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しょっぱなから喰らってしまった廉太郎は紺色のエプロンを身に着け、よろめき打ちひしがれながらカウンターに入った。
二十四時間営業のこの店のシフトは、早番、中番、遅番に分かれており、午後六時からは中番が引き継ぐ。早番のスタッフがあらかじめ確認したレジのお金をもう一度中番のスタッフがチェックして、問題がなければ入れ替わる。金額を書いた伝票を手に「おつかれ」と言って早番の人たちは控室へと引き上げて行った。
「この店、お客さんとして来た事ないの? 忘れてるかも知れないから一応見てみるね。ええと、誕生日は……?」
先輩スタッフの、川野友紀がPCでチェックする。デスクトップ型のPCとレジとが一体になった形で、そこに廉太郎のデータを打ち込み、会員カードの有無を調べているのだ。
「うーん、無いみたいね。じゃあ、早速作りましょう。この入会手続書に記入してくれる?」
廉太郎の初業務は自分の入会手続きだった。この店を利用する客は入会するのが決まりである。入会には本来ならば三百円必要だが従業員という事で無料で会員にしてもらえた。ただレンタルする時は特に割引制度などはないらしい。
「はい! じゃあカードのここに名前書いといてね!」
川野友紀は、今年二十一歳になる大学生だ。化粧っ気はあまりないものの端正な輪郭と爽やかな笑顔が魅力的で、正直廉太郎の好みだった。ブラウンの長い髪は背中まで伸び、エアコンの微風にさらさらとなびいている。
先輩の男性ふたりは「返却たまってるからちょっと行ってくるわ」と言って、山のようなDVDを抱えて店の奥に消えて行った。レンタルビデオ店と言っても今どきVHSを見る人も少なく、ほとんどがDVDかブルーレイである。
店内は仕事や学校帰りの人たちでそこそこ賑わっている。貸し出しも返却もこのぐらいの時刻が一番多い。スタッフが接客している後ろで、廉太郎は友紀から説明を受けている。
「この店は、DVDやCDだけじゃなくてコミックも貸し出ししてるのよ。あとネットカフェもあるわ」
店のカウンターは広くとってあり『コ』の字型に店の奥に突き出す形になっている。店の奥に面したレジで貸し出し返却作業をして、返却のみの場合はレンタル商品側のカウンターでも受けている。その反対側のカウンターにあるレジはネットカフェ専用だ。ネットカフェの個室の間に通路があり、奥にはさっきまでいた控室やトイレがある。トイレはネットカフェの客と従業員が利用し、レンタルの客には貸さない決まりだ。
「ネットカフェの仕事まで覚えないといけないんですね。大変そう……」
慌ただしく貸し出しする先輩たちの姿を見ながら廉太郎がつぶやく。
「そうね……でも、一度覚えてしまえば後は同じような事の繰り返しだから楽になるわよ……あっ……いらっしゃいませ!」
カウンターの左サイドに、返却に来た客が青い袋を乗せた。この店の貸し出し用の手提げ袋である。友紀は素早く中のDVDを取り出しバーコードリーダーを当てる。慣れた手つきでピピピピッと通し「ありがとうございました!!」と言ってお辞儀する。十本ほどのDVDに、ほんの二、三秒でバーコードを通したのだ。
「うわあ、す、凄いんですね!! 神業じゃないですか!!」
その鮮やかな手さばきに廉太郎は感服するも、同時に自分にあんな事が出来るんだろうかという不安にも駆られる。
「慣れよ、慣れ。廉ちゃんも、このぐらいすぐに出来るようになるわよ」
綺麗に並んだ白い歯を見せて微笑む友紀に見とれて、廉太郎は「俺いつの間に廉ちゃんになったんですか」と言いそびれてしまった。
「ええっと、まず貸し出し、返却作業から覚えてもらうからね。ネットカフェの仕事は後回しでいいわ」
友紀は返却されたDVDのケースを開き中身を取り出した。
「いい? お客様が返却されたDVDは、傷や汚れ具合を必ずチェックするのよ」
廉太郎は真似してケースからDVDを取り出す。
「指紋とか汚れがついてたら、このウエスで拭いて。傷が酷い場合は研磨しないといけないからこっちに寄せといて」
カウンターの端には研磨機があり、何本かのDVDが詰まれていた。
「研磨は基本、遅番の人たちがやってくれるから。深夜はお客様が少ないからね」
遅番の人たちは午前零時から九時までの勤務になる。中番は午後六時から午前零時までの六時間勤務だ。中番の時間帯が一番お客様が多く、仕事も忙しくなるので短い勤務になっているのだ。
「あれっ……これは……?」
廉太郎は床に置かれた透明なビニール袋で包まれた物を見た。膝ぐらいの高さの大きな缶が入っているようだ。
「ああ、これはペンキ缶よ。この前来た塗装屋さんが忘れていったの。電話したんだけど、まだ取りに来てないみたい」
「へえ……そうなんですか」
「蓋はどこにも見当たらなくて、臭いがきついからこうしてビニール袋で覆ってるの」
「早く取りに来てくれるといいですね」
ふたりはせっせとDVDを拭きながら話している。
「綺麗にしたらケースに戻して、あっちの返却棚の方に……あ、いらっ……」
急に入ってきた若い学生風の男が、カウンターの上に青い袋を放るように置き、店員が返却処理するのを待たずして、さっさと出て行ってしまった。しかし友紀は落ち着いた様子で袋の中身を取り出す。
「たまにああいう感じのお客様もいらっしゃるから。でも、こういう時は延長……つまり貸出期限を過ぎてるものは滅多にないから慌てなくても大丈夫よ」
「なるほど。お客様自身も延長のDVDはないと確信しているから、ああして……アアッ!?」
友紀が手にしているDVDディスクを見た廉太郎は驚愕し、大声を張り上げる。
「あああああっ!! ダッ、ダメだよっ!! 川野さん!! それ、それ……」
そのDVDはいわゆる成人男性向きの物で、表面に写真が載っていた。それもかなりハードな、マニアックな感じのものだった。
「えっ? えっ? ど、どうしたの? 廉ちゃん?」
「そそ、そんなの、そんなの女の子が見るもんじゃないよっ!!」
廉太郎は慌てて友紀からディスクを奪い取り、背中側に隠した。接客していたスタッフたちは、何事かと後ろを振り向く。
「え……別に見ないわよ? バーコード通すだけだから……」
「いやだから、写真が!! ディスクに変な写真が載ってるじゃないかあああああっ!!」
きょとんとした顔で廉太郎を見ていた友紀は、少し間を置いてから大声で笑い出した。
「はははははっ!! け、傑作!! 傑作!! きゃははははっ!!」
彼女は両手をパンパンと叩き爆笑している。
一方廉太郎は、眉間やこめかみに汗をダラダラ流しながらテンパった顔をしている。もはや言葉も出ず、うわ言のように口をぱくぱく開け閉めしている。
「えっ? どうしたの? 何があったの?」
数人の女性スタッフが友紀の元に寄り事情を聞いた。途端に彼女たちまで笑い出す。
「アッハハハハハッ!! 爆笑!! 大爆笑!!」
「あ、あんまり笑ったら、かか、可哀そうよ! キャハハハハッ!!」
なぜ女性スタッフに笑われているのか、その時の廉太郎には分からなかった。
しばらくこの店で働いた後で「ああ、そういうものなんだな」と理解出来た。