どちらまで?
「なんでこうも昼間はヒマなのかねぇ。夜に繁華街に行くのも趣味ではないが」
そう言いながら彼は大きく伸びをする。
とある地方都市の駅前タクシープール最後尾。
彼の車以外にも屋根の上に行灯を乗せた二十台以上の色とりどりのクルマが客待ちをしている。
「まぁ既に十時間以上仕事はしているわけだし、ヒマならヒマで良いのだけれど。……なんて感じの人間だときっと楽に生きられるんだろうな」
そう言うと彼はクルマに乗り込んで、ウインカーをあげると客待ちの列から離れる。
朝方から昼にかけて長距離の客を二人拾ったので、既に売上的にはいつものアベレージを上回っている。
だからこの時間は客の居ない事を知っているタクシープールで少しサボろうと思ったのだが。
しかし彼は、そう言う風には考えられない性分であった。
「記念病院? いや大学の正門付近の方が良いかな。せっかくツキがあるんだし、この際ワンメーターでも良いから帰る前にあと二人くらい、なんとか拾いたいなぁ」
大通り。
信号にひっかかって行き先を考えていた彼にガラスをノックする音が聞こえる。
窓の外には黒のブレザーと赤いネクタイ。お嬢様学校で名高いミッション系女子校の制服。
「ちょっと遠いのですけれど、よろしいでしょうか?」
「二百キロ以内なら何処でも行きますよ。もっと遠いなら一度給油しなきゃですが」
「そこまで遠くはありません。では、お願い致します」
彼女が口にしたのは三十キロ以上先の病院の名前である。
お金持ちのお嬢さんか。今日はやっぱりついてるな。
メーターのボタンを押しながら彼は思った。
「早いなら高速を使って頂いても構いません」
顔を伏せたまま少女はそう言う。
「多分今の時間だと、新道そのまま行った方が早いし安いね。高速に入るまで時間かかっちゃうし遠回りだから。途中からあんまり信号もないし。お見舞いですか?」
「彼が……、今朝方事故に遭ってあそこに運ばれたと。近場の病院では受け入れて貰えなかったようで」
「交通事故ならむしろあの病院で良かったかも知れないよ。あそこはERがしっかりしてるから、なんかあっても初期で気が付く。俺のおじさんも前にあそこで助けて貰ったんだ。……遠いけどね」
繁華街を通り抜け、住宅地を抜け、山の中に黒々と延びる一本道。
若干標識の速度をオーバーしながらタクシーは走る。
「あの、こんな事はしたくないのですが」
――どうしたの? と言う前に自分の首元に銀色で波打った鉄の板が見えた。
「ごめんなさい、運転手さん。私、お金の持ち合わせがないのです。全財産は三千八百二十三円、もちろん全てお払いします。でも、そこから先は……。このブレッドナイフでお願い致します。私はこのタクシーをジャック致します……!」
パン切り包丁なんかで、と言いかけて刃先に微妙に傷がついているのに気が付く。
――研いである、のか……。
ヘタなりに研いである刃物を首に押しつけられている以上、不要に刺激するのは危険である。
ここは言うことを聞いた方が良いだろう。と、内心ため息。
ついクルマを止めて護身用のサバイバルナイフで制圧してやろうか、とも考えるが。
後々警察に話を聞かれたとき、何故そんなものを持っていたのかを説明する方が面倒くさい。
それにこんな所に放り出したら彼が未成年者略取の容疑で捕まりかねない。
相手は酔っ払いのヤクザ崩れではない、全国区でも有名なお嬢様学校の生徒だ。
その彼女が警察に、タクシーに乗せられて連れ回された。と証言した場合を考えれば。
ナイフを携帯している運転手の話など当初は全く聞いてもらえない可能性が高いし、後々覆るとしてもそれはそれで面倒くさい。
「だいたいのスイッチの場所は知っています。変に触らないで下さい。カメラにも、ナイフも私の顔も写っていないはずです」
顔を伏せていたり、妙に端に座っていたり。一応考えた上での行動であるらしい。
「制服はどうする?」
「こ、コスプレだと言う事もあるやも知れません」
