ドールハウスの檻
「お願い、助けて。あたしをここから出して!」
声の主は、ドールハウスの少女だった。
祖母は年齢のわりに洒落た人だった。そんな祖母が暮らした部屋は彼女のセンスと愛情に満ちていた。
よく手入れされた揃いの木製家具。ところどころに飾られたお手製のドイリー。華やかさを添える季節の花。
アンティークのレースカーテンが揺れる窓際にそのドールハウスはあった。
「ここに閉じこめられて出られないの。お願いよ、あたしをここから出して」
懸命に訴える少女は指の長さほどの背丈しかない。短い髪を耳の上でふたつに結った幼い見た目。その容姿に反した大人びた話し方がちぐはぐな印象を生みだしている。
ドールハウスは手前の壁がなく、ひとつひとつの部屋を覗けるようになっている。少女がいるのはドールハウスの二階部分だが、どうやら単純にそこから出るという話ではないようだ。わたしの手に乗るかという提案には悲しそうに首を振るのだ。
「出してあげたいけど、どうしたらいいの?」
「それは……あなたは知っているはずよ。その方法を」
「え?」
少女の瞳がわたしを射抜く。わたしと同じ、薄い茶色の瞳。その視線はわたしをひどく不安にさせた。
「お願い、思い出して」
わたしが何を知っているというのだろう?
「ごめんなさい、わからないわ」
うまく息ができない。胸を押さえる手が汗ばんでいる。
そんなわたしの様子を見て少女はふっと表情を緩めた。憐れむような優しいその表情に、わたしはなぜか母を思い出していた。
「苦しいわよね。でもよく考えて。あたしの名前は、エイミー」
「エイミー」
「そう。あなたの名前は?」
少女に問われてはっとする。わたしの名前はなんだっただろう?
少女の顔に浮かぶ憐れみが深くなる。
手がかりを探すように、わたしは周囲を見渡した。久しぶりに訪れた祖母の家。懐かしい祖母の面影。
わたしは祖母と祖母の家が大好きだった。自然に囲まれ、自然の恵みを借りて暮らす祖母の生き方が好きだった。夏の休暇以外に、苦しくてたまらない時には泣きながら駆け込んだ。その度、祖母は包みこむような温かさで迎えてくれた。
気がつけば少女が目の前に立っていた。その背丈はわたしの腰の高さだ。
わたしは、少女とともにドールハウスの中から外の部屋を眺めていた。
「わたしは、祖母の家を無くしたくなくて……この家を継いだんだわ」
都会暮らしに慣れた母もおじたちも祖母の家に興味はなく、それどころか売却を検討していたのだ。
「あなたは、親族の反対を押し切ってここを継いで住むことにしたの」
「ええ……そう。わたしは……わたしの名前はエイミーだわ。あなたは、わたしなのね」
幼い日のエイミーがそっとわたしの手に触れる。
わたしは祖母の家を守り、ここで暮らした。祖母がそうしたように自然を慈しみ、できる限り自らの手で暮らしを紡いだ。やがて子どもや孫に恵まれ穏やかで幸せな歳月を重ねた。
「おばあちゃんになり、夫にも先立たれたわ。そして今度は、わたしの番。けれど……」
たくさんの皺が刻まれた両手を握りしめる。わたしは、本来の年老いた姿になっていた。
「子どもはみんな独立して出て行ってしまったし、もうこの家を守ることができないのが苦しくて、申し訳なくて……いつまでもわたしの魂はここを離れられずにいる」
この少女を、わたし自身を閉じこめているのは自分なのだ。
ふるふると小さなエイミーが首を振る。
「エイミー、見て」
少女が部屋の入口を指差すと、かちゃりと扉が開いた。
「本当にこんな田舎に住むつもりなの?」
「本気よ。ねえ、素敵じゃない? ここの調度なんか年代物よ。丁寧に、手入れしてきたんだわ……」
現れたのは、わたしの娘と孫だった。
「ねえ、ママ。エイミーおばあちゃんが亡くなって、この家まで手放すのは大きな損失よ。だからわたしがここに住むの。もう決めたのよ」
その輝く瞳をした娘は、若い頃のわたしにそっくりだった。
わたしは自分が思い上がっていたことを悟った。自分しかこの家を守れないなどと何故考えていたのだろう? この家を愛してくれる人が、かつてのわたしのような想いを抱く人がいたのだ。
わたしはおさげのエイミーを抱きしめて泣いた。それから、わたしたちは寄り添ってわたしたちの血をひく娘たちを見つめた。
「助けてくれてありがとう、エイミー」
「わたしの台詞だわ、エイミー」
消えてゆく寸前に、孫がこちらに笑いかけた気がした。