変化は顕著になります」
「では、三番目のレベルを借りてみるか」
「レベルスリーでございますね」
店員は水色のケースから、やはり水色のヒモのついた水色の袋を取り出し男に渡した。
次の日。
男は道で千円札を拾った。
――これだな。
レベルスリーになると、変化は目にあらわれて気づくようである。しかしこの日は、それ以外の変化はなにも起きなかった。
千円を拾ったことは喜ばしい。けれど、つまるところ九千円の損をしただけである。
男はそれからも、人生レンタル店にちょくちょく足を運んだ。
借りるのはたいがいレベルワンである。
上のレベルをためしたい気持ちもあったが、年金暮らしではそうそう手が出るものではない。
そのうち……。
男の足はしだいに、人生レンタル店から遠のいていった。
一日のうちの、ほんのわずかな時間を退屈させないだけであって、それ以上のものはとくだん味わえなかったからである。
一年が過ぎるころ。
胃に不快感が続き、男は病院で精密検査を受けた。
「余命三カ月です」
無情にも、胃ガンであることを告知される。
医師からは、すでに他の臓器にも転移しており、今となっては手術ができないとも言われた。
このとき、ふと……。
人生レンタル店のことが脳裏をかすめた。
――どうせ、あと三カ月の命だ。
男はさっそく家屋敷を処分すると、くだんの人生レンタル店に出向き、一千万円のつまったバッグをカウンターの上に置いた。
「極上をレンタルしたいんだ」
「おひさしぶりだと思いましたら、いきなりレベルテンとは、いったいどうなされたんです?」
店員が目を丸くする。
「じつはな……」
男は病気のことを話し、余命がいくばくもないことを教えた。
「ですが、レベルテンには極上の変化、つまり極上の幸福と不幸がつまっております。当店でも初めてレンタルしますもので、お客様の将来がどうなるかは保証いたしかねます。それでよろしければレンタルいたしますが」
「残りの人生、めいっぱい楽しみたいんだよ」
「わかりました。では……」
店員は虹色のケースから虹色の袋を取り出し、それをうやうやしく男に渡した。
余命と告知された三カ月が過ぎた。
男は生きていた。
それから半年が過ぎ、一年が過ぎる。
――さすが極上だ。一千万円もの大金をつぎ込んだだけのことはあるな。
男はなおも生きていたのだ。
入院先の医者からは奇跡だとおどろかれた。
ただ……。
日々、身体の痛みがひどくなっている。
ときとして猛烈な痛みにもおそわれる。
痛み止めの薬はたいして効かず、激痛の間隔も徐々に短くなっていた。
――退屈しているヒマはないな。
男は先の人生を思った。
これからはもっと忙しくなる。
生きながらえている限り、よりひどくなる痛みに耐え続けなければならないのである。