それは無い。先日彼女の学校の制服をネットオークションで売ろうとしたマニアが捕まっている。
譲渡をしない、と言う条件が制服購入時にあるのだと聞いた。
タグから個人が特定出来るらしいし、それがなくともほぼオーダーなので服の縫製で元の持ち主についてはだいたいの目星が付くらしい。
――怖いなぁ、お嬢様学校。と彼は自分の置かれた立場をしばし忘れる。
「ほ、本当に切りますよ! ぱ、パン、……みたいに」
「わかったわかった。カメラは切れないし、GPSで配車センターに追跡されてるからメーターもそのまま、だが緊急発信機は触らないし通報したりもしない。無線にもこの件に関してはなにも言わない。それで良いか?」
「……申し訳ありません」
――やれやれ、距離から考えると自腹で五千円以上損する事になるな。今日は大損だ。彼は内心ため息を吐くとあえて普通の調子で少女に語りかける。
「で、だ。可愛いジャッカーさん、気合い入ってるトコ悪いんだがこれから山道になる。怖いからナイフの場所を変えてくれ」
「確かにバスや電車は時間が合わないんだろうけど。だいたい、こんな事しなくたって親御さんの車に乗せて貰うって言う手だってあるんじゃ無いか?」
「彼のことは私の両親は知りません。彼は、そもそもご両親がお仕事で海外にいらっしゃるので……」
現状、刃渡り二十センチ強のブレッドナイフはシートの後ろに突きつけられているはずだ。
――急ブレーキかけたら言う事聞いてても刺されるじゃないか! と彼は一応抗議したが。
少女には「どうか安全運転でお願い致します」と返され、認めては貰えなかった。
「帰りはどうするつもりだ? またタクシーをジャックして帰るのか?」
「…………。え、と……病院に泊まります!」
考えて無かったな? 良いねぇ若いってのは。彼は素直にそう思う。
「家族だって死にかけてないと泊めてくれないぞ。最近の病院はな」
「その、でも私は……」
「まぁ面会時間が七時までとして、最終の高速バスが役場前から八時頃のはずだ」
「え? ……あの」
「千五百円あれば駅前までつく。バスジャックしなくたって運転手に事情を話せばその制服みれば金は貸してくれる。あとでバス会社に払いに行けば良い」
――仕方ねぇ千円だけは払え。あとはおごってやる。そう言うとタクシーは更に速度を上げた。
「あの、私」
「良いから行け。俺はナイフで脅されてる哀れな運転手だ」
病院前のロータリー。彼はタクシー降車場、と書かれた看板の少し手前でクルマを止める。
「ごめんなさい! ありがとうございました、このご恩は必ず……!」
「良いから行けっての!」
彼がそう言うと少女は一礼して『一般・面会者入り口』と書かれた入り口へとスカートを翻して走って行く。
結局千円で良い、と言った料金は取っていない。
10,920円。止めたメーターはそう表示している。
「やれやれ丸損かぁ、夜の分全部足しても足りねぇや。パチンコ負けたと思って諦めるか。……暇つぶしも出来たしな」
いつも通り帳簿を付け、後部シートを確認する。ブレッドナイフがそのまま放り出してあった。
「全く、帰りはタクシージャックできねぇじゃねえか。……ん? ドイツ製じゃないか! 新品なら二万以上するぞ、コレ。アイツ、本当にホンモノのお嬢だったのか」
と言いながらそれに気が付いたナイフマニアの自分。
それに更に気が付いて多少肩を堕とす。
取りあえずタオルをとりだしてブレッドナイフを包んだ。
……と彼女が入っていった入り口で、黒い制服を着た女子高生と警備員が揉めている。
当然お嬢様である以上直接つかみ合ったりはしないが、端から見た目にも中々壮絶に揉めていると言って良いだろう。
――全く、一円にもならないっつーのに。彼はそう呟くと、帽子とベストを脱いで、ネクタイを締め直すと入り口へと向かう。
「……どうした?」
「いえ、この方が中に入れて下さらないんです!」
「家族でもなく、病室の番号も知らない人を入れるわけには行かないんですよ!」
「すみませんね、名字は違いますが従姉妹同士でね。兄妹みたいに育ったものだから事故に遭ったと聞いて気が動転してしまって。――この人も仕事なんだから、わめいても意味が分からんだろ。先ずは落ち着け。な? ――本当にすいません」
「あの、あなたはタクシーの……」
「義理の兄、になるのかな? うん、まぁだいたいそんなとこ、で良いか。仕事の合間に乗せてきたんだけど」
「え? ……あの」
「ちょっと来い、莫迦!」
彼は舌打ちをすると、少女の肩を抱いて警備員から少し距離を取る。
「しょうがねぇ、この場は納めてやる。あとでキチンとお父さんかお母さんに連絡をするんだ。いいな?」
「でも、……だって」
「お嬢様学校は恋愛禁止か? 彼ってのは親に秘密にしなきゃいけない相手か?」
「もちろん、そんな事はありません! ……ですが、でも」
「なら、その旨キチンと話をしろ。高校生には出来ない事だってある」
「…………その」
「返事っ!」
「はい……!」
「良し」
彼は、その場で固まってしまった少女を置いて警備員に近づく。
「すみません、名前は何処に書くんでしょうか。それと入館証? アレ貰うんでしたっけ?」
「まだ正式に入院手続きが終わってませんから、お名前と続柄だけ書いて頂けたら。そしたら病室までご案内します」
彼はまだ固まっている少女を手招きで呼ぶ。
「わかりました。あとで多分彼女の母親が迎えに来ると思いますので、よろしくお願いします。――受付でキチンと彼の名前を伝えて、自分の名前と住所、続柄の所には従姉妹って書くんだぞ? 分かったか? ……全く体ばっかりでかくなって」
「……はい」
「あぁ、そうだ。それとパン切り包丁……」
「アレは、お兄様……。に差し上げます。……差し上げるには中古で、その上傷んでいて非常に心苦しいのですが」
「つーことでちょっと遠くに来ちゃったんで、このまま車庫かえって良いっすか?」
『はい了解。だいぶ今日は稼いだなぁ、着いたらおごりね。……ご安全に107。センターは以上』
「あい、どうも。以上107」
帰ったらブレッドナイフ磨いて傷を取ってみるか。
オクで一万くらいで売れないかなぁ、
等と無線のマイクを戻しつつ彼が思っていると窓をノックする音。
「すいません、大丈夫ですか?」
「あぁ。まぁ構いませんけど、この辺のクルマじゃないんでアレですよ」
そう思ってわざと他のタクシーとは離れたところに止まっていた彼である。
「いや、県央交通さんのクルマなんで逆に駅の方までお願いできないかと思って」
「ちょうど戻るところなんで、ありがたいと言えばそうですが」
情けは人のためならず。戻りの長距離ゲット! 昔の人は良い事言ったなぁ。1回で長距離四本目、どうなってるんだ今日は。そう思いながらドアを開ける。
「電車、間に合うかなぁ」
「は? 行き先は駅ですか。何時っすか? ――そらちょっと、間に合いますって俺からは言えないんですけど。……次の電車では?」
「飛行機に乗らなくちゃいけないんで」
「何処の飛行場から、何時ですか? ――うわ、マジっすか。――電車はチケット、取ってないすね? ……なら直接行ったらどうだ? ――ちょっと待って下さいね」
ナビの目的地を飛行場を設定する。フライト時間の十五分後到着予定。
「ギリギリ十分前到着、ただ保証はしません。……それでいいなら行きますよ」
「その飛行機でないと仕事にならなくなっちゃうので、お願い出来ますか?」
「保証は出来ないって言いましたよ? んじゃ今開けますんで、荷物はトランクの方に、――107からセンター。――ほいどうも。予定を変更して空港経由で帰りますので帰りは予定より約二時間遅延予定。――はい、了解。御安全に」
――では行きましょう、ベルト、して下さいね。彼はそう言うとドアを閉める。
谷間の早い夕暮れの中、ライトを付けたタクシーは病院の車寄せを離れると田舎の一本道を一気に加速していく。
「ちなみに、お客さんはパン切り包丁なんか持ってないですよね?」
「……あぁ、持っていないですよ。――ブレッドナイフは、ね